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その四十五
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その四十五

  半井 なからい 本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都 加茂 かも の医家岡本 由顕 ゆうけん の家から出た『医心方』 けんの 二十二である。
  正親町 おおぎまち 天皇の時、 じゅ 五位 じょう 岡本 保晃 ほうこう というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして 何故 なにゆえ か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
 由顕の言う所はこうである。『医心方』は 徳川家光 いえみつ が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の むすめ が産後に病んで死に ひん した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の うち から、一巻を いて贈りはしなかっただろう。 おおよ そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
 既にして岡本氏の家衰えて、 畑成文 はたせいぶん に託してこの まき ろうとした。成文は 錦小路 にしきこうじ 中務権少輔 なかつかさごんしょうゆう 頼易 よりおさ に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを おのれ が家に とど めた。錦小路は京都における丹波氏の えい である。
 岡本氏の『医心方』一巻は、 かく の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
 この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に いてから十カ月の のち である。
 抽斎の家族はこの年主人五十歳、 五百 いお 三十九歳、 くが 八歳、 水木 みき 二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した 優善 やすよし は二十歳になっていた。二年 ぜん から 寄寓 きぐう していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
 安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、 あだ なる よろこび しる さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男 翠暫 すいざん が生れたことである。後十一歳にして 夭札 ようさつ した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り うごか して たしめたものは、 ひとり 地震のみではなかった。
 学問はこれを身に体し、これを事に いて、 はじめ て用をなすものである。 しからざ るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を 研鑽 けんさん して 造詣 ぞうけい の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも ただ ちにこれを事に措こうとはしない。その こつこつ として とし けみ する間には、心頭 しばら く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は かく の如くにして始て ち得らるるものである。
 この用無用を問わざる期間は、 ただ とし を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を かさ ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが 截然 せつぜん として二をなしている。もし時務の要求が ようや く増長し きた って、強いて学者の身に せま ったなら、学者がその学問生活を なげう って つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
 わたくしは安政二年に抽斎が かい を時事に るるに至ったのを見て、 かく の如き観をなすのである。