その三十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その三十二
山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
五百は自分の家が山内氏で、昔から
三葉柏
(
みつばがしわ
)
の紋を附けていると答えた。
老女は
暫
(
しばら
)
く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お
召抱
(
めしかかえ
)
になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。
由緒
(
ゆいしょ
)
のあることであろうから、追ってお
許
(
ゆるし
)
を願うことも出来ようといった。
五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、
先祖
(
せんそ
)
から
承
(
う
)
けて子孫に伝える大切なものである。
濫
(
みだり
)
に
匿
(
かく
)
したり
更
(
あらた
)
めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが
好
(
よ
)
いといったのである。
五百が山内家をことわって、次に
目見
(
めみえ
)
に往ったのが、
向柳原
(
むこうやなぎはら
)
の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を
廻
(
まわ
)
り
草臥
(
くたび
)
れた五百は、この家に仕えることに
極
(
き
)
めた。
五百はすぐに
中臈
(
ちゅうろう
)
にせられて、殿様
附
(
づき
)
と
定
(
さだ
)
まり、同時に奥方
祐筆
(
ゆうひつ
)
を兼ねた。殿様は伊勢国
安濃郡
(
あのごおり
)
津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂
和泉守
(
いずみのかみ
)
高猷
(
たかゆき
)
である。官位は
従
(
じゅ
)
四位侍従になっていた。奥方は藤堂
主殿頭
(
とものかみ
)
高
(
たかたけ
)
の
女
(
むすめ
)
である。
この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば
女小姓
(
おんなこしょう
)
に取らるべきであった。それが一躍して中臈を
贏
(
か
)
ち得たのは破格である。女小姓は茶、
烟草
(
タバコ
)
、
手水
(
ちょうず
)
などの用を弁ずるもので、今いう
小間使
(
こまづかい
)
である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、
妾
(
しょう
)
になったと見ても
好
(
い
)
い。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
五百は呼名は
挿頭
(
かざし
)
と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、
翳
(
かざし
)
の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の
嗜
(
たしなみ
)
のあることを人に知られて、
男之助
(
おとこのすけ
)
という
綽名
(
あだな
)
が附いた。
藤堂家でも他家と同じように、中臈は
三室
(
さんしつ
)
位に分たれた部屋に住んで、女
二人
(
ににん
)
を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に
往
(
ゆ
)
くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした
五百
(
いお
)
なぞには、給料の多寡は
初
(
はじめ
)
より問う所でなかった。
修行は金を使ってする
業
(
わざ
)
で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、
傍輩
(
ほうばい
)
に
饗応
(
きょうおう
)
し、衣服調度を
調
(
ととの
)
え、
下女
(
げじょ
)
を使って暮すには、父忠兵衛は
年
(
とし
)
に四百両を費したそうである。給料は三十両
貰
(
もら
)
っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈
頭
(
がしら
)
に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。
その三十二
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