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その四十八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その四十八

 抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く かたぶ き倒れていた。二階の座敷牢は 粉韲 ふんせい せられて あと だに とど めなかった。 対門 たいもん の小姓組 番頭 ばんがしら 土屋 つちや 佐渡守 邦直 くになお の屋敷は火を失していた。
 地震はその んでは起り、起っては んだ。町筋ごとに損害の程度は 相殊 あいことな っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の 無瑕 むきず なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、 谷中 やなか 天王寺 てんのうじ の塔は 九輪 くりん が落ち、浅草寺の塔は九輪が かたぶ いた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。 おおやけ に届けられた変死者が四千三百人であった。
 三日以後にも昼夜数度の震動があるので、 第宅 ていたく のあるものは庭に 小屋掛 こやがけ をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日の よる 吹上 ふきあげ の庭にある 滝見茶屋 たきみぢゃや に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
 幕府の設けた 救小屋 すくいごや は、 幸橋 さいわいばし 外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
 この年抽斎は五十一歳、 五百 いお は四十歳になって、子供には くが 水木 みき 、専六、 翠暫 すいざん の四人がいた。矢島 優善 やすよし の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の しょう 牧は抽斎の もと 寄寓 きぐう した。
 牧は寛政二年 うまれ で、 はじめ 五百の祖母が 小間使 こまづかい に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に 紙問屋 かみどいや 山一 やまいち の女くみを めと った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは 富家 ふうか 懐子 ふところご で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質を け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に かん と称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、 世故 せいこ にさえ通じていたから、くみが ただ にこれを制することが難かったばかりでなく、 やや もすればこれに制せられようとしたのも、 もと より あやし むに足らない。
 既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、 つい で文化十四年に次男某を生むに当って病に かか り、生れた子と とも に世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、 重聴 じゅうちょう になった。その時牧がくみの事を 度々 たびたび 聾者 つんぼ と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き とが めて、 のち までも忘れずにいた。
 五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく いきどお った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の かたき がありますね。いつか いさんと一しょに かたき を討とうではありませんか」といった。その のち 五百は折々 ほうき 塵払 ちりはらい を結び附けて、 双手 そうしゅ の如くにし、これに衣服を まと って壁に立て掛け、さてこれを いきおい をなして、「おのれ、母の かたき 、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の す所を さと っていたが、父は はばか って あえ て制せず、牧は おそ れて咎めることが出来なかった。
 牧は 奈何 いか にもして五百の感情を やわ げようと思って、甘言を以てこれを いざな おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百に おのれ を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、 かく の如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
 五百が早く本丸に り、また藤堂家に投じて、始終家に とおざ かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と とも 起臥 おきふし することを こころよ からず思って、 余所 よそ へ出て行くことを喜んだためもある。
 こういう関係のある牧が、今 寄辺 よるべ を失って、五百の前に こうべ を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は うらみ に報ゆるに恩を以てして、牧の おい を養うことを許した。