その九十三
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その九十三
山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を
喪
(
うしな
)
って、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽
承昭
(
つぐてる
)
の命を拝した。「親源吾給禄二十俵
無相違被遣
(
そういなくつかわさる
)
」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは
成善
(
しげよし
)
が内意を
承
(
う
)
けて願書を呈したためである。
専六は成善に紹介せられて、先ず海保の
伝経廬
(
でんけいろ
)
に
入
(
い
)
り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に
梅浦精一
(
うめうらせいいち
)
に従学した。
この年六月七日に成善は名を
保
(
たもつ
)
と改めた。これは母を
懐
(
おも
)
うが故に改めたので、母は
五百
(
いお
)
の
字面
(
じめん
)
の
雅
(
が
)
ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島
優善
(
やすよし
)
の名を
優
(
ゆたか
)
と改めたのもこの年である。山田専六の名を
脩
(
おさむ
)
と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。
この年十二月三日に保と脩とが同時に
斬髪
(
ざんぱつ
)
した。優は
何時
(
いつ
)
斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を
距
(
さ
)
ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の
紐
(
ひも
)
を以て
髻
(
もとどり
)
を
結
(
ゆ
)
うのが、当時の官吏の
頭飾
(
とうしょく
)
で、優が何時までその髻を
愛惜
(
あいじゃく
)
したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことを
須
(
もち
)
いぬというかも知れない。しかし明治の
初
(
はじめ
)
に男子が髪を斬ったのは、
独逸
(
ドイツ
)
十八世紀のツォップフが前に断たれ、
清朝
(
しんちょう
)
の
辮髪
(
べんぱつ
)
が
後
(
のち
)
に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに
苦
(
くるし
)
むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を
記
(
き
)
していない。保さんの日記の一条を
此
(
ここ
)
に採録する
所以
(
ゆえん
)
である。
この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所
割下水
(
わりげすい
)
の家に同居した。
海保
竹逕
(
ちくけい
)
の妻、漁村の
女
(
むすめ
)
がこの年十月二十五日に歿した。
抽斎歿後の第十四年は明治五年である。
一月
(
いちげつ
)
に保が山田脩の家から本所
横網町
(
よこあみちょう
)
の鈴木きよ方の二階へ
徙
(
うつ
)
った。鈴木は初め
船宿
(
ふなやど
)
であったが、主人が死んでから、未亡人きよが
席貸
(
せきがし
)
をすることになった。きよは天保元年
生
(
うまれ
)
で、この年四十三歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで
音信
(
いんしん
)
を断たなかった。これより
先
(
さき
)
保は弘前にある母を呼び迎えようとして、藩の当路者に
諮
(
はか
)
ること数次であった。しかし津軽
承昭
(
つぐてる
)
の知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩の
詔
(
みことのり
)
が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた
頗
(
すこぶ
)
る
革
(
あらた
)
まったので、保はまた当路者に
諮
(
はか
)
った。当路者は
復
(
また
)
五百の東京に
入
(
い
)
ることを阻止しようとはしなかった。
唯
(
ただ
)
保が一諸生を以て母を養わんとするのが
怪
(
あやし
)
むべきだといった。それゆえ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。
五百
(
いお
)
はようよう弘前から東京に来ることになった。
保が東京に遊学した
後
(
のち
)
の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩
前
(
ぜん
)
に、弘前
俎林
(
まないたばやし
)
の山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施したのだそうである。この地面の授受は
浅越玄隆
(
あさごえげんりゅう
)
が五百の委託によって処理した。
五百が弘前を去る時、村田広太郎の
許
(
もと
)
から帰った
水木
(
みき
)
を伴わなくてはならぬことは
勿論
(
もちろん
)
であった。その外
陸
(
くが
)
もまた夫矢川文一郎と
倶
(
とも
)
に五百に附いて東京へ往くことになった。
文一郎は弘前を発する前に、津軽家の
用達
(
ようたし
)
商人
工藤忠五郎蕃寛
(
くどうちゅうごろうはんかん
)
の次男
蕃徳
(
はんとく
)
を養子にして弘前に
遺
(
のこ
)
した。蕃寛には二子二女があった。長男
可次
(
よしつぐ
)
は
森甚平
(
もりじんぺい
)
の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お
連
(
れん
)
さんは蕃寛の
後
(
のち
)
を継いで、現に弘前の
下白銀町
(
しもしろかねちょう
)
に矢川写真館を開いている。次女おみきさんは
岩川
(
いわかわ
)
氏
友弥
(
ともや
)
さんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いている。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子
文平
(
ぶんぺい
)
さんがその
後
(
のち
)
を
襲
(
つ
)
いだ。
その九十三
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