その六十三
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十三
鰻を
嗜
(
たし
)
んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の
蒲焼
(
かばやき
)
を入れ、
些
(
すこ
)
しのたれを注ぎ、
熱酒
(
ねつしゅ
)
を
湛
(
たた
)
えて
蓋
(
ふた
)
を
覆
(
おお
)
って置き、
少選
(
しばらく
)
してから飲むのである。抽斎は
五百
(
いお
)
を
娶
(
めと
)
ってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを
旨
(
うま
)
がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに
侑
(
すす
)
め、また比良野
貞固
(
さだかた
)
に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『
素問
(
そもん
)
』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『
説文
(
せつもん
)
』である。晩年には
毎月
(
まいげつ
)
説文会を催して、小島成斎、森
枳園
(
きえん
)
、平井東堂、海保
竹逕
(
ちくけい
)
、
喜多村栲窓
(
きたむらこうそう
)
、栗本
鋤雲
(
じょうん
)
等を
集
(
つど
)
えた。竹逕は名を
元起
(
げんき
)
、通称を
弁之助
(
べんのすけ
)
といった。
本
(
もと
)
稲村
(
いなむら
)
氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の
生
(
うまれ
)
で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を
直寛
(
ちょくかん
)
、
字
(
あざな
)
を
士栗
(
しりつ
)
という。通称は
安斎
(
あんさい
)
、
後
(
のち
)
父の称
安政
(
あんせい
)
を
襲
(
つ
)
いだ。
香城
(
こうじょう
)
はその晩年の号である。
経
(
けい
)
を
安積艮斎
(
あさかごんさい
)
に受け、医を
躋寿館
(
せいじゅかん
)
に学び、父
槐園
(
かいえん
)
の
後
(
のち
)
を
承
(
う
)
けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は
哲三
(
てつぞう
)
、栗本氏に養わるるに及んで、
瀬兵衛
(
せへえ
)
と改め、また
瑞見
(
ずいけん
)
といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
説文会には島田
篁村
(
こうそん
)
も時々列席した。篁村は武蔵国
大崎
(
おおさき
)
の
名主
(
なぬし
)
島田
重規
(
ちょうき
)
の子である。名は
重礼
(
ちょうれい
)
、字は
敬甫
(
けいほ
)
、通称は
源六郎
(
げんろくろう
)
といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の
交
(
こう
)
にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
抽斎の好んで読んだ小説は、
赤本
(
あかほん
)
、
菎蒻本
(
こんにゃくぼん
)
、
黄表紙
(
きびょうし
)
の
類
(
るい
)
であった。
想
(
おも
)
うにその自ら作った『
呂后千夫
(
りょこうせんふ
)
』は黄表紙の
体
(
たい
)
に
倣
(
なら
)
ったものであっただろう。
抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を
襲
(
つ
)
いだというを以て、想見することが出来る。父
允成
(
ただしげ
)
がしばしば
戯場
(
ぎじょう
)
に
出入
(
しゅつにゅう
)
したそうであるから、殆ど遺伝といっても
好
(
よ
)
かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは
目見
(
めみえ
)
以上の身分になったからは、今より
後
(
のち
)
市中の湯屋に
往
(
ゆ
)
くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが
宜
(
よろ
)
しいというのであった。渋江の家には浴室の
設
(
もうけ
)
があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても
差支
(
さしつかえ
)
がなかった。しかし観劇を
停
(
とど
)
められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して
姑
(
しばら
)
く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を
贔屓
(
ひいき
)
にしていた。家に伝わった俳名
三升
(
さんしょう
)
、
白猿
(
はくえん
)
の外に、
夜雨庵
(
やうあん
)
、二九亭、寿海老人と号した人で、
葺屋町
(
ふきやちょう
)
の芝居茶屋
丸屋
(
まるや
)
三右衛門
(
さんえもん
)
の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
次に贔屓にしたのは五代目
沢村宗十郎
(
さわむらそうじゅうろう
)
である。
源平
(
げんべえ
)
、源之助、
訥升
(
とつしょう
)
、宗十郎、長十郎、
高助
(
たかすけ
)
、
高賀
(
こうが
)
と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、
脱疽
(
だっそ
)
のために脚を
截
(
き
)
った三世
田之助
(
たのすけ
)
の父である。
その六十三
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||