その五十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その五十六
『
呂后千夫
(
りょこうせんふ
)
』は抽斎の作った小説である。
庚寅
(
かのえとら
)
の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は
五百
(
いお
)
が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は
数遍
(
すへん
)
読過したそうである。或時それを
筑山左衛門
(
ちくさんさえもん
)
というものが借りて往った。筑山は
下野国
(
しもつけのくに
)
足利
(
あしかが
)
の名主だということであった。そして
終
(
つい
)
に
還
(
かえ
)
さずにしまった。以上は国文で書いたものである。
この著述の
中
(
うち
)
刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『
※語
(
えいご
)
抽斎の著述は 概 ( おおむ ) ね 是 ( かく ) の如きに過ぎない。致仕した 後 ( のち ) に、力を述作に 肆 ( ほしいまま ) にしようと期していたのに、不幸にして 疫癘 ( えきれい ) のために 命 ( めい ) を 隕 ( おと ) し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に 外 ( ほか ) に 顕 ( あらわ ) るるに及ばずして 已 ( や ) んだのである。
わたくしは 此 ( ここ ) に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から 観 ( み ) れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って 渾侖 ( こんろん ) に承認すべきものではない。 是 ( ここ ) において考証家の 末輩 ( まつばい ) には、破壊を以て校勘の目的となし、 毫 ( ごう ) もピエテエの 迹 ( あと ) を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、 固 ( もと ) より 人文 ( じんぶん ) 進化の道を 蔽塞 ( へいそく ) すべき 陋見 ( ろうけん ) であるが、考証学者中に往々修養のない人物を 出 ( い ) だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の 全 ( まった ) からんことを欲するには、考証を 闕 ( か ) くことは出来ぬと信じている。 何故 ( なにゆえ ) というに、修養には 六経 ( りくけい ) を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に 須 ( ま ) つことがあるというのである。
抽斎はその『 ※語 ( えいご ) 』中にこういっている。「 凡 ( およ ) そ学問の道は、 六経 ( りくけい ) を治め 聖人 ( せいじん ) の道を身に行ふを主とする事は 勿論 ( もちろん ) なり。 扨 ( さて ) 其 ( その ) 六経を読み 明 ( あきら ) めむとするには必ず其 一言 ( いちげん ) 一句をも 審 ( つまびらか ) に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、 文字 ( もんじ ) の音義を 詳 ( つまびらか ) にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、 先 ( ま ) づ善本を多く求めて、異同を 比讐 ( ひしゅう ) し、 謬誤 ( びゅうご ) を校正し、其字句を定めて 後 ( のち ) に、小学に熟練して、義理始て明了なることを 得 ( う ) 。 譬 ( たと ) へば高きに登るに、 卑 ( ひく ) きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、 細砕 ( さいさい ) の 末業 ( まつぎょう ) に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること 能 ( あた ) はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき 大業 ( たいぎょう ) に似たれども、其内 主 ( しゅ ) とする所の書を 専 ( もっぱ ) ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に 随 ( したが ) ひて 教 ( おしえ ) を受くべき所なり。さて 斯 ( かく ) の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に 縁 ( よ ) って修養して 好 ( い ) いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の 此 ( かく ) の如き見解は、全く師市野迷庵の 教 ( おしえ ) に本づいている。
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