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その五十四
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その五十四

 比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を らぬのであった。五百は人の 廡下 ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと 勿論 もちろん である。夫の存命していた時のように、多くの 奴婢 ぬひ を使い、 食客 しょっかく くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の うち には去らしめようにも いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は おのれ が人に らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に たの む所があって、 あえ て自らこの しょう に当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった 所以 ゆえん である。
 森 枳園 きえん はこの年十二月五日に徳川 家茂 いえもち に謁した。寿蔵碑には「安政五年 戊午 ぼご 十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この 年月日 ねんげつじつ は家定が こう じてから 四月 しげつ のち である。その枳園自撰の文なるを思えば、 すこぶ あやし むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
 この年の 虎列拉 コレラ は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の 聞人 ぶんじん でこれに死したものには、 岩瀬京山 いわせけいざん 安藤広重 あんどうひろしげ 抱一 ほういつ 門の 鈴木必庵 すずきひつあん 等がある。 市河米庵 いちかわべいあん も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその 姻戚 いんせき とは抽斎、宗右衛門の 二人 ににん うしな って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
 抽斎の あらわ す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『 留真譜 りゅうしんふ 』とがあって、 相踵 あいつ いで支那人の手に って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述に あずか ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。 徐承祖 じょしょうそ が『訪古志』に序して、「 大抵論繕写刊刻之工 たいていはぜんしゃかんこくのこうをろんじ 拙於考証 こうしょうにつたなく 不甚留意 はなはだしくはりゅういせず 」といっているのは、我国において はじめ て手を 校讐 こうしゅう の事に くだ した抽斎らに対して、備わるを求むることの はなは だ過ぎたるものではなかろうか。
 我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、 吉田篁 よしだこうとん が首唱し、 狩谷斎 えきさい がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁の傍系には多紀桂山があり、斎の傍系には市野迷庵、 多紀庭 さいてい 、伊沢蘭軒、 小島宝素 こじまほうそ があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島 抱沖 ほうちゅう 、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、 和泉橋通 いずみばしどおり に住していた。名は 尚質 しょうしつ 、一 学古 がくこ である。抱沖はその子 春沂 しゅんき で、百俵 寄合 よりあい 医師から出て父の職を ぎ、家は初め 下谷 したや 二長町 にちょうまち 、後 日本橋 にほんばし 榑正町 くれまさちょう にあった。名は 尚真 しょうしん である。春沂の のち 春澳 しゅんいく 、名は 尚絅 しょうけい いだ。春澳の子は現に北海道 室蘭 むろらん にいる 杲一 こういち さんである。 陸実 くがみのる が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に いた るまで たれ もこれを ただ さずにいる。またこの学統について、 長井金風 ながいきんぷう さんは篁の前に 井上蘭台 いのうえらんだい と井上 金峨 きんが とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに わずか に全著を成就するに至ったのである。
 わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして 頃日 けいじつ 国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。