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渋江抽斎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

渋江抽斎

その一

三十七年如一瞬 さんじゅうしちねんいっしゅんのごとし 学医伝業薄才伸 いをまなびぎょうをつたえてはくさいのぶ 栄枯窮達任天命 えいこきゅうたつはてんめいにまかす 安楽換銭不患貧 あんらくぜににかえひんをうれえず 。これは 渋江抽斎 しぶえちゅうさい の述志の詩である。 おも うに 天保 てんぽう 十二年の暮に作ったものであろう。 弘前 ひろさき の城主 津軽順承 つがるゆきつぐ 定府 じょうふ の医官で、当時 近習詰 きんじゅづめ になっていた。しかし隠居 づき にせられて、 おも 柳島 やなぎしま にあった 信順 のぶゆき やかた へ出仕することになっていた。父 允成 ただしげ 致仕 ちし して、家督相続をしてから十九年、母 岩田氏 いわたうじ ぬい うしな ってから十二年、父を失ってから四年になっている。三度目の妻 岡西氏 おかにしうじ とく と長男 恒善 つねよし 、長女 いと 、二男 優善 やすよし とが家族で、五人暮しである。主人が三十七、妻が三十二、長男が十六、長女が十一、二男が七つである。 やしき 神田 かんだ 弁慶橋 べんけいばし にあった。 知行 ちぎょう は三百石である。しかし抽斎は心を潜めて古代の医書を読むことが すき で、 わざ ろうという念がないから、知行より ほか の収入は ほとん どなかっただろう。ただ津軽家の 秘方 ひほう 一粒金丹 いちりゅうきんたん というものを製して売ることを許されていたので、 若干 そこばく の利益はあった。
 抽斎は みずか ら奉ずること極めて薄い人であった。酒は全く飲まなかったが、四年前に先代の藩主信順に 扈随 こずい して弘前に って、翌年まで寒国にいたので、晩酌をするようになった。 煙草 タバコ は終生 まなかった。 遊山 ゆさん などもしない。時々採薬に小旅行をする位に過ぎない。ただ好劇家で劇場にはしばしば 出入 でいり したが、それも同好の人々と一しょに 平土間 ひらどま を買って行くことに めていた。この連中を 周茂叔連 しゅうもしゅくれん とな えたのは、廉を愛するという意味であったそうである。
 抽斎は金を何に費やしたか。恐らくは書を あがな うと かく を養うとの二つの外に でなかっただろう。渋江家は代々学医であったから、父祖の 手沢 しゅたく を存じている書籍が すくな くなかっただろうが、現に『 経籍訪古志 けいせきほうこし 』に載っている書目を見ても抽斎が書を買うために おし まなかったことは想い られる。
 抽斎の家には 食客 しょっかく が絶えなかった。少いときは二、三人、多いときは十余人だったそうである。大抵諸生の中で、 こころざし があり才があって自ら給せざるものを選んで、寄食を許していたのだろう。
 抽斎は詩に貧を説いている。その貧がどんな程度のものであったかということは、ほぼ以上の事実から推測することが出来る。この詩を 瞥見 べっけん すれば、抽斎はその貧に安んじて、 自家 じか 材能 さいのう を父祖伝来の医業の上に施していたかとも思われよう。しかし私は抽斎の不平が二十八字の底に隠されてあるのを見ずにはいられない。試みに るが い。一瞬の如くに過ぎ去った四十年足らずの月日を顧みた第一の句は、第二の薄才 のぶ もっ おだやか けられるはずがない。 のぶ るというのは反語でなくてはならない。 老驥 ろうき れき ふく すれども、志千里にありという意がこの うち に蔵せられている。第三もまた同じ事である。作者は天命に任せるとはいっているが、意を栄達に絶っているのではなさそうである。さて第四に至って、作者はその貧を うれ えずに、安楽を得ているといっている。これも反語であろうか。いや。そうではない。久しく修養を積んで、内に たの む所のある作者は、身を困苦の うち に屈していて、志はいまだ伸びないでもそこに安楽を得ていたのであろう。

その二

 抽斎はこの詩を作ってから三年の のち 弘化 こうか 元年に 躋寿館 せいじゅかん の講師になった。躋寿館は 明和 めいわ 二年に 多紀玉池 たきぎょくち 佐久間町 さくまちょう の天文台 あと に立てた医学校で、 寛政 かんせい 三年に幕府の 管轄 かんかつ に移されたものである。抽斎が講師になった時には、もう玉池が死に、子 藍渓 らんけい 、孫 桂山 けいざん 、曾孫 りゅうはん が死に、玄孫 暁湖 ぎょうこ の代になっていた。抽斎と親しかった桂山の二男 さいてい は、分家して館に勤めていたのである。今の制度に くら べて見れば、抽斎は帝国大学医科大学の教職に任ぜられたようなものである。これと同時に抽斎は 式日 しきじつ 登城 とじょう することになり、次いで 嘉永 かえい 二年に将軍 家慶 いえよし に謁見して、いわゆる 目見 めみえ 以上の身分になった。これは抽斎の四十五歳の時で、その才が伸びたということは、この時に至って はじめ て言うことが出来たであろう。しかし貧窮は旧に っていたらしい。幕府からは嘉永三年以後十五人 扶持 ふち 出ることになり、 安政 あんせい 元年にまた職務俸の如き性質の五人扶持が給せられ、年末ごとに賞銀五両が渡されたが、新しい身分のために生ずる費用は、これを もっ て償うことは出来なかった。謁見の年には、当時の抽斎の さい 山内氏 やまのうちうじ 五百 いお が、衣類や装飾品を売って費用に てたそうである。五百は徳が亡くなった のち に抽斎の れた四人目の さい である。
 抽斎の述志の詩は、今わたくしが 中村不折 なかむらふせつ さんに書いてもらって、居間に懸けている。わたくしはこの頃抽斎を敬慕する余りに、この ふく を作らせたのである。
 抽斎は現に広く世間に知られている人物ではない。 たまたま 少数の人が知っているのは、それは『経籍訪古志』の著者の 一人 いちにん として知っているのである。多方面であった抽斎には、本業の医学に関するものを はじめ として、哲学に関するもの、芸術に関するもの等、 許多 あまた の著述がある。しかし安政五年に抽斎が五十四歳で亡くなるまでに、脱稿しなかったものもある。また既に成った書も、当時は書籍を刊行するということが容易でなかったので、世に おおやけ にせられなかった。
 抽斎の あらわ した書で、存命中に 印行 いんこう せられたのは、ただ『 護痘要法 ごとうようほう 』一部のみである。これは種痘術のまだ広く行われなかった当時、医中の先覚者がこの恐るべき伝染病のために作った数種の書の一つで、抽斎は術を 池田京水 いけだけいすい に受けて記述したのである。これを除いては、ここに数え挙げるのも 可笑 おか しいほどの『 つの海』という 長唄 ながうた の本があるに過ぎない。 ただ しこれは当時作者が自家の 体面 ていめん をいたわって、 贔屓 ひいき にしている 富士田千蔵 ふじたせんぞう の名で公にしたのだが、今は はばか るには及ぶまい。『四つの海』は今なお 杵屋 きねや の一派では用いている 謡物 うたいもの の一つで、これも抽斎が多方面であったということを証するに足る作である。
  しか らば世に多少知られている『経籍訪古志』はどうであるか。これは抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、 森枳園 もりきえん と分担して書いたものであるが、これを 上梓 じょうし することは出来なかった。そのうち支那公使館にいた 楊守敬 ようしゅけい がその写本を手に入れ、それを 姚子梁 ようしりょう が公使 徐承祖 じょしょうそ に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させることになった。その時 さいわい に森がまだ生存していて、校正したのである。
 世間に多少抽斎を知っている人のあるのは、この支那人の手で刊行せられた『経籍訪古志』があるからである。しかしわたくしはこれに依って抽斎を知ったのではない。
 わたくしは わか い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分は内地の 書肆 しょし と、ベルリン、パリイの 書估 しょこ との手に ってしまう。しかしわたくしはかつて珍本を求めたことがない。 る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、バルテルスが多く書を読もうとして、廉価の本を 渉猟 しょうりょう し、『文学史』に引用した諸家の書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで ひそ かに 殊域同嗜 しゅいきどうし の人を たと思った。それゆえわたくしは漢籍においても 宋槧本 そうざんほん とか 元槧本 げんざんほん とかいうものを顧みない。『経籍訪古志』は余りわたくしの用に立たない。わたくしはその著者が渋江と森とであったことをも忘れていたのである。

その三

わたくしの抽斎を知ったのは奇縁である。わたくしは医者になって大学を出た。そして官吏になった。 しか るに わか い時から文を作ることを好んでいたので、いつの間にやら文士の列に加えられることになった。その文章の題材を、種々の周囲の状況のために、過去に求めるようになってから、わたくしは徳川時代の事蹟を さぐ った。そこに「 武鑑 ぶかん 」を検する必要が生じた。
「武鑑」は、わたくしの見る所によれば、徳川史を きわ むるに くべからざる史料である。然るに公開せられている図書館では、年を って発行せられた「武鑑」を集めていない。これは「武鑑」、 こと 寛文 かんぶん 頃より古い類書は、諸侯の事を するに 誤謬 ごびゅう が多くて、信じがたいので、 いて顧みないのかも知れない。しかし「武鑑」の 成立 なりたち を考えて見れば、この誤謬の多いのは当然で、それはまた他書によって ただ すことが容易である。さて誤謬は誤謬として、記載の全体を観察すれば、徳川時代の某年某月の現在人物等を断面的に知るには、これに まさ る史料はない。そこでわたくしは自ら「武鑑」を 蒐集 しゅうしゅう することに着手した。
 この蒐集の間に、わたくしは「弘前医官渋江 うじ 蔵書記」という朱印のある本に 度々 たびたび 出逢 であ って、中には買い入れたのもある。わたくしはこれによって弘前の官医で渋江という人が、多く「武鑑」を蔵していたということを、 ず知った。
 そのうち「武鑑」というものは、いつから始まって、最も古いもので現存しているのはいつの本かという問題が生じた。それを決するには、どれだけの種類の書を「武鑑」の うち に数えるかという、「武鑑」のデフィニションを めて掛からなくてはならない。
 それにはわたくしは『 足利 あしかが 武鑑』、『 織田 おだ 武鑑』、『 豊臣 とよとみ 武鑑』というような、後の人のレコンストリュクションによって作られた書を最初に除く。次に『 群書類従 ぐんしょるいじゅう 』にあるような 分限帳 ぶんげんちょう の類を除く。そうすると跡に、時代の古いものでは、「 御馬印揃 おんうまじるしぞろえ 」、「 御紋尽 ごもんづくし 」、「 御屋敷附 おんやしきづけ 」の類が残って、それがやや形を整えた「 江戸鑑 えどかがみ 」となり、「江戸鑑」は直ちに後のいわゆる「武鑑」に接続するのである。
 わたくしは現に蒐集中であるから、わたくしの「武鑑」に対する知識は 日々 にちにち 変って行く。しかし今知っている かぎり を言えば、馬印揃や紋尽は 寛永 かんえい 中からあったが、当時のものは今 そん じていない。その存じているのは後に 改板 かいはん したものである。ただ一つここに しばら く問題外として置きたいものがある。それは 沼田頼輔 ぬまたらいすけ さんが最古の「武鑑」として報告した、 鎌田氏 かまだうじ の『 治代普顕記 ちたいふけんき 』中の記載である。沼田さんは西洋で特殊な史料として研究せられているエラルヂックを、我国に興そうとしているものと見えて、紋章を研究している。そしてこの目的を以て「武鑑」をあさるうちに、土佐の鎌田氏が寛永十一年の一万石以上の諸侯を記載したのを発見した。 すなわ ち『治代普顕記』の一節である。沼田さんは幸にわたくしに 謄写 とうしゃ を許したから、わたくしは近いうちにこの記載を精検しようと思っている。
 そんなら今に いた るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」 乃至 ないし その類書は何かというと、それは 正保 しょうほう 二年に作った江戸の「屋敷附」である。これは ほとん ど完全に保存せられた 板本 はんぽん で、 すえ に正保四年と刻してある。ただ題号を刻した紙が失われたので、 ほしいまま に命じた名が表紙に書いてある。この本が正保四年と刻してあっても、実は正保二年に作ったものだという証拠は、巻中に数カ条あるが、試みにその一つを言えば、正保二年十二月二日に 歿 ぼっ した 細川三斎 ほそかわさんさい が三斎老として挙げてあって、またその やしき を諸邸宅のオリアンタションのために 引合 ひきあい に出してある事である。この本は東京帝国大学図書館にある。

その四

 わたくしはこの正保二年に出来て、四年に 上梓 じょうし せられた「屋敷附」より古い「武鑑」の類書を見たことがない。 くだ って 慶安 けいあん 中の「 紋尽 もんづくし 」になると、現に上野の帝国図書館にも一冊ある。しかし 可笑 おか しい事には、 外題 げだい に慶安としてあるものは、後に 寛文 かんぶん 中に作ったもので、真に慶安中に作ったものは、内容を改めずに、後の年号を附して 印行 いんこう したものである。それから 明暦 めいれき 中の本になると、世間にちらほら残っている。大学にある「紋尽」には、 伴信友 ばんのぶとも の自筆の序がある。伴は 文政 ぶんせい 三年にこの本を て、最古の「武鑑」として蔵していたのだそうである。それから寛文中の「 江戸鑑 えどかがみ 」になると、世間にやや多い。
 これはわたくしが数年間「武鑑」を捜索して得た断案である。 しか るにわたくしに先んじて、 はや く同じ断案を得た人がある。それは上野の図書館にある『 江戸鑑図目録 えどかんずもくろく 』という写本を見て知ることが出来る。この書は古い「武鑑」類と江戸図との目録で、著者は自己の 寓目 ぐうもく した本と、買い得て蔵していた本とを挙げている。この書に正保二年の「屋敷附」を以て当時存じていた最古の「武鑑」類書だとして、巻首に載せていて、二年の二の字の かたわら に四と ちゅう している。著者は四年と刻してあるこの書の内容が二年の事実だということにも心附いていたものと見える。著者はわたくしと同じような蒐集をして、同じ断案を得ていたと見える。ついでだから言うが、わたくしは古い江戸図をも集めている。
 然るにこの目録には著者の名が署してない。ただ文中に 所々 しょしょ 考証を しる すに当って抽斎 いわく としてあるだけである。そしてわたくしの度々見た「弘前医官渋江 うじ 蔵書記」の朱印がこの写本にもある。
 わたくしはこれを見て、ふと渋江氏と抽斎とが同人ではないかと思った。そしてどうにかしてそれを たしか めようと思い立った。
 わたくしは友人、 就中 なかんずく 東北地方から出た友人に うごとに、渋江を知らぬか、抽斎を知らぬかと問うた。それから弘前の知人にも書状を って問い合せた。
 或る日 長井金風 ながいきんぷう さんに会って問うと、長井さんがいった。「弘前の渋江なら蔵書家で『経籍訪古志』を書いた人だ」といった。しかし抽斎と号していたかどうだかは長井さんも知らなかった。『経籍訪古志』には抽斎の号は載せてないからである。
 そのうち弘前に勤めている同僚の書状が 数通 すつう 届いた。わたくしはそれによってこれだけの事を知った。渋江氏は 元禄 げんろく の頃に津軽家に召し抱えられた医者の家で、代々勤めていた。しかし 定府 じょうふ であったので、弘前には深く まじわ った人が少く、また渋江氏の墓所もなければ子孫もない。今 東京 とうけい にいる人で、渋江氏と交ったかと思われるのは、 飯田巽 いいだたつみ という人である。また郷土史家として渋江氏の事蹟を知っていようかと思われるのは、 外崎覚 とのさきかく という人であるという事である。中にも外崎氏の名を指した人は、郷土の事に くわ しい 佐藤弥六 さとうやろく さんという老人で、当時 大正 たいしょう 四年に七十四歳になるといってあった。
 わたくしは直接に渋江氏と交ったらしいという飯田巽さんを、先ず訪ねようと思って、 唐突 とうとつ ではあったが、飯田さんの 西江戸川町 にしえどがわちょう やしき った。飯田さんは と宮内省の官吏で、今某会社の監査役をしているのだそうである。西江戸川町の大きい邸はすぐに知れた。わたくしは だれ の紹介をも求めずに往ったのに、飯田さんは こころよ 引見 いんけん して、わたくしの問に答えた。飯田さんは渋江 道純 どうじゅん っていた。それは飯田さんの 親戚 しんせき に医者があって、その人が何か医学上にむずかしい事があると、渋江に問いに くことになっていたからである。道純は 本所 ほんじょ 御台所町 おだいどころちょう に住んでいた。しかし子孫はどうなったか知らぬというのである。

その五

 わたくしは飯田さんの口から始めて道純という名を聞いた。これは『経籍訪古志』の序に署してある名である。しかし道純が抽斎と号したかどうだか飯田さんは知らなかった。
  切角 せっかく 道純を っていた人に会ったのに、子孫のいるかいないかもわからず、墓所を問うたつきをも得ぬのを遺憾に思って、わたくしは 暇乞 いとまごい をしようとした。その時飯田さんが、「ちょいとお まち 下さい、念のために さい にきいて見ますから」といった。
  細君 さいくん が席に呼び入れられた。そしてもし渋江道純の跡がどうなっているか知らぬかと問われて答えた。「道純さんの娘さんが本所 松井町 まついちょう 杵屋勝久 きねやかつひさ さんでございます。」
『経籍訪古志』の著者渋江道純の子が現存しているということを、わたくしはこの時始めて知った。しかし杵屋といえば長唄のお師匠さんであろう。それを本所に訪ねて、「お うさんに抽斎という別号がありましたか」とか、「お父うさんは「武鑑」を集めてお いで でしたか」とかいうのは、余りに唐突ではあるまいかと、わたくしは懸念した。
 わたくしは杵屋さんに男の親戚がありはせぬか、問い合わせてもらうことを飯田さんに頼んだ。飯田さんはそれをも快く諾した。わたくしは探索の一歩を進めたのを喜んで、西江戸川町の邸を辞した。
 二、三日立って飯田さんの手紙が来た。杵屋さんには渋江 終吉 しゅうきち という おい があって、 下渋谷 しもしぶや に住んでいるというのである。杵屋さんの甥といえば、道純から見れば、孫でなくてはならない。そうして見れば、道純には娘があり孫があって現存しているのである。
 わたくしは すぐ に終吉さんに手紙を出して、 何時 いつ 何処 どこ へ往ったら われようかと問うた。返事は直に来た。今 風邪 ふうじゃ で寝ているが、なおったらこっちから往っても いというのである。 手跡 しゅせき はまだ わか い人らしい。
 わたくしは むな しく終吉さんの やまい えるのを待たなくてはならぬことになった。探索はここに 一頓挫 とんざ きた さなくてはならない。わたくしはそれを遺憾に思って、この ひま に弘前から、歴史家として道純の事を知っていそうだと知らせて来た 外崎覚 とのさきかく という人を訪ねることにした。
 外崎さんは官吏で、籍が 諸陵寮 しょりょうりょう にある。わたくしは宮内省へ往った。そして諸陵寮が宮城を離れた かすみ せき 三年坂上 さんねんざかうえ にあることを教えられた。常に宮内省には 往来 ゆきき しても、諸陵寮がどこにあるということは知らなかったのである。
 諸陵寮の小さい 応接所 おうせつじょ で、わたくしは初めて外崎さんに会った。飯田さんの先輩であったとは違って、この人はわたくしと よわい 相若 あいし くという位で、しかも史学を以て仕えている人である。わたくしは 傾蓋 けいがい ふる きが如き おもい をした。
 初対面の 挨拶 あいさつ が済んで、わたくしは来意を べた。「武鑑」を蒐集している事、「 武鑑」に精通していた無名の人の著述が写本で伝わっている事、その無名の人は自ら抽斎と称している事、その写本に弘前の渋江という人の印がある事、抽斎と渋江とがもしや同人ではあるまいかと思っている事、これだけの事をわたくしは簡単に話して、外崎さんに解決を求めた。

その六

外崎 とのさき さんの答は極めて明快であった。「抽斎というのは『経籍訪古志』を書いた渋江道純の号ですよ。」
 わたくしは釈然とした。
 抽斎渋江道純は 経史子集 けいしししゅう や医籍を渉猟して考証の書を あらわ したばかりでなく、「古武鑑」や古江戸図をも蒐集して、その考証の あと を手記して置いたのである。上野の図書館にある『江戸鑑図目録』は すなわ ち「古武鑑」古江戸図の訪古志である。 ただ 経史子集は世の重要視する所であるから、『経籍訪古志』は一の 徐承祖 じょしょうそ を得て公刊せられ、「古武鑑」や古江戸図は、わたくしどもの如き微力な 好事家 こうずか たまたま 一顧するに過ぎないから、その目録は わずか に存して人が らずにいるのである。わたくしどもはそれが帝国図書館の 保護 ほうご を受けているのを、せめてもの 僥倖 ぎょうこう としなくてはならない。
 わたくしはまたこういう事を思った。抽斎は医者であった。そして官吏であった。そして 経書 けいしょ や諸子のような哲学方面の書をも読み、歴史をも読み、詩文集のような文芸方面の書をも読んだ。その迹が すこぶ るわたくしと相似ている。ただその 相殊 あいこと なる所は、古今 とき こと にして、生の相及ばざるのみである。いや。そうではない。今一つ大きい 差別 しゃべつ がある。それは抽斎が哲学文芸において、考証家として樹立することを得るだけの地位に達していたのに、わたくしは 雑駁 ざっぱく なるヂレッタンチスムの 境界 きょうがい を脱することが出来ない。わたくしは抽斎に 忸怩 じくじ たらざることを得ない。
 抽斎はかつてわたくしと同じ道を歩いた人である。しかしその健脚はわたくしの たぐい ではなかった。 はるか にわたくしに まさ った 済勝 せいしょう の具を有していた。抽斎はわたくしのためには 畏敬 いけい すべき人である。
  しか るに奇とすべきは、その人が 康衢 こうく 通逵 つうき をばかり歩いていずに、往々 こみち って行くことをもしたという事である。抽斎は 宋槧 そうざん の経子を もと めたばかりでなく、古い「武鑑」や江戸図をも もてあそ んだ。もし抽斎がわたくしのコンタンポランであったなら、二人の そで 横町 よこちょう 溝板 どぶいた の上で れ合ったはずである。ここにこの人とわたくしとの間に なじ みが生ずる。わたくしは抽斎を親愛することが出来るのである。
 わたくしはこう思う心の喜ばしさを外崎さんに告げた。そしてこれまで抽斎の 何人 なんひと なるかを知らずに、漫然抽斎のマニュスクリイの 蔵※者 ぞうきょしゃ

[_]
[#「去/廾」、24-15]
たる渋江氏の事蹟を訪ね、そこに先ず『経籍訪古志』を あらわ した渋江道純の名を知り、その道純を識っていた人に由って、道純の子孫の現存していることを聞き、ようよう 今日 こんにち 道純と抽斎とが同人であることを知ったという 道行 みちゆき を語った。
 外崎さんも事の奇なるに驚いていった。「抽斎の子なら、わたくしは織っています。」
「そうですか。長唄のお師匠さんだそうですね。」
「いいえ。それは知りません。わたくしの知っているのは抽斎の跡を継いだ子で、 たもつ という人です。」
「はあ。それでは渋江保という人が、抽斎の 嗣子 しし であったのですか。今保さんは 何処 どこ に住んでいますか。」
「さあ。 だい ぶ久しく逢いませんから、ちょっと住所がわかりかねます。しかし同郷人の中には知っているものがありましょうから、近日聞き合せて上げましょう。」

その七

 わたくしは すぐ に保さんの住所を たず ねることを外崎さんに頼んだ。保という名は、わたくしは始めて聞いたのではない。これより先、弘前から来た書状の うち に、こういうことを報じて来たのがあった。津軽家に仕えた渋江氏の当主は渋江保である。保は広島の師範学校の教員になっているというのであった。わたくしは職員録を検した。しかし渋江保の名は見えない。それから広島高等師範学校長 幣原坦 しではらたん さんに書を って問うた。しかし学校にはこの名の人はいない。またかつていたこともなかったらしい。わたくしは多くの人に渋江保の名を挙げて問うて見た。中には 博文館 はくぶんかん の発行した書籍に、この名の著者があったという人が二、三あった。しかし広島に 踪跡 そうせき がなかったので、わたくしはこの報道を疑って追跡を中絶していたのである。
  ここ に至ってわたくしは抽斎の子が 二人 ふたり と、孫が 一人 ひとり と現存していることを知った。子の一人は女子で、本所にいる勝久さんである。今一人は住所の知れぬ保さんである。孫は下渋谷にいる終吉さんである。しかし保さんを識っている外崎さんは、勝久さんをも終吉さんをも識らなかった。
 わたくしはなお外崎さんについて、抽斎の事蹟を つまびらか にしようとした。外崎さんは記憶している二、三の事を語った。渋江氏の祖先は津軽 信政 のぶまさ に召し抱えられた。抽斎はその 数世 すせい そん で、 文化 ぶんか 中に生れ、 安政 あんせい 中に 歿 ぼっ した。その徳川 家慶 いえよし に謁したのは 嘉永 かえい 中の事である。墓誌銘は友人 海保漁村 かいほぎょそん えら んだ。外崎さんはおおよそこれだけの事を語って、追って 手近 てぢか にある書籍の中から抽斎に関する記事を抄出して贈ろうと約した。わたくしは保さんの 所在 ありか を捜すことと、この 抜萃 ばっすい を作ることとを外崎さんに頼んで置いて、諸陵寮の応接所を出た。
 外崎さんの書状は間もなく来た。それに『 前田文正 まえだぶんせい 筆記』、『津軽日記』、『 喫茗雑話 きつめいざつわ 』の三書から、抽斎に関する事蹟を抄出して添えてあった。中にも『喫茗雑話』から抄したものは、漁村の撰んだ抽斎の墓誌の略で、わたくしはその うち に「道純 いみな 全善、号抽斎、道純 その あざな なり 」という文のあるのを見出した。後に聞けば全善はかねよしと ませたのだそうである。
 これと ほとん ど同時に、終吉さんのやや長い書状が来た。終吉さんは 風邪 ふうじゃ が急に えぬので、わたくしと会見するに さきだ って、渋江氏に関する数件を書いて送るといって、祖父の墓の所在、現存している親戚交互の関係、家督相続をした 叔父 おじ の住所等を報じてくれた。墓は 谷中 やなか 斎場の向いの横町を西へ って、北側の 感応寺 かんのうじ にある。そこへ けば漁村の撰んだ墓誌銘の全文が見られるわけである。血族関係は杵屋勝久さんが姉で、保さんが弟である。この二人の 同胞 はらから の間に おさむ という人があって、亡くなって、その子が終吉さんである。然るに勝久さんは長唄の師匠、保さんは著述家、終吉さんは図案を作ることを業とする画家であって、三軒の家は すこぶ る生計の方向を こと にしている。そこで早く を失った終吉さんは 伯母 おば をたよって 往来 ゆきき をしていても、勝久さんと保さんとはいつとなく疎遠になって、勝久さんは久しく弟の住所をだに知らずにいたそうである。そのうち丁度わたくしが渋江氏の子孫を捜しはじめた頃、保さんの むすめ 冬子 ふゆこ さんが病死した。それを保さんが姉に報じたので、勝久さんは弟の 所在 ありか を知った。終吉さんが住所を告げてくれた叔父というのが即ち保さんである。 ここ においてわたくしは、外崎さんの捜索を わずらわ すまでもなく、保さんの今の 牛込 うしごめ 船河原町 ふながわらちょう の住所を知って、 すぐ にそれを外崎さんに告げた。

