その三十八
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その三十八
抽斎の将軍 家慶 ( いえよし ) に謁見したのは、世の異数となす所であった。 素 ( もと ) より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた 建部 ( たけべ ) 内匠頭 ( たくみのかみ ) 政醇 ( まさあつ ) 家来 辻元庵 ( つじもとしゅうあん ) の如く 目見 ( めみえ ) の栄に浴する前例はあったが、抽斎に 先 ( さきだ ) って伊沢 榛軒 ( しんけん ) が目見をした時には、藩主阿部正弘が 老中 ( ろうじゅう ) になっているので、 薦達 ( せんたつ ) の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年 前 ( ぜん ) に共に講師に任ぜられた町医 坂上玄丈 ( さかがみげんじょう ) があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその 殊遇 ( しゅぐう ) を 美 ( ほ ) めて三年前に目見をした 松浦 ( まつうら ) 壱岐守 ( いきのかみ ) 慮 ( はかる ) の臣 朝川善庵 ( あさかわぜんあん ) と並称した。善庵は抽斎の謁見に 先 ( さきだ ) つこと 一月 ( いちげつ ) 、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく 交 ( まじわ ) って、渋江の家の 発会 ( ほっかい ) には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は 鼎 ( てい ) 、字は五鼎、実は江戸の儒家 片山兼山 ( かたやまけんざん ) の子である。兼山の歿した 後 ( のち ) 、 妻 ( つま ) 原 氏 ( うじ ) が江戸の町医朝川 黙翁 ( もくおう ) に再嫁した。善庵の姉 寿美 ( すみ ) と兄 道昌 ( どうしょう ) とは当時の 連子 ( つれこ ) で、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いて 病 ( やむ ) に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に 実 ( じつ ) を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の 撫育 ( ぶいく ) の恩に感じて 肯 ( うけが ) わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男 格 ( かく ) をして片山氏を 嗣 ( つ ) がしめたが、格は早世した。長男 正準 ( せいじゅん ) は 出 ( い ) でて 相田 ( あいだ ) 氏を 冒 ( おか ) したので、善庵の跡は次女の壻横山氏 ※ ( しん )
が 襲 ( つ ) いだ。弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは 一人 ( いちにん ) もなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、 頗 ( すこぶ ) る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして 喫驚 ( きっきょう ) せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を 畢 ( おわ ) って帰って、常の如く通用門を 入 ( い ) らんとすると、門番が 忽 ( たちま ) ち本門の 側 ( かたわら ) に下座した。榛軒は 誰 ( たれ ) を迎えるのかと疑って、 四辺 ( しへん ) を 顧 ( かえりみ ) たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に 詰衆 ( つめしゅう ) が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
目見は 此 ( かく ) の如く世の人に重視せられる 習 ( ならい ) であったから、この栄を 荷 ( にな ) うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、 殆 ( ほとん ) どこれを何の 費 ( ついえ ) に 充 ( あ ) てようかと思い惑った。
目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき 賓客 ( ひんかく ) の 数 ( すう ) もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く 客 ( かく ) を 延 ( ひ ) くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。 五百 ( いお ) の兄忠兵衛が来て、三十両の 見積 ( みつもり ) を以て建築に着手した。抽斎は 銭穀 ( せんこく ) の事に 疎 ( うと ) いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は 大家 ( たいけ ) の 若檀那 ( わかだんな ) 上 ( あが ) りで、金を 擲 ( なげう ) つことにこそ長じていたが、 ( おし ) んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ 半 ( なかば ) ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
平生 ( へいぜい ) 金銭に 無頓着 ( むとんじゃく ) であった抽斎も、これには頗る当惑して、 鋸 ( のこぎり ) の音 槌 ( つち ) の響のする中で、 顔色 ( がんしょく ) は次第に 蒼 ( あお ) くなるばかりであった。五百は 初 ( はじめ ) から兄の指図を 危 ( あやぶ ) みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、 御 ( ご ) 一代に 幾度 ( いくたび ) というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
抽斎は目を ( みは ) った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に 調達 ( ちょうだつ ) せられるものではない。お前は何か 当 ( あて ) があってそういうのか。」
五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが 痴 ( おろか ) でも、当なしには申しませぬ。」
その三十八
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