その十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その十二
抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと
保
(
たもつ
)
さんがいう。これは母
五百
(
いお
)
の話を記憶しているのであろう。父
允成
(
ただしげ
)
は四十二歳、母
縫
(
ぬい
)
は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の
江戸分間大絵図
(
えどぶんけんおおえず
)
というものを
閲
(
けみ
)
するに、
和泉橋
(
いずみばし
)
と
新橋
(
あたらしばし
)
との間の
柳原通
(
やなぎはらどおり
)
の少し南に寄って、西から東へ、お
玉
(
たま
)
が
池
(
いけ
)
、
松枝町
(
まつえだちょう
)
、弁慶橋、
元柳原町
(
もとやなぎはらちょう
)
、
佐久間町
(
さくまちょう
)
、
四間町
(
しけんちょう
)
、
大和町
(
やまとちょう
)
、
豊島町
(
としまちょう
)
という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ
偏
(
かたよ
)
って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の
東隣
(
ひがしどなり
)
の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが
富士川游
(
ふじかわゆう
)
さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、
允成
(
ただしげ
)
は天明六年八月十九日に豊島町
通
(
どおり
)
横町
(
よこちょう
)
鎌倉
(
かまくら
)
横町
家主
(
いえぬし
)
伊右衛門店
(
いえもんたな
)
を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、
北
(
きた
)
の
方
(
かた
)
河岸
(
かし
)
に寄った所にある。允成がこの
店
(
たな
)
を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、
暫
(
しばら
)
く
多紀桂山
(
たきけいざん
)
の
許
(
もと
)
に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月
晦
(
みそか
)
に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西
両側
(
りょうそく
)
が名を異にしているに過ぎない。
想
(
おも
)
うに渋江
氏
(
うじ
)
は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、
向側
(
むかいがわ
)
の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
抽斎は
小字
(
おさなな
)
を
恒吉
(
つねきち
)
といった。故越中守
信寧
(
のぶやす
)
の夫人
真寿院
(
しんじゅいん
)
がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、
殆
(
ほとん
)
ど日ごとに召し寄せて、
傍
(
そば
)
で
嬉戯
(
きぎ
)
するのを見て
楽
(
たのし
)
んだそうである。美丈夫允成に
肖
(
に
)
た
可憐児
(
かれんじ
)
であったものと想われる。
志摩
(
しま
)
の稲垣氏の
家世
(
かせい
)
は今
詳
(
つまびらか
)
にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは
相貌
(
そうぼう
)
の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に
後
(
のち
)
允成になった神童専之助を
出
(
いだ
)
す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、
此
(
これ
)
は
智能
(
ちのう
)
の方面で、この両方面における遺伝的系統を
繹
(
たず
)
ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても
好
(
よ
)
かろう。
さてその抽斎が生れて来た
境界
(
きょうがい
)
はどうであるか。允成の
庭
(
にわ
)
の
訓
(
おしえ
)
が信頼するに足るものであったことは、言を
須
(
ま
)
たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の
星象
(
せいしょう
)
を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿
を
(
れっしゅく
)
数えて見たい。しかし観察が
徒
(
いたずら
)
に
汎
(
ひろ
)
きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての
大己
(
たいこ
)
である。
抽斎の経学の師には、先ず
市野迷庵
(
いちのめいあん
)
がある。次は
狩谷斎
(
かりやえきさい
)
である。医学の師には
伊沢蘭軒
(
いさわらんけん
)
がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ
池田京水
(
いけだけいすい
)
である。それから抽斎が
交
(
まじわ
)
った年長者は随分多い。儒者または国学者には
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
、
小島成斎
(
こじませいさい
)
、
岡本况斎
(
おかもときょうさい
)
、
海保漁村
(
かいほぎょそん
)
、医家には
多紀
(
たき
)
の
本末
(
ほんばつ
)
両家、
就中
(
なかんずく
)
庭
(
さいてい
)
、伊沢蘭軒の長子
榛軒
(
しんけん
)
がいる。それから芸術家
及
(
および
)
芸術批評家に
谷文晁
(
たにぶんちょう
)
、
長島五郎作
(
ながしまごろさく
)
、
石塚重兵衛
(
いしづかじゅうべえ
)
がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に
出
(
い
)
づるを待ち受けていたようなものである。
その十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||