その八

 わたくしは谷中の感応寺に往って、抽斎の墓を訪ねた。墓は 容易 たやす く見附けられた。南向の本堂の西側に、西に面して立っている。「抽斎渋江君 墓碣銘 ぼけつめい 」という 篆額 てんがく も墓誌銘も、皆 小島成斎 こじませいさい の書である。漁村の文は頗る長い。後に保さんに聞けば、これでも碑が余り大きくなるのを恐れて、割愛して 刪除 さんじょ したものだそうである。『 喫茗雑話 きつめいざつわ 』の載する所は三分の一にも足りない。わたくしはまた後に 五弓雪窓 ごきゅうせっそう がこの文を『 事実文編 じじつぶんぺん けん の七十二に収めているのを知った。国書刊行会本を けみ するに、誤脱はないようである。ただ「撰経籍訪古志」に訓点を施して、経籍を撰び、古志を うと ませてあるのに あきたら なかった。『経籍訪古志』の書名であることは論ずるまでもなく、あれは 多紀庭 たきさいてい の命じた名だということが、抽斎と 森枳園 もりきえん との作った序に見えており、訪古の 字面 じめん は、『 宋史 そうし 鄭樵 ていしょう の伝に、 名山 めいざん 大川 たいせん あそ び、奇を捜し いにしえ を訪い、書を蔵する家に えば、必ず 借留 しゃくりゅう し、読み尽して すなわ ち去るとあるのに出たということが、枳園の書後に見えておる。
 墓誌に三子ありとして、恒善、優善、成善の名が挙げてあり、また「一女 平野氏 ひらのうじ しゅつ 」としてある。恒善はつねよし、優善はやすよし、成善はしげよしで、成善が保さんの事だそうである。また平野 うじ の生んだ むすめ というのは、 比良野文蔵 ひらのぶんぞう むすめ 威能 いの が、抽斎の 二人 ににん 目の さい になって生んだ いと である。勝久さんや終吉さんの亡父 おさむ はこの文に載せてないのである。
 抽斎の碑の西に渋江氏の墓が四基ある。その一には「性如院宗是日体信士、 庚申 こうしん 元文 げんぶん 五年閏七月十七日」と、向って右の かたわら ってある。抽斎の高祖父 輔之 ほし である。中央に「得寿院量遠日妙信士、天保八酉年十月廿六日」と彫ってある。抽斎の父 允成 ただしげ である。その間と左とに高祖父と父との配偶、 夭折 ようせつ した允成の むすめ 二人 ふたり 法諡 ほうし が彫ってある。「松峰院妙実日相信女、 己丑 きちゅう 明和六年四月廿三日」とあるのは、輔之の妻、「源静院妙境信女、 庚戌 こうじゅつ 寛政二年四月十三日」とあるのは、 允成 ただしげ はじめ の妻田中 うじ 、「寿松院妙遠日量信女、文政十二 己丑 きちゅう 六月十四日」とあるのは、抽斎の生母 岩田氏 いわたうじ ぬい 、「妙稟童女、父名允成、母川崎氏、寛政六年 甲寅 こういん 三月七日、三歳而夭、俗名逸」とあるのも、「 曇華 どんげ 水子 すいし 、文化八年 辛未 しんび じゅん 二月十四日」とあるのも、 ならび に皆允成の むすめ である。その二には「至善院格誠日在、寛保二年 壬戌 じんじゅつ 七月二日」と一行に彫り、それと並べて「終事院菊晩日栄、嘉永七年 甲寅 こういん 三月十日」と彫ってある。至善院は抽斎の曾祖父 為隣 いりん で、終事院は抽斎が五十歳の時父に さきだ って死んだ長男 恒善 つねよし である。その三には五人の法諡が並べて刻してある。「医妙院道意日深信士、 天明 てんめい 甲辰 こうしん 二月二十九日」としてあるのは、抽斎の祖父 本皓 ほんこう である。「智照院妙道日修信女、寛政四 壬子 じんし 八月二十八日」としてあるのは、本皓の妻 登勢 とせ である。「性蓮院妙相日縁信女、父本皓、母渋江氏、 安永 あんえい 六年 丁酉 ていゆう 五月三日 しす 、享年十九、俗名千代、 作臨終歌曰 りんじゅううたをつくりていわく 云々 うんぬん としてあるのは、登勢の生んだ本皓の むすめ である。抽斎の高祖父輔之は男子がなくて歿したので、十歳になる むすめ 登勢に むこ を取ったのが為隣である。為隣は登勢の人と成らぬうちに歿した。そこへ本皓が養子に来て、登勢の配偶になって、千代を生ませたのである。千代が十九歳で歿したので、渋江氏の血統は一たび絶えた。抽斎の父允成は本皓の養子である。次に 某々孩子 ぼうぼうがいし と二行に刻してあるのは、並に皆保さんの子だそうである。その四には「渋江脩之墓」と刻してあって、これは石が新しい。終吉さんの父である。
 後に聞けば墓は今一基あって、それには抽斎の六 せい の祖 辰勝 しんしょう が「寂而院宗貞日岸居士」とし、その妻が「繋縁院妙念日潮大姉」とし、五世の祖 辰盛 しんせい が「寂照院道陸玄沢日行居士」とし、その妻が「寂光院妙照日修大姉」とし、抽斎の妻 比良野氏 ひらのうじ が「照院妙浄日法大姉」とし、 おなじく 岡西 おかにし 氏が「法心院妙樹日昌大姉」としてあったが、その石の折れてしまった あと に、今の終吉さんの父の墓が建てられたのだそうである。
 わたくしは自己の敬愛している抽斎と、その尊卑二属とに、 香華 こうげ 手向 たむ けて置いて感応寺を出た。
  いでわたくしは保さんを おうと思っていると、 たまたま むすめ 杏奴 あんぬ が病気になった。 日々 にちにち 官衙 かんが には かよ ったが、公退の時には家路を急いだ。それゆえ人を訪問することが出来ぬので、保、終吉の両渋江と外崎との三家へ、度々書状を遣った。
 三家からはそれぞれ返信があって、中にも保さんの書状には、抽斎を知るために くべからざる資料があった。それのみではない。終吉さんはその ひま に全快したので、保さんを訪ねてくれた。抽斎の事をわたくしに語ってもらいたいと頼んだのである。 叔父 おじ 甥はここに十数年を隔てて相見たのだそうである。また外崎さんも一度わたくしに代って保さんをおとずれてくれたので、杏奴の病が癒えて、わたくしが 船河原町 ふながわらちょう くに先だって、とうとう保さんが官衙に来てくれて、わたくしは抽斎の嗣子と相見ることを得た。

その九

 気候は寒くても、まだ炉を く季節に らぬので、火の のない官衙の一室で、卓を隔てて保さんとわたくしとは対坐した。そして抽斎の事を語って むことを知らなかった。
 今残っている勝久さんと保さんとの 姉弟 あねおとうと 、それから終吉さんの父 おさむ 、この三人の子は一つ腹で、抽斎の四人目の妻、 山内 やまのうち 五百 いお の生んだのである。勝久さんは名を くが という。抽斎が四十三、五百が三十二になった 弘化 こうか 四年に生れて、大正五年に七十歳になる。抽斎は嘉永四年に 本所 ほんじょ へ移ったのだから、勝久さんはまだ神田で生れたのである。
 終吉さんの父脩は安改元年に本所で生れた。 なか 三年置いて四年に、保さんは生れた。抽斎が五十三、五百が四十二の時の事で、勝久さんはもう十一、脩も四歳になっていたのである。
 抽斎は安政五年に五十四歳で亡くなったから、保さんはその時まだ二歳であった。 さいわい に母五百は明治十七年までながらえていて、保さんは二十八歳で うしな ったのだから、二十六年の久しい間、慈母の口から 先考 せんこう 平生 へいぜい を聞くことを得たのである。
 抽斎は保さんを学医にしようと思っていたと見える。亡くなる前にした 遺言 ゆいごん によれば、 けい 海保漁村 かいほぎょそん に、医を 多紀安琢 たきあんたく に、書を 小島成斎 こじませいさい に学ばせるようにいってある。それから洋学については、折を見て 蘭語 らんご を教えるが いといってある。抽斎は友人多紀 さいてい などと同じように、 すこぶ るオランダ嫌いであった。学殖の深かった抽斎が、新奇を う世俗と 趨舎 すうしゃ を同じくしなかったのは無理もない。劇を好んで俳優を品評した中に 市川小団次 いちかわこだんじ の芸を「西洋」だといってある。これは めたのではない。 しか るにその抽斎が晩年に至って、洋学の必要を感じて、子に蘭語を教えることを遺言したのは、 安積艮斎 あさかごんさい にその著述の写本を借りて読んだ時、翻然として悟ったからだそうである。 おも うにその著述というのは『 洋外紀略 ようがいきりゃく 』などであっただろう。保さんは後に蘭語を学ばずに英語を学ぶことになったが、それは時代の変遷のためである。
 わたくしは保さんに、抽斎の事を探り始めた因縁を話した。そして意外にも、 わずか に二歳であった保さんが、父に「武鑑」を もら って もてあそ んだということを聞いた。それは 出雲寺板 いずもじばん の「 大名 だいみょう 武鑑」で、 鹵簿 ろぼ の道具類に彩色を施したものであったそうである。それのみではない。保さんは父が大きい本箱に「 江戸鑑 えどかがみ 」と 貼札 はりふだ をして、その中に一ぱい古い「武鑑」を収めていたことを記憶している。このコルレクションは保さんの五、六歳の時まで 散佚 さんいつ せずにいたそうである。「江戸鑑」の箱があったなら、江戸図の箱もあっただろう。わたくしはここに『 江戸鑑図目録 えどかんずもくろく 』の作られた 縁起 えんぎ を知ることを得たのである。
 わたくしは保さんに、父の事に関する記憶を、 箇条書 かじょうがき にしてもらうことを頼んだ。保さんは快諾して、同時にこれまで『独立評論』に追憶談を載せているから、それを見せようと約した。
 保さんと会見してから間もなく、わたくしは 大礼 たいれい に参列するために京都へ立った。勤勉家の保さんは、まだわたくしが京都にいるうちに、書きものの出来たことを報じた。わたくしは京都から帰って、 すぐ に保さんを牛込に訪ねて、書きものを受け取り、また『独立評論』をも借りた。ここにわたくしの説く所は主として保さんから た材料に拠るのである。

その十

 渋江氏の祖先は 下野 しもつけ 大田原 おおたわら 家の臣であった。抽斎六世の祖を 小左衛門 こざえもん 辰勝 しんしょう という。大田原 政継 せいけい 政増 せいそう の二代に仕えて、 正徳 しょうとく 元年七月二日に歿した。辰勝の嫡子 重光 ちょうこう は家を継いで、大田原政増、 清勝 せいしょう に仕え、二男 勝重 しょうちょう は去って 肥前 ひぜん 大村 おおむら 家に仕え、三男 辰盛 しんせい 奥州 おうしゅう の津軽家に仕え、四男 勝郷 しょうきょう は兵学者となった。大村には勝重の く前に、 源頼朝 みなもとのよりとも 時代から続いている渋江 公業 こうぎょう 後裔 こうえい がある。それと下野から往った渋江氏との関係の 有無 ゆうむ は、なお講窮すべきである。辰盛が抽斎五世の祖である。
 渋江氏の仕えた大田原家というのは、恐らくは下野国 那須郡 なすごおり 大田原の城主たる 宗家 そうか ではなく、その 支封 しほう であろう。宗家は渋江辰勝の仕えたという頃、 清信 きよのぶ 扶清 すけきよ 友清 ともきよ などの世であったはずである。大田原家は もと 一万二千四百石であったのに、寛文五年に 備前守政清 びぜんのかみまさきよ 主膳高清 しゅぜんたかきよ に宗家を がせ、千石を いて 末家 ばつけ を立てた。渋江氏はこの支封の家に仕えたのであろう。今 手許 てもと に末家の系譜がないから検することが出来ない。
 辰盛は通称を 他人 たひと といって、後 小三郎 こさぶろう と改め、また 喜六 きろく と改めた。 道陸 どうりく 剃髪 ていはつ してからの称である。医を 今大路 いまおおじ 侍従 道三 どうさん 玄淵 げんえん に学び、元禄十七年三月十二日に江戸で津軽 越中守 えっちゅうのかみ 信政 のぶまさ に召し抱えられて、 擬作金 ぎさくきん 三枚十人扶持を受けた。元禄十七年は 宝永 ほうえい と改元せられた年である。師道三は故土佐守 信義 のぶよし の五女を めと って、信政の姉壻になっていたのである。辰盛は宝永三年に信政に したが って津軽に往き、四年正月二十八日に 知行 ちぎょう 二百石になり、宝永七年には二度日、正徳二年には三度目に入国して、正徳二年七月二十八日に禄を加増せられて三百石になり、外に十人扶持を給せられた。この時は信政が宝永七年に卒したので、津軽家は土佐守 信寿 のぶしげ の世になっていた。辰盛は 享保 きょうほう 十四年九月十九日に致仕して、十七年に歿した。 出羽守 でわのかみ 信著 のぶあき の家を いだ翌年に歿したのである。辰盛の生年は寛文二年だから、年を くること七十一歳である。この人は三男で他家に仕えたのに、その父母は宗家から来て奉養を受けていたそうである。
 辰盛は兄重光の二男 輔之 ほし を下野から迎え、養子として 玄瑳 げんさ とな えさせ、これに医学を授けた。 すなわ ち抽斎の高祖父である。輔之は享保十四年九月十九日に家を継いで、 すぐ に三百石を み、信寿に仕うること二年余の後、信著に仕え、改称して二世道陸となり、元文五年閏七月十七日に歿した。元禄七年の うまれ であるから、四十七歳で歿したのである。
 輔之には 登勢 とせ という むすめ 一人 ひとり しかなかった。そこで やまい すみやか なるとき、 信濃 しなの の人 それがし の子を養って となし、これに登勢を配した。登勢はまだ十歳であったから、名のみの夫婦である。この女壻が 為隣 いりん で、抽斎の曾祖父である。為隣は 寛保 かんぽう 元年正月十一日に家を継いで、二月十三日に通称の 玄春 げんしゅん を二世 玄瑳 げんさ と改め、翌寛保二年七月二日に歿し、跡には登勢が十二歳の 未亡人 びぼうじん として のこ された。
 寛保二年に十五歳で、この登勢に 入贅 にゅうぜい したのは、 武蔵国 むさしのくに おし の人 竹内作左衛門 たけのうちさくざえもん の子で、抽斎の祖父 本皓 ほんこう が即ちこれである。津軽家は越中守 信寧 のぶやす の世になっていた。 宝暦 ほうれき 九年に登勢が二十九歳で むすめ 千代 ちよ を生んだ。千代は絶えなんとする渋江氏の血統を僅に つな ぐべき子で、あまつさえ 聡慧 そうけい なので、父母はこれを 一粒種 ひとつぶだね と称して 鍾愛 しょうあい していると、十九歳になった安永六年の五月三日に、辞世の歌を詠んで死んだ。本皓が五十歳、登勢が四十七歳の時である。本皓には庶子があって、名を 令図 れいと といったが、渋江氏を ぐには特に学芸に長じた人が欲しいというので、本皓は令図を同藩の医 小野道秀 おのどうしゅう もと へ養子に って、別に 継嗣 けいし を求めた。
 この時 根津 ねづ 茗荷屋 みょうがや という 旅店 りょてん があった。その主人 稲垣清蔵 いながきせいぞう 鳥羽 とば 稲垣家の重臣で、 きみ いさ めて むね さか い、 のが れて商人となったのである。清蔵に明和元年五月十二日生れの嫡男 専之助 せんのすけ というのがあって、六歳にして 詩賦 しふ を善くした。本皓がこれを聞いて養子に所望すると、清蔵は子を士籍に復せしむることを願っていたので、 こころよ く許諾した。そこで下野の宗家を 仮親 かりおや にして、大田原 頼母 たのも 家来 用人 ようにん 八十石渋江 官左衛門 かんざえもん 次男という名義で引き取った。専之助名は 允成 ただしげ あざな 子礼 しれい 定所 ていしょ と号し、おる所の しつ 容安 ようあん といった。通称は はじめ 玄庵 げんあん といったが、家督の年の十一月十五日に四世道陸と改めた。儒学は 柴野栗山 しばのりつざん 、医術は 依田松純 よだしょうじゅん の門人で、著述には『 容安室文稿 ようあんしつぶんこう 』、『定所詩集』、『定所雑録』等がある。これが抽斎の父である。

その十一

允成 ただしげ は才子で 美丈夫 びじょうふ であった。安永七年三月 さく に十五歳で渋江氏に養われて、当時 儲君 ちょくん であった、二つの年上の出羽守 信明 のぶあきら に愛せられた。養父 本皓 ほんこう の五十八歳で亡くなったのが、天明四年二月二十九日で、信明の 襲封 しゅうほう と同日である。信明はもう土佐守と称していた。主君が二十三歳、允成が二十一歳である。
 寛政三年六月二十二日に信明は僅に三十歳で卒し、八月二十八日に 和三郎 わさぶろう 寧親 やすちか が支封から って宗家を継いだ。後に越中守と称した人である。寧親は時に二十七歳で、允成は一つ上の二十八歳である。允成は寧親にも 親昵 しんじつ して、 ほとん 兄弟 けいてい の如くに遇せられた。 平生 へいぜい 着丈 きだけ 四尺の て、体重が二十貫目あったというから、その堂々たる 相貌 そうぼう が思い遣られる。
 当時津軽家に 静江 しずえ という 女小姓 おんなごしょう が勤めていた。それが年老いての後に剃髪して 妙了尼 みょうりょうに と号した。妙了尼が渋江家に 寄寓 きぐう していた頃、 可笑 おか しい話をした。それは允成が公退した跡になると、女中たちが争ってその 茶碗 ちゃわん の底の 余瀝 よれき を指に けて ねぶ るので、自分も舐ったというのである。
 しかし允成は謹厳な人で、 女色 じょしょく などは顧みなかった。最初の妻田中氏は寛政元年八月二十二日に めと ったが、これには子がなくて、翌年四月十三日に亡くなった。次に寛政三年六月四日に、 寄合 よりあい 戸田政五郎 とだまさごろう 家来 納戸役 なんどやく 金七両十二人扶持 川崎丈助 かわさきじょうすけ むすめ を迎えたが、これは四年二月に いつ という むすめ を生んで、逸が三歳で 夭折 ようせつ した翌年、七年二月十九日に離別せられた。最後に七年四月二十六日に允成の れた しつ は、 下総国 しもうさのくに 佐倉 さくら の城主 堀田 ほった 相模守 さがみのかみ 正順 まさより の臣、 岩田忠次 いわたちゅうじ の妹 ぬい で、これが抽斎の母である。結婚した時允成が三十二歳、縫が二十一歳である。
 縫は享和二年に始めて 須磨 すま という むすめ を生んだ。これは後文政二牛に十八歳で、 留守居 るすい 年寄 としより 佐野 さの 豊前守 ぶぜんのかみ 政親 まさちか 飯田四郎左衛門 いいだしろうざえもん 良清 よしきよ に嫁し、九年に二十五歳で死んだ。次いで文化二年十一月八日に生れたのが抽斎である。允成四十二歳、縫三十一歳の時の子である。これから のち には文化八年 じゅん 二月十四日に むすめ が生れたが、これは名を命ずるに及ばずして亡くなった。 感応寺 かんのうじ の墓に 曇華 どんげ 水子 すいし と刻してあるのがこの むすめ 法諡 ほうし である。
  允成 ただしげ は寧親の侍医で、津軽藩邸に催される 月並 つきなみ 講釈の教官を兼ね、 経学 けいがく と医学とを藩の子弟に授けていた。三百石十人扶持の 世禄 せいろく の外に、寛政十二年から 勤料 つとめりょう 五人扶持を給せられ、文化四年に更に五人扶持を加え、八年にまた五人扶持を加えられて、とうとう三百石と二十五人扶持を受けることとなった。 なか 二年置いて文化十一年に 一粒金丹 いちりゅうきんたん を調製することを許された。これは世に聞えた津軽家の秘方で、 毎月 まいげつ 百両以上の所得になったのである。
 允成は 表向 おもてむき 侍医たり教官たるのみであったが、寧親の信任を こうむ ることが厚かったので、人の あえ て言わざる事をも言うようになっていて、 しばしば いさ めて しばしば かれた。寧親は文化元年五月連年 蝦夷地 えぞち の防備に任じたという かど を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の 御乗出 おんのりだし がこれである。五年十二月には 南部 なんぶ 家と共に永く東西蝦夷地を警衛することを命ぜられて、十万石に進み、 じゅ 四位 に叙せられた。この津軽家の政務発展の時に当って、允成が 啓沃 けいよく の功も少くなかったらしい。
 允成は文政五年八月 さく に、五十九歳で致仕した。抽斎が十八歳の時である。次いで寧親も八年四月に退隠して、詩歌 俳諧を銷遣 しょうけん の具とし、歌会には 成島司直 なるしましちょく などを召し、詩会には允成を召すことになっていた。允成は 天保 てんぽう 二年六月からは、出羽国 亀田 かめだ の城主 岩城 いわき 伊予守 いよのかみ 隆喜 たかひろ に嫁した 信順 のぶゆき の姉もと姫に伺候し、同年八月からはまた信順の室 欽姫附 かねひめづき を兼ねた。八月十五日に隠居料三人扶持を給せられることになったのは、これらのためであろう。中一年置いて四年四月朔に、隠居料二人扶持を増して、五人扶持にせられた。
 允成は天保八年

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[#「八年」は底本では「八月」]
十月二十六日に、七十四歳で歿した。寧親は四年前の天保四年六月十四日に、六十九歳で卒した。允成の妻 ぬい は、文政七年七月朔に剃髪して 寿松 じゅしょう といい、十二年六月十四日に五十五歳で亡くなった。夫に さきだ つこと八年である。

その十二

 抽斎は文化二年十一月八日に、神田弁慶橋に生れたと たもつ さんがいう。これは母 五百 いお の話を記憶しているのであろう。父 允成 ただしげ は四十二歳、母 ぬい は三十一歳の時である。その生れた家はどの辺であるか。弁慶橋というのは橋の名ではなくて町名である。当時の 江戸分間大絵図 えどぶんけんおおえず というものを けみ するに、 和泉橋 いずみばし 新橋 あたらしばし との間の 柳原通 やなぎはらどおり の少し南に寄って、西から東へ、お たま いけ 松枝町 まつえだちょう 、弁慶橋、 元柳原町 もとやなぎはらちょう 佐久間町 さくまちょう 四間町 しけんちょう 大和町 やまとちょう 豊島町 としまちょう という順序に、町名が注してある。そして和泉橋を南へ渡って、少し東へ かたよ って行く通が、東側は弁慶橋、西側は松枝町になっている。この通の 東隣 ひがしどなり の筋は、東側が元柳原町、西側が弁慶橋になっている。わたくしが 富士川游 ふじかわゆう さんに借りた津軽家の医官の宿直日記によるに、 允成 ただしげ は天明六年八月十九日に豊島町 どおり 横町 よこちょう 鎌倉 かまくら 横町 家主 いえぬし 伊右衛門店 いえもんたな を借りた。この鎌倉横町というのは、前いった図を見るに、元柳原町と佐久間町との間で、 きた かた 河岸 かし に寄った所にある。允成がこの たな を借りたのは、その年正月二十二日に従来住んでいた家が焼けたので、 しばら 多紀桂山 たきけいざん もと に寄宿していて、八月に至って移転したのである。その従来住んでいた家も、余り隔たっていぬ和泉橋附近であったことは、日記の文から推することが出来る。次に文政八年三月 みそか に、抽斎の元柳原六丁目の家が過半類焼したということが、日記に見えている。元柳原町は弁慶橋と同じ筋で、ただ東西 両側 りょうそく が名を異にしているに過ぎない。 おも うに渋江 うじ は久しく和泉橋附近に住んでいて、天明に借りた鎌倉横町から、文政八年に至るまでの間に元柳原町に移ったのであろう。この元柳原町六丁目の家は、拍斎の生れた弁慶橋の家と同じであるかも知れぬが、あるいは抽斎の生れた文化二年に西側の弁慶橋にいて、その後文政八年に至るまでの間に、 向側 むかいがわ の元柳原町に移ったものと考えられぬでもない。
 抽斎は 小字 おさなな 恒吉 つねきち といった。故越中守 信寧 のぶやす の夫人 真寿院 しんじゅいん がこの子を愛して、当歳の時から五歳になった頃まで、 ほとん ど日ごとに召し寄せて、 そば 嬉戯 きぎ するのを見て たのし んだそうである。美丈夫允成に 可憐児 かれんじ であったものと想われる。
  志摩 しま の稲垣氏の 家世 かせい は今 つまびらか にすることが出来ない。しかし抽斎の祖父清蔵も恐らくは 相貌 そうぼう の立派な人で、それが父允成を経由して抽斎に遺伝したものであろう。この身的遺伝と並行して、心的遺伝が存じていなくてはならない。わたくしはここに清蔵が主を諫めて去った人だという事実に注目する。次に のち 允成になった神童専之助を いだ す清蔵の家庭が、尋常の家庭でないという推測を顧慮する。彼は意志の方面、 これ 智能 ちのう の方面で、この両方面における遺伝的系統を たず ぬるに、抽斎の前途は有望であったといっても かろう。
 さてその抽斎が生れて来た 境界 きょうがい はどうであるか。允成の にわ おしえ が信頼するに足るものであったことは、言を たぬであろう。オロスコピイは人の生れた時の 星象 せいしょう を観測する。わたくしは当時の社会にどういう人物がいたかと問うて、ここに学問芸術界の列宿 れっしゅく 数えて見たい。しかし観察が いたずら ひろ きに失せぬために、わたくしは他年抽斎が直接に交通すべき人物に限って観察することとしたい。即ち抽斎の師となり、また年上の友となる人物である。抽斎から見ての 大己 たいこ である。
 抽斎の経学の師には、先ず 市野迷庵 いちのめいあん がある。次は 狩谷斎 かりやえきさい である。医学の師には 伊沢蘭軒 いさわらんけん がある。次は抽斎が特に痘科を学んだ 池田京水 いけだけいすい である。それから抽斎が まじわ った年長者は随分多い。儒者または国学者には 安積艮斎 あさかごんさい 小島成斎 こじませいさい 岡本况斎 おかもときょうさい 海保漁村 かいほぎょそん 、医家には 多紀 たき 本末 ほんばつ 両家、 就中 なかんずく さいてい 、伊沢蘭軒の長子 榛軒 しんけん がいる。それから芸術家 および 芸術批評家に 谷文晁 たにぶんちょう 長島五郎作 ながしまごろさく 石塚重兵衛 いしづかじゅうべえ がいる。これらの人は皆社会の諸方面にいて、抽斎の世に づるを待ち受けていたようなものである。

