その八十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十一
飾屋長八は単に渋江氏の
出入
(
でいり
)
だというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が病のために業を
罷
(
や
)
めて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬのを見て、長屋に
住
(
すま
)
わせて衣食を給した。それゆえ長八は病が
癒
(
い
)
えて業に
就
(
つ
)
いた
後
(
のち
)
、長く渋江氏の恩を忘れなかった。安政五年に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例に
依
(
よ
)
って晩酌の一合を傾けた。そして「あの
檀那
(
だんな
)
様がお亡くなりなすって見れば、
己
(
おれ
)
もお供をしても
好
(
い
)
いな」といった。それから二階に上がって寝たが、翌朝起きて来ぬので女房が往って見ると、長八は死んでいたそうである。
鮓屋久次郎は
本
(
もと
)
ぼて
振
(
ふり
)
の
肴屋
(
さかなや
)
であったのを、
五百
(
いお
)
の兄栄次郎が
贔屓
(
ひいき
)
にして資本を与えて料理店を出させた。幸に
鮓久
(
すしきゅう
)
の
庖丁
(
ほうちょう
)
は評判が
好
(
よ
)
かったので、十ばかり年の
少
(
わか
)
い妻を迎えて、天保六年に
倅
(
せがれ
)
豊吉
(
とよきち
)
をもうけた。享和三年
生
(
うまれ
)
の久次郎は当時三十三歳であった。
後
(
のち
)
九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも
出入
(
でいり
)
することになって、次第に親しくなっていた。
渋江氏が弘前に
徙
(
うつ
)
る時、久次郎は切に供をして
往
(
ゆ
)
くことを願った。三十四歳になった豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単身渋江氏の供に立とうとしたのである。この望を起すには、弘前で料理店を出そうという企業心も少し手伝っていたらしいが、六十六歳の
翁
(
おきな
)
が二百里足らずの遠路を供に立って行こうとしたのは、
主
(
おも
)
に五百を
尊崇
(
そんそう
)
する念から出たのである。渋江氏では
故
(
ゆえ
)
なく久次郎の
願
(
ねがい
)
を
却
(
しりぞ
)
けることが出来ぬので、藩の当事者に伺ったが、当事者はこれを許すことを好まなかった。五百は用人
河野六郎
(
こうのろくろう
)
の内意を
承
(
う
)
けて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に
罹
(
かか
)
って死んだ。
渋江氏の一行は本所二つ目橋の
畔
(
ほとり
)
から
高瀬舟
(
たかせぶね
)
に乗って、
竪川
(
たてかわ
)
を
漕
(
こ
)
がせ、
中川
(
なかがわ
)
より
利根川
(
とねがわ
)
に
出
(
い
)
で、
流山
(
ながれやま
)
、
柴又
(
しばまた
)
等を経て
小山
(
おやま
)
に
著
(
つ
)
いた。江戸を
距
(
さ
)
ること
僅
(
わずか
)
に二十一里の路に五日を
費
(
ついや
)
した。
近衛家
(
このえけ
)
に縁故のある津軽家は、
西館孤清
(
にしだてこせい
)
の
斡旋
(
あっせん
)
に依って、既に官軍に加わっていたので、路の
行手
(
ゆくて
)
の東北地方は、秋田の一藩を除く外、
悉
(
ことごと
)
く敵地である。一行の渋江、
矢川
(
やがわ
)
、
浅越
(
あさごえ
)
の三氏の中では、渋江氏は
人数
(
にんず
)
も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、
乳飲子
(
ちのみご
)
を抱いた妻という
累
(
わずらい
)
を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。
五百らの乗った五
挺
(
ちょう
)
の
駕籠
(
かご
)
を矢島
優善
(
やすよし
)
が宰領して、若党二人を連れて、
石橋
(
いしばし
)
駅に掛かると、仙台藩の
哨兵線
(
しょうへいせん
)
に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ
轎
(
かご
)
を
挟
(
さしはさ
)
んで、一つ一つ戸を開けさせて
誰何
(
すいか
)
する。女の轎は
仔細
(
しさい
)
なく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。
出羽
(
でわ
)
の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の
半
(
なかば
)
である。常の旅には
此
(
ここ
)
に来ると祝う
習
(
ならい
)
であったが、五百らはわざと旅店を避けて
鰻屋
(
うなぎや
)
に宿を求めた。
その八十一
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||