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その九十七
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その九十七

 保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に うつ れということであった。
  しか るに保は入舎を欲せないので、「母病気に つき 当分の うち 通学 許可 相成度 あいなりたく 」云々という願書を呈して、旧に って本所から通っていた。母の病気というのは 虚言 うそ ではなかった。五百は当時眼病に かか って くるし んでいた。しかし保は単に五百の 目疾 もくしつ の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
 保は師範学校の授くる所の学術が、自己の おさ めんと欲する所のものと相反しているのを見て、 ひそか に退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
 学校は米人スコットというものを雇い きた って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。 なま っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは 材能 さいのう がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があっても かろ んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、 おのれ が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」と ののし った。
 保は英語を つか い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に かな う科目は たえ てなかった。また たと い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は 純乎 じゅんこ たる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
 保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても い。また たれ かのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
 保は かく の如くに 思惟 しゆい して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を 遵奉 じゅんぽう することをも怠り、早晩退学処分の我 頭上 とうじょう に落ち きた らんことを期していた。校長 諸葛信澄 もろくずのぶずみ の家に を通ぜない。その家が何 ちょう にあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
 入舎の命令をばこの状況の もと に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が くだ るだろう。そうなったら、再び 頂天立地 ちょうてんりっち の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角 ち得た官費は絶えてしまう。しかし 書肆 しょし 万巻楼 まんがんろう の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は 大伝馬町 おおでんまちょう 袋屋亀次郎 ふくろやかめじろう で、これより さき 保の はじめ て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
 保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島 ゆたか と比良野 貞固 さだかた とが反対した。その おも なる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、 ぬぐ うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
 十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に った。