その十三

 他年抽斎の師たり、年長の友たるべき人々の うち には、現に あまね く世に知れわたっているものが少くない。それゆえわたくしはここに一々その伝記を さしはさ もうとは思わない。ただ抽斎の誕生を語るに当って、これをしてその天職を尽さしむるに あずか って力ある長者のルヴュウをして見たいというに過ぎない。
 市野迷庵、名を 光彦 こうげん 、字を 俊卿 しゅんけい また 子邦 しほう といい、初め うんそう 、後迷庵と号した。その他 酔堂 すいどう 不忍池漁 ふにんちぎょ 等の別号がある。抽斎の父允成が 酔堂説 すいどうのせつ を作ったのが、『 容安室文稿 ようあんしつぶんこう 』に出ている。通称は 三右衛門 さんえもん である。六 せい の祖 重光 ちょうこう が伊勢国 白子 しろこ から江戸に出て、神田佐久間町に 質店 しちみせ を開き、屋号を 三河屋 みかわや といった。当時の店は弁慶橋であった。迷庵の父 光紀 こうき が、 香月氏 かづきうじ めと って迷庵を生せたのは明和二年二月十日であるから、抽斎の生れた時、迷庵はもう四十一歳になっていた。
 迷庵は考証学者である。即ち経籍の 古版本 こはんぼん 、古抄本を さぐ もと めて、そのテクストを けみ し、比較考勘する学派、クリチックをする学派である。この学は源を 水戸 みと 吉田篁 よしだこうとん に発し、斎がその のち けて発展させた。篁は抽斎の生れる七年前に歿している。迷庵が斎らと共に研究した果実が、後に至って成熟して抽斎らの『 訪古志 ほうこし 』となったのである。この人が晩年に『 老子 ろうし 』を好んだので、抽斎も 同嗜 どうし の人となった。
 狩谷斎、名は 望之 ぼうし あざな 卿雲 けいうん 、斎はその号である。通称を 三右衛門 さんえもん という。家は 湯島 ゆしま にあった。今の一丁目である。斎の家は津軽の 用達 ようたし で、津軽屋と称し、斎は津軽家の禄千石を み、 目見諸士 めみえしょし 末席 ばっせき に列せられていた。先祖は 参河国 みかわのくに 苅屋 かりや の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし斎は狩谷 保古 ほうこ の代にこの家に養子に来たもので、実父は 高橋高敏 たかはしこうびん 、母は佐藤氏である。安永四年の うまれ で、抽斎の母 ぬい と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは とお わか かったのだろう。抽斎の斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を うしな って斎に いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も斎も古書を集めたが、斎は古銭をも集めた。 漢代 かんだい 五物 ごぶつ を蔵して 六漢道人 ろっかんどうじん と号したので、人が 一物 いちぶつ 足らぬではないかと なじ った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり 古銭癖 こせんへき があったそうである。
 迷庵と斎とは、 年歯 ねんし もっ て論ずれば、彼が兄、 これ が弟であるが、考証学の学統から見ると、斎が先で、迷庵が のち である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。
 六右衛門の称は すこぶ る妙である。 しか るに世の人は更に 一人 ひとり の三右衛門を加えて、三三右衛門などともいう。この今一人の三右衛門は 喜多氏 きたうじ 、名は 慎言 しんげん 、字は 有和 ゆうわ 梅園 ばいえん また 静廬 せいろ と号し、 る所を 四当書屋 しとうしょおく と名づけた。その氏の喜多を修して ほく 慎言とも署した。 新橋 しんばし 金春 こんぱる 屋敷に住んだ屋根 ふき で、屋根屋三右衛門が通称である。 もと しば の料理店 鈴木 すずき せがれ 定次郎 さだじろう で、屋根屋へは養子に来た。 わか い時狂歌を作って 網破損針金 あみのはそんはりがね といっていたのが、後 博渉 はくしょう を以て聞えた。嘉永元年三月二十五日に、八十三歳で亡くなったというから、抽斎の生れた時には、その師となるべき迷庵と同じく四十一歳になっていたはずである。この三右衛門が殆ど毎日往来した 小山田与清 おやまだともきよ の『 擁書楼 ようしょろう 日記』を見れば、文化十二年に五十一歳だとしてあるから、この推算は誤っていないつもりである。しかしこの人を迷庵斎と あわ せ論ずるのは、少しく 西人 せいじん のいわゆる髪を つか んで引き寄せた趣がある。屋根屋三右衛門と抽斎との間には、交際がなかったらしい。

その十四

 後に抽斎に医学を授ける人は伊沢蘭軒である。名は 信恬 しんてん 、通称は 辞安 じあん という。伊沢 うじ 宗家 そうか 筑前国 ちくぜんのくに 福岡 ふくおか の城主 黒田家 くろだけ の臣であるが、蘭軒はその分家で、 備後国 びんごのくに 福山の城主 阿部伊勢守 あべいせのかみ 正倫 まさとも の臣である。文政十二年三月十七日に歿して、享年五十三であったというから、抽斎の生れた時二十九歳で、 本郷 ほんごう 真砂町 まさごちょう に住んでいた。阿部家は既に 備中守 びっちゅうのかみ 正精 まさきよ の世になっていた。蘭軒が本郷丸山の阿部家の中屋敷に移ったのは後の事である。
 阿部家は つい で文政九年八月に 代替 だいがわり となって、伊予守 正寧 まさやす ほう いだから、蘭軒は正寧の世になった のち 足掛 あしかけ 四年阿部家の やかた 出入 いでいり した。その頃抽斎の四人目の妻 五百 いお の姉が、正寧の しつ 鍋島氏 なべしまうじ の女小姓を勤めて 金吾 きんご と呼ばれていた。この金吾の話に、蘭軒は あしなえ であったので、 館内 かんない れん に乗ることを許されていた。さて輦から降りて、 匍匐 ほふく して 君側 くんそく に進むと、阿部家の奥女中が目を見合せて笑った。 或日 あるひ 正寧が たまたま この事を聞き知って、「辞安は足はなくても、腹が 二人前 ににんまえ あるぞ」といって、女中を戒めさせたということである。
 次は抽斎の 痘科 とうか の師となるべき人である。池田氏、名は いん

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[#「大/淵」、48-5]
あざな 河澄 かちょう 、通称は 瑞英 ずいえい 京水 けいすい と号した。
  原来 がんらい 疱瘡 ほうそう を治療する法は、久しく我国には行われずにいた。病が少しく重くなると、尋常の医家は手を つか ねて 傍看 ぼうかん した。そこへ 承応 じょうおう 二年に 戴曼公 たいまんこう が支那から渡って来て、不治の病を し始めた。 廷賢 きょうていけん そう とする治法を施したのである。曼公、名は りつ 杭州 こうしゅう 仁和県 じんわけん の人で、曼公とはその あざな である。 みん 万暦 ばんれき 二十四年の うまれ であるから、長崎に来た時は五十八歳であった。曼公が 周防国 すおうのくに 岩国 いわくに に足を留めていた時、池田 嵩山 すうざん というものが治痘の法を受けた。嵩山は 吉川 きっかわ 家の医官で、名を 正直 せいちょく という。 先祖 せんそ 蒲冠者 かばのかんじゃ 範頼 のりより から出て、 世々 よよ 出雲 いずも におり、 生田 いくた 氏を称した。正直の 数世 すせい の祖 信重 しんちょう が出雲から岩国に うつ って、 はじめ て池田氏に あらた めたのである。正直の子が 信之 しんし 、信之の養子が 正明 せいめい で、皆曼公の遺法を伝えていた。
 然るに寛保二年に正明が病んでまさに歿せんとする時、その子 独美 どくび わずか に九歳であった。正明は法を弟 槙本坊詮応 まきもとぼうせんおう に伝えて置いて めい した。そのうち独美は人と成って、詮応に学んで父祖の法を得た。宝暦十二年独美は母を奉じて 安芸国 あきのくに 厳島 いつくしま に遷った。厳島に疱瘡が さかん に流行したからである。安永二年に母が亡くなって、六年に独美は大阪に き、 西堀江 にしほりえ 隆平橋 りゅうへいばし ほとり に住んだ。この時独美は四十四歳であった。
 独美は寛政四年に京都に出て、 東洞院 ひがしのとういん に住んだ。この時五十九歳であった。八年に徳川 家斉 いえなり されて、九年に江戸に り、 駿河台 するがだい に住んだ。この年三月独美は 躋寿館 せいじゅかん で痘科を講ずることになって、二百俵を給せられた。六十四歳の時の事である。躋寿館には独美のために始て痘科の講座が置かれたのである。
 抽斎の生れた文化二年には、独美がまだ生存して、駿河台に住んでいたはずである。年は七十二歳であった。独美は文化十三年九月六日に八十三歳で歿した。 遺骸 いがい 向島 むこうじま 小梅村 こうめむら 嶺松寺 れいしょうじ に葬られた。
 独美、字は 善卿 ぜんけい 、通称は 瑞仙 ずいせん 錦橋 きんきょう また 蟾翁 せんおう と号した。その蟾翁と号したには面白い話がある。独美は或時大きい 蝦蟇 がま を夢に見た。それから『 抱朴子 ほうぼくし 』を読んで、その夢を 祥瑞 しょうずい だと思って、蝦蟇の をかき、蝦蟇の彫刻をして人に贈った。これが蟾翁の号の由来である。

その十五

 池田独美には前後三人の妻があった。安永八年に歿した 妙仙 みょうせん 、寛政二年に歿した 寿慶 じゅけい 、それから嘉永元年まで生存していた 芳松院 ほうしょういん 緑峰 りょくほう である。緑峰は 菱谷氏 ひしたにうじ 佐井 さい 氏に養われて独美に嫁したのが、独美の京都にいた時の事である。三人とも子はなかったらしい。
 独美が厳島から大阪に うつ った頃 しょう があって、一男二女を生んだ。 だん は名を 善直 ぜんちょく といったが、多病で業を継ぐことが出来なかったそうである。二女は ちょう 智秀 ちしゅう おくりな した。寛政二年に歿している。次は 知瑞 ちずい と諡した。寛政九年に夭折している。この外に今一人独美の子があって、鹿児島に住んで、その子孫が現存しているらしいが、この家の事はまだこれを つまびらか にすることが出来ない。
 独美の家は門人の一人が養子になって いで、二世瑞仙と称した。これは 上野国 こうずけのくに 桐生 きりゅう の人 村岡善左衛門 むらおかぜんざえもん 常信 じょうしん の二男である。名は しん あざな 柔行 じゅうこう 、また 直卿 ちょくけい 霧渓 むけい と号した。 躋寿館 せいじゅかん の講座をもこの人が継承した。
 初め独美は 曼公 まんこう の遺法を尊重する あまり に、これを一子相伝に とど め、他人に授くることを拒んだ。然るに大阪にいた時、人が いさ めていうには、 一人 いちにん く救う所には かぎり がある、良法があるのにこれを秘して伝えぬのは不仁であるといった。そこで独美は始て誓紙に血判をさせて弟子を取った。それから門人が次第に えて、歿するまでには五百人を えた。二世瑞仙はその中から簡抜せられて 螟蛉子 めいれいし となったのである。
 独美の初代瑞仙は もと 源家 げんけ の名閥だとはいうが、 周防 すおう の岩国から起って幕臣になり、駿河台の池田氏の宗家となった。それに業を継ぐべき子がなかったので、門下の俊才が って のち を襲った。 にわか に見れば、なんの あやし むべき所もない。
 しかしここに問題の人物がある。それは抽斎の痘科の師となるべき池田 京水 けいすい である。
 京水は独美の子であったか、 おい であったか不明である。向島嶺松寺に立っていた墓に刻してあった誌銘には子としてあったらしい。然るに二世瑞仙 しん の子 直温 ちょくおん の撰んだ 過去帖 かこちょう には、独美の弟 玄俊 げんしゅん の子だとしてある。子にもせよ甥にもせよ、独美の血族たる京水は宗家を ぐことが出来ないで、自立して 町医 まちい になり、 下谷 したや 徒士町 かちまち 門戸 もんこ を張った。当時江戸には駿河台の官医二世瑞仙と、徒士町の町医京水とが両立していたのである。
 種痘の術が普及して以来、世の人は疱瘡を恐るることを忘れている。しかし昔は人のこの病を恐るること、 ろう を恐れ、 がん を恐れ、 らい を恐るるよりも甚だしく、その流行の さかん なるに当っては、社会は一種のパニックに襲われた。池田氏の治法が徳川政府からも全国の人民からも歓迎せられたのは当然の事である。そこで抽斎も、一般医学を蘭軒に受けた のち 、特に痘科を京水に学ぶことになった。丁度近時の医が細菌学や原虫学や生物化学を特修すると同じ事である。
 池田氏の曼公に受けた治痘法はどんなものであったか。従来痘は胎毒だとか、 穢血 えけつ だとか、 後天 こうてん 食毒 しどく だとかいって、諸家は おのおの その見る所に従って、諸証を攻むるに一様の方を以てしたのに、池田氏は痘を一種の異毒異気だとして、いわゆる八証四節三項を分ち、 偏僻 へんぺき の治法を しりぞ けた。即ち対症療法の完全ならんことを期したのである。

その十六

 わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて 京水 けいすい に及ぶに当って、ここに京水の 身上 しんしょう に関する うたがい しる して、世の人の おしえ を受けたい。
 わたくしは今これを筆に のぼ するに至るまでには、文書を捜り寺院を い、また幾多の先輩知友を わずら わして解決を求めた。しかしそれは おおむ ね皆 徒事 いたずらごと であった。 就中 なかんずく うらみ とすべきは京水の墓の 失踪 しっそう した事である。
 最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは たもつ さんである。保さんは幼い時京水の墓に もう でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川 ゆう さんに種々の事を問いに った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の かたわら にあるという事があった。
 わたくしは幼い時 向島 むこうじま 小梅村に住んでいた。 はじめ の家は今 須崎町 すさきちょう になり、 のち の家は今小梅町になっている。その のち の家から土手へ くには、いつも常泉寺の裏から 水戸邸 みとやしき の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
 わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。 枕橋 まくらばし を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の 末寺 まつじ の庭にある墓をも一つ一つ検した。 日蓮宗 にちれんしゅう の事だから、江戸の 市人 いちびと の墓が多い。知名の学者では、 朝川善庵 あさかわぜんあん 一家 いっけ の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
 そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に 檀家 だんか うじ が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
 わたくしは むな しく かえ って、先ず 郷人 きょうじん 宮崎幸麿 みやさきさきまろ さんを介して、 東京 とうけい の墓の事に くわ しい 武田信賢 たけだしんけん さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
 そのうちわたくしは『事実文編』四十五に 霧渓 むけい の撰んだ池田 行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを しる してある。 もと 嶺松寺には 戴曼公 たいまんこう 表石 ひょうせき があって、瑞仙はその かたわら に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
 わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を 徘徊 はいかい して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して くびす めぐら したが、道のついでなので、須崎町 弘福寺 こうふくじ にある先考の墓に詣でた。さて住職 奥田墨汁 おくだぼくじゅう 師を とぶら って 久闊 きゅうかつ じょ した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも ふた つながらこれを知っていた。
 墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その 畛域 しんいき 内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を 二人 ふたり まで たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ うつ す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の のち は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは 憮然 ぶぜん とした。

その十七

 わたくしは墨汁師にいった。池田瑞仙の一族は当年の名医である。その墓の 行方 ゆくえ は探討したいものである。それに 戴曼公 たいまんこう の表石というものも、もし存していたら、名蹟の一に算すべきものであろう。嶺松寺にあった無縁の墓は、どこの共同墓地へ うつ されたか知らぬが、もしそれがわかったなら、尋ねに きたいものであるといった。
 墨汁師も首肯していった。戴氏 独立 どくりゅう の表石の事は はじめ て聞いた。池田氏の上のみではない。自分も 黄檗 おうばく 衣鉢 いはつ を伝えた身であって見れば、独立の遺蹟の存滅を意に介せずにはいられない。想うに独立は寛文中九州から師 隠元 いんげん を黄檗山に せい しに のぼ る途中で じゃく したらしいから、江戸には墓はなかっただろう。嶺松寺の表石とはどんな物であったか知らぬが、あるいは 牙髪塔 がはつとう たぐい ででもあったか。それはともかくも、その石の行方も知りたい。心当りの 向々 むきむき へ問い合せて見ようといった。
 わたくしの再度の向島探討は大正四年の暮であったので、そのうちに五年の はじめ になった。墨汁師の新年の書信に問合せの結果が しる してあったが、それは すこぶ 覚束 おぼつか ない 口吻 こうふん であった。嶺松寺の廃せられた時、その事に あずか った寺々に問うたが、池田氏の墓には檀家がなかったらしい。当時無縁の墓を遷した所は、 染井 そめい 共同墓地であった。独立の表石というものは たれ も知らないというのである。
 これでは捜索の前途には、殆ど すこ しの光明をも認めることが出来ない。しかしわたくしは 念晴 ねんばら しのために、染井へ尋ねに った。そして墓地の世話をしているという家を訪うた。
 墓にまいる人に しきみ 綫香 せんこう を売り、また足を休めさせて茶をも飲ませる家で、三十ばかりの 怜悧 かしこ そうなお かみ さんがいた。わたくしはこの女の口から絶望の答を聞いた。共同墓地と名にはいうが、その地面には 井然 せいぜん たる区画があって、毎区に所有主がある。それが墓の檀家である。そして現在の檀家の うち には池田という家はない。池田という檀家がないから、池田という人の墓のありようがないというのである。
「それでも新聞に、 行倒 ゆきだお れがあったのを共同墓地に埋めたということがあるではありませんか。そうして見れば檀家のない仏の く所があるはずです。わたくしの尋ねるのは、行倒れではないが、前に埋めてあった寺が 取払 とりはらい になって、こっちへ持って来られた仏です。そういう時、石塔があれば石塔も運んで来るでしょう。それをわたくしは尋ねるのです。」こういってわたくしは女の毎区有主説に 反駁 はんばく を試みた。
「ええ、それは行倒れを埋める所も一カ所ございます。ですけれど行倒れに石塔を建てて る人はございません。それにお寺から石塔を運んで来たということは、聞いたこともございません。つまりそんな所には石塔なんぞは一つもないのでございます。」
「でもわたくしは 切角 せっかく 尋ねに来たものですから、そこへ往って見ましょう。」
「およしなさいまし。石塔のないことはわたくしがお 受合 うけあい 申しますから。」こういって女は笑った。
 わたくしもげにもと思ったので、墓地には足を れずに引き返した。
 女の こと には疑うべき余地はない。しかしわたくしは責任ある人の口から、同じ事をでも、今一度聞きたいような気がした。そこで帰途に町役場に立ち寄って問うた。町役場の人は、墓地の事は扱わぬから、本郷区役所へ往けといった。
 町役場を出た時、もう冬の日が暮れ掛かっていた。そこでわたくしは思い直した。廃寺になった嶺松寺から染井共同墓地へ墓石の来なかったことは明白である。それを区役所に問うのは余りに おろか であろう。むしろ行政上無縁の墓の 取締 とりしまり があるか、もしあるなら、どう取り締まることになっているかということを問うに くはない。その上今から区役所に往った所で、当直の人に墓地の事を問うのは 甲斐 かい のない事であろう。わたくしはこう考えて家に かえ った。

その十八

 わたくしは人に問うて、墓地を管轄するのが東京府庁で、墓所の移転を監視するのが警視庁だということを知った。そこで友人に託して、府庁では嶺松寺の廃絶に関してどれだけの事が知り得られるか、また警視庁は墓所の移転をどの位の程度に監視することになっているかということを問うてもらった。
 府庁には明治十八年に作られた墓地の台帳ともいうべきものがある。しかし一応それを検した所では、嶺松寺という寺は載せてないらしかった。その廃絶に関しては、何事をも知ることが出来ぬのである。警視庁は廃寺等のために 墓碣 ぼけつ を搬出するときには警官を立ち会わせる。しかしそれは 有縁 うえん のものに限るので、無縁のものはどこの共同墓地に改葬したということを届け でさせるに とど まるそうである。
 そうして見れば、嶺松寺の廃せられた時、境内の無縁の墓が染井共同墓地に うつ されたというのは、遷したという一紙の 届書 とどけしょ が官庁に呈せられたに過ぎぬかも知れない。 所詮 しょせん 今になって 戴曼公 たいまんこう の表石や池田氏の墓碣の 踪迹 そうせき を発見することは出来ぬであろう。わたくしは念を捜索に絶つより外あるまい。
 とかくするうちに、わたくしが池田 京水 けいすい の墓を捜し求めているということ、池田氏の墓のあった嶺松寺が廃絶したということなどが『東京朝日新聞』の雑報に出た。これはわたくしが先輩知友に書を寄せて問うたのを聞き知ったものであろう。雑報の掲げられた日の夕方、無名の人がわたくしに電話を掛けていった。自分はかつて府庁にいたものである。その頃無税地 反別帳 たんべつちょう という帳簿があった。もしそれがなお存しているなら、嶺松寺の事が載せてあるかも知れないというのである。わたくしは無名の人の こと に従って、人に託して府庁に ただ してもらったが、そういう帳簿はないそうであった。
 この事件に関してわたくしの往訪した人、書を寄せて教を うた人は すこぶ る多い。 はじめ にはわたくしは墓誌を読まんがために、墓の所在を問うたが、後にはせめて京水の歿した年齢だけなりとも知ろうとした。わたくしは抽斎の生れた年に、 市野迷庵 いちのめいあん が何歳、 狩谷斎 かりやえきさい が何歳、 伊沢蘭軒 いさわらんけん が何歳ということを推算したと同じく、京水の年齢をも推算して見たく、もしまた数字を以て示すことが出来ぬなら、少くもアプロクシマチイフにそれを 忖度 そんたく して見たかったのである。
 諸家の うち でも、 戸川残花 とがわざんか さんはわたくしのために 武田信賢 たけだしんけん さんに問うたり、 南葵 なんき 文庫所蔵の書籍を検したりしてくれ、 呉秀三 くれしゅうぞう さんは医史の資料について捜索してくれ、 大槻文彦 おおつきふみひこ さんは 如電 にょでん さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の 嗜好 しこう あるがために、踏査の労をさえ いと わなかったのであろう。ただ うら むらくもわたくしは いたずら にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
 これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお かげ である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは 昔年 せきねん 日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に もう でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。 おし むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の かたわら しる したのである。 ここ においてかつて親しく嶺松寺 ちゅう 碑碣 ひけつ た人が三人になった。保さんと游さんと墨汁師とである。そして游さんは 湮滅 いんめつ の期に せま っていた墓誌銘の幾句を、図らずも救抜してくれたのである。

その十九

  弘福寺 こうふくじ の現住墨汁師は大正五年に ってからも、捜索の手を とど めずにいた。そしてとうとう 下目黒 しもめぐろ 海福寺 かいふくじ 所蔵の池田氏 過去帖 かこちょう というものを借り出して、わたくしに見せてくれた。帖は表紙を除いて十五枚のものである。表紙には 生田氏 いくたうじ 中興池田氏過去帖慶応紀元季秋の十七字が四行に書してある。 跋文 ばつぶん を読むに、この書は二世 瑞仙晋 ずいせんしん の子 直温 ちょくおん あざな 子徳 しとく が、慶応元年九月六日に、初代瑞仙独美の五十年 忌辰 きしん あた って、 あらた に歴代の 位牌 いはい を作り、 あわ せてこれを 纂記 さんき して、嶺松寺に納めたもので、直温の自筆である。
 この書には池田氏の一族百八人の男女を列記してあるが、その墓所はあるいは注してあり、あるいは注してない。 分明 ぶんみょう に嶺松寺に葬る、または嶺寺に葬ると注してあるのは初代瑞仙、その妻 佐井氏 さいうじ 、二代瑞仙、その二男 洪之助 こうのすけ 、二代瑞仙の兄 信一 しんいち の五人に過ぎない。しかし既に 京水 けいすい の墓が同じ寺にあったとすると、 徒士町 かちまち の池田氏の人々の墓もこの寺にあっただろう。要するに嶺松寺にあったという確証のある墓は、この書に注してある 駿河台 するがだい の池田氏の墓五基と、京水の墓とで、合計六基である。
 この書の する所は、わたくしのために 創聞 そうぶん に属するものが すこぶ る多い。 就中 なかんずく とすべきは、独美に 玄俊 げんしゅん という弟があって、それが宇野氏を めと って、二人の間に出来た子が京水だという 一事 いちじ である。この書に れば、独美は 一旦 いったん てつ 京水を養って子として置きながら、それに家を がせず、更に門人 村岡晋 むらおかしん を養って子とし、それに業を継がせたことになる。
 然るに富士川さんの抄した墓誌には、京水は独美の子で廃せられたと書してあったらしい。しかもその廃せられた 所以 ゆえん を書して放縦 不覊 ふき にして人に れられず、 つい に多病を以て廃せらるといってあったらしい。
 両説は必ずしも矛盾してはいない。独美は弟玄俊の子京水を養って子とした。京水が 放蕩 ほうとう であった。そこで京水を離縁して門人晋を養子に入れたとすれば、その説通ぜずというでもない。
 しかし京水が のち く自ら樹立して、その文章事業が晋に比して ごう 遜色 そんしょく のないのを見るに、この人の凡庸でなかったことは、推測するに かた くない。著述の考うべきものにも、『 痘科挙要 とうかきょよう 』二巻、『痘科 鍵会通 けんかいつう 』一巻、『痘科 鍵私衡 けんしこう 』五巻、抽斎をして筆授せしめた『 護痘要法 ごとうようほう 』一巻がある。養父独美が ること尋常 蕩子 とうし の如くにして、これを うことを おし まなかったのは、恩少きに過ぐというものではあるまいか。
 かつわたくしは京水の墓誌が 何人 なにひと 撰文 せんぶん に係るかを知らない。しかし京水が果して独美の てつ であったなら、 たと い独美が一時養って子となしたにもせよ、 ただち に瑞仙の子なりと書したのはいかがのものであろうか。富士川さんの如きも、『日本医学史』に、墓誌に拠って瑞仙の子なりと書しているのである。また放縦だとか廃嗣だとかいうことも、 かく の如くに書したのが、墓誌として たい を得たものであろうか。わたくしは大いにこれを疑うのである。そして墓誌の全文を見ることを得ず、その撰者を つまびらか にすることを得ざるのを うらみ とする。
 わたくしは ひとり 撰者不詳の京水墓誌を疑うのみではない。また二世瑞仙晋の撰んだ池田 行状をも疑わざることを得ない。文は載せて『事実文編』四十五にある。
 行状に拠るに、初代瑞仙独美は享保二十年 乙卯 いつぼう 五月二十二日に生れ、文化十三年 丙子 へいし 九月六日に歿した。然るに安永六年 丁酉 ていゆう に四十、寛政四年 壬子 じんし に五十五、同九年 丁巳 ていし に六十四、歿年に八十三と書してある。これは生年から順算すれば、四十三、五十八、六十三、八十二でなくてはならない。 よわい するごとに、 ほとん ど必ず たが っているのは 何故 なにゆえ であろうか。 ちなみ にいうが過去帖にもまた齢八十三としてある。そこでわたくしはこの八十三より逆算することにした。

