その六十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十六
邸内に
棲
(
すま
)
わせてある長尾の
一家
(
いっけ
)
にも、折々多少の
風波
(
ふうは
)
が起る。そうすると必ず
五百
(
いお
)
が調停に
往
(
ゆ
)
かなくてはならなかった。その
争
(
あらそい
)
は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、
安
(
やす
)
が
躊躇
(
ちゅうちょ
)
して決せないために起るのである。
宗右衛門
(
そうえもん
)
の長女
敬
(
けい
)
はもう二十一歳になっていて、
生得
(
しょうとく
)
やや勝気なので、母をして五百の
言
(
こと
)
に従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
さてこれが
鎮撫
(
ちんぶ
)
に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の
言
(
こと
)
には宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば
敢
(
あえ
)
てせぬのである。
宗右衛門が
妻
(
さい
)
の妹の五百を、
啻
(
ただ
)
抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の
厳
(
きびし
)
い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから
後
(
のち
)
は五百の前に
項
(
うなじ
)
を屈したのである。
宗右衛門は性質
亮直
(
りょうちょく
)
に過ぐるともいうべき人であったが、
癇癪持
(
かんしゃくもち
)
であった。今から十二年
前
(
ぜん
)
の事である。宗右衛門はまだ七歳の
銓
(
せん
)
に読書を授け、この子が大きくなったなら
士
(
さむらい
)
の
女房
(
にょうぼう
)
にするといっていた。銓は
記性
(
きせい
)
があって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、
戯
(
たわむれ
)
のように
煙管
(
キセル
)
で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、
後
(
のち
)
には「お
父
(
と
)
っさん、
厭
(
いや
)
だ」といって、手を挙げて打つ
真似
(
まね
)
をする。宗右衛門は
怒
(
いか
)
って「親に
手向
(
てむかい
)
をするか」といいつつ、銓を
拳
(
こぶし
)
で乱打する。或日こういう場合に、安が
停
(
と
)
めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を
攫
(
つか
)
んで
拉
(
ひ
)
き倒して乱打し、「出て
往
(
ゆ
)
け」と叫んだ。
安は
本
(
もと
)
宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて
金吾
(
きんご
)
と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に
下
(
さが
)
って
堺町
(
さかいちょう
)
の中村座へ芝居を
看
(
み
)
に往った。この時宗右衛門は安を
見初
(
みそ
)
めて、芝居がはねてから
追尾
(
ついび
)
して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を
遣
(
や
)
って縁談を申し込んだのである。
こうしたわけで
貰
(
もら
)
われた安も、拳の
下
(
もと
)
に崩れた
丸髷
(
まるまげ
)
を整える
遑
(
いとま
)
もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を
名告
(
なの
)
る前の頃で、
会津屋
(
あいづや
)
へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん
浜照
(
はまてる
)
がなれの果で何の用にも立たない。そこで
偶
(
たまたま
)
渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を
宥
(
なだ
)
め
賺
(
すか
)
して、横山町へ連れて往った。
会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。
妻
(
さい
)
の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い
笑顔
(
えがお
)
をして五百を迎える。五百は
徐
(
しずか
)
に
詫言
(
わびごと
)
を言う。主人はなかなか
聴
(
き
)
かない。
暫
(
しばら
)
く語を交えている間に、主人は次第に
饒舌
(
じょうぜつ
)
になって、
光万丈
(
こうえんばんじょう
)
当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。
偽書
(
ぎしょ
)
『
孔叢子
(
こうそうし
)
』の孔氏三世妻を
出
(
いだ
)
したという説が出る。
祭仲
(
さいちゅう
)
の
女
(
むすめ
)
雍姫
(
ようき
)
が出る。
斎藤太郎左衛門
(
さいとうたろうざえもん
)
の
女
(
むすめ
)
が出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。
例
(
ためし
)
を引いて論ずることなら、こっちにも
言分
(
いいぶん
)
がないことはない。そこで五百も論陣を張って、
旗鼓
(
きこ
)
相当
(
あいあた
)
った。
公父
(
こうふ
)
文伯
(
ぶんはく
)
の母
季敬姜
(
きけいきょう
)
を引く。
顔之推
(
がんしすい
)
の母を引く。
終
(
つい
)
に「
大雅思斉
(
たいがしせい
)
」の章の「
刑干寡妻
(
かさいをただし
)
、
至干兄弟
(
けいていにいたり
)
、
以御干家邦
(
もってかほうをぎょす
)
」を引いて、宗右衛門が
々
(
ようよう
)
の和を破るのを責め、
声色
(
せいしょく
)
共に
(
はげ
)
しかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。
その六十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||