その十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その十
渋江氏の祖先は
下野
(
しもつけ
)
の
大田原
(
おおたわら
)
家の臣であった。抽斎六世の祖を
小左衛門
(
こざえもん
)
辰勝
(
しんしょう
)
という。大田原
政継
(
せいけい
)
、
政増
(
せいそう
)
の二代に仕えて、
正徳
(
しょうとく
)
元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子
重光
(
ちょうこう
)
は家を継いで、大田原政増、
清勝
(
せいしょう
)
に仕え、二男
勝重
(
しょうちょう
)
は去って
肥前
(
ひぜん
)
の
大村
(
おおむら
)
家に仕え、三男
辰盛
(
しんせい
)
は
奥州
(
おうしゅう
)
の津軽家に仕え、四男
勝郷
(
しょうきょう
)
は兵学者となった。大村には勝重の
往
(
ゆ
)
く前に、
源頼朝
(
みなもとのよりとも
)
時代から続いている渋江
公業
(
こうぎょう
)
の
後裔
(
こうえい
)
がある。それと下野から往った渋江氏との関係の
有無
(
ゆうむ
)
は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国
那須郡
(
なすごおり
)
大田原の城主たる
宗家
(
そうか
)
ではなく、その
支封
(
しほう
)
であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、
清信
(
きよのぶ
)
、
扶清
(
すけきよ
)
、
友清
(
ともきよ
)
などの世であったはずである。大田原家は
素
(
もと
)
一万二千四百石であったのに、寛文五年に
備前守政清
(
びぜんのかみまさきよ
)
が
主膳高清
(
しゅぜんたかきよ
)
に宗家を
襲
(
つ
)
がせ、千石を
割
(
さ
)
いて
末家
(
ばつけ
)
を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今
手許
(
てもと
)
に末家の系譜がないから検することが出来ない。
辰盛は通称を
他人
(
たひと
)
といって、後
小三郎
(
こさぶろう
)
と改め、また
喜六
(
きろく
)
と改めた。
道陸
(
どうりく
)
は
剃髪
(
ていはつ
)
してからの称である。医を
今大路
(
いまおおじ
)
侍従
道三
(
どうさん
)
玄淵
(
げんえん
)
に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽
越中守
(
えっちゅうのかみ
)
信政
(
のぶまさ
)
に召し抱えられて、
擬作金
(
ぎさくきん
)
三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は
宝永
(
ほうえい
)
と改元せられた年である。師道三は故土佐守
信義
(
のぶよし
)
の五女を
娶
(
めと
)
って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に
随
(
したが
)
って津軽に往き、四年正月二十八日に
知行
(
ちぎょう
)
二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守
信寿
(
のぶしげ
)
の世になっていた。辰盛は
享保
(
きょうほう
)
十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。
出羽守
(
でわのかみ
)
信著
(
のぶあき
)
の家を
嗣
(
つ
)
いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を
享
(
う
)
くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
辰盛は兄重光の二男
輔之
(
ほし
)
を下野から迎え、養子として
玄瑳
(
げんさ
)
と
称
(
とな
)
えさせ、これに医学を授けた。
即
(
すなわ
)
ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、
直
(
すぐ
)
に三百石を
食
(
は
)
み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の
生
(
うまれ
)
であるから、四十七歳で歿したのである。
輔之には
登勢
(
とせ
)
という
女
(
むすめ
)
一人
(
ひとり
)
しかなかった。そこで
病
(
やまい
)
革
(
すみやか
)
なるとき、
信濃
(
しなの
)
の人
某
(
それがし
)
の子を養って
嗣
(
し
)
となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が
為隣
(
いりん
)
で、抽斎の曾祖父である。為隣は
寛保
(
かんぽう
)
元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の
玄春
(
げんしゅん
)
を二世
玄瑳
(
げんさ
)
と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の
未亡人
(
びぼうじん
)
として
遺
(
のこ
)
された。
寛保二年に十五歳で、この登勢に
入贅
(
にゅうぜい
)
したのは、
武蔵国
(
むさしのくに
)
忍
(
おし
)
の人
竹内作左衛門
(
たけのうちさくざえもん
)
の子で、抽斎の祖父
本皓
(
ほんこう
)
が即ちこれである。津軽家は越中守
信寧
(
のぶやす
)
の世になっていた。
宝暦
(
ほうれき
)
九年に登勢が二十九歳で
女
(
むすめ
)
千代
(
ちよ
)
を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に
繋
(
つな
)
ぐべき子で、あまつさえ
聡慧
(
そうけい
)
なので、父母はこれを
一粒種
(
ひとつぶだね
)
と称して
鍾愛
(
しょうあい
)
していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を
令図
(
れいと
)
といったが、渋江氏を
続
(
つ
)
ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医
小野道秀
(
おのどうしゅう
)
の
許
(
もと
)
へ養子に
遣
(
や
)
って、別に
継嗣
(
けいし
)
を求めた。
この時
根津
(
ねづ
)
に
茗荷屋
(
みょうがや
)
という
旅店
(
りょてん
)
があった。その主人
稲垣清蔵
(
いながきせいぞう
)
は
鳥羽
(
とば
)
稲垣家の重臣で、
君
(
きみ
)
を
諌
(
いさ
)
めて
旨
(
むね
)
に
忤
(
さか
)
い、
遁
(
のが
)
れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男
専之助
(
せんのすけ
)
というのがあって、六歳にして
詩賦
(
しふ
)
を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、
快
(
こころよ
)
く許諾した。そこで下野の宗家を
仮親
(
かりおや
)
にして、大田原
頼母
(
たのも
)
家来
用人
(
ようにん
)
八十石渋江
官左衛門
(
かんざえもん
)
次男という名義で引き取った。専之助名は
允成
(
ただしげ
)
字
(
あざな
)
は
子礼
(
しれい
)
、
定所
(
ていしょ
)
と号し、おる所の
室
(
しつ
)
を
容安
(
ようあん
)
といった。通称は
初
(
はじめ
)
玄庵
(
げんあん
)
といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は
柴野栗山
(
しばのりつざん
)
、医術は
依田松純
(
よだしょうじゅん
)
の門人で、著述には『
容安室文稿
(
ようあんしつぶんこう
)
』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。
その十
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||