その二十

  しん の撰んだ池田氏行状には、初代瑞仙の庶子 善直 ぜんちょく というものを挙げて、「 多病不能継業 やまいおおくぎょうをつぐあたわず 」と書してある。その前に初代瑞仙が病中晋に告げた語を記して、八十四 げん の多きに及んである。瑞仙は痘を することの難きを説いて、「数百之 弟子 でし 無能熟得之者 よくじゅくとくせるものなし 」といい、晋を賞して、「 而汝能継我業 しこうしてなんじよくわがぎょうをつぐ 」といっている。
 わたくしはいまだ過去帖を獲ざる前にこれを読んで、善直は京水の はじめ の名であろうと思った。京水の墓誌に多病を以て を廃せらるというように書してあったというのと、符節は あわ するようだからである。過去帖に従えば、庶子善直と てつ 京水とは別人でなくてはならない。しかし善直と京水とが同人ではあるまいか、京水が玄俊の子でなくて、初代瑞仙の子ではあるまいかという うたがい が、今に いた るまでいまだ全くわたくしの かい を去らない。特に かの 過去帖に遠近の 親戚 しんせき 百八人が挙げてあるのに、初代瑞仙のただ一人の実子善直というものが 痕跡 こんせき をだに とど めずに消滅しているという一事は、この疑を助長する なかだち となるのである。
 そしてわたくしは撰者不詳の墓誌の残欠に、京水が そし ってあるのを見ては、 忌憚 きたん なきの甚だしきだと感じ、晋が養父の賞美の語を して、一の抑損の句をも けぬのを見ては、 簡傲 かんごう もまた甚だしいと感ずることを禁じ得ない。わたくしには初代瑞仙独美、二世瑞仙晋、京水の三人の間に或るドラアムが蔵せられているように思われてならない。わたくしの世の人に教を乞いたいというのはこれである。
 わたくしは抽斎の誕生を語るに当って、 のち にその師となるべき人々を数えた。それは抽斎の生れた時、四十一歳であった迷庵、三十一歳であった えきさい 、二十九歳であった蘭軒の三人と、京水とであって、独り京水は過去帖を獲るまでその よわい を算することが出来なかった。なぜというに、京水の歿年が天保七年だということは、保さんが知っていたが、 年歯 ねんし に至っては全く所見がなかったからである。
 過去帖に拠れば京水の父玄俊は名を某、 あざな 信卿 しんけい といって寛政九年八月二日に、六十歳で歿し、母宇野氏は天明六年に三十六歳で歿した。そして京水は天保七年十一月十四日に、五十一歳で歿したのである。 法諡 ほうし して 宗経軒 そうけいけん 京水 瑞英居士 ずいえいこじ という。
 これに由って れば、京水は天明六年の うまれ で、抽斎の生れた文化二年には二十歳になっていた。抽斎の四人の師の うち では最年少者であった。
 後に抽斎と まじわ る人々の中、抽斎に さきだ って生れた学者は、 安積艮斎 あさかごんさい 、小島成斎、岡本 况斎 きょうさい 、海保漁村である。
 安積艮斎は抽斎との まじわり が深くなかったらしいが、抽斎をして 西学 せいがく を忌む念を ひるがえ さしめたのはこの人の力である。艮斎、名は 重信 しげのぶ 、修して しん という。通称は 祐助 ゆうすけ である。奥州 郡山 こおりやま 八幡宮 はちまんぐう 祠官 しかん 安藤筑前 あんどうちくぜん 親重 ちかしげ の子で、寛政二年に生れたらしい。十六歳の時、近村の 里正 りせい 今泉氏 いまいずみうじ の壻になって、妻に嫌われ、翌年江戸に はし った。しかし たれ にたよろうというあてもないので、うろうろしているのを、日蓮宗の僧 日明 にちみょう が見附けて、 本所 ほんじょ 番場町 ばんばちょう 妙源寺 みょうげんじ へ連れて帰って、 数月 すうげつ めて置いた。そして世話をして 佐藤一斎 さとういっさい の家の学僕にした。妙源寺は今艮斎の墓碑の立っている寺である。それから二十一歳にして 林述斎 はやしじゅっさい の門に った。駿河台に住んで塾を開いたのは二十四歳の時である。そうして見ると、抽斎の生れた文化二年は艮斎が江戸に入る前年で、十六歳であった。これは艮斎が 万延 まんえん 元年十一月二十二日に、七十一歳で歿したものとして推算したのである。
 小島成斎名は 知足 ちそく あざな 子節 しせつ 、初め静斎と号した。通称は五一である。斎の門下で善書を以て聞えた。海保漁村の墓表に 文久 ぶんきゅう 二年十月十八日に、六十七歳で歿したとしてあるから、抽斎の生れた文化二年には はじ めて十歳である。父 親蔵 しんぞう が福山侯 阿部 あべ 備中守 正精 まさきよ に仕えていたので、成斎も江戸の藩邸に住んでいた。

その二十一

 岡本况斎、名は 保孝 ほうこう 、通称は初め 勘右衛門 かんえもん 、後 縫殿助 ぬいのすけ であった。 拙誠堂 せつせいどう の別号がある。幕府の儒員に列せられた。『 荀子 じゅんし 』、『 韓非子 かんぴし 』、『 淮南子 えなんじ 』等の考証を作り、 かたわら 国典にも通じていた。明治十一年四月までながらえて、八十二歳で歿した。寛政九年の うまれ で、抽斎の生れた文化二年には わずか に九歳になっていたはずである。
 海保漁村、名は 元備 げんび あざな 純卿 じゅんけい 、また名は 紀之 きし 、字は 春農 しゅんのう ともいった。通称は 章之助 しょうのすけ 伝経廬 でんけいろ の別号がある。寛政十年に 上総国 かずさのくに 武射郡 むさごおり 北清水村 きたしみずむら に生れた。老年に及んで けい 躋寿館 せいじゅかん に講ずることになった。慶応二年九月十八日に、六十九歳で歿した人である。抽斎の生れた文化二年には八歳だから、郷里にあって、父 恭斎 きょうさい 句読 くとう を授けられていたのである。
 即ち学者の先輩は艮斎が十六、成斎が とお 、况斎が九つ、漁村が八つになった時、抽斎は生れたことになる。
 次に医者の年長者には先ず 多紀 たき の本家、 末家 ばつけ を数える。本家では 桂山 けいざん 、名は元 かん 、字は 廉夫 れんふ が、抽斎の生れた文化二年には五十一歳、その子 りゅうはん 、名は いん 、字は 奕禧 えきき が十七歳、末家では さいてい 、名は 元堅 げんけん 、字は 亦柔 えきじゅう が十一歳になっていた。桂山は文化七年十二月二日に五十六歳で歿し、柳は文政十年六月三日に三十九歳で歿し、庭は安政四年二月十四日に六十三歳で歿したのである。
 この うち 抽斎の最も親しくなったのは庭である。それから師伊沢蘭軒の長男 榛軒 しんけん もほぼ同じ親しさの友となった。榛軒、通称は 長安 ちょうあん 、後 一安 いちあん と改めた。文化元年に生れて、抽斎にはただ一つの年上である。榛軒は嘉永五年十一月十七日に、四十九歳で歿した。
 年上の友となるべき医者は、抽斎の生れた時十一歳であった庭と、二歳であった榛軒とであったといっても い。
 次は芸術家 および 芸術批評家である。芸術家としてここに挙ぐべきものは 谷文晁 たにぶんちょう 一人 いちにん に過ぎない。文晁、 もと 文朝に作る、通称は 文五郎 ぶんごろう 薙髪 ちはつ して 文阿弥 ぶんあみ といった。 写山楼 しゃざんろう 画学斎 ががくさい 、その他の号は人の皆知る所である。初め 狩野 かのう 派の 加藤文麗 かとうぶんれい を師とし、後 北山寒巌 きたやまかんがん に従学して別に機軸を いだ した。天保十一年十二月十四日に、七十八歳で歿したのだから、抽斎の生れた文化二年には四十三歳になっていた。 二人 ににん 年歯 ねんし の懸隔は、 おおむ ね迷庵におけると同じく、抽斎は をも少しく学んだから、この人は抽斎の師の うち に列する方が妥当であったかも知れない。
 わたくしはここに 真志屋五郎作 ましやごろさく 石塚重兵衛 いしづかじゅうべえ とを数えんがために、芸術批評家の もく を立てた。二人は皆劇通であったから、 かく の如くに名づけたのである。あるいはおもうに、批評家といわんよりは、むしろアマトヨオルというべきであったかも知れない。
 抽斎が のち 劇を愛するに至ったのは、当時の人の まなこ より れば、一の 癖好 へきこう であった。どうらくであった。 ただ に当時において しか るのみではない。 かく の如くに物を観る まなこ は、今もなお教育家等の間に、前代の遺物として伝えられている。わたくしはかつて歴史の教科書に、 近松 ちかまつ 竹田 たけだ の脚本、 馬琴 ばきん 京伝 きょうでん の小説が出て、風俗の 頽敗 たいはい を致したと書いてあるのを見た。
 しかし詩の変体としてこれを れば、脚本、小説の価値も認めずには置かれず、脚本に って演じ いだ す劇も、高級芸術として尊重しなくてはならなくなる。わたくしが抽斎の心胸を開発して、劇の趣味を解するに至らしめた人々に敬意を表して、これを学者、医者、画家の次に数えるのは、好む所に おもね るのではない。

その二十二

 真志屋五郎作は神田 新石町 しんこくちょう の菓子商であった。 水戸家 みとけ 賄方 まかないかた を勤めた家で、 ある 時代から ゆえ あって 世禄 せいろく 三百俵を給せられていた。 巷説 こうせつ には水戸侯と血縁があるなどといったそうであるが、どうしてそんな説が 流布 るふ せられたものか、今考えることが出来ない。わたくしはただ 風采 ふうさい かったということを知っているのみである。保さんの母 五百 いお の話に、五郎作は 苦味走 にがみばし った い男であったということであった。菓子商、 用達 ようたし の外、この人は幕府の 連歌師 れんがし の執筆をも勤めていた。
 五郎作は実家が 江間氏 えまうじ で、一時 長島 ながしま 氏を おか し、真志屋の西村氏を ぐに至った。名は 秋邦 しゅうほう あざな 得入 とくにゅう 空華 くうげ 月所 げっしょ 如是縁庵 にょぜえんあん 等と号した。 平生 へいぜい 用いた 華押 かおう は邦の字であった。 剃髪 ていはつ して五郎作 新発智東陽院寿阿弥陀仏曇 しんぼっちとうよういんじゅあみだぶつどんちょう と称した。曇とは好劇家たる五郎作が、 おん 似通 にかよ った劇場の 緞帳 どんちょう と、 入宋 にゅうそう 僧然 ちょうねん の名などとを配合して作った 戯号 げごう ではなかろうか。
 五郎作は 劇神仙 げきしんせん の号を 宝田寿来 たからだじゅらい けて、後にこれを抽斎に伝えた人だそうである。
 宝田寿来、通称は 金之助 きんのすけ 、一に 閑雅 かんが と号した。『作者 たな おろし』という書に、宝田とはもと神田より でたる名と書いてあるのを見れば、 まこと うじ ではなかったであろう。 浄瑠璃 じょうるり せき 』はこの人の作だそうである。寛政六年八月に、五十七歳で歿した。五郎作が二十六歳の時で、抽斎の生れる十一年前である。これが初代劇神仙である。
 五郎作は歿年から推算するに、明和六年の うまれ で、抽斎の生れた文化二年には三十七歳になっていた。抽斎から見ての長幼の関係は、師迷庵や文晁におけると大差はない。嘉永元年八月二十九日に、八十歳で歿したのだから、抽斎がこの二世劇神仙の のち いで三世劇神仙となったのは、四十四歳の時である。初め五郎作は抽斎の父 允成 ただしげ と親しく まじわ っていたが、允成は五郎作に さきだ つこと十一年にして歿した。
 五郎作は独り劇を ることを好んだばかりではなく、舞台のために製作をしたこともある。四世 彦三郎 ひこさぶろう 贔屓 ひいき にして、 所作事 しょさごと を書いて遣ったと、自分でいっている。レシタションが 上手 じょうず であったことは、同情のない 喜多村庭 きたむらいんてい が、台帳を読むのが寿阿弥の唯一の長技だといったのを見ても察せられる。
 五郎作は奇行はあったが、 生得 しょうとく 酒を たし まず、常に 養性 ようじょう に意を用いていた。文政十年七月の すえ に、 おい の家の板の から ちて 怪我 けが をして、当時流行した接骨家 元大坂町 もとおおさかちょう 名倉弥次兵衛 なぐらやじべえ に診察してもらうと、名倉がこういったそうである。お前さんは 下戸 げこ で、 戒行 かいぎょう が堅固で、気が強い、それでこれほどの怪我をしたのに、目を まわ さずに済んだ。この三つが一つ けていたら、目を廻しただろう。目を廻したのだと、療治に二百日 あまり 掛かるが、これは百五、六十日でなおるだろうといったそうである。戒行とは 剃髪 ていはつ した のち だからいったものと見える。怪我は 両臂 りょうひじ を傷めたので骨には さわ らなかったが いたみ が久しく まなかった。五郎作は十二月の末まで名倉へ通ったが、臂の しびれ だけは跡に のこ った。五十九歳の時の事である。
 五郎作は文章を善くした。繊細の事を叙するに簡浄の筆を以てした。 技倆 ぎりょう の上から言えば、必ずしも馬琴、京伝に譲らなかった。ただ小説を書かなかったので、世の人に知られぬのである。これはわたくし自身の判断である。わたくしは大正四年の十二月に、五郎作の長文の手紙が うり に出たと聞いて、 大晦日 おおみそか 築地 つきじ の弘文堂へ買いに往った。手紙は 罫紙 けいし 十二枚に 細字 さいじ で書いたものである。文政十一年二月十九日に書いたということが、記事に拠って あきら かに考えられる。ここに書いた五郎作の性行も、 なかば は材料をこの 簡牘 かんどく に取ったものである。 宛名 あてな ひつどう 桑原氏 くわばらうじ 、名は 正瑞 せいずい あざな 公圭 こうけい 、通称を 古作 こさく といった。駿河国島田駅の素封家で、詩 および 書を善くした。玄孫 喜代平 きよへい さんは島田駅の北半里ばかりの 伝心寺 でんしんじ に住んでいる。五郎作の能文はこの手紙一つに徴して知ることが出来るのである。

その二十三

 わたくしの た五郎作の手紙の中に、整骨家名倉弥次兵衛の流行を詠んだ狂歌がある。 ひじ を傷めた時、親しく治療を受けて詠んだのである。「 ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき。」わたくしは余り狂歌を喜ばぬから、解事者を以て自らおるわけではないが、これを 蜀山 しょくさん らの作に比するに、 遜色 そんしょく あるを見ない。 いんてい は五郎作に文筆の才がないと思ったらしく、歌など少しは詠みしかど、文を書くには漢文を読むようなる仮名書して終れりといっているが、 かく の如きは決して公論ではない。庭は もと 漫罵 まんば へき がある。五郎作と同年に歿した 喜多静廬 きたせいろ を評して、性質風流なく、祭礼などの繁華なるを見ることを好めりといっている。風流をどんな事と心得ていたか。わたくしは強いて静廬を回護するに意があるのではないが、これを読んで、トルストイの芸術論に詩的という語の あく 解釈を挙げて、口を極めて 嘲罵 ちょうば しているのを想い起した。わたくしの敬愛する所の抽斎は、 角兵衛獅子 かくべえじし ることを好んで、 奈何 いか なる用事をも さしお いて玄関へ見に出たそうである。これが風流である。詩的である。
 五郎作は わか い時、 山本北山 やまもとほくざん 奚疑塾 けいぎじゅく にいた。 大窪天民 おおくぼてんみん は同窓であったので のち いた るまで親しく交った。 上戸 じょうご の天民は小さい徳利を かく して持っていて酒を飲んだ。北山が塾を見廻ってそれを見附けて、徳利でも小さいのを愛すると、その人物が小さくおもわれるといった。天民がこれを聞いて 大樽 おおだる を塾に持って来たことがあるそうである。 下戸 げこ の五郎作は定めて はた から見て笑っていたことであろう。
 五郎作はまた 博渉家 はくしょうか 山崎美成 やまざきよししげ や、画家の 喜多可庵 きたかあん と往来していた。中にも抽斎より わずか に四つ上の山崎は、五郎作を先輩として、 うたがい ただ すことにしていた。五郎作も珍奇の物は山崎の もと へ持って往って見せた。
 文政六年四月二十九日の事である。まだ 下谷 したや 長者町 ちょうじゃまち で薬を売っていた山崎の家へ、五郎作はわざわざ 八百屋 やおや しち のふくさというものを見せに往った。ふくさは数代 まえ 真志屋 ましや へ嫁入した しま という女の遺物である。島の 里方 さとかた 河内屋半兵衛 かわちやはんべえ といって、真志屋と同じく水戸家の 賄方 まかないかた を勤め、三人扶持を給せられていた。お七の父八百屋 市左衛門 いちざえもん はこの河内屋の 地借 じかり であった。島が屋敷奉公に出る時、 おさな なじみのお七が七寸四方ばかりの 緋縮緬 ひぢりめん のふくさに、 紅絹裏 もみうら を附けて縫ってくれた。間もなく本郷 森川宿 もりかわじゅく のお七の家は 天和 てんな 二年十二月二十八日の火事に類焼した。お七は避難の間に 情人 じょうにん 相識 そうしき になって、翌年の春家に帰った のち 、再び情人と相見ようとして放火したのだそうである。お七は天和三年三月二十九日に、十六歳で刑せられた。島は 記念 かたみ のふくさを愛蔵して、真志屋へ持って来た。そして 祐天上人 ゆうてんしょうにん から受けた 名号 みょうごう をそれに つつ んでいた。五郎作は あらた にふくさの由来を白絹に書いて縫い附けさせたので、山崎に持って来て見せたのである。
 五郎作と相似て、抽斎より長ずること僅に六歳であった好劇家は、石塚重兵衛である。寛政十一年の うまれ で、抽斎の生れた文化二年には七歳になっていた。歿したのは文久元年十二月十五日で、年を くること六十三であった。

その二十四

 石塚重兵衛の祖先は 相模国 さがみのくに 鎌倉の人である。天明中に重兵衛の曾祖父が江戸へ来て、 下谷 したや 豊住町 とよずみちょう に住んだ。 よよ 粉商 こなしょう をしているので、 芥子屋 からしや と人に呼ばれた。 まこと の屋号は鎌倉屋である。
 重兵衛も自ら庭に降り立って、芥子の うす を踏むことがあった。そこで豊住町の芥子屋という こころ で、自ら 豊芥子 ほうかいし と署した。そしてこれを以て世に行われた。その 豊亭 ほうてい と号するのも、豊住町に取ったのである。別に 集古堂 しゅうこどう という号がある。
 重兵衛に むすめ が二人あって、長女に壻を迎えたが、壻は 放蕩 ほうとう をして離別せられた。しかし後に 浅草 あさくさ 諏訪町 すわちょう の西側の角に移ってから、またその壻を呼び返していたそうである。
 重兵衛は文久元年に京都へ こうとして出たが、途中で病んで、十二月十五日に歿した。年は六十三であった。抽斎の生れた文化二年には、重兵衛は七歳の わらべ であったはずである。
 重兵衛の子孫はどうなったかわからない。数年前に 大槻如電 おおつきにょでん さんが浅草 北清島町 きたきよじまちょう 報恩寺内専念寺にある重兵衛の墓に もう でて、 忌日 きにち に墓に来るものは 河竹新七 かわたけしんしち 一人だということを寺僧に聞いた。河竹にその縁故を問うたら、自分が 黙阿弥 もくあみ の門人になったのは、豊芥子の紹介によったからだと答えたそうである。
 以上抽斎の友で年長者であったものを数えると、学者に抽斎の生れた年に十六歳であった 安積艮斎 あさかごんさい 、十歳であった小島成斎、九歳であった岡本况斎、八歳であった海保漁村がある。医者に当時十一歳であった 多紀庭 たきさいてい 、二歳であった伊沢 榛軒 しんけん がある。その他画家文晁は四十三歳、劇通寿阿弥は三十七歳、豊芥子は七歳であった。
 抽斎が はじめ て市野迷庵の門に ったのは文化六年で、師は四十五歳、 弟子 ていし は五歳であった。次いで文化十一年に医学を修めんがために、伊沢蘭軒に師事した。師が三十八歳、弟子が十歳の時である。父 允成 ただしげ 経芸 けいげい 文章を教えることにも、家業の医学を授けることにも、 すこぶ る早く意を用いたのである。想うに のち に師とすべき 狩谷斎 かりやえきさい とは、家庭でも会い、師迷庵の もと でも会って、幼い時から親しくなっていたであろう。また後に 莫逆 ばくぎゃく の友となった小島成斎も、 はや く市野の家で抽斎と同門の よしみ を結んだことであろう。抽斎がいつ池田 京水 けいすい の門を たた いたかということは今考えることが出来ぬが、恐らくはこれより のち の事であろう。
 文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽 寧親 やすちか に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は 本所 ほんじょ ふた の上屋敷であっただろう。謁見即ち 目見 めみえ は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の はじめ で、これから 月並 つきなみ 出仕 しゅっし を命ぜられるまでには七年立ち、 番入 ばんいり を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。
 抽斎が迷庵門人となってから八年目、文化十四年に記念すべき事があった。それは抽斎と 森枳園 もりきえん とが まじわり を訂した事である。枳園は後年これを 弟子入 でしいり と称していた。文化四年十一月 うまれ の枳園は十一歳になっていたから、十三歳の抽斎が十一歳の枳園を弟子に取ったことになる。
 森枳園、名は 立之 りっし 、字は 立夫 りつふ 、初め 伊織 いおり 、中ごろ 養真 ようしん 、後 養竹 ようちく と称した。維新後には立之を以て行われていた。父名は 恭忠 きょうちゅう 、通称は同じく養竹であった。恭忠は備後国福山の城主 阿部 あべ 伊勢守 正倫 まさとも おなじく 備中守 正精 まさきよ の二代に仕えた。その だん 枳園を挙げたのは、 北八町堀 きたはっちょうぼり 竹島町 たけしまちょう に住んでいた時である。 のち 『経籍訪古志』に連署すべき 二人 ににん は、ここに始て手を握ったのである。 ちなみ にいうが、枳園は単独に弟子入をしたのではなくて、同じく十一歳であった、弘前の医官 小野道瑛 おのどうえい の子 道秀 どうしゅう たもと つら ねて入門した。

その二十五

 抽斎の家督相続は文政五年八月 さく を以て 沙汰 さた せられた。これより き四年十月朔に、抽斎は 月並 つきなみ 出仕 しゅっし 仰附 おおせつ けられ、五年二月二十八日に、 御番 ごばん 見習 みならい 表医者 おもていしゃ 仰附けられ、即日見習の席に着き、三月朔に本番に った。家督相続の年には、抽斎が十八歳で、隠居した父 允成 ただしげ が五十九歳であった。抽斎は相続後 ただ ちに 一粒金丹 いちりゅうきんたん 製法の伝授を受けた。これは八月十五日の 日附 ひづけ を以てせられた。
 抽斎の相続したと同じ年同じ月の二十九日に、 相馬大作 そうまだいさく が江戸 小塚原 こづかはら で刑せられた。わたくしはこの偶然の符合のために、ここに相馬大作の事を説こうとするのではない。しかし事のついでに言って置きたい事がある。大作は津軽家の祖先が南部家の臣であったと思っていた。そこで文化二年以来津軽家の ようや く栄え行くのに たいらか ならず、 寧親 やすちか の入国の時、 みち に要撃しようとして、出羽国秋田領 白沢宿 しらさわじゅく まで出向いた。 しか るに寧親はこれを知って道を変えて帰った。大作は事 あらわ れて とら えられたということである。
 津軽家の祖先が南部家の被官であったということは、 内藤恥叟 ないとうちそう も『徳川十五代史』に書いている。しかし郷土史に くわ しい 外崎覚 とのさきかく さんは、かつて内藤に書を寄せて、この説の あやまり ただ そうとした。
 初め津軽家と南部家とは対等の家柄であった。然るに津軽家は 秀信 ひでのぶ の世に いきおい を失って、南部家の 後見 うしろみ を受けることになり、後 元信 もとのぶ 光信 みつのぶ 父子は人質として南部家に往っていたことさえある。しかし津軽家が南部家に仕えたことはいまだかつて聞かない。光信は の渋江 辰盛 しんせい を召し抱えた 信政 のぶまさ の六世の祖である。津軽家の隆興は南部家に うらみ を結ぶはずがない。この 雪冤 せつえん の文を作った外崎さんが、わたくしの渋江氏の子孫を捜し出す なかだち をしたのだから、わたくしはただこれだけの事をここに しる して置く。
 家督相続の翌年、文政六年十二月二十三日に、抽斎は十九歳で、 はじめ て妻を めと った。妻は 下総国 しもうさのくに 佐倉の城主 堀田 ほった 相模守 正愛 まさちか 家来 大目附 おおめつけ 百石 岩田十大夫 いわたじゅうたゆう むすめ 百合 ゆり として 願済 ねがいずみ になったが、実は 下野 しもつけ 安蘇郡 あそごおり 佐野 さの の浪人 尾島忠助 おじまちゅうすけ むすめ さだ である。この人は抽斎の父允成が、 子婦 よめ には貧家に成長して辛酸を めた女を迎えたいといって選んだものだそうである。夫婦の よわい は抽斎が十九歳、定が十七歳であった。
 この年に森 枳園 きえん は、これまで抽斎の弟子、即ち伊沢蘭軒の孫弟子であったのに、去って直ちに蘭軒に従学することになった。当時西語にいわゆるシニックで奇癖が多く、 朝夕 ちょうせき 好んで俳優の 身振 みぶり 声色 こわいろ を使う枳園の同窓に、今一人 塩田楊庵 しおだようあん という奇人があった。 もと 越後新潟の人で、抽斎と伊沢蘭軒との世話で、 そう 対馬守 つしまのかみ 義質 よしかた の臣塩田氏の 女壻 じょせい となった。塩田は散歩するに友を いざな わぬので、友が ひそか に跡に附いて行って見ると、竹の つえ を指の腹に立てて、本郷 追分 おいわけ へん 徘徊 はいかい していたそうである。伊沢の門下で枳園楊庵の二人は一双の奇癖家として遇せられていた。声色 つかい 軽業師 かるわざし も、共に十七歳の諸生であった。
 抽斎の母 ぬい は、 子婦 よめ を迎えてから半年立って、文政七年七月朔に剃髪して 寿松 じゅしょう と称した。
 翌文政八年三月 みそか には、当時抽斎の住んでいた元柳原町六丁目の家が 半焼 はんやけ になった。この年津軽家には 代替 だいがわり があった。寧親が致仕して、 大隅守 おおすみのかみ 信順 のぶゆき が封を いだのである。時に信順は二十六歳、即ち抽斎より長ずること五歳であった。
 次の文政九年は抽斎が種々の事に 遭逢 そうほう した年である。先ず六月二十八日に姉 須磨 すま が二十五歳で亡くなった。それから八月十四日に、師市野迷庵が六十二歳で歿した。最後に十二月五日に、嫡子 恒善 つねよし が生れた。
 須磨は前にいった とおり 、飯田 良清 よしきよ というものの さい になっていたが、この良清は抽斎の父允成の実父 稲垣清蔵 いながきせいぞう の孫である。清蔵の子が 大矢清兵衛 おおやせいべえ 、清兵衛の子が飯田良清である。須磨の夫が飯田氏を冒したのは、幕府の 家人株 けにんかぶ を買ったのであるから、夫の父が大矢氏を冒したのも、恐らくは株として買ったのであろう。
 迷庵の死は抽斎をして狩谷斎に師事せしむる動機をなしたらしいから、抽斎が斎の門に ったのも、この頃の事であっただろう。迷庵の跡は子 光寿 こうじゅ いだ。

