その九十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その九十二
成善は四月に海保の
伝経廬
(
でんけいろ
)
に
入
(
い
)
り、五月に
尺
(
せき
)
の共立学舎に入ったが、六月から更に大学
南校
(
なんこう
)
にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの
許
(
もと
)
を訪うて教を受けた。フルベックは
本
(
もと
)
和蘭
(
オランダ
)
人で
亜米利加
(
アメリカ
)
合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した
一人
(
いちにん
)
である。
学資は弘前藩から送って来る五人扶持の
中
(
うち
)
三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の
相場
(
そうば
)
で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より
新
(
あらた
)
に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の
手沢本
(
しゅたくぼん
)
を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて
蒐集
(
しゅうしゅう
)
した古刊本等の大部分が
海若
(
かいじゃく
)
の
有
(
ゆう
)
に
帰
(
き
)
した。
八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社
調掛
(
しらべがかり
)
を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に
入
(
い
)
ることを届けて置いたので、同時に「欠席
聞届
(
ききとどけ
)
の
委頼
(
いらい
)
」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の
詔
(
みことのり
)
を以て廃藩置県の制が
布
(
し
)
かれたので、弘前県が成立していたのである。
矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に
唐津
(
からつ
)
藩士
大沢正
(
おおさわせい
)
の
女
(
むすめ
)
蝶
(
ちょう
)
を
娶
(
めと
)
った。嘉永二年
生
(
うまれ
)
で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の
葛藤
(
かっとう
)
を経た
後
(
のち
)
に離別せられていた。
優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
成善と
倶
(
とも
)
に東京に来た松本
甲子蔵
(
きねぞう
)
は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、
後
(
のち
)
兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
当時県吏の権勢は
盛
(
さかん
)
なものであった。成善が東京に
入
(
い
)
った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に
駕龍
(
かご
)
一挺を宰領させて成善を県の
界
(
さかい
)
に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、
渡船場
(
とせんば
)
の役人が土下座をした。
優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の
湊屋
(
みなとや
)
の
抱
(
かかえ
)
芸者を
始
(
はじめ
)
とし、山谷堀で顔を
識
(
し
)
った芸者を
漏
(
もれ
)
なく招いた。そして酒
闌
(
たけなわ
)
なる時「
己
(
おれ
)
はお
前方
(
まえがた
)
の供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。
大丈夫
(
だいじょうふ
)
志を得たという概があったそうである。
県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事
間島冬道
(
まじまふゆみち
)
の催した懇親会では、塩田
良三
(
りょうさん
)
が
野呂松
(
のろま
)
狂言を演じ、優善が
莫大小
(
メリヤス
)
の
襦袢
(
じゅばん
)
袴下
(
はかました
)
を
著
(
き
)
て
夜這
(
よばい
)
の
真似
(
まね
)
をしたことがある。間島は通称万次郎、
尾張
(
おわり
)
の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から
大宮
(
おおみや
)
県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の
戸長
(
こちょう
)
は野菜
一車
(
ひとくるま
)
を優善に献じたいといって持って来た。優善は「
己
(
おれ
)
は
賄賂
(
わいろ
)
は取らぬぞ」といって
却
(
しりぞ
)
けた。
戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの
面目
(
めんぼく
)
が立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
優善は
廉
(
やす
)
い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
県令は
野村盛秀
(
のむらもりひで
)
であったが、野菜を
貰
(
もら
)
うと同時にこの
顛末
(
てんまつ
)
を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって
褒
(
ほ
)
めたそうである。野村は初め
宗七
(
そうしち
)
と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、
日田
(
ひた
)
県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に
御歌所寄人
(
おんうたどころよりうど
)
を以て終った。また野村は
後
(
のち
)
明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、
長門
(
ながと
)
の士参事
白根多助
(
しらねたすけ
)
が一時県務を
摂行
(
せっこう
)
した。
その九十二
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