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その四十一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その四十一

  ひと しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく 貞固 さだかた に遅れて留守居に転じたものがある。 平井氏 ひらいうじ 、名は 俊章 しゅんしょう あざな 伯民 はくみん 小字 おさなな 清太郎 せいたろう 、通称は 修理 しゅり で、 東堂 とうどう と号した。文化十一年 うまれ で貞固よりは二つの年下である。平井の家は 世禄 せいろく 二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
 貞固は 好丈夫 こうじょうふ 威貌 いぼう があった。東堂もまた ふうぼう 人に優れて、しかも温容 したし むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は 双壁 そうへき だと称したそうである。
 当時の留守居役所には、この 二人 ふたり の下に留守居 下役 したやく 杉浦多吉 すぎうらたきち 、留守居 物書 ものかき 藤田徳太郎 ふじたとくたろう などがいた。杉浦は後 喜左衛門 きざえもん といった人で、事務に 諳錬 あんれん した六十余の老人であった。藤田は維新後に ひそむ と称した人で、当時まだ青年であった。
 或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を しょく せしめた。藤田は案を して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの 書様 かきざま はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は すこぶ る不機嫌に見えた。
  原来 がんらい 平井氏は 善書 ぜんしょ の家である。祖父 峩斎 がさい はかつて 筆札 ひっさつ 高頤斎 こういさい に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は 仙右衛門 せんえもん 、その子を 仙蔵 せんぞう という。 のち 父の称を ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も 沢田東里 さわだとうり の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を あらた めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても い。」こういって案を藤田に かえ した。
 藤田は 股栗 こりつ した。一身の恥辱、家族の悲歎が、 こうべ れている青年の想像に浮かんで、目には涙が いて来た。
 この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の 顛末 てんまつ を知った。
 貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。 一通 ひととおり わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。 足下 そっか は気が かないのだ。」
 こういって置いて、貞固は ほとん ど同じような文句を 巻紙 まきがみ に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで いかな。」
 東堂は ごう も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を やわら げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
 貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に るが好い。」
 藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。 おも うに東堂は ほか 柔にして うち 険、貞固は ほか 猛にして うち 寛であったと見える。
 わたくしは前に貞固が要職の 体面 たいめん をいたわるがために窮乏して、 古褌 ふるふんどし を着けて年を迎えたことを しる した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに 中井敬所 なかいけいしょ 大槻如電 おおつきにょでん さんに語ったという一の事実があって、これが証に つるに足るのである。
 この事は さき の日わたくしが池田 京水 けいすい の墓と年齢とを文彦さんに問いに った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、 何故 なにゆえ に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた しち が流れて、それを買ったのが、池田京水の子 瑞長 ずいちょう であったからである。