その二十六

 文政十二年もまた抽斎のために事多き年であった。三月十七日には師伊沢蘭軒が五十三歳で歿した。二十八日には抽斎が 近習医者介 きんじゅいしゃすけ を仰附けられた。六月十四日には母寿松が五十五歳で亡くなった。十一月十一日には つま 定が離別せられた。十二月十五日には 二人目 ににんめ の妻同藩留守居役百石 比良野文蔵 ひらのぶんぞう むすめ 威能 いの が二十四歳で きた り嫁した。抽斎はこの年二十五歳であった。
 わたくしはここに抽斎の師伊沢氏の事、それから前後の配偶定と威能との事を附け加えたい。亡くなった母については別に言うべき事がない。
 抽斎と伊沢氏との まじわり は、蘭軒の歿した のち も、少しも衰えなかった。蘭軒の嫡子 榛軒 しんけん が抽斎の親しい友で、抽斎より長ずること一歳であったことは前に言った。榛軒の弟 柏軒 はくけん 、通称 磐安 ばんあん は文化七年に生れた。 うしな った時、兄は二十六歳、弟は二十歳であった。抽斎は柏軒を愛して、 おのれ の弟の如くに待遇した。柏軒は狩谷斎の むすめ たか めと った。その次男が いわお 、三男が今の歯科医 信平 しんぺい さんである。
 抽斎の最初の妻定が離別せられたのは 何故 なにゆえ つまびらか にすることが出来ない。しかし渋江の家で、貧家の むすめ なら、こういう性質を具えているだろうと予期していた性質を、定は不幸にして具えていなかったかも知れない。
 定に代って渋江の家に来た抽斎の二人目の妻威能は、 よよ 要職におる比良野氏の当主文蔵を父に持っていた。貧家の じょ に懲りて迎えた 子婦 よめ であろう。そしてこの子婦は短命ではあったが、夫の家では人々に よろこ ばれていたらしい。何故そういうかというに、 のち 威能が亡くなり、次の三人目の妻がまた亡くなって、四人目の妻が商家から迎えられる時、威能の父文蔵は喜んで仮親になったからである。渋江氏と比良野氏との 交誼 こうぎ が、後に至るまで かく の如くに久しく かわ らずにいたのを見ても、 婦壻 よめむこ の間にヂソナンスのなかったことが思い遣られる。
 比良野氏は武士 気質 かたぎ の家であった。文蔵の父、威能の祖父であった 助太郎 すけたろう 貞彦 さだひこ は文事と武備とを あわ せ有した豪傑の士である。 外浜 がいひん また 嶺雪 れいせつ と号し、安永五年に江戸藩邸の教授に挙げられた。 を善くして、「 外浜画巻 そとがはまがかん 」及「 善知鳥 うとう 画軸」がある。剣術は群を抜いていた。壮年の頃 村正 むらまさ 作の とう びて、本所 割下水 わりげすい から 大川端 おおかわばた あたり までの間を 彷徨 ほうこう して 辻斬 つじぎり をした。千人斬ろうと思い立ったのだそうである。抽斎はこの事を聞くに及んで、歎息して まなかった。そして自分は医薬を以て千人を救おうという がん おこ した。
 天保二年、抽斎が二十七歳の時、八月六日に長女 いと が生れ、十月二日に妻威能が歿した。年は二十六で、 とつ いでから僅に三年目である。十二月四日に、備後国福山の城主阿部伊予守 正寧 まさやす の医官 岡西栄玄 おかにしえいげん じょ 徳が抽斎に嫁した。この年八月十五日に、抽斎の父允成は隠居料三人扶持を賜わった。これは従来 寧親 やすちか 信順 のぶゆき 二公にかわるがわる勤仕していたのに、六月からは かね 岩城隆喜 いわきたかひろ しつ 、信順の姉もと姫に、また八月からは信順の室 欽姫 かねひめ に伺候することになったからであろう。
 この時抽斎の家族は父允成、妻岡西氏徳、 尾島 おじま しゅつ の嫡子 恒善 つねよし 、比良野氏 しゅつ の長女純の四人となっていた。抽斎が三人目の妻徳を めと るに至ったのは、徳の兄岡西 玄亭 げんてい が抽斎と同じく蘭軒の門下におって、共に 文字 もんじ まじわり を訂していたからである。
 天保四年四月六日に、抽斎は藩主信順に したが って江戸を発し、始めて弘前に往った。江戸に かえ ったのは、翌五年十一月十五日である。この留守に前藩主寧親は六十九歳で卒した。抽斎の父允成が四月 さく 二人 ににん 扶持の加増を受けて、隠居料五人扶持にせられたのは、特に寧親に侍せしめられたためであろう。これは抽斎が二十九歳から三十歳に至る間の事である。
 抽斎の友森 枳園 きえん が佐々木氏 かつ を娶って、始めて家庭を作ったのも天保四年で、抽斎が弘前に往った時である。これより先枳園は文政四年に を喪って、十五歳で形式的の家督相続をなした。蘭軒に従学する前二年の事である。

その二十七

 天保六年 うるう 七月四日に、抽斎は師 狩谷斎 かりやえきさい を喪なった。六十一歳で亡くなったのである。十一月五日に、次男 優善 やすよし が生れた。後に名を ゆたか と改めた人である。この年抽斎は三十一歳になった。
  斎の のち 懐之 かいし あざな 少卿 しょうけい 、通称は 三平 さんぺい いだ。抽斎の家族は父允成、妻徳、嫡男 恒善 つねよし 、長女 いと 、次男優善の五人になった。
 同じ年に森 枳園 きえん の家でも嫡子 養真 ようしん が生れた。
 天保七年三月二十一日に、抽斎は 近習詰 きんじゅづめ に進んだ。これまでは近習格であったのである。十一月十四日に、師池田 京水 けいすい が五十一歳で歿した。この年抽斎は三十二歳になった。
 京水には二人の 男子 なんし があった。長を 瑞長 ずいちょう といって、これが家業を いだ。次を 全安 ぜんあん といって、伊沢家の女壻になった。榛軒の むすめ かえに配せられたのである。後に全安は自立して本郷 弓町 ゆみちょう に住んだ。
 天保八年正月十五日に、抽斎の長子恒善が始て藩主 信順 のぶゆき に謁した。年 はじめ て十二である。七月十二日に、抽斎は信順に随って弘前に往った。十月二十六日に、父允成が七十四歳で歿した。この年抽斎は三十三歳になった。
 初め抽斎は酒を飲まなかった。然るにこの年藩主がいわゆる 詰越 つめこし をすることになった。例に って翌年江戸に帰らずに、 二冬 ふたふゆ を弘前で過すことになったのである。そこで冬になる前に、種々の防寒法を工夫して、 ぶた の子を取り寄せて飼養しなどした。そのうち冬が来て、江戸で父の病むのを聞いても、帰省することが出来ぬので、抽斎は酒を飲んで もん った。抽斎が酒を飲み、獣肉を くら うようになったのはこの時が始である。
 しかし抽斎は生涯 煙草 タバコ だけは まずにしまった。允成の直系卑属は、今の保さんなどに至るまで、一人も煙草を喫まぬのだそうである。但し抽斎の次男優善は破格であった。
 抽斎のまだ江戸を発せぬ前の事である。 徒士町 かちまち の池田の家で、当主 瑞長 ずいちょう が父京水の例に なら って、春の はじめ 発会式 ほっかいしき ということをした。京水は 毎年 まいねん これを催して、門人を つど えたのであった。然るに 今年 ことし 抽斎が往って見ると、名は発会式と称しながら、趣は全く前日に ことな っていて、京水時代の静粛は あと だに とど めなかった。芸者が来て しゃく をしている。森枳園が声色を使っている。抽斎は しばら く黙して一座の光景を ていたが、遂に かたち を改めて主客の非礼を責めた。瑞長は大いに じて、すぐに芸者に いとま を遣ったそうである。
 引き続いて二月に、森枳園の家に奇怪な事件が生じた。枳園は阿部家を われて、祖母、母、妻 かつ 、生れて三歳の せがれ 養真の四人を伴って 夜逃 よにげ をしたのである。後に枳園の自ら選んだ 寿蔵碑 じゅぞうひ には「有故失禄」と書してあるが、その故は何かというと、実に悲惨でもあり、また 滑稽 こっけい でもあった。
 枳園は好劇家であった。単に好劇というだけなら、抽斎も同じ事である。しかし抽斎は俳優の を、 観棚 かんぽう から望み見て たのし むに過ぎない。枳園は自らその 科白 かはく を学んだ。科白を学んで足らず、遂に舞台に登って ※子 つけ

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[#「木+邦」、87-8]
を撃った。後にはいわゆる 相中 あいちゅう あいだ に混じて、 並大名 ならびだいみょう などに ふん し、また注進などの役をも勤めた。
 或日阿部家の女中が宿に さが って芝居を くと、ふと登場している俳優の一人が 養竹 ようちく さんに似ているのに気が附いた。そう思って、と こう見するうちに、女中はそれが養竹さんに相違ないと めた。そして やしき に帰ってから、これを 傍輩 ほうばい に語った。 もと より一の 可笑 おか しい事として語ったので、初より枳園に危害を及ぼそうとは思わなかったのである。
 さてこの奇談が阿部邸の 奥表 おくおもて 伝播 でんぱ して見ると、 上役 うわやく はこれを て置かれぬ事と認めた。そこでいよいよ君侯に もう して禄を うば うということになってしまった。

その二十八

  枳園 きえん は俳優に して登場した罪によって、阿部家の禄を失って、 なが いとま になった。後に抽斎の四人目の妻となるべき山内氏 五百 いお の姉は、阿部家の奥に仕えて、名を 金吾 きんご と呼ばれ、枳園をも っていたが、事件の おこ る三、四年 ぜん に暇を取ったので、当時の阿部家における細かい事情を知らなかった。
 永の暇になるまでには、相応に評議もあったことであろう。友人の中には、枳園を救おうとした人もあったことであろう。しかし枳園は平生 細節 さいせつ かかわ らぬ人なので、諸方面に対して、世にいう不義理が重なっていた。中にも一、二件の筆紙に のぼ すべからざるものもある。救おうとした人も、これらの 障礙 しょうがい のために、その志を遂げることが出来なかったらしい。
 枳園は江戸で しばら く浪人生活をしていたが、とうとう負債のために、家族を引き連れて 夜逃 よにげ をした。恐らくはこの最後の策に づることをば、抽斎にも打明けなかっただろう。それは 面目 めんぼく がなかったからである。 けっく の道を しん に書していた抽斎をさえ、度々忍びがたき目に わせていたからである。
 枳園は相模国をさして逃げた。これは当時三十一歳であった枳園には、もう 幾人 いくたり かの門人があって、その うち に相模の人がいたのをたよって逃げたのである。この 落魄 らくたく 中の くわ しい経歴は、わたくしにはわからない。『 桂川 けいせん 詩集』、『 遊相医話 ゆうそういわ 』などという、当時の著述を見たらわかるかも知れぬが、わたくしはまだ見るに及ばない。 寿蔵碑 じゅぞうひ には、 浦賀 うらが 大磯 おおいそ 大山 おおやま 日向 ひなた 津久井 つくい 県の地名が挙げてある。大山は今の大山 まち 、日向は今の 高部屋 たかべや 村で、どちらも大磯と同じ 中郡 なかごおり である。津久井県は今の津久井郡で相模川がこれを貫流している。 桂川 かつらがわ はこの川の上流である。
 後に枳園の語った所によると、江戸を立つ時、懐中には僅に八百文の銭があったのだそうである。この銭は箱根の 湯本 ゆもと に着くと、もう つか い尽していた。そこで枳園はとりあえず 按摩 あんま をした。 上下 かみしも 十六文の しょせん るも、なお むにまさったのである。 ただ に按摩のみではない。枳園は手当り次第になんでもした。「 無論内外二科 ないがいにかをろんずるなく 或為収生 あるいはしゅうせいをなし 或為整骨 あるいはせいこつをなし 至于牛馬狗之疾 ぎゅうばけいくのしつにいたるまで 来乞治者 きたりてちをこうものに 莫不施術 せじゅつせざるはなし 」と、自記の文にいってある。 収生 しゅうせい はとりあげである。整骨は骨つぎである。獣医の 縄張内 なわばりない にも立ち入った。医者の歯を治療するのをだに拒もうとする今の人には、想像することも出来ぬ事である。
 老いたる祖母は浦賀で 困厄 こんやく の間に歿した。それでも跡に母と妻と子とがある。自己を あわ せて四人の口を、 かく の如き手段で のり しなくてはならなかった。しかし枳園の性格から推せば、この間に処して意気 沮喪 そそう することもなく、なお幾分のボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。
 枳園はようよう大磯に落ち着いた。門人が 名主 なぬし をしていて、枳園を江戸の大先生として 吹聴 ふいちょう し、ここに開業の はこび に至ったのである。幾ばくもなくして病家の かず えた。 金帛 きんはく を以て謝することの出来ぬものも、米穀 菜蔬 さいそ おく って 庖厨 ほうちゅう にぎわ した。後には遠方から かご を以て迎えられることもある。馬を以て しょう ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、 なか 三浦 みうら 両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
 抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日 忌明 きあき と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主 信順 のぶゆき したが って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
 この年五月十五日に、津軽家に 代替 だいがわり があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に うつ り、同じ よわい 順承 ゆきつぐ 小津軽 こつがる から って封を いだ。信順は すこぶ る華美を好み、 やや もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を 馴致 じゅんち し、遂に引退したのだそうである。
 抽斎はこれから隠居信順 づき にせられて、平日は柳島の やかた に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。

その二十九

 天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素 を鑑賞することについては、なにくれとなく おしえ を乞い、また 古器物 こきぶつ 本艸 ほんぞう の参考に供すべき動植物を するために、筆の 使方 つかいかた 顔料 がんりょう 解方 ときかた などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を 両国 りょうごく 万八楼 まんはちろう で催したのを 名残 なごり にして、今年 亡人 なきひと の数に ったのである。跡は文化九年 うまれ で二十九歳になる 文二 ぶんじ いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻 阿佐 あさ は、もう五年前に夫に さきだ って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
 天保十二年には、岡西氏 とく 二女 じじょ よし を生んだが、好は早世した。 じゅん 正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男 八三郎 はちさぶろう が生れたが、これも 夭折 ようせつ した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する はじめ において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、 たちま ち来りち去った むすめ 好の名は あら わすことが出来なかった。
 天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
 この年に 躋寿館 せいじゅかん で書を講じて、陪臣 町医 まちい に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て あらた に講師が任用せられた。 はじめ 館には 都講 とこう 、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時 多紀藍渓 たきらんけい 時代に 百日課 ひゃくにちか の制を いて、医学も 経学 けいがく も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に かせたのである。百日課は四年間で んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
 弘化元年は抽斎のために、一大転機を もたら した。社会においては幕府の 直参 じきさん になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
 この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に 老中 ろうじゅう 土井 どい 大炊頭 おおいのかみ 利位 としつら を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期 登城 とじょう を命ぜられた。年始、 八朔 はっさく 、五節句、 月並 つきなみ の礼に江戸城に くことになったのである。十一月六日に神田 紺屋町 こんやちょう 鉄物問屋 かなものどいや 山内忠兵衛妹 五百 いお が来り嫁した。 表向 おもてむき は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹 かざし として届けられた。十二月十日に幕府から 白銀 はくぎん 五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女 いと が幕臣 馬場玄玖 ばばげんきゅう に嫁した。時に年十六である。
 抽斎の岡西氏徳を めと ったのは、その兄玄亭が 相貌 そうぼう も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに 伉儷 こうれい をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の 褊狭 へんきょう な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
 最初の妻 さだ は貧家の むすめ の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父 允成 ただしげ が或時、 おれ の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど いや とは思わなかった。 二人 ににん 目の妻 威能 いの 怜悧 れいり で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。

その三十

 克己を忘れたことのない抽斎は、徳を しか り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
 さて抽斎が弘前にいる間、江戸の 便 たより があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、 ほとん ど日記のように くわし く書いたのである。抽斎は初め 数行 すうこう を読んで、 ただ ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
 允成は抽斎の徳に したし まぬのを見て、前途のために あやぶ んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて 手習 てならい をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに もと づいて文案を作って、徳に筆を らせ、 家内 かない の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
 抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
 二年近い旅から帰って、抽斎は つと めて徳に親んで、父の心を やすん ぜようとした。それから二年立って 優善 やすよし が生れた。
  いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年 淹留 えんりゅう した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて よし が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
 そして徳の亡くなった跡へ山内氏 五百 いお が来ることになった。抽斎の身分は徳が き、五百が きた る間に変って、幕府の 直参 じきさん になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は にわか にその うち に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも しその適材であったのは、抽斎の さいわい である。
 五百の父山内忠兵衛は名を 豊覚 ほうかく といった。神田紺屋町に 鉄物問屋 かなものどいや を出して、屋号を日野屋といい、商標には 井桁 いげた の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人 墨客 ぼっかく まじわ り、財を ててこれが保護者となった。
 忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女 やす 、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた 金吾 きんご である。
 五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の むすめ にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、 経学 けいがく などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
 忠兵衛が かく の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内 但馬守 たじまのかみ 盛豊 もりとよ の子、 対馬守 つしまのかみ 一豊 かずとよ の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、 三葉柏 みつばがしわ の紋を附け、名のりに とよ の字を用いることになっている。今わたくしの 手近 てぢか にある系図には、一豊の弟は 織田信長 おだのぶなが に仕えた 修理亮 しゅりのすけ 康豊 やすとよ と、 武田信玄 たけだしんげん に仕えた 法眼 ほうげん 日泰 にったい との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの すえ であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに にわか さだ めることが出来ない。

その三十一

  五百 いお は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。 徳川家斉 とくがわいえなり が五十四、五歳になった時である。 御台所 みだいどころ 近衛経煕 このえけいき の養女 茂姫 しげひめ である。
 五百は 姉小路 あねこうじ という奥女中の 部屋子 へやこ であったという。姉小路というからには、 上臈 じょうろう であっただろう。 しか らば 長局 ながつぼね の南一の かわ に、五百はいたはずである。五百らが 夕方 ゆうかた になると、長い廊下を通って締めに かなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという うわさ があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、 たれ くは見ぬが、男の きもの を着ていて、額に つの えている。それが つぶて を投げ掛けたり、灰を き掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、 たがい に譲り合った。五百は おさな くても胆力があり、武芸の 稽古 けいこ をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに った。
 暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は 片頬 かたほ に灰を かぶ った。五百には 咄嗟 とっさ あいだ に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の 悪作劇 いたずら らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて つか まえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を ゆる めなかった。そのうちに外の 女子 おなご たちが せ附けた。
 鬼は降伏して被っていた 鬼面 おにめん を脱いだ。 銀之助 ぎんのすけ 様と とな えていた若者で、穉くて 美作国 みまさかのくに 西北条郡 にしほうじょうごおり 津山 つやま の城主 松平家 まつだいらけ 壻入 むこいり した人であったそうである。
 津山の城主松平越後守 斉孝 なりたか の次女 かち かた もと へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男 参河守 みかわのかみ 斉民 なりたみ である。
 斉民は 小字 おさなな を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお 八重 やえ かた である。十四年七月二十二日に、 御台所 みだいどころ の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に いっ た。四歳の 壻君 むこぎみ である。文政二年正月二十八日には新居落成してそれに移った。七年三月二十八日には十一歳で元服して、 じゅ 四位 じょう 侍従参河守斉民となった。九年十二月には十三歳で少将にせられた。人と成って後 確堂公 かくどうこう と呼ばれたのはこの人で、 成島柳北 なるしまりゅうほく の碑の 篆額 てんがく はその ふで である。そうして見ると、この人が鬼になって五百に とら えられたのは、従四位上侍従になってから のち で、ただ少将であったか、なかったかが疑問である。津山邸に やかた はあっても、本丸に 寝泊 ねとまり して、 小字 おさなな の銀之助を呼ばれていたものと見える。年は五百より二つ上である。
 五百の本丸を さが ったのは 何時 いつ だかわからぬが、十五歳の時にはもう 藤堂家 とうどうけ に奉公していた。五百が十五歳になったのは、天保元年である。もし十四歳で本丸を下ったとすると、文政十二年に下ったことになる。
 五百は藤堂家に奉公するまでには、二十幾家という大名の屋敷を 目見 めみえ をして まわ ったそうである。その頃も女中の目見は、 きみ しん えら ばず、臣君を択ぶというようになっていたと見えて、五百が かく の如くに諸家の奥へ のぞ きに往ったのは、 到処 いたるところ しりぞ けられたのではなく、自分が仕うることを がえん ぜなかったのだそうである。
 しかし二十余家を 経廻 へめぐ るうちに、ただ一カ所だけ、五百が仕えようと思った家があった。それが偶然にも土佐国高知の城主松平土佐守 豊資 とよすけ の家であった。即ち五百と祖先を同じうする山内家である。
 五百が 鍛冶橋内 かじばしうち の上屋敷へ連れられて行くと、外の家と同じような考試に逢った。それは手跡、和歌、 音曲 おんぎょく たしなみ ため されるのである。試官は老女である。先ず 硯箱 すずりばこ と色紙とを持ち出して、老女が「これに一つお そめ を」という。五百は自作の歌を書いたので、同時に和歌の吟味も済んだ。それから 常磐津 ときわず を一曲語らせられた。これらの事は他家と何の こと なることもなかったが、女中が ことごと 綿服 めんぷく であったのが、五百の目に留まった。二十四万二千石の大名の奥の質素なのを、五百は喜んだ。そしてすぐにこの家に奉公したいと決心した。奥方は松平 上総介 かずさのすけ 斉政 なりまさ むすめ である。
 この時老女がふと 五百 いお の衣類に 三葉柏 みつばがしわ の紋の附いているのを見附けた。

その三十二

 山内家の老女は五百に、どうして御当家の紋と同じ紋を、衣類に附けているかと問うた。
 五百は自分の家が山内氏で、昔から 三葉柏 みつばがしわ の紋を附けていると答えた。
 老女は しばら く案じてからいった。御用に立ちそうな人と思われるから、お 召抱 めしかかえ になるように申し立てようと思う。しかしその紋は当分御遠慮申すが好かろう。 由緒 ゆいしょ のあることであろうから、追ってお ゆるし を願うことも出来ようといった。
 五百は家に帰って、父に当分紋を隠して奉公することの可否を相談した。しかし父忠兵衛は即座に反対した。姓名だの紋章だのは、 先祖 せんそ から けて子孫に伝える大切なものである。 みだり かく したり あらた めたりすべきものではない。そんな事をしなくては出来ぬ奉公なら、せぬが いといったのである。
 五百が山内家をことわって、次に 目見 めみえ に往ったのが、 向柳原 むこうやなぎはら の藤堂家の上屋敷であった。例の考試は首尾好く済んだ。別格を以て重く用いても好いといって、懇望せられたので、諸家を まわ 草臥 くたび れた五百は、この家に仕えることに めた。
 五百はすぐに 中臈 ちゅうろう にせられて、殿様 づき さだ まり、同時に奥方 祐筆 ゆうひつ を兼ねた。殿様は伊勢国 安濃郡 あのごおり 津の城主、三十二万三千九百五十石の藤堂 和泉守 いずみのかみ 高猷 たかゆき である。官位は じゅ 四位侍従になっていた。奥方は藤堂 主殿頭 とものかみ たかたけ むすめ である。
 この時五百はまだ十五歳であったから、尋常ならば 女小姓 おんなこしょう に取らるべきであった。それが一躍して中臈を ち得たのは破格である。女小姓は茶、 烟草 タバコ 手水 ちょうず などの用を弁ずるもので、今いう 小間使 こまづかい である。中臈は奥方附であると、奥方の身辺に奉仕して、種々の用事を弁ずるものである。幕府の慣例ではそれが転じて将軍附となると、 しょう になったと見ても い。しかし大名の家では奥方に仕えずに殿様に仕えるというに過ぎない。祐筆は日記を附けたり、手紙を書いたりする役である。
 五百は呼名は 挿頭 かざし と附けられた。後に抽斎に嫁することに極まって、比良野氏の娘分にせられた時、 かざし の名を以て届けられたのは、これを襲用したのである。さて暫く勤めているうちに、武芸の たしなみ のあることを人に知られて、 男之助 おとこのすけ という 綽名 あだな が附いた。
 藤堂家でも他家と同じように、中臈は 三室 さんしつ 位に分たれた部屋に住んで、女 二人 ににん を使った。食事は自弁であった。それに他家では年給三十両内外であるのに、藤堂家では九両であった。当時の武家奉公をする女は、多く俸銭を得ようと思っていたのではない。今の女が女学校に くように、修行をしに往くのである。風儀の好さそうな家を択んで仕えようとした 五百 いお なぞには、給料の多寡は はじめ より問う所でなかった。
 修行は金を使ってする わざ で、金を取る道は修行ではない。五百なぞも屋敷住いをして、役人に物を献じ、 傍輩 ほうばい 饗応 きょうおう し、衣服調度を 調 ととの え、 下女 げじょ を使って暮すには、父忠兵衛は とし に四百両を費したそうである。給料は三十両 もら っても九両貰っても、格別の利害を感ぜなかったはずである。
 五百は藤堂家で信任せられた。勤仕いまだ一年に満たぬのに、天保二年の元日には中臈 がしら に進められた。中臈頭はただ一人しか置かれぬ役で、通例二十四、五歳の女が勤める。それを五百は十六歳で勤めることになった。

