その六十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その六十二
わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月
初
(
はじめ
)
の事で、抽斎は翌八月の
末
(
すえ
)
に歿した。
これより先幕府は安政三年二月に、
蕃書調所
(
ばんしょしらべしょ
)
を
九段
(
くだん
)
坂下
(
さかした
)
元小姓組
番頭格
(
ばんがしらかく
)
竹本
主水正
(
もんどのしょう
)
正懋
(
せいぼう
)
の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を
兼
(
かね
)
たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平
薩摩守
(
さつまのかみ
)
斉彬
(
なりあきら
)
家来
戸塚静海
(
とつかせいかい
)
、松平肥前守
斉正
(
なりまさ
)
家来
伊東玄朴
(
いとうげんぼく
)
、松平三河守
慶倫
(
よしとも
)
家来
遠田澄庵
(
とおだちょうあん
)
、松平駿河守
勝道
(
かつつね
)
家来青木
春岱
(
しゅんたい
)
に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した
権輿
(
けんよ
)
で、抽斎の歿した八月二十八日に
先
(
さきだ
)
つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は
御
(
おん
)
医師即ち官医中有志のものは「
阿蘭
(
オランダ
)
医術兼学
致
(
いたし
)
候とも
不苦
(
くるしからず
)
候」と令した。翌日また有馬
左兵衛佐
(
さひょうえのすけ
)
道純
(
みちずみ
)
家来
竹内玄同
(
たけうちげんどう
)
、徳川
賢吉
(
けんきち
)
家来伊東
貫斎
(
かんさい
)
が奥医師を命ぜられた。この
二人
(
ににん
)
もまた蘭法医である。
抽斎がもし生きながらえていて、幕府の
聘
(
へい
)
を受けることを
肯
(
がえん
)
じたら、これらの蘭法医と肩を
比
(
くら
)
べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を
齎
(
もたら
)
し
来
(
きた
)
った蘭法医との間に、
厭
(
いと
)
うべき
葛藤
(
かっとう
)
を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた
彼
(
か
)
の多紀
庭
(
さいてい
)
の手に
出
(
い
)
でたという無名氏の『漢蘭酒話』、
平野革谿
(
ひらのかくけい
)
の『一夕医話』等と趣を
殊
(
こと
)
にした、
真面目
(
しんめんぼく
)
な漢蘭医法比較研究の端緒が
此
(
ここ
)
に開かれたかも知れない。
抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今
遺
(
のこ
)
れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は
朝午
(
あさひる
)
各
(
おのおの
)
三椀
(
さんわん
)
、夕二椀半と
極
(
き
)
めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽
信順
(
のぶゆき
)
が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、
婢
(
ひ
)
をして盛らしむるときは、
過不及
(
かふきゅう
)
を免れぬといって、飯を小さい
櫃
(
ひつ
)
に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の
未醤汁
(
みそしる
)
も必ず二椀に限っていた。
菜蔬
(
さいそ
)
は最も
莱
(
だいこん
)
を好んだ。生で食うときは
大根
(
だいこ
)
おろしにし、
烹
(
に
)
て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、
醤油
(
しょうゆ
)
などを掛けなかった。
浜名納豆
(
はまななっとう
)
は絶やさずに蓄えて置いて食べた。
魚類
(
ぎょるい
)
では
方頭魚
(
あまだい
)
の
未醤漬
(
みそづけ
)
を
嗜
(
たしな
)
んだ。
畳鰯
(
たたみいわし
)
も喜んで食べた。
鰻
(
うなぎ
)
は時々食べた。
間食は
殆
(
ほとん
)
ど全く禁じていた。しかし
稀
(
まれ
)
に
飴
(
あめ
)
と上等の
煎餅
(
せんべい
)
とを食べることがあった。
抽斎が少壮時代に
毫
(
ごう
)
も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その
後
(
のち
)
安政元年に五十歳になってから、
猪口
(
ちょく
)
に三つを
踰
(
こ
)
えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを
懐
(
ふところ
)
にして家を出た。
抽斎は決して
冷酒
(
れいしゅ
)
を飲まなかった。
然
(
しか
)
るに安政二年に地震に
逢
(
あ
)
って、ふと冷酒を飲んだ。その
後
(
ご
)
は
偶
(
たまたま
)
飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。
その六十二
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||