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その百一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その百一

 保は東京に いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三等に編入せられた。
 同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に った。 のち 山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしている。中西は別科を修めた後に郷に帰った。
 保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、 万来舎 ばんらいしゃ において福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後に来て文明論を講じていた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語り でてこれを善遇した。
 当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。
 森 枳園 きえん はこの年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になった。身分は准判任御用掛で、月給四十円であった。局長 得能良介 とくのうりょうすけ は初め八十円を給せようといったが、枳園は辞していった。多く給せられて早く められんよりは、 すくな く給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だといった。局長はこれに従って、特に 耆宿 きしゅく として枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。この土蔵の かぎ は枳園が自ら保管していて、自由にこれに 出入 しゅつにゅう した。寿蔵碑に「 日々入局 にちにちきょくにいり 不知老之将至 おいのまさにいたらんとするをしらず 殆為金馬門之想云 ほとんどきんばもんのおもいをなすという 」と してある。
 抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には渡辺修、 平賀敏 ひらがびん があり、また同じ青森県人に 芹川得一 せりかわとくいち 工藤儀助 くどうぎすけ があった。上等の同学生には 犬養毅 いぬかいき さんの外、 矢田績 やだせき 安場 やすば 男爵があり、また同県人に 坂井次永 さかいじえい 神尾金弥 かみおきんや があった。 のち の二人は旧会津藩士である。
 万来舎では今の 金子 かねこ 子爵、その他 相馬永胤 そうまながたね 目賀田 めがた 男爵、 鳩山和夫 はとやまかずお 等が法律を講ずるので、保も聴いた。
 山田脩はこの年電信学校に って、松本町の家から通った。 くが の勝久が長唄を人に教うる かたわら 、音楽取調所の生徒となったのもまたこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の 萌芽 ほうが である。この頃 水木 みき は勝久の もと を去って母の家に来た。
 この年また 藤村義苗 ふじむらよしたね さんが浜松から来て渋江氏に ぐう した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を え、遠江国 中泉 なかいずみ で小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に ってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。
 松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
 抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って へい せんと欲する所で、その世話をする人は おも 小幡篤次郎 おばたとくじろう であった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。
 この年もまた卒業生の 決口 はけくち すこぶ る多かった。保の如きも第一に『 三重 みえ 日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田 茂吉 もきち に三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校の地位に心を かたぶ けたために、半途にして交渉を絶った。
 学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は 阿部泰蔵 あべたいぞう と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。