その三十三

  五百 いお は藤堂家に十年間奉公した。そして天保十年に二十四歳で、父忠兵衛の病気のために いとま を取った。後に夫となるべき抽斎は五百が本丸にいた間、尾島氏 さだ を妻とし、藤堂家にいた間、比良野氏 威能 いの 、岡西氏 とく 相踵 あいつ いで妻としていたのである。
 五百の藤堂家を辞した年は、父忠兵衛の歿した年である。しかし奉公を めた頃は、忠兵衛はまだ むすめ を呼び寄せるほどの病気をしてはいなかった。 いとま を取ったのは、忠兵衛が女を旅に出すことを好まなかったためである。この年に藤堂 高猷 たかゆき 夫妻は伊勢参宮をすることになっていて、五百は供の うち に加えられていた。忠兵衛は高猷の江戸を立つに さきだ って、五百を家に かえ らしめたのである。
 五百の帰った紺屋町の家には、父忠兵衛の外、当時五十歳の忠兵衛 しょう まき 、二十八歳の兄栄次郎がいた。二十五歳の姉 やす は四年前に阿部家を辞して、 横山町 よこやまちょう 塗物問屋 ぬりものどいや 長尾宗右衛門 ながおそうえもん に嫁していた。宗右衛門は安がためには、ただ一つ年上の夫であった。
 忠兵衛の子がまだ皆 いとけな く、栄次郎六歳、安三蔵、 五百 いお 二歳の時、 麹町 こうじまち の紙問屋 山一 やまいち の女で松平 摂津守 せっつのかみ 義建 ぎけん の屋敷に奉公したことのある忠兵衛の妻は亡くなったので、跡には享和三年に十四歳で日野屋へ奉公に来た牧が、妾になっていたのである。
 忠兵衛は晩年に、気が弱くなっていた。牧は人の かみ に立って指図をするような女ではなかった。然るに五百が藤堂家から帰った時、日野屋では困難な問題が生じて 全家 ぜんか こうべ を悩ませていた。それは五百の兄栄次郎の身の上である。
 栄次郎は初め抽斎に学んでいたが、 いで 昌平黌 しょうへいこう に通うことになった。安の夫になった宗右衛門は、同じ学校の諸生仲間で、しかもこの 二人 ふたり だけが 許多 あまた の士人の間に はさ まっていた商家の子であった。 たと えていって見れば、今の人が華族でなくて学習院に っているようなものである。
  五百 いお が藤堂家に仕えていた間に、栄次郎は学校生活に たいらか ならずして、 吉原通 よしわらがよい をしはじめた。 相方 あいかた 山口巴 やまぐちともえ つかさ という女であった。五百が屋敷から さが る二年前に、栄次郎は 深入 ふかいり をして、とうとう司の 身受 みうけ をするということになったことがある。忠兵衛はこれを聞き知って、勘当しようとした。しかし 救解 きゅうかい のために五百が屋敷から来たので、 沙汰罷 さたやみ になった。
 然るに五百が藤堂家を辞して帰った時、この問題が再燃していた。
 栄次郎は妹の力に って勘当を免れ、暫く謹慎して大門を くぐ らずにいた。その ひま に司を 田舎大尽 いなかだいじん が受け出した。栄次郎は 鬱症 うつしょう になった。忠兵衛は心弱くも、人に栄次郎を吉原へ連れて かせた。この時司の 禿 かぶろ であった娘が、 浜照 はまてる という名で、来月 突出 つきだし になることになっていた。栄次郎は浜照の客になって、前よりも さかん あそび をしはじめた。忠兵衛はまた勘当すると言い出したが、これと同時に病気になった。栄次郎もさすがに驚いて、暫く吉原へ往かずにいた。これが五百の帰った時の現状である。
 この時に当って、まさに くつがえ らんとする日野屋の 世帯 せたい を支持して行こうというものが、 あらた に屋敷奉公を てて帰った五百の外になかったことは、想像するに難くはあるまい。姉安は柔和に過ぎて決断なく、その夫宗右衛門は早世した兄の家業を いでから、酒を飲んで遊んでいて、自分の産を することをさえ忘れていたのである。

その三十四

  五百 いお は父忠兵衛をいたわり慰め、兄栄次郎を いさ め励まして、風浪に もてあそ ばれている日野屋という船の かじ を取った。そして忠兵衛の異母兄で十人衆を勤めた 大孫 おおまご ぼう を証人に立てて、兄をして廃嫡を免れしめた。
 忠兵衛は十二月七日に歿した。日野屋の財産は 一旦 いったん 忠兵衛の意志に って五百の名に書き えられたが、五百は直ちにこれを兄に返した。
 五百は男子と同じような教育を受けていた。藤堂家で武芸のために男之助と呼ばれた反面には、世間で文学のために 新少納言 しんしょうなごん と呼ばれたという一面がある。同じ頃 狩谷斎 かりやえきさい むすめ たか に少納言の称があったので、五百はこれに むか えてかく呼ばれたのである。
 五百の師として つか えた人には、経学に佐藤一斎、 筆札 ひっさつ 生方鼎斎 うぶかたていさい 、絵画に谷文晁、和歌に 前田夏蔭 まえだなつかげ があるそうである。十一、二歳の時 はや く奉公に出たのであるから、教を受けるには、宿に下る度ごとに講釈を くとか、手本を貰って習って清書を見せに往くとか、兼題の歌を詠んで直してもらうとかいう 稽古 けいこ 為方 しかた であっただろう。
 師匠の うち で最も老年であったのは文晁、次は一斎、次は夏蔭、最も少壮であったのが鼎斎である。年齢を推算するに、五百の生れた文化十三年には、文晁が五十四、一斎が四十五、夏蔭が二十四、鼎斎が十八になっていた。
 文晁は前にいったとおり、天保十一年に七十八で歿した。五百が二十五の時である。一斎は安政六年九月二十四日に八十八で歿した。五百が四十四の時である。夏蔭は 元治 げんじ 元年八月二十六日に七十二で歿した。五百が四十九の時である。鼎斎は安政三年正月七日に五十八で歿した。五百が四十一の時である。鼎斎は画家 福田半香 ふくだはんこう 村松町 むらまつちょう の家へ年始の礼に往って酒に い、水戸の剣客某と口論をし出して、其の門人に斬られたのである。
 五百は鼎斎を師とした外に、 近衛予楽院 このえよらくいん 橘千蔭 たちばなのちかげ との筆跡を 臨模 りんも したことがあるそうである。予楽院 家煕 いえひろ 元文 げんぶん 元年に こう じた。五百の生れる前八十年である。 芳宜園千蔭 はぎぞのちかげ は身分が町奉行 与力 よりき で、加藤 又左衛門 またざえもん と称し、文化五年に歿した。五百の生れる前八年である。
 五百は藤堂家を下ってから五年目に渋江氏に嫁した。 おさな い時から親しい人を夫にするのではあるが、五百の身に取っては、自分が抽斎に嫁し得るというポッシビリテエの生じたのは、二月に岡西氏 とく が亡くなってから のち の事である。常に往来していた渋江の家であるから、五百は徳の亡くなった二月から、自分の嫁して来る十一月までの間にも、抽斎を うたことがある。未婚男女の交際とか自由結婚とかいう問題は、当時の人は夢にだに知らなかった。立派な教育のある 二人 ふたり が、男は四十歳、女は二十九歳で、多く年を けみ した友人関係を棄てて、 にわか に夫婦関係に ったのである。当時においては、 醒覚 せいかく せる 二人 ににん の間に、 かく の如く婚約が整ったということは、 たえ てなくして わずか にあるものといって好かろう。
 わたくしは 鰥夫 おとこやもめ になった抽斎の もと へ、五百の とぶら い来た時の緊張したシチュアションを想像する。そして たもつ さんの語った 豊芥子 ほうかいし の逸事を おも い起して 可笑 おか しく思う。五百の渋江へ嫁入する前であった。或日五百が来て抽斎と話をしていると、そこへ豊芥子が竹の 皮包 かわつつみ を持って来合せた。そして包を開いて抽斎に すし すす め、自分も食い、五百に是非食えといった。後に五百は、あの時ほど困ったことはないといったそうである。

その三十五

  五百 いお は抽斎に嫁するに当って、比良野文蔵の養女になった。文蔵の子で 目附役 めつけやく になっていた 貞固 さだかた は文化九年 うまれ で、五百の兄栄次郎と同年であったから、五百はその妹になったのである。然るに貞固は姉 威能 いの の跡に直る五百だからというので、五百を姉と呼ぶことにした。貞固の通称は祖父と同じ助太郎である。
 文蔵は 仮親 かりおや になるからは、 まこと の親と余り違わぬ 情誼 じょうぎ がありたいといって、渋江氏へ往く三カ月ばかり前に、五百を 我家 わがいえ に引き取った。そして自分の身辺におらせて、煙草を めさせ、茶を立てさせ、酒の酌をさせなどした。
 助太郎は 武張 ぶば った男で、髪を 糸鬢 いとびん に結い、 黒紬 くろつむぎ の紋附を着ていた。そしてもう 藍原氏 あいばらうじ かなという嫁があった。初め助太郎とかなとは、まだかなが藍原 右衛門 うえもん むすめ であった時、 穴隙 けつげき って 相見 あいまみ えたために、二人は 親々 おやおや の勘当を受けて、 裏店 うらだな の世帯を持った。しかしどちらも 可哀 かわい い子であったので、間もなくわびが かな って助太郎は表立ってかなを妻に迎えたのである。
 五百が抽斎に とつ いだ時の支度は立派であった。日野屋の資産は兄栄次郎の 遊蕩 ゆうとう によって かたぶ き掛かってはいたが、先代忠兵衛が五百に武家奉公をさせるために 為向 しむ けて置いた 首飾 しゅしょく 、衣服、調度だけでも、人の目を驚かすに足るものがあった。今の世の人も奉公上りには支度があるという。しかしそれは 賜物 たまわりもの をいうのである。当時の 女子 おなご はこれに反して、 おも に親の為向けた物を持っていたのである。五年の後に夫が将軍に謁した時、五百はこの支度の一部を って、夫の急を救うことを得た。またこれに さきだ つこと一年に、森 枳園 きえん が江戸に帰った時も、五百はこの支度の他の一部を贈って、枳園の妻をして面目を保たしめた。枳園の妻は 後々 のちのち までも、衣服を欲するごとに五百に請うので、お かつ さんはわたしの支度を無尽蔵だと思っているらしいといって、五百が歎息したことがある。
 五百の来り嫁した時、抽斎の家族は主人夫婦、長男 恒善 つねよし 、長女 いと 、次男 優善 やすよし の五人であったが、間もなく純は でて馬場氏の となった。
 弘化二年から嘉水元年までの間、抽斎が四十一歳から四十四歳までの間には、渋江氏の家庭に特筆すべき事が すくな かった。五百の生んだ子には、弘化二年十一月二十六日 うまれ の三女 とう 、同三年十月十九日生れの四男 幻香 げんこう 、同四年十月八日生れの四女 くが がある。四男は死んで生れたので、 幻香水子 げんこうすいし はその 法諡 ほうし である。陸は今の 杵屋勝久 きねやかつひさ さんである。嘉永元年十二月二十八日には、長男 恒善 つねひさ が二十三歳で 月並 つきなみ 出仕を命ぜられた。
  五百 いお 里方 さとかた では、先代忠兵衛が歿してから三年ほど、栄次郎の忠兵衛は謹慎していたが、天保十三年に三十一歳になった頃から、また吉原へ通いはじめた。 相方 あいかた は前の 浜照 はまてる であった。そして忠兵衛は遂に浜照を落籍させて さい にした。 いで弘化三年十一月二十二日に至って、忠兵衛は隠居して、日野屋の家督を わずか に二歳になった抽斎の三女 とう に相続させ、自分は 金座 きんざ の役人の株を買って、広瀬栄次郎と 名告 なの った。
 五百の姉安を めと った長尾宗右衛門は、兄の歿した跡を いでから、終日 手杯 てさかずき かず、 塗物問屋 ぬりものどいや の帳場は番頭に任せて顧みなかった。それを温和に過ぐる性質の安は いさ めようともしないので、五百は姉を訪うてこの様子を見る度にもどかしく思ったが 為方 しかた がなかった。そういう時宗右衛門は五百を相手にして、『 資治通鑑 しじつがん 』の中の人物を評しなどして、容易に帰ることを許さない。五百が強いて帰ろうとすると、宗右衛門は安の生んだお けい せん の二人の むすめ に、おばさんを留めいという。二人の女は泣いて留める。これはおばの帰った跡で家が寂しくなるのと、父が不機嫌になるのとを憂えて泣くのである。そこで五百はとうとう帰る機会を失うのである。五百がこの有様を夫に話すと、抽斎は栄次郎の同窓で、妻の姉壻たる宗右衛門の身の上を 気遣 きづか って、わざわざ横山町へ さと しに往った。宗右衛門は大いに じて、やや産業に意を用いるようになった。

その三十六

 森 枳園 きえん は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に やど ることになっていた。枳園の 形装 ぎょうそう は決してかつて 夜逃 よにげ をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。 たもつ さんの記憶している 五百 いお の話によるに、枳園はお 召縮緬 めしちりめん きもの を着て、 海老鞘 えびざや 脇指 わきざし を差し、歩くに つま を取って、 剥身絞 むきみしぼり ふんどし を見せていた。もし人がその七代目 団十郎 だんじゅうろう 贔屓 ひいき にするのを知っていて、 成田屋 なりたや と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。 もっと もお召縮緬を着たのは、 あなが 奢侈 しゃし と見るべきではあるまい。一 たん 一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
 枳園の来て やど る頃に、抽斎の もと にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして 大行燈 おおあんどう を覆し、畳を油だらけにした。五百は たわむれ に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを 揶揄 からか うものは枳園のみでなく、 豊芥子 ほうかいし も訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
 枳園はまた当時 わずか に二十歳を えた抽斎の長男 恒善 つねよし の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、 度々 たびたび 吉原へ連れて こうとした。しかし恒善は かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を うごか そうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
 枳園が かく の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。 故主 こしゅう もと に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾 くは幕府の 直参 じきさん にでもなろうと思って、機会を うかが っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
  にわか に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは やす く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に せていた。 就中 なかんずく 本草 ほんぞう くわ しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の 軽佻 けいちょう を忌む心が すこぶ かた かった。 多紀一家 たきいっけ 殊に さいてい はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
 枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢 榛軒 しんけん 、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人 服部九十郎 はっとりくじゅうろう 、勘定奉行 小此木伴七 おこのぎはんしち 大田 おおた 宇川 うがわ 等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に さまた げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず庭の同情に うった えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き うごか そうと決心した。そして つい にこの手段を以て成功した。
 この期間の すえ の一年、嘉永元年に至って枳園は 躋寿館 せいじゅかん の一事業たる『 千金方 せんきんほう 校刻 こうこく を手伝うべき内命を ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。

その三十七

 阿部家への帰参が かな って、枳園が家族を まと めて江戸へ来ることになったので、抽斎はお玉が池の住宅の近所に 貸家 かしいえ のあったのを借りて、敷金を出し家賃を払い、応急の 器什 きじゅう を買い集めてこれを迎えた。枳園だけは病家へ かなくてはならぬ職業なので、衣類も 一通 ひととおり 持っていたが、家族は身に着けたものしか持っていなかった。枳園の妻 かつ の事を、 五百 いお があれでは 素裸 すはだか といっても いといった位である。五百は髪飾から 足袋 たび 下駄 げた まで、一切 そろ えて贈った。それでも当分のうちは、何かないものがあると、蔵から物を出すように、勝は五百の所へ もら いに来た。或日これで白縮緬の 湯具 ゆぐ を六本 ることになると、五百がいったことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、勝がどの位 恬然 てんぜん として世話をさせたかということが、これによって想像することが出来る。また枳園に幾多の あく 性癖があるにかかわらず、抽斎がどの位、その才学を尊重していたかということも、これによって想像することが出来る。
 枳園が医書彫刻取扱 手伝 てつだい という名義を以て、躋寿館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
 当時躋寿館で校刻に従事していたのは、『 備急 びきゅう 千金要方』三十巻三十二冊の 宋槧本 そうざんぼん であった。これより き多紀氏は同じ 孫思 そんしばく の『千金 翼方 よくほう 』三十巻十二冊を校刻した。これは げん 成宗 せいそう 大徳 だいとく 十一年 梅渓 ばいけい 書院の刊本を以て底本としたものである。 いで手に ったのが『千金要方』の宋版である。これは毎巻 金沢文庫 かなざわぶんこ の印があって、 北条顕時 ほうじょうあきとき の旧蔵本である。 米沢 よねざわ の城主 上杉 うえすぎ 弾正大弼 だんじょうのだいひつ 斉憲 なりのり がこれを幕府に献じた。 こまか に検すれば南宋『 乾道淳煕 けんどうじゅんき 』中の補刻数葉が交っているが、大体は北宋の 旧面目 きゅうめんぼく を存している。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになった。そこで影写校勘の任に当らしむるために、三人の手伝が出来た。阿部伊勢守正弘の家来 伊沢磐安 いさわばんあん 黒田 くろだ 豊前守 ぶぜんのかみ 直静 なおちか の家来 堀川舟庵 ほりかわしゅうあん 、それから多紀 楽真院 らくしんいん 門人 森養竹 もりようちく である。磐安は即ち柏軒で、舟庵は『経籍訪古志』の ばつ に見えている堀川 せい である。舟庵の しゅ 黒田直静は上総国 久留利 くるり の城主で、上屋敷は 下谷広小路 したやひろこうじ にあった。
 任命は 若年寄 わかどしより 大岡 主膳正 しゅぜんのかみ 忠固 ただかた の差図を以て、館主多紀 安良 あんりょう が申し渡し、世話役小島 春庵 しゅんあん 、世話役手伝勝本 理庵 りあん 熊谷 くまがい 弁庵 べんあん が列座した。安良は即ち 暁湖 ぎょうこ である。
  何故 なにゆえ に枳園が さいてい の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への帰参は当時内約のみであって、まだ 表向 おもてむき になっていなかったのでもあろうか。枳園は四十二歳になっていた。
 この年八月二十九日に、 真志屋 ましや 五郎作 ごろさく が八十歳で歿した。抽斎はこの時三世 劇神仙 げきしんせん になったわけである。
 嘉永二年三月七日に、抽斎は召されて 登城 とじょう した。 躑躅 つつじ において、 老中 ろうじゅう 牧野備前守 忠雅 ただまさ 口達 こうたつ があった。年来学業出精に つき 、ついでの節 目見 めみえ 仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が 手狭 てぜま なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け でたものである。

その三十八

 抽斎の将軍 家慶 いえよし に謁見したのは、世の異数となす所であった。 もと より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた 建部 たけべ 内匠頭 たくみのかみ 政醇 まさあつ 家来 辻元庵 つじもとしゅうあん の如く 目見 めみえ の栄に浴する前例はあったが、抽斎に さきだ って伊沢 榛軒 しんけん が目見をした時には、藩主阿部正弘が 老中 ろうじゅう になっているので、 薦達 せんたつ の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年 ぜん に共に講師に任ぜられた町医 坂上玄丈 さかがみげんじょう があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその 殊遇 しゅぐう めて三年前に目見をした 松浦 まつうら 壱岐守 いきのかみ はかる の臣 朝川善庵 あさかわぜんあん と並称した。善庵は抽斎の謁見に さきだ つこと 一月 いちげつ 、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく まじわ って、渋江の家の 発会 ほっかい には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は てい 、字は五鼎、実は江戸の儒家 片山兼山 かたやまけんざん の子である。兼山の歿した のち つま うじ が江戸の町医朝川 黙翁 もくおう に再嫁した。善庵の姉 寿美 すみ と兄 道昌 どうしょう とは当時の 連子 つれこ で、善庵はまだ母の胎内にいた。黙翁は老いて やむ に至って、福山氏に嫁した寿美を以て、善庵に じつ を告げさせ、本姓に復することを勧めた。しかし善庵は黙翁の 撫育 ぶいく の恩に感じて うけが わず、黙翁もまた強いて言わなかった。善庵は次男 かく をして片山氏を がしめたが、格は早世した。長男 正準 せいじゅん でて 相田 あいだ 氏を おか したので、善庵の跡は次女の壻横山氏 しん

[_]
[#「鹿/辰」、117-6]
いだ。
 弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかった。抽斎が目見をした時も、同僚にして来り賀するものは 一人 いちにん もなかった。しかし当時世間一般には目見以上ということが、 すこぶ る重きをなしていたのである。伊沢榛軒は少しく抽斎に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに対する処置には榛軒自己をして 喫驚 きっきょう せしむるものがあった。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を おわ って帰って、常の如く通用門を らんとすると、門番が たちま ち本門の かたわら に下座した。榛軒は たれ を迎えるのかと疑って、 四辺 しへん かえりみ たが、別に人影は見えなかった。そこで始て自分に礼を行うのだと知った。次いで常の如く中の口から進もうとすると、玄関の左右に 詰衆 つめしゅう が平伏しているのに気が附いた。榛軒はまた驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
 目見は かく の如く世の人に重視せられる ならい であったから、この栄を にな うものは多くの費用を弁ぜなくてはならなかった。津軽家では一カ年間に返済すべしという条件を附して、金三両を貸したが、抽斎は主家の好意を喜びつつも、 ほとん どこれを何の ついえ てようかと思い惑った。
 目見をしたものは、先ず盛宴を開くのが例になっていた。そしてこれに招くべき 賓客 ひんかく すう もほぼ定まっていた。然るに抽斎の居宅には多く かく くべき広間がないので、新築しなくてはならなかった。 五百 いお の兄忠兵衛が来て、三十両の 見積 みつもり を以て建築に着手した。抽斎は 銭穀 せんこく の事に うと いことを自知していたので、商人たる忠兵衛の言うがままに、これに経営を一任した。しかし忠兵衛は 大家 たいけ 若檀那 わかだんな あが りで、金を なげう つことにこそ長じていたが、 おし んでこれを使うことを解せなかった。工事いまだ なかば ならざるに、費す所は既に百数十両に及んだ。
  平生 へいぜい 金銭に 無頓着 むとんじゃく であった抽斎も、これには頗る当惑して、 のこぎり の音 つち の響のする中で、 顔色 がんしょく は次第に あお くなるばかりであった。五百は はじめ から兄の指図を あやぶ みつつ見ていたが、この時夫に向っていった。
「わたくしがこう申すと、ひどく出過ぎた口をきくようではございますが、 一代に 幾度 いくたび というおめでたい事のある中で、金銭の事位で御心配なさるのを、黙って見ていることは出来ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすって下さいまし。」
 抽斎は目を みは った。「お前そんな事を言うが、何百両という金は容易に 調達 ちょうだつ せられるものではない。お前は何か あて があってそういうのか。」
 五百はにっこり笑った。「はい。幾らわたくしが おろか でも、当なしには申しませぬ。」

その三十九

  五百 いお は女中に書状を持たせて、ほど近い質屋へ った。即ち市野迷庵の跡の家である。 の今に至るまで石に られずにある松崎 慊堂 こうどう の文にいう如く、迷庵は柳原の店で亡くなった。その跡を いだのは松太郎 光寿 こうじゅ で、それが 三右衛門 さんえもん の称をも継承した。迷庵の弟 光忠 こうちゅう は別に 外神田 そとかんだ に店を出した。これより のち 内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は よよ 三右衛門を称し、 これ よよ 市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子 光徳 こうとく の代になっていた。光寿は迷庵の歿後 わずか に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は 小字 おさなな 徳治郎 とくじろう といったが、この時 あらた めて三右衛門を 名告 なの った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の てつ 光長 こうちょう の代であった。
 ほどなく光徳の店の 手代 てだい が来た。 五百 いお 箪笥 たんす 長持 ながもち から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を ることが出来た。
 三百両は建築の ついえ を弁ずるには あまり ある金であった。しかし 目見 めみえ に伴う 飲贈遺 いんえんぞうい 一切の費は 莫大 ばくだい であったので、五百は つい 豊芥子 ほうかいし に託して、 おも なる 首飾 しゅしょく 類を売ってこれに てた。その状 まさ に行うべき所を行う如くであったので、抽斎はとかくの意見をその間に さしはさ むことを得なかった。しかし中心には深くこれを徳とした。
 抽斎の目見をした年の うるう 四月十五日に、長男 恒善 つねよし は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女 癸巳 きし が生れた。当時の家族は主人四十五歳、 さい 五百 いお 三十四歳、長男恒善二十四歳、次男 優善 やすよし 十五歳、四女 くが 三歳、五女癸巳一歳の六人であった。長女 いと は馬場氏に嫁し、三女 とう は山内氏を ぎ、次女よし、三男八三郎、四男 幻香 げんこう は亡くなっていたのである。
 嘉永三年には、抽斎が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることとなった。藩禄等は すべ て旧に るのである。八月 かい に、馬場氏に嫁していた純が二十歳で歿した。この年抽斎は四十六歳になった。
 五百の仮親比良野文蔵の歿したのも、同じ年の四月二十四日である。次いで嗣子 貞固 さだかた が目附から留守居に進んだ。津軽家の当時の職制より見れば、いわゆる 独礼 どくれい はん に加わったのである。独礼とは 式日 しきじつ に藩主に謁するに当って、単独に進むものをいう。これより しも 二人立 ににんだち 、三人立等となり、遂に 馬廻 うままわり 以下の一統礼に至るのである。
 当時江戸に集っていた列藩の留守居は、 宛然 えんぜん たるコオル・ヂプロマチックを かたちづく っていて、その生活は すこぶ る特色のあるものであった。そして貞固の如きは、その光明面を体現していた人物といっても好かろう。
 衣類を黒 紋附 もんつき に限っていた 糸鬢奴 いとびんやっこ の貞固は、 もと より読書の人ではなかった。しかし書巻を 尊崇 そんそう して、 提挈 ていけつ をその うち に求めていたことを思えば、留守居中 稀有 けう の人物であったのを知ることが出来る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に帰るとすぐに、 折簡 せっかん して抽斎を しょう じた。そして かたち を改めていった。
「わたくしは 今日 こんにち 父の跡を襲いで、留守居役を 仰付 おおせつ けられました。今までとは違った 心掛 こころがけ がなくてはならぬ役目と存ぜられます。実はそれに 用立 ようだ つお講釈が承わりたさに、御足労を願いました。あの四方に 使 つかい して君命を はずかし めずということがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先ず何よりもおよろこびを言わんではなるまい。さて講釈の事だが、これはまた至極のお 思附 おもいつき だ。委細承知しました」と抽斎は こころよ く諾した。

