その五十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五十九
抽斎はしばしば
地雷復
(
ちらいふく
)
の
初九爻
(
しょきゅうこう
)
を引いて人を諭した。「
不遠復无祗悔
(
とおからずしてかえるくいにいたることなし
)
」の爻である。
過
(
あやまち
)
を知って
能
(
よ
)
く改むる義で、
顔淵
(
がんえん
)
の亜聖たる
所以
(
ゆえん
)
は
此
(
ここ
)
に存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の
好処
(
こうしょ
)
は
啻
(
ただ
)
にこれのみではない。「
回之為人也
(
かいのひととなりや
)
、
択乎中庸
(
ちゅうようをえらび
)
、
得一善
(
いちぜんをうれば
)
、
則拳拳服膺
(
すなわちけんけんふくようして
)
、
而弗失之矣
(
これをうしなわず
)
」というのがこれである。孔子が
子貢
(
しこう
)
にいった語に、顔淵を賞して、「
吾与汝
(
われとなんじと
)
、
弗如也
(
しかざるなり
)
」といったのも、これがためであるといった。
抽斎はかつていった。「
為政以徳
(
まつりごとをなすにとくをもってすれば
)
、
譬如北辰
(
たとえばほくしんの
)
、
居其所
(
そのところにいて
)
、
而衆星共之
(
しゅうせいのこれにむかうがごとし
)
」というのは、
独
(
ひとり
)
君道を
然
(
しか
)
りとなすのみではない。人は皆
奈何
(
いかに
)
したら衆星が
己
(
おのれ
)
に
共
(
むか
)
うだろうかと工夫しなくてはならない。
能
(
よ
)
くこれを致すものは即ち「
矩之道
(
けっくのみち
)
」である。
韓退之
(
かんたいし
)
は「
其責己也重以周
(
そのおのれをせむるやおもくしてもってあまねく
)
、
其待人也軽以約
(
そのひとをまつやかるくしてもってやくす
)
」といった。人と
交
(
まじわ
)
るには、その長を取って、その短を
咎
(
とが
)
めぬが
好
(
い
)
い。「
無求備於一人
(
いちにんにそなわるをもとむるなかれ
)
」といい、「
及其使人也器之
(
そのひとをつかうにおよびてやこれをきとす
)
」というは即ちこれである。これを推し広めて言えば、『老子』の「
治大国
(
たいこくをおさむるは
)
、
若烹小鮮
(
しょうせんをにるごとし
)
」という意に
帰著
(
きちゃく
)
する。「
大道廃有仁義
(
だいどうすたれてじんぎあり
)
」といい、「
聖人不死
(
せいじんはしせざれば
)
、
大盗不止
(
たいとうはやまず
)
」というのも、その反面を
指
(
ゆびさ
)
して言ったのである。
己
(
おれ
)
も往事を
顧
(
かえりみ
)
れば、
動
(
やや
)
もすれば
矩
(
けっく
)
の道において
闕
(
か
)
くる所があった。
妻
(
さい
)
岡西氏
徳
(
とく
)
を
疎
(
うと
)
んじたなどもこれがためである。
幸
(
さいわい
)
に父に
匡救
(
きょうきゅう
)
せられて悔い改むることを得た。
平井東堂
(
ひらいとうどう
)
は学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、
己
(
おのれ
)
は用人たることを得ない。
己
(
おれ
)
はその
何故
(
なにゆえ
)
なるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であるが、人はかえってこれに服する。賦性が
自
(
おのずか
)
ら矩の道に
(
かな
)
っているのであるといった。
抽斎はまたいった。『
孟子
(
もうし
)
』の好処は
尽心
(
じんしん
)
の章にある。「
君子有三楽
(
くんしさんらくあり
)
、
而王天下
(
しかもてんかにおうたるは
)
、
不与存焉
(
あずかりそんぜず
)
、
父母倶存
(
ふぼともにそんし
)
、
兄弟無故
(
けいていことなきは
)
、
一楽也
(
いちらくなり
)
、
仰不愧於天
(
あおぎててんにはじず
)
、
俯不於人
(
ふしてひとにはじざるは
)
、
二楽也
(
にらくなり
)
、
得天下英才
(
てんかのえいさいをえて
)
、
而教育之
(
これをきょういくするは
)
、
三楽也
(
さんらくなり
)
」というのがこれである。『
韓非子
(
かんぴし
)
』は主道、
揚権
(
ようけん
)
、
解老
(
かいろう
)
、
喩老
(
ゆろう
)
の諸篇が
好
(
い
)
いといった。
これらの
言
(
こと
)
を聞いた
後
(
のち
)
に、抽斎の生涯を回顧すれば、
誰人
(
たれひと
)
もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は
内
(
うち
)
徳義を蓄え、
外
(
ほか
)
誘惑を
却
(
しりぞ
)
け、
恒
(
つね
)
に
己
(
おのれ
)
の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび
徴
(
め
)
されて
起
(
た
)
ったのを見た。その
躋寿館
(
せいじゅかん
)
の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び
徴
(
め
)
されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、
綽々
(
しゃくしゃく
)
として余裕があった。抽斎の
咸
(
かん
)
の
九四
(
きゅうし
)
を説いたのは虚言ではない。
抽斎の森
枳園
(
きえん
)
における、塩田
良三
(
りょうさん
)
における、妻岡西氏における、その人を待つこと
寛宏
(
かんこう
)
なるを見るに足る。抽斎は矩の道において得る所があったのである。
抽斎の性行とその由って
来
(
きた
)
る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ
剰
(
あま
)
す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして
悉
(
ことごと
)
く岐路に立たしめた。勤王に
之
(
ゆ
)
かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において
鼠
(
ねずみ
)
いろの生を
偸
(
ぬす
)
むことを
容
(
ゆる
)
さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
この間題は抽斎をして思慮を
費
(
ついや
)
さしむることを要せなかった。
何故
(
なにゆえ
)
というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。
その五十九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||