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その九十五
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その九十五

 保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を うるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。
 然るに ここ に一つの 障礙 しょうがい があった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森 枳園 きえん に相談した。
 枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て 湯島切通 ゆしまきりどお しの 借家 しゃっか に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になった。時に年六十六である。
 枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は 店造 みせづくり で、店と次の と台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「 売卜者 ばいぼくしゃ のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、 往来 ゆきき が絶えなかった。枳園はしばしば保を 山下 やました 雁鍋 がんなべ 駒形 こまがた 川桝 かわます などに連れて往って、酒を こうむ って世を ののし った。
 文部省は当時 すこぶ る多く名流を 羅致 らち していた。岡本況斎、 榊原琴洲 さかきばらきんしゅう 、前田 元温 げんおん 等の諸家が皆九等 乃至 ないし 十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
 保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、 おれ がどうにか話を附けて る」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
 師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
 保の同級には今の 末松子 すえまつし の外、 加治義方 かじよしかた 古渡資秀 ふるわたりすけひで などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の むれ に投じ、『絵入自由新聞』に 続物 つづきもの を出したことがある。作者 みょう 花笠文京 はながさぶんきょう である。古渡は 風采 ふうさい あが らず、挙止 迂拙 うせつ であったので、これと まじわ るものは ほとん ど保 一人 いちにん のみであった。 もと 常陸国 ひたちくに の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す 陋習 ろうしゅう があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て 桑田衡平 くわたこうへい の家の学僕になっていて、それからこの学校に った。 よわい は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は はるか しも にいた。しかし保はその ひと りの 沈著 ちんちゃく なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、 しばら くして め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に おもん ぜられたが、その年八月十二日に 虎列拉 コレラ を病んで歿した。その のち いだのが 尾崎愕堂 おざきがくどう さんだそうである。
 この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り かえ した。土曜日に自身で来られぬときは、 むかえ の車をおこすのであった。
 鈴木の 女主人 おんなあるじ は次第に優に したし んで、立派な、気さくな 檀那 だんな だといって褒めた。当時の優は黒い 鬚髯 しゅぜん を蓄えていた。かつて黒田伯 清隆 きよたか に謁した時、座に少女があって、 やや 久しく優の顔を見ていたが、「あの 小父 おじ さんの顔は さかさ に附いています」といったそうである。 鬢毛 びんもう が薄くて ひげ が濃いので、少女は あご を頭と たのである。優はこの容貌で洋服を け、時計の 金鎖 きんぐさり 胸前 きょうぜん に垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
 或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草 見附 みつけ の所を って来ると、 うま そうな 茶飯餡掛 ちゃめしあんかけ を食べさせる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。 やす いじゃありませんか」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子を して言ったのである。