その四十

 抽斎は有合せの 道春点 どうしゅんてん の『論語』を取り出させて、 まきの 七を開いた。そして「 子貢問曰 しこうといていわく 何如斯可謂之土矣 いかなるをかこれこれをしというべき 」という所から講じ始めた。 もと より朱註をば顧みない。 すべ て古義に従って縦説横説した。抽斎は師迷庵の校刻した 六朝本 りくちょうぼん の如きは、 何時 なんどき でも 毎葉 まいよう 毎行 まいこう の文字の配置に至るまで、 くう って思い浮べることが出来たのである。
  貞固 さだかた は謹んで いていた。そして抽斎が「 子曰 しのたまわく 噫斗之人 ああとしょうのひと 何足算也 なんぞかぞうるにたらん 」に説き いた ったとき、貞固の目はかがやいた。
 講じ おわ った のち 、貞固は しばら 瞑目 めいもく 沈思していたが、 しずか って仏壇の前に往って、祖先の位牌の前にぬかずいた。そしてはっきりした声でいった。「わたくしは 今日 こんにち から一命を して職務のために尽します。」貞固の目には涙が たた えられていた。
 抽斎はこの日に比良野の家から帰って、 五百 いお に「比良野は実に立派な さむらい だ」といったそうである。その声は ふるい を帯びていたと、後に五百が話した。
 留守居になってからの貞固は、 毎朝 まいちょう 日の いず ると共に起きた。そして先ず うまや を見廻った。そこには愛馬 浜風 はまかぜ つな いであった。友達がなぜそんなに馬を気に掛けるかというと、馬は 生死 しょうし を共にするものだからと、貞固は答えた。厩から帰ると、 盥嗽 かんそう して仏壇の前に坐した。そして 木魚 もくぎょ たた いて 誦経 じゅきょう した。この間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかった。来客もそのまま待たせられることになっていた。誦経が おわ って、髪を結わせた。それから 朝餉 あさげ ぜん に向った。饌には必ず酒を設けさせた。朝といえども省かない。 さかな には 選嫌 えりぎらい をしなかったが、のだ へい 蒲鉾 かまぼこ たし んで、 かさずに出させた。これは 贅沢品 ぜいたくひん で、 うなぎ どんぶり が二百文、 天麩羅蕎麦 てんぷらそば が三十二文、 盛掛 もりかけ が十六文するとき、 一板 ひといた 二分二朱であった。
  朝餉 あさげ おわ ころ には、藩邸で の刻の 大鼓 たいこ が鳴る。名高い津軽屋敷の やぐら 大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が きか ずに、とうとう上屋敷を 隅田川 すみだがわ の東に うつ されたのだと、 巷説 こうせつ に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田 小川町 おがわまち から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津軽家の留守居役所に出勤して事務を処理する。次いで登城して 諸家 しょけ の留守居に会う。従者は自ら やしな っている若党 草履取 ぞうりとり の外に、 主家 しゅうけ から附けられるのである。
 留守居には集会日というものがある。その日には城から会場へ く。 八百善 やおぜん 平清 ひらせい 川長 かわちょう 青柳 あおやぎ 等の料理屋である。また吉原に会することもある。集会には 煩瑣 はんさ な作法があった。これを礼儀といわんは美に過ぎよう。 たと えば 筵席 えんせき 觴政 しょうせい の如く、また西洋学生団のコンマンの如しともいうべきであろうか。しかし集会に列するものは、これがために命の 取遣 とりやり をもしなくてはならなかった。 就中 なかんずく 厳しく守られていたのは 新参 しんざん 故参 こさん の序次で、故参は新参のために座より起つことなく、新参は必ず故参の前に進んで 挨拶 あいさつ しなくてはならなかった。
 津軽家では留守居の年俸を三百石とし、別に一カ月の交際費十八両を給した。比良野は百石取ゆえ、これに二百石を補足せられたのである。 五百 いお 覚書 おぼえがき るに、三百石十人扶持の渋江の月割が五両一分、二百石八人扶持の矢島の月割が三両三分であった。矢島とは後に抽斎の二子 優善 やすよし が養子に往った家の名である。これに って れば、貞固の月収は五両一分に十八両を加えた二十三両一分と見て大いなる差違はなかろう。然るに貞固は少くも月に交際費百両を要した。しかもそれは平常の ついえ である。吉原に火災があると、貞固は 妓楼 ぎろう 佐野槌 さのづち へ、百両に 熨斗 のし を附けて持たせて遣らなくてはならなかった。また相方 まゆずみ のむしんをも、折々は聴いて遣らなくてはならなかった。或る年の暮に、貞固が五百に私語したことがある。「 えさん、察して下さい。正月が来るのに、わたしは実は ふんどし 一本買う銭もない。」

その四十一

  ひと しくこれ津軽家の藩士で、柳島附の目附から、少しく 貞固 さだかた に遅れて留守居に転じたものがある。 平井氏 ひらいうじ 、名は 俊章 しゅんしょう あざな 伯民 はくみん 小字 おさなな 清太郎 せいたろう 、通称は 修理 しゅり で、 東堂 とうどう と号した。文化十一年 うまれ で貞固よりは二つの年下である。平井の家は 世禄 せいろく 二百石八人扶持なので、留守居になってから百石の補足を受けた。
 貞固は 好丈夫 こうじょうふ 威貌 いぼう があった。東堂もまた ふうぼう 人に優れて、しかも温容 したし むべきものがあった。そこで世の人は津軽家の留守居は 双壁 そうへき だと称したそうである。
 当時の留守居役所には、この 二人 ふたり の下に留守居 下役 したやく 杉浦多吉 すぎうらたきち 、留守居 物書 ものかき 藤田徳太郎 ふじたとくたろう などがいた。杉浦は後 喜左衛門 きざえもん といった人で、事務に 諳錬 あんれん した六十余の老人であった。藤田は維新後に ひそむ と称した人で、当時まだ青年であった。
 或日東堂が役所で公用の書状を発せようとして、藤田に稿を しょく せしめた。藤田は案を して呈した。
「藤田。まずい文章だな。それにこの 書様 かきざま はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は すこぶ る不機嫌に見えた。
  原来 がんらい 平井氏は 善書 ぜんしょ の家である。祖父 峩斎 がさい はかつて 筆札 ひっさつ 高頤斎 こういさい に受けて、その書が一時に行われたこともある。峩斎、通称は 仙右衛門 せんえもん 、その子を 仙蔵 せんぞう という。 のち 父の称を ぐ。この仙蔵の子が東堂である。東堂も 沢田東里 さわだとうり の門人で書名があり、かつ詩文の才をさえ有していた。それに藤田は文においても書においても、専門の素養がない。稿を あらた めて再び呈したが、それが東堂を満足せしめるはずがない。
「どうもまずいな。こんな物しか出来ないのかい。一体これでは御用が勤まらないといっても い。」こういって案を藤田に かえ した。
 藤田は 股栗 こりつ した。一身の恥辱、家族の悲歎が、 こうべ れている青年の想像に浮かんで、目には涙が いて来た。
 この時貞固が役所に来た。そして東堂に問うて事の 顛末 てんまつ を知った。
 貞固は藤田の手に持っている案を取って読んだ。
「うん。 一通 ひととおり わからぬこともないが、これでは平井の気には入るまい。 足下 そっか は気が かないのだ。」
 こういって置いて、貞固は ほとん ど同じような文句を 巻紙 まきがみ に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで いかな。」
 東堂は ごう も敬服しなかった。しかし故参の文案に批評を加えることは出来ないので、色を やわら げていった。
「いや、結構です。どうもお手を煩わして済みません。」
 貞固は案を東堂の手から取って、藤田にわたしていった。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからはこんな工合に るが好い。」
 藤田は「はい」といって案を受けて退いたが、心中には貞固に対して再造の恩を感じたそうである。 おも うに東堂は ほか 柔にして うち 険、貞固は ほか 猛にして うち 寛であったと見える。
 わたくしは前に貞固が要職の 体面 たいめん をいたわるがために窮乏して、 古褌 ふるふんどし を着けて年を迎えたことを しる した。この窮乏は東堂といえどもこれを免るることを得なかったらしい。ここに 中井敬所 なかいけいしょ 大槻如電 おおつきにょでん さんに語ったという一の事実があって、これが証に つるに足るのである。
 この事は さき の日わたくしが池田 京水 けいすい の墓と年齢とを文彦さんに問いに った時、如電さんがかつて手記して置いたものを抄写して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、 何故 なにゆえ に如電さんは平井氏の事を以て答えたか。それには理由がある。平井東堂の置いた しち が流れて、それを買ったのが、池田京水の子 瑞長 ずいちょう であったからである。

その四十二

 東堂が質に入れたのは、銅仏 一躯 いっく 六方印 ろくほういん 一顆 いっか とであった。銅仏は 印度 インド で鋳造した 薬師如来 やくしにょらい で、 戴曼公 たいまんこう の遺品である。六方印は六面に彫刻した 遊印 ゆういん である。
  質流 しちながれ になった時、この仏像を池田瑞長が買った。 しか るに東堂は のち 金が出来たので、瑞長に交渉して、 あたい を倍して あがな い戻そうとした。瑞長は応ぜなかった。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を 愛惜 あいじゃく する縁故があるからである。
 戴曼公は書法を 高天 こうてんい に授けた。天、名は 玄岱 げんたい はじめ の名は 立泰 りゅうたい あざな 子新 ししん 、一の あざな 斗胆 とたん 、通称は 深見新左衛門 ふかみしんざえもん で、帰化 明人 みんひと えい である。祖父 高寿覚 こうじゅかく は長崎に来て終った。父 大誦 たいしょう は訳官になって深見氏を称した。深見は 渤海 ぼっかい である。高氏は渤海より でたからこの氏を称したのである。天は書を以て鳴ったもので、 浅草寺 せんそうじ 施無畏 せむい へんがく の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天の子が 頤斎 いさい である。頤斎の 弟子 ていし 峩斎 がさい である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる 所以 ゆえん である。
 戴曼公はまた痘科を池田 嵩山 すうざん に授けた。嵩山の曾孫が 錦橋 きんきょう 、錦橋の てつ が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の たまたま 獲た曼公の遺品を 愛重 あいちょう して かなかった所以である。
 この薬師如来は明治の となってから 守田宝丹 もりたほうたん が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
 貞固と東堂とは、共に留守居の 物頭 ものがしら を兼ねていた。物頭は詳しくは 初手 しょて 足軽頭 あしがるがしら といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も 独礼 どくれい の格式である。平時は 中下 なかしも 屋敷附近に火災の おこ るごとに、火事 装束 しょうぞく を着けて馬に り、足軽数十人を したが えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
 貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。 帆足万里 ほあしばんり はかつて留守居を ののし って、国財を し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。しかし たもつ さんは少時帆足の文を読むごとに心 たいら かなることを得なかったという。それは貞固の ひと りを愛していたからである。
 嘉永四年には、二月四日に抽斎の三女で山内氏を冒していた 棠子 とうこ が、痘を病んで死んだ。 いで十五日に、五女 癸巳 きし が感染して死んだ。彼は七歳、 これ は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかったと見える。三月二十八日に、長子 恒善 つねよし が二十六歳で、柳島に隠居していた 信順 のぶゆき 近習 きんじゅ にせられた。六月十二日に、二子 優善 やすよし が十七歳で、二百石八人扶持の 矢島玄碩 やじまげんせき 末期養子 まつごようし になった。この年渋江氏は本所 台所町 だいどころちょう に移って、神田の家を別邸とした。抽斎が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
 優善は渋江一族の例を破って、 わこ うして 烟草 タバコ み、好んで 紛華奢靡 ふんかしゃび の地に足を れ、とかく市井のいきな事、しゃれた事に かたぶ きやすく、当時早く既に前途のために憂うべきものがあった。
 本所で渋江氏のいた台所町は今の 小泉町 こいずみちょう で、屋敷は当時の 切絵図 きりえず に載せてある。

その四十三

 嘉永五年には四月二十九日に、抽斎の長子恒善が二十七歳で、二の丸火の番六十俵 田口儀三郎 たぐちぎさぶろう の養女 いと めと った。五月十八日に、恒善に 勤料 つとめりょう 三人扶持を給せられた。抽斎が四十人歳、五百が三十七歳の時である。
 伊沢氏ではこの年十一月十七日に、榛軒が四十九歳で歿した。榛軒は抽斎より一つの年上で、二人の まじわり すこぶ る親しかった。 楷書 かいしょ に片仮名を ぜた榛軒の 尺牘 せきどく には、 宛名 あてな が抽斎賢弟としてあった。しかし抽斎は小島成斎におけるが如く心を傾けてはいなかったらしい。
 榛軒は本郷丸山の阿部家の中屋敷に住んでいた。父蘭軒の時からの居宅で、頗る広大な かまえ であった。庭には 吉野桜 よしのざくら しゅ え、花の頃には 親戚 しんせき 知友を招いてこれを賞した。その日には榛軒の さい 飯田氏しほと むすめ かえとが 許多 あまた 女子 おなご えき して、客に 田楽 でんがく 豆腐などを供せしめた。パアル・アンチシパションに園遊会を催したのである。 とし はじめ 発会式 ほっかいしき も、他家に くら ぶれば華やかであった。しほの母は もと 京都 諏訪 すわ 神社の 禰宜 ねぎ 飯田氏の じょ で、 典薬頭 てんやくのかみ 某の家に仕えているうちに、その嗣子と わたくし してしほを生んだ。しほは 落魄 らくたく して江戸に来て、 木挽町 こびきちょう の芸者になり、 ちと の財を得て業を め、 新堀 しんぼり に住んでいたそうである。榛軒が娶ったのはこの時の事である。しほは らぬ父の 記念 かたみ 印籠 いんろう 一つを、母から け伝えて持っていた。榛軒がしほに生ませた むすめ かえは、一時池田京水の次男 全安 ぜんあん を迎えて夫としていたが、全安が広く内科を究めずに、痘科と 科とに偏するというを以て、榛軒が全安を京水の もと に還したそうである。
 榛軒は 辺幅 へんぷく おさ めなかった。渋江の家を うに、踊りつつ玄関から って、居間の戸の外から声を掛けた。自ら うなぎ あつら えて置いて来て、 かゆ 所望 しょもう することもあった。そして抽斎に、「どうぞ おれ に構ってくれるな、己には 御新造 ごしんぞう 合口 あいくち だ」といって、書斎に退かしめ、五百と語りつつ 飲食 のみくい するを例としたそうである。
 榛軒が歿してから 一月 いちげつ のち 、十二月十六日に弟柏軒が 躋寿館 せいじゅかん の講師にせられた。森 枳園 きえん らと共に『千金方』校刻の命を受けてから四年の後で、柏軒は四十三歳になっていた。
 この年に五百の姉壻長尾宗右衛門が商業の革新を はか って、 横山町 よこやまちょう の家を 漆器店 しっきみせ のみとし、別に 本町 ほんちょう 二丁目に居宅を置くことにした。この計画のために、抽斎は二階の四室を明けて、宗右衛門夫妻、 けい せん の二女、女中 一人 いちにん 丁稚 でっち 一人を まわせた。
 嘉永六年正月十九日に、抽斎の六女 水木 みき が生れた。家族は主人夫婦、恒善夫婦、 くが 、水木の六人で、 優善 やすよし は矢島氏の主人になっていた。抽斎四十九歳、 五百 いお 三十八歳の時である。
 この年二月二十六日に、堀川 舟庵 しゅうあん が躋寿館の講師にせられて、『千金方』校刻の事に任じた三人の うち 森枳園が一人残された。
 安政元年はやや事多き年であった。二月十四日に五男 専六 せんろく が生れた。後に おさむ 名告 なの った人である。三月十日に長子恒善が病んで歿した。抽斎は 子婦 しふ 糸の父田口儀三郎の窮を あわれ んで、百両余の金を おく り、糸をば 有馬宗智 ありまそうち というものに再嫁せしめた。十二月二十六日に、抽斎は躋寿館の講師たる故を以て、 とし に五人扶持を給せられることになった。今の勤務加俸の如きものである。二十九日に更に躋寿館医書彫刻 手伝 てつだい を仰附けられた。今度校刻すべき書は、 円融 えんゆう 天皇の 天元 てんげん 五年に、 丹波康頼 たんばやすより が撰んだという『 医心方 いしんほう 』である。
 保さんの所蔵の「抽斎手記」に、『医心方』の出現という語がある。昔から おごそか に秘せられていた書が、 たちま ち目前に出て来た さま が、この語で好く あらわ されている。「 秘玉突然開出 ひぎょくとつぜんはこをひらきていづ 瑩光明徹点瑕無 えいこうめいてつてんかなし 金龍山畔波濤起 きんりょうさんはんはとうおこり 龍口初探是此珠 りょうこうはじめてさぐりしはこれこのたま 。」これは抽斎の亡妻の兄岡西玄亭が、当時 よろこび を記した詩である。 龍口 りょうこう といったのは、『医心方』が 若年寄 わかどしより 遠藤但馬守 胤統 たねのり の手から躋寿館に交付せられたからであろう。遠藤の上屋敷は 辰口 たつのくち 北角 きたかど であった。

その四十四

 日本の古医書は『 続群書類従 ぞくぐんしょるいじゅう 』に収めてある 和気広世 わけひろよ の『 薬経太素 やくけいたいそ 』、 丹波康頼 たんばのやすより の『 康頼本草 やすよりほんぞう 』、 釈蓮基 しゃくれんき の『 長生 ちょうせい 療養方』、次に多紀家で校刻した 深根輔仁 ふかねすけひと の『 本草和名 ほんぞうわみょう 』、丹波 雅忠 まさただ の『医略抄』、宝永中に 印行 いんこう せられた 具平親王 ともひらしんのう の『 弘決外典抄 ぐけつげてんしょう 』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は もと 字類に属して、 ここ に算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、 出雲広貞 いずもひろさだ らの たてまつ った『 大同類聚方 だいどうるいじゅほう 』の如きは、 散佚 さんいつ して世に伝わらない。
 それゆえ天元五年に成って、 永観 えいかん 二年に たてまつ られた『医心方』が、 ほとん ど九百年の後の世に でたのを見て、学者が血を き立たせたのも あやし むに足らない。
『医心方』は 禁闕 きんけつ の秘本であった。それを 正親町 おおぎまち 天皇が いだ して 典薬頭 てんやくのかみ 半井 なからい 通仙院 つうせんいん 瑞策 ずいさく に賜わった。それからは よよ 半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の はじめ に、 仁和寺 にんなじ 文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が きわめ て多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井 大和守成美 やまとのかみせいび は献ずることを がえん ぜず、その子 修理大夫 しゅりのだいぶ 清雅 せいが もまた献ぜず、 つい に清雅の子出雲守 広明 ひろあき に至った。
 半井氏が初め なに ことば を以て命を拒んだかは、これを つまびらか にすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月 みそか 洛東団栗辻 らくとうどんぐりつじ から起って、全都を 灰燼 かいじん に化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、 似寄 により の品でも いから出せと 誅求 ちゅうきゅう した。 おそら くは情を知って強要したのであろう。
 半井広明はやむことをえず、こういう 口上 こうじょう を以て『医心方』を出した。 外題 げだい は同じであるが、筆者 区々 まちまち になっていて、誤脱多く、 はなは だ疑わしき そかん である。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から 六郷 ろくごう 筑前守 政殷 まさただ の手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は 公用人 こうようにん 渡辺三太平 わたなべさんたへい を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守 胤統 たねのり を以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は 金蔵 かねぐら から渡されるであろう。書籍は とく と取調べ、かつ刻本 売下 うりさげ 代金を以て費用を返納すべき 積年賦 せきねんぷ をも取調べるようにということであった。
  半井 なからい 広明の呈した本は三十巻三十一冊で、 けんの 二十五に上下がある。 こまか に検するに期待に そむ かぬ善本であった。 もと 『医心方』は 巣元方 そうげんぼう の『 病源候論 びょうげんこうろん 』を けい とし、 隋唐 ずいとう の方書百余家を として作ったもので、その引用する所にして、支那において 佚亡 いつぼう したものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁 二人 ににん 、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀 安良 あんりょう 法眼 ほうげん である。楽真院は さいてい 、安良は 暁湖 ぎょうこ で、 ならび に二百俵の奥医師であるが、彼は法印、 これ は法眼になっていて、当時 くら の分家が 向柳原 むこうやなぎはら の宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』 影写程式 えいしゃていしき というものが出来た。写生は 毎朝辰刻 まいちょうたつのこく に登館して、 一人一日 いちにんいちじつ けつ を影模する。三頁を模し おわ れば、任意に退出することを許す。三頁を模すること あた わざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月 さく に起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは みそか に至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

その四十五

  半井 なからい 本の『医心方』を校刻するに当って、仁和寺本を写した躋寿館の旧蔵本が参考せられたことは、問うことを たぬであろう。然るに別に一の善本があった。それは京都 加茂 かも の医家岡本 由顕 ゆうけん の家から出た『医心方』 けんの 二十二である。
  正親町 おおぎまち 天皇の時、 じゅ 五位 じょう 岡本 保晃 ほうこう というものがあった。保晃は半井瑞策に『医心方』一巻を借りて写した。そして 何故 なにゆえ か原本を半井氏に返すに及ばずして歿した。保晃は由顕の曾祖父である。
 由顕の言う所はこうである。『医心方』は 徳川家光 いえみつ が半井瑞策に授けた書である。保晃は江戸において瑞策に師事した。瑞策の むすめ が産後に病んで死に ひん した。保晃が薬を投じて救った。瑞策がこれに報いんがために、『医心方』一巻を贈ったというのである。
『医心方』を瑞策に授けたのは、家光ではない。瑞策は京都にいた人で、江戸に下ったことはあるまい。瑞策が報恩のために物を贈ろうとしたにしても、よもや帝室から賜った『医心方』三十巻の うち から、一巻を いて贈りはしなかっただろう。 おおよ そこれらの事は、前人が皆かつてこれを論弁している。
 既にして岡本氏の家衰えて、 畑成文 はたせいぶん に託してこの まき ろうとした。成文は 錦小路 にしきこうじ 中務権少輔 なかつかさごんしょうゆう 頼易 よりおさ に勧めて元本を買わしめ、副本はこれを おのれ が家に とど めた。錦小路は京都における丹波氏の えい である。
 岡本氏の『医心方』一巻は、 かく の如くにして伝わっていた。そして校刻の時に至って対照の用に供せられたようである。
 この年正月二十五日に、森枳園が躋寿館講師に任ぜられて、二月二日から登館した。『医心方』校刻の事の起ったのは、枳園が教職に いてから十カ月の のち である。
 抽斎の家族はこの年主人五十歳、 五百 いお 三十九歳、 くが 八歳、 水木 みき 二歳、専六生れて一歳の五人であった。矢島氏を冒した 優善 やすよし は二十歳になっていた。二年 ぜん から 寄寓 きぐう していた長尾氏の家族は、本町二丁目の新宅に移った。
 安政二年が来た。抽斎の家の記録は先ず小さき、 あだ なる よろこび しる さなくてはならなかった。それは三月十九日に、六男 翠暫 すいざん が生れたことである。後十一歳にして 夭札 ようさつ した子である。この年は人の皆知る地震の年である。しかし当時抽斎を揺り うごか して たしめたものは、 ひとり 地震のみではなかった。
 学問はこれを身に体し、これを事に いて、 はじめ て用をなすものである。 しからざ るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を 研鑽 けんさん して 造詣 ぞうけい の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも ただ ちにこれを事に措こうとはしない。その こつこつ として とし けみ する間には、心頭 しばら く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は かく の如くにして始て ち得らるるものである。
 この用無用を問わざる期間は、 ただ とし を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を かさ ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが 截然 せつぜん として二をなしている。もし時務の要求が ようや く増長し きた って、強いて学者の身に せま ったなら、学者がその学問生活を なげう って つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。
 わたくしは安政二年に抽斎が かい を時事に るるに至ったのを見て、 かく の如き観をなすのである。

その四十六

 米艦が 浦賀 うらが ったのは、二年 ぜん の嘉永六年六月三日である。翌安政元年には正月に ふね が再び浦賀に来て、六月に 下田 しもだ を去るまで、江戸の 騒擾 そうじょう は名状すべからざるものがあった。幕府は五月九日を以て、万石以下の士に 甲冑 かっちゅう の準備を令した。動員の そなえ のない軍隊の 腑甲斐 ふがい なさが うかが われる。新将軍 家定 いえさだ もと にあって、この難局に当ったのは、柏軒、枳園らの主侯阿部正弘である。
  今年 こんねん ってから、幕府は講武所を設立することを令した。次いで京都から、寺院の 梵鐘 ぼんしょう を以て大砲小銃を鋳造すべしという みことのり が発せられた。多年古書を校勘して寝食を忘れていた抽斎も、ここに至って やや 風潮の 化誘 かゆう する所となった。それには当時 産蓐 さんじょく にいた 女丈夫 じょじょうふ 五百 いお 啓沃 けいよく あずか って力があったであろう。抽斎は遂に進んで津軽士人のために画策するに至った。
 津軽 順承 ゆきつぐ は一の進言に接した。これを たてまつ ったものは 用人 ようにん 加藤 清兵衛 せいべえ 側用人 そばようにん 兼松伴大夫 かねまつはんたゆう 、目附兼松三郎である。幕府は甲冑を準備することを令した。然るに藩の士人の くこれを 遵行 じゅんこう するものは少い。 おおむ ね皆衣食だに給せざるを以て、これに及ぶに いとま あらざるのである。 よろし く現に甲冑を有せざるものには、金十八両を貸与してこれが てしめ、年賦に依って還納せしむべきである。かつ今より後毎年一度甲冑 あらため を行い、 手入 ていれ を怠らしめざるようにせられたいというのである。順承はこれを可とした。
 この進言が抽斎の意より で、兼松三郎がこれを けて案を具し、両用人の賛同を得て呈せられたということは、 闔藩 こうはん 皆これを知っていた。三郎は 石居 せききょ と号した。その 隆準 りゅうじゅん なるを以ての故に、抽斎は 天狗 てんぐ と呼んでいた。佐藤一斎、 古賀庵 こがとうあん の門人で、学殖 儕輩 せいはい え、かつて 昌平黌 しょうへいこう の舎長となったこともある。当時弘前 吏胥 りしょ 中の識者として聞えていた。
 抽斎は天下多事の日に際会して、 こと たまたま 政事に及び、武備に及んだが、 かく の如きは もと よりその 本色 ほんしょく ではなかった。抽斎の 旦暮 たんぼ 力を用いる所は、古書を講窮し、古義を 闡明 せんめい するにあった。彼は弘前藩士たる抽斎が、外来の事物に応じて動作した一時のレアクションである。 これ は学者たる抽斎が、終生従事していた不朽の労作である。
 抽斎の校勘の業はこの頃着々 進陟 しんちょく していたらしい。森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の ばつ に、 緑汀会 りょくていかい の事を しる して、三十年前だといってある。緑汀とは 多紀庭 たきさいてい が本所緑町の別荘である。庭は 毎月 まいげつ 一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを ここ つど えた。諸子は環坐して 古本 こほん を披閲し、これが論定をなした。会の のち には宴を開いた。さて 二州橋上酔 にしゅうきょうじょうえい に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、 諸子録 ほうろく れ勤め、各部 とみ に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。
 わたくしはこの年の地震の事を語るに さきだ って、台所町の渋江の家に 座敷牢 ざしきろう があったということに説き及ぼすのを かなし む。これは二階の 一室 いっしつ めぐら すに 四目格子 よつめごうし を以てしたもので、地震の日には工事既に おわ って、その中はなお空虚であった。もし人がその中にいたならば、渋江の家は死者を いだ さざることを得なかったであろう。
 座敷牢は抽斎が忍びがたきを忍んで、次男 優善 やすよし がために設けたものであった。

