その八十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その八十七
比良野
貞固
(
さだかた
)
は江戸を引き上げる
定府
(
じょぅふ
)
の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の
交
(
こう
)
安済丸
(
あんさいまる
)
という新造
帆船
(
ほぶね
)
に乗った。
然
(
しか
)
るに安済丸は海に
泛
(
うか
)
んで間もなく、
柁機
(
だき
)
を損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上陸して、
許多
(
あまた
)
の辛苦を
甞
(
な
)
め、この年五月にようよう東京に帰った。
さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に
著
(
ちゃく
)
した。
佐藤弥六
(
さとうやろく
)
さんは当時の同乗者の
一人
(
いちにん
)
だそうである。
弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも
到著
(
とうちゃく
)
せぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする
媒
(
なかだち
)
となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の
手書
(
しゅしょ
)
が来た。その
中
(
うち
)
には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の
盤纏
(
はんてん
)
は
僅
(
わずか
)
に
一分銀
(
いちぶぎん
)
一つを
剰
(
あま
)
していたのである。
弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、
船廻
(
ふなまわ
)
しにした荷の
中
(
うち
)
に、刀剣のあったのを三十五
振
(
ふり
)
質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。
貞固の養子房之助はこの年に
手廻
(
てまわり
)
を命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。
抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の
秩禄
(
ちつろく
)
は大削減を加えられ、更に医者の
降等
(
こうとう
)
が令せられた。
禄高
(
ろくだか
)
は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に減ぜられたのである。そして従来
石高
(
こくだか
)
を以て給せられていたものは、そのまま俵と
看做
(
みな
)
して同一の削減を行われた。そして士分を
上士
(
じょうし
)
、中士、下士に
班
(
わか
)
って、各班に大少を置いた。二十俵を
少下士
(
しょうかし
)
、三十俵を大下士、四十俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。
渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。
本
(
もと
)
成善
(
しげよし
)
は医者の子として近習小姓に任ぜられているには
違
(
ちがい
)
ない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令の
出
(
い
)
づるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に
経書
(
けいしょ
)
を授けている。これは師たる兼松石居が
已
(
すで
)
に
屏居
(
へいきょ
)
を
免
(
ゆる
)
されて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられたのである。かつ先例を
按
(
あん
)
ずるに、歯科医佐藤
春益
(
しゅんえき
)
の子は、単に幼くして家督したために、
平士
(
へいし
)
にせられている。いわんや成善は
分明
(
ぶんめい
)
に儒職にさえ就いているのである。成善がこの令を
己
(
おのれ
)
に適用せられようと思わなかったのも無理はない。
しかし成善は念のために大参事
西館孤清
(
にしだてこせい
)
、少参事兼大隊長加藤
武彦
(
たけひこ
)
の
二人
(
ににん
)
を見て意見を
叩
(
たた
)
いた。二人皆成善は医として
視
(
み
)
るべきものでないといった。武彦は
前
(
さき
)
の
側用人
(
そばようにん
)
兼用人
清兵衛
(
せいべえ
)
の子である。何ぞ
料
(
はか
)
らん、成善は医者と
看做
(
みな
)
されて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍の
外
(
ほか
)
にありなどとさえいわれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかった。
その八十七
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