その九十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その九十四
五百
(
いお
)
は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、
陸
(
くが
)
の夫妻
並
(
ならび
)
に村田氏から帰った
水木
(
みき
)
の三人と
倶
(
とも
)
に、本所横網町の鈴木方に
行李
(
こうり
)
を卸した。弘前からの同行者は
武田代次郎
(
たけだだいじろう
)
というものであった。代次郎は勘定奉行武田
準左衛門
(
じゅんざえもん
)
の孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽
信順
(
のぶゆき
)
の
下
(
しも
)
で
笠原近江
(
かさはらおうみ
)
が
政
(
まつりごと
)
を
擅
(
ほしいまま
)
にした時の事である。
五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、
優
(
ゆたか
)
は浦和から母に逢いに来た。
三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に
権少属
(
ごんしょうさかん
)
になって、月給
僅
(
わずか
)
に二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には
二人
(
ふたり
)
の食客があった。
一人
(
ひとり
)
は
妻
(
さい
)
蝶の弟
大沢正
(
おおさわせい
)
である。今一人は生母
徳
(
とく
)
の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵はかつて保の
胞衣
(
えな
)
を服用したという
癲癇
(
てんかん
)
病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名を
更
(
あらた
)
めて
岡寛斎
(
おかかんさい
)
といっていた。優が登庁すると、その使役する
給仕
(
きゅうじ
)
は故旧
中田
(
なかだ
)
某の子
敬三郎
(
けいざぶろう
)
である。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本
甲子蔵
(
きねぞう
)
がある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田
健三
(
けんぞう
)
、かつて渋江氏の若党たりし中条
勝次郎
(
かつじろう
)
、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の
清浦子
(
きようらし
)
が県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が
与
(
あずか
)
って力があったとかで、「矢島先生
奎吾
(
けいご
)
」と書した
尺牘
(
せきどく
)
数通
(
すつう
)
が
遺
(
のこ
)
っている。一時優の救援に
藉
(
よ
)
って衣食するもの数十人の
衆
(
おお
)
きに至ったそうである。
保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を
罷
(
や
)
められて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏であって、しかも
此
(
かく
)
の如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても
好
(
い
)
い。それよりは学校に通う保の留守居でもしましょう」といったのである。
優はなお勧めて
已
(
や
)
まなかった。そこへ
一粒金丹
(
いちりゅうきんたん
)
のやや大きい注文が来た。福山、
久留米
(
くるめ
)
の二カ所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまた
直
(
すぐ
)
に調合に着手した。優は
一旦
(
いったん
)
浦和へ帰った。
八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても
好
(
い
)
いから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいというのであった。そこで二十日に五百は
水木
(
みき
)
と保とを連れて浦和へ往った。
これより
先
(
さき
)
保は高等師範学校に
入
(
い
)
ることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。
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