その四十七

 抽斎が岡西氏 とく うま せた三人の子の うち 、ただ 一人 ひとり 生き残った次男優善は、 少時 しょうじ 放恣 ほうし 佚楽 いつらく のために、 すこぶ る渋江 一家 いっか くるし めたものである。優善には 塩田良三 しおだりょうさん という 遊蕩 ゆうとう 夥伴 なかま があった。良三はかの蘭軒門下で、指の腹に つえ を立てて歩いたという 楊庵 ようあん が、 家附 いえつき むすめ に生せた嫡子である。
 わたくしは前に優善が父兄と たしみ を異にして、煙草を んだということを言った。しかし酒はこの人の好む所でなかった。優善も良三も、共に 涓滴 けんてき の量なくして、あらゆる遊戯に ふけ ったのである。
 抽斎が座敷牢を造った時、天保六年 うまれ の優善は二十一歳になっていた。そしてその密友たる良三は天保八年生で、十八歳になっていた。二人は影の形に従う如く、 須臾 しゅゆ も相離るることがなかった。
 或時優善は 松川飛蝶 まつかわひちょう 名告 なの って、 寄席 よせ に看板を懸けたことがある。良三は松川 酔蝶 すいちょう と名告って、共に高座に登った。 鳴物入 なりものいり で俳優の 身振 みぶり 声色 こわいろ を使ったのである。しかも優善はいわゆる 心打 しんうち で、良三はその前席を勤めたそうである。また夏になると、二人は舟を りて 墨田川 すみだがわ 上下 じょうか して、 影芝居 かげしばい を興行した。一人は津軽家の医官矢島氏の当主、一人は宗家の医官塩田氏の 若檀那 わかだんな である。中にも良三の父は神田 松枝町 まつえだちょう に開業して、市人に 頓才 とんさい のある、 見立 みたて の上手な医者と称せられ、その 肥胖 ひはん のために 瞽者 こしゃ 看錯 みあやま らるる おもて をば ひろ られて、家は富み栄えていた。それでいて二人共に、 高座 こうざ に顔を さら すことを はばか らなかったのである。
 二人は酒量なきにかかわらず、町々の料理屋に 出入 いでいり し、またしばしば吉原に遊んだ。そして借財が出来ると、 親戚 しんせき 故旧をして つぐの わしめ、 度重 たびかさな って償う道が ふさ がると、跡を くら ましてしまう。抽斎が優善のために座敷牢を作らせたのは、そういう 失踪 しっそう の間の事で、その早晩 かえ きた るを うかが ってこの うち に投ぜようとしたのである。
 十月二日は地震の日である。空は くも って雨が降ったり んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。 周茂叔連 しゅうもしゅくれん にも逐次に人の 交迭 こうてつ があって、 豊芥子 ほうかいし や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が ようや いきおい を増した。 寝間 ねま にどてらを していた抽斎は、 ね起きて 枕元 まくらもと の両刀を った。そして表座敷へ出ようとした。
 寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が うずたか く積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ ちた。抽斎はその間に はさ まって動くことが出来なくなった。
  五百 いお は起きて夫の うしろ に続こうとしたが、これはまだ講義室に足を投ぜぬうちに倒れた。
 暫くして若党 仲間 ちゅうげん が来て、夫妻を たす け出した。抽斎は衣服の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかった。
 抽斎は衣服を取り繕う ひま もなく、 せて隠居 信順 のぶゆき を柳島の下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往った。信順は柳島の 第宅 ていたく が破損したので、後に 浜町 はまちょう の中屋敷に移った。当主 順承 ゆきつぐ は弘前にいて、上屋敷には家族のみが残っていたのである。
 抽斎は留守居比良野 貞固 さだかた に会って、 救恤 きゅうじゅつ の事を議した。貞固は君侯在国の故を以て、 むね くるに いとま あらず、直ちに 廩米 りんまい 二万五千俵を発して、本所の窮民を にぎわ すことを令した。勘定奉行 平川半治 ひらかわはんじ はこの議に あずか らなかった。平川は後に藩士が ことごと く津軽に うつ るに及んで、独り なが いとま を願って、 深川 ふかがわ 米店 こめみせ を開いた人である。

その四十八

 抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返して見ると、住宅は悉く かたぶ き倒れていた。二階の座敷牢は 粉韲 ふんせい せられて あと だに とど めなかった。 対門 たいもん の小姓組 番頭 ばんがしら 土屋 つちや 佐渡守 邦直 くになお の屋敷は火を失していた。
 地震はその んでは起り、起っては んだ。町筋ごとに損害の程度は 相殊 あいことな っていたが、江戸の全市に家屋土蔵の 無瑕 むきず なものは少かった。上野の大仏は首が砕け、 谷中 やなか 天王寺 てんのうじ の塔は 九輪 くりん が落ち、浅草寺の塔は九輪が かたぶ いた。数十カ所から起った火は、三日の朝辰の刻に至って始て消された。 おおやけ に届けられた変死者が四千三百人であった。
 三日以後にも昼夜数度の震動があるので、 第宅 ていたく のあるものは庭に 小屋掛 こやがけ をして住み、市民にも露宿するものが多かった。将軍家定は二日の よる 吹上 ふきあげ の庭にある 滝見茶屋 たきみぢゃや に避難したが、本丸の破損が少かったので翌朝帰った。
 幕府の設けた 救小屋 すくいごや は、 幸橋 さいわいばし 外に一カ所、上野に二カ所、浅草に一カ所、深川に二カ所であった。
 この年抽斎は五十一歳、 五百 いお は四十歳になって、子供には くが 水木 みき 、専六、 翠暫 すいざん の四人がいた。矢島 優善 やすよし の事は前に言った。五百の兄広瀬栄次郎がこの年四月十八日に病死して、その父の しょう 牧は抽斎の もと 寄寓 きぐう した。
 牧は寛政二年 うまれ で、 はじめ 五百の祖母が 小間使 こまづかい に雇った女である。それが享和三年に十四歳で五百の父忠兵衛の妾になった。忠兵衛が文化七年に 紙問屋 かみどいや 山一 やまいち の女くみを めと った時、牧は二十一歳になっていた。そこへ十八歳ばかりのくみは来たのである。くみは 富家 ふうか 懐子 ふところご で、性質が温和であった。後に五百と安とを生んでから、気象の勝った五百よりは、内気な安の方が、母の性質を け継いでいると人に言われたのに徴しても、くみがどんな女であったかと言うことは想い遣られる。牧は特に かん と称すべき女でもなかったらしいが、とにかく三つの年上であって、 世故 せいこ にさえ通じていたから、くみが ただ にこれを制することが難かったばかりでなく、 やや もすればこれに制せられようとしたのも、 もと より あやし むに足らない。
 既にしてくみは栄次郎を生み、安を生み、五百を生んだが、 つい で文化十四年に次男某を生むに当って病に かか り、生れた子と とも に世を去った。この最後の産の前後の事である。くみは血行の変動のためであったか、 重聴 じゅうちょう になった。その時牧がくみの事を 度々 たびたび 聾者 つんぼ と呼んだのを、六歳になった栄次郎が聞き とが めて、 のち までも忘れずにいた。
 五百は六、七歳になってから、兄栄次郎にこの事を聞いて、ひどく いきどお った。そして兄にいった。「そうして見ると、わたしたちには親の かたき がありますね。いつか いさんと一しょに かたき を討とうではありませんか」といった。その のち 五百は折々 ほうき 塵払 ちりはらい を結び附けて、 双手 そうしゅ の如くにし、これに衣服を まと って壁に立て掛け、さてこれを いきおい をなして、「おのれ、母の かたき 、思い知ったか」などと叫ぶことがあった。父忠兵衛も牧も、少女の意の す所を さと っていたが、父は はばか って あえ て制せず、牧は おそ れて咎めることが出来なかった。
 牧は 奈何 いか にもして五百の感情を やわ げようと思って、甘言を以てこれを いざな おうとしたが、五百は応ぜなかった。牧はまた忠兵衛に請うて、五百に おのれ を母と呼ばせようとしたが、これは忠兵衛が禁じた。忠兵衛は五百の気象を知っていて、 かく の如き手段のかえってその反抗心を激成するに至らんことを恐れたのである。
 五百が早く本丸に り、また藤堂家に投じて、始終家に とおざ かっているようになったのは、父の希望があり母の遺志があって出来た事ではあるが、一面には五百自身が牧と とも 起臥 おきふし することを こころよ からず思って、 余所 よそ へ出て行くことを喜んだためもある。
 こういう関係のある牧が、今 寄辺 よるべ を失って、五百の前に こうべ を屈し、渋江氏の世話を受けることになったのである。五百は うらみ に報ゆるに恩を以てして、牧の おい を養うことを許した。

その四十九

 安政三年になって、抽斎は再び藩の政事に くちばし れた。抽斎の議の大要はこうである。弘前藩は すべから く当主 順承 ゆきつぐ と要路の有力者数人とを江戸に とど め、隠居 信順 のぶゆき 以下の家族及家臣の大半を挙げて帰国せしむべしというのである。その理由の第一は、時勢既に変じて 多人数 たにんず の江戸 づめ はその必要を認めないからである。 何故 なにゆえ というに、 もと 諸侯の参勤、及これに伴う家族の江戸における居住は、徳川家に人質を提供したものである。今将軍は外交の難局に当って、旧慣を て、冗費を節することを はか っている。諸侯に土木の 手伝 てつだい を命ずることを め、府内を行くに家に 窓蓋 まどぶた もうく ることを とど めたのを見ても、その意向を うかが うに足る。 縦令 たとい 諸侯が家族を引き上げたからといって、幕府は 最早 もはや これを抑留することはなかろう。理由の第二は、今の多事の時に あた って、二、三の有力者に託するに藩の大事を以てし、これに 掣肘 せいちゅう を加うることなく、当主を輔佐して臨機の処置に でしむるを有利とするからである。由来弘前藩には悪習慣がある。それは事あるごとに、藩論が在府党と在国党とに わか れて、 荏苒 じんぜん 決せざることである。甚だしきに至っては、在府党は郷国の士を ののし って 国猿 くにざる といい、その主張する所は利害を問わずして排斥する。 かく の如きは今の多事の時に処する 所以 ゆえん の道でないというのである。
 この議は同時に二、三主張するものがあって、是非の論が さかん に起った。しかし後にはこれに 左袒 さたん するものも多くなって、順承が 聴納 ていのう しようとした。浜町の隠居信順がこれを見て大いに いか った。信順は平素国猿を憎悪することの もっと はなはだ しい 一人 いちにん であった。
 この議に反対したものは、 ひとり 浜町の隠居のみではなかった。当時江戸にいた藩士の ほとん ど全体は弘前に くことを喜ばなかった。中にも抽斎と 親善 しんぜん であった比良野 貞固 さだかた は、抽斎のこの議を唱うるを聞いて、 きた って論難した。議 からざるにあらずといえども、江戸に生れ江戸に長じたる士人とその家族とをさえ、 ことごと く窮北の地に うつ そうとするは、忍べるの甚しきだというのである。抽斎は貞固の説を以て、情に偏し義に失するものとなして聴かなかった。貞固はこれがために一時抽斎と まじわり を絶つに至った。
 この頃 国勝手 くにがって の議に同意していた人々の うち 、津軽家の継嗣問題のために罪を獲たものがあって、 かの 議を唱えた抽斎らは肩身の狭い おもい をした。継嗣問題とは当主 順承 ゆきつぐ が肥後国熊本の城主細川越中守 斉護 なりもの の子 寛五郎 のぶごろう 承昭 つぐてる を養おうとするに起った。順承は むすめ 玉姫 たまひめ を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所 大川端 おおかわばた 邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に もら い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち 側用人 そばようにん 加藤清兵衛、用人兼松 伴大夫 はんたゆう は帰国の うえ 隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上 なが 蟄居 ちっきょ を命ぜられた。
  石居 せききょ 即ち兼松三郎は後に 夢醒 むせい と題して 七古 しちこ を作った。 うち に「 又憶世子即世後 またおもうせいしそくせいののち 継嗣未定物議伝 けいしいまださだまらずぶつぎつたう 不顧身分有所建 みぶんをかえりみずけんずるところあり 因冒譴責坐北遷 よりてけんせきをおかしてほくせんにざす 」の句がある。その とがめ を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「 菅公遇譖 かんこうたまたまそしられ 屈原独清 くつげんはひとりきよし 、」という語があった。
 この年抽斎の次男矢島 優善 やすよし は、遂に素行修まらざるがために、 表医者 おもていしゃ へん して 小普請 こぶしん 医者とせられ、抽斎もまたこれに 連繋 れんけい して閉門 三日 さんじつ に処せられた。

その五十

 優善の 夥伴 なかま になっていた塩田 良三 りょうさん は、父の勘当を こうむ って、抽斎の家の 食客 しょっかく となった。我子の 乱行 らんぎょう のために せめ を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であったらしい。抽斎は人の 寸長 すんちょう をも みのが さずに、これに 保護 ほうご を加えて、 ほとん どその 瑕疵 かし を忘れたるが如くであった。年来森 枳園 きえん 扶掖 ふえき しているのもこれがためである。今良三を家に置くに至ったのも、良三に幾分の才気のあるのを認めたからであろう。 もと より抽斎の もと には、常に数人の諸生が養われていたのだから、良三はただこの むれ あらた きた り加わったに過ぎない。
  数月 すうげつ のち に、抽斎は良三を 安積艮斎 あさかごんさい の塾に住み込ませた。これより先艮斎は天保十三年に故郷に帰って、 二本松 にほんまつ にある藩学の教授になったが、弘化元年に再び江戸に来て、嘉永二年以来 昌平黌 しょうへいこう の教授になっていた。抽斎は の終始 濂渓 れんけい の学を奉じていた艮斎とは深く交らなかったのに、これに良三を託したのは、良三の 吏材 りさい たるべきを知って、これを培養することを はか ったのであろう。
 抽斎の先妻徳の 里方 さとかた 岡西氏では、この年七月二日に徳の父栄玄が歿し、次いで十一月十一日に徳の兄玄亭が歿した。
 栄玄は医を以て阿部家に仕えた。長子玄亭が蘭軒門下の俊才であったので、抽斎はこれと まじわり を訂し、遂にその妹徳を めと るに至ったのである。徳の亡くなった のち も、次男優善がその しゅつ であるので、抽斎 一家 いっけ は岡西氏と常に往来していた。
 栄玄は 樸直 ぼくちょく な人であったが、往々性癖のために言行の 規矩 きく ゆるを見た。かつて八文の煮豆を買って 鼠不入 ねずみいらず の中に蔵し、しばしばその存否を検したことがある。また或日 ぶり 一尾を携え来って、抽斎に おく り、帰途に再び わんことを約して去った。五百はために 酒饌 しゅぜん を設けようとして すこぶ る苦心した。それは栄玄が ぜん に対して 奢侈 しゃし を戒めたことが数次であったからである。抽斎は遺られた所の海を きょう することを命じた。栄玄は来て饗を受けたが、 いろ 悦ばざるものの如く、遂に「客にこんな 馳走 ちそう をすることは、わたしの うち ではない」といった。五百が「これはお持たせでございます」といったが、栄玄は聞えぬふりをしていた。調理法が 好過 よす ぎたのであろう。
  もっと も抽斎をして不平に堪えざらしめたのは、栄玄が庶子 とま を遇することの甚だ薄かったことである。苫は栄玄が 厨下 ちゅうか に生せた むすめ である。栄玄はこれを認めて子としたのに、「あんなきたない子は畳の上には置かれない」といって、板の ござ を敷いて寝させた。当時栄玄の妻は既に歿していたから、これは 河東 かとう 獅子吼 ししく を恐れたのではなく、全く主人の性癖のためであった。抽斎は五百に はか って苫を貰い受け、後 下総 しもうさ の農家に嫁せしめた。
 栄玄の子で、父に遅るること わずか 四月 しげつ にして歿した玄亭は、名を 徳瑛 とくえい あざな 魯直 ろちょく といった。抽斎の友である。玄亭には二男一女があった。長男は玄庵、次男は養玄である。 むすめ は名を はつ といった。
 この年抽斎は五十二歳、五百は四十一歳であった。抽斎が 平生 へいぜい の学術上 研鑽 けんさん の外に最も多く おもい を労したのは何事かと問うたなら、恐らくはその五十二歳にして提起した 国勝手 くにがって の議だといわなくてはなるまい。この議のまさに及ぼすべき影響の大きさと、この議の打ち たなくてはならぬ抗抵の強さとは、抽斎の十分に意識していた所であろう。抽斎はまた自己がその くらい にあらずして言うことの不利なるをも知らなかったのではあるまい。然るに抽斎のこれを あえ てしたのは、必ず内にやむことをえざるものがあって敢てしたのであろう。 うら むらくは要路に取ってこれを用いる手腕のある人がなかったために、弘前は遂に東北諸藩の間において一頭地を抜いて つことが出来なかった。また遂に勤王の 旗幟 きし あきらか にする時期の早きを致すことが出来なかった。

その五十一

 安政四年には抽斎の七男 成善 しげよし が七月二十六日を以て生れた。 小字 おさなな 三吉 さんきち 、通称は 道陸 どうりく である。即ち今の たもつ さんで、父は五十三歳、母は四十二歳の時の子である。
 成善の生れた時、岡西玄庵が 胞衣 えな を乞いに来た。玄庵は父玄亭に似て 夙慧 しゅくけい であったが、嘉永三、四年の頃 癲癇 てんかん を病んで、低能の人と化していた。天保六年の うまれ であったから、病を発したのが十六、七歳の時で、今は二十三歳になっている。胞衣を乞うのは、癲癇の 薬方 やくほう として用いんがためであった。
 抽斎夫婦は喜んでこれに応じたので、玄庵は成善の胞衣を持って帰った。この時これを惜んで 一夜 ひとよ を泣き明したのは、昔抽斎の父 允成 ただしげ の茶碗の 余瀝 よれき ねぶ ったという老尼 妙了 みょうりょう である。妙了は年久しく渋江の家に寄寓していて、 つね 小児 しょうに の世話をしていたが、中にも抽斎の三女 とう を愛し、今また成善の生れたのを見て、大いにこれを愛していた。それゆえ胞衣を玄庵に与えることを嫌った。俗説に胞衣を人に奪われた子は育たぬというからである。
 この年 さき 貶黜 へんちつ せられた抽斎の次男矢島 優善 やすよし は、 わずか 表医者 おもていしゃ すけ を命ぜられて、 なかば その位地を回復した。優善の友塩田 良三 りょうさん 安積艮斎 あさかごんさい の塾に入れられていたが、或日師の金百両を ふところ にして長崎に はし った。父楊庵は金を安積氏に かえ し、人を九州に って子を連れ戻した。良三はまだ のこり の金を持っていたので、迎えに来た男を したが えて東上するのに、駅々で人に おご ること貴公子の如くであった。この時肥後国熊本の城主細川越中守 斉護 なりもり の四子 寛五郎 のぶごろう は、津軽 順承 ゆきつぐ 女壻 じょせい にせられて東上するので、途中良三と旅宿を同じうすることがあった。斉護は子をして 下情 かじょう に通ぜしめんことを欲し、特に微行を命じたので、寛五郎と従者とは始終質素を旨としていた。 驕子 きょうし 良三は往々五十四万石の細川家から、十万石の津軽家に壻入する若殿を しの いで、旅中 下風 かふう に立っている少年の たれ なるかを知らずにいた。寛五郎は今の津軽伯で、当時 わずか に十七歳であった。
 小野氏ではこの年 令図 れいと が致仕して、子 富穀 ふこく が家督した。令図は 小字 おさなな 慶次郎 けいじろう という。抽斎の祖父 本皓 ほんこう の庶子で、母を横田氏よのという。よのは武蔵国 川越 かわごえ の人某の むすめ である。令図は でて同藩の医官二百石 小野道秀 おのどうしゅう 末期 まつご 養子となり、 有尚 ゆうしょう と称し、 のち また 道瑛 どうえい と称し、累進して近習医者に至った。天明三年十一月二十六日 うまれ で、致仕の時七十五歳になっていた。令図に一男一女があって、 だん 富穀 ふこく といい、 じょ ひで といった。
 富穀、通称は祖父と同じく道秀といった。文化四年の うまれ である。十一歳にして、森 枳園 きえん と共に抽斎の 弟子 ていし となった。家督の時は表医者であった。令図、富穀の父子は共に貨殖に長じて、弘前藩 定府 じょうふ 中の 富人 ふうじん であった。妹秀は 長谷川町 はせがわちょう の外科医 鴨池道碩 かもいけどうせき に嫁した。
 多紀氏ではこの年二月十四日に、矢の倉の 末家 ばつけ さいてい が六十三歳で歿し、十一月に むこう 柳原 やなぎはら の本家の暁湖が五十二歳で歿した。わたくしの所蔵の安政四年「武鑑」は、庭が既に いて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、庭の子 安琢 あんたく が多紀安琢二百俵、父 楽春院 らくしゅんいん として載せてあり、暁湖は旧に って多紀 安良 あんりょう 法眼 ほうげん 二百俵、父 安元 あんげん として載せてある。庭の楽真院を、「武鑑」には前から楽春院に作ってある。その なん の故なるを つまびらか にしない。

その五十二

  さいてい 、名は 元堅 げんけん あざな 亦柔 えきじゅう 、一に 三松 さんしょう と号す。通称は 安叔 あんしゅく のち 楽真院また楽春院という。寛政七年に 桂山 けいざん の次男に生れた。幼時犬を たたか わしむることを好んで、学業を事としなかったが、人が父兄に かずというを以て責めると、「今に見ろ、立派な医者になって見せるから」といっていた。 いくばく もなくして節を折って書を読み、精力 しゅう え、識見 ひと を驚かした。分家した はじめ 本石町 ほんこくちょう に住していたが、後に矢の倉に移った。侍医に任じ、法眼に叙せられ、次で法印に進んだ。 秩禄 ちつろく 宗家 そうか と同じく二百俵三十人扶持である。
  庭は治を請うものがあるときは、貧家といえども必ず応じた。そして単に 薬餌 やくじ を給するのみでなく、夏は かや おく り、冬は 布団 ふとん おく った。また三両から五両までの金を、 貧窶 ひんる の度に従って与えたこともある。
  庭は抽斎の最も親しい友の 一人 ひとり で、 二家 にか の往来は 頻繁 ひんぱん であった。しかし当時法印の位は はなは とうと いもので、庭が渋江の家に来ると、茶は台のあり ふた のある茶碗に ぎ、菓子は 高坏 たかつき に盛って出した。この うつわ は大名と多紀法印とに 茶菓 ちゃか を呈する時に限って用いたそうである。庭の のち 安琢 あんたく いだ。
 暁湖、名は元、字は 兆寿 ちょうじゅ 、通称は 安良 あんりょう であった。桂山の孫、 りゅうはん の子である。文化三年に生れ、文政十年六月三日に父を うしな って、八月四日に宗家を継承した。暁湖の のち いだのは養子 元佶 げんきつ で、実は すえ の弟である。
 安政五年には二月二十八日に、抽斎の七男 成善 しげよし が藩主津軽 順承 ゆきつぐ に謁した。年 はじめ て二歳、今の よわい を算する法に従えば、生れて七カ月であるから、人に いだ かれて謁した。しかし謁見は八歳以上と定められていたので、この日だけは八歳と披露したのだそうである。
 五月十七日には七女 さき が生れた。幸は越えて七月六日に早世した。
 この年には七月から九月に至るまで 虎列拉 コレラ が流行した。徳川家定は八月二日に、「少々 御勝不被遊 おんすぐれあそばされず 」ということであったが、八日には たちま 薨去 こうきょ の公報が発せられ、 家斉 いえなり の孫紀伊宰相 慶福 よしとみ が十三歳で 嗣立 しりつ した。家定の病は虎列拉であったそうである。
 この頃抽斎は 五百 いお にこういう話をした。「 おれ は公儀へ召されることになるそうだ。それが近い事で 公方様 くぼうさま の喪が済み次第 仰付 おおせつ けられるだろうということだ。しかしそれをお うけ をするには、どうしても津軽家の方を辞せんではいられない。己は元禄以来重恩の 主家 しゅうけ てて栄達を はか る気にはなられぬから、公儀の方を辞するつもりだ。それには病気を申立てる。そうすると、津軽家の方で勤めていることも出来ない。己は隠居することに めた。父は五十九歳で隠居して七十四歳で亡くなったから、己も かね て五十九歳になったら隠居しようと思っていた。それがただ少しばかり早くなったのだ。もし父と同じように、七十四歳まで生きていられるものとすると、これから先まだ二十年ほどの月日がある。これからが己の世の中だ。己は著述をする。先ず『 老子 ろうし 』の註を はじめ として、迷庵 えきさい に誓った 為事 しごと を果して、それから自分の為事に掛かるのだ」といった。公儀へ召されるといったのは、奥医師などに召し出されることで、抽斎はその内命を受けていたのであろう。然るに運命は抽斎をしてこのヂレンマの前に立たしむるに至らなかった。また抽斎をして力を述作に ほしいまま にせしむるに至らなかった。

その五十三

 八月二十二日に抽斎は常の如く 晩餐 ばんさん ぜん に向った。しかし五百が酒を すす めた時、抽斎は 下物 げぶつ 魚膾 さしみ はし くだ さなかった。「なぜ あが らないのです」と問うと、「少し腹工合が悪いからよそう」といった。翌二十三日は浜町中屋敷の当直の日であったのを、所労を以て辞した。この日に始て 嘔吐 おうど があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
 多紀 安琢 あんたく おなじく 元佶 げんきつ 、伊沢柏軒、山田 椿庭 ちんてい らが 病牀 びょうしょう に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は 業広 ぎょうこう 、通称は 昌栄 しょうえい である。抽斎の父 允成 ただしげ の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。 上野国 こうずけのくに 高崎の城主松平 右京亮 うきょうのすけ 輝聡 てるとし の家来で、本郷 弓町 ゆみちょう に住んでいた。
 抽斎は 時々 じじ 譫語 せんご した。これを聞くに、 夢寐 むび あいだ に『医心方』を 校合 きょうごう しているものの如くであった。
 抽斎の病況は二十八日に小康を得た。 遺言 ゆいごん うち に、兼て嗣子と定めてあった 成善 しげよし を教育する方法があった。 経書 けいしょ を海保漁村に、 筆札 ひっさつ を小島成斎に、『 素問 そもん 』を多紀安琢に受けしめ、機を 蘭語 らんご を学ばしめるようにというのである。
 二十八日の夜 うし の刻に、抽斎は遂に絶息した。即ち二十九日午前二時である。年は五十四歳であった。 遺骸 いがい 谷中 やなか 感応寺に葬られた。
 抽斎の歿した跡には、四十三歳の 未亡人 びぼうじん 五百を始として、岡西氏の しゅつ 次男矢島 優善 やすよし 二十四歳、四女 くが 十二歳、六女 水木 みき 六歳、五男 専六 せんろく 五歳、六男 翠暫 すいざん 四歳、七男 成善 しげよし 二歳の四子二女が残った。優善を除く外は皆山内氏五百の しゅつ である。
 抽斎の子にして父に さきだ って死んだものは、尾島氏の しゅつ 長男 恒善 つねよし 、比良野氏の出馬場 玄玖 げんきゅう 妻長女 いと 、岡西氏の出二女 よし 、三男八三郎、山内氏の出三女山内 とう 、四男幻香、五女 癸巳 きし 、七女 さき の三子五女である。
 矢島優善はこの年二月二十八日に津軽家の表医者にせられた。 はじめ の地位に復したのである。
 五百の姉壻長尾宗右衛門は、抽斎に さきだ つこと 一月 いちげつ 、七月二十日に同じ病を得て歿した。次で十一月十五日の火災に、横山町の店も本町の宅も皆焼けたので、 塗物問屋 ぬりものどいや の業はここに廃絶した。跡に のこ ったのは未亡人安四十四歳、長女 けい 二十一歳、次女 せん 十九歳の三人である。五百は台所町の やしき 空地 くうち に小さい家を建ててこれを迎え入れた。五百は敬に壻を取って長尾氏の まつり を奉ぜしめようとして、安に説き勧めたが、安は猶予して決することが出来なかった。
 比良野 貞固 さだかた は抽斎の歿した直後から、 しきり に五百に説いて、渋江氏の家を挙げて比良野邸に寄寓せしめようとした。貞固はこういった。自分は一年 ぜん に抽斎と藩政上の意見を異にして、一時絶交の姿になっていた。しかし抽斎との 情誼 じょうぎ を忘るることなく、早晩 疇昔 ちゅうせき したし みを回復しようと思っているうちに、図らずも抽斎に死なれた。自分はどうにかして旧恩に報いなくてはならない。自分の邸宅には 空室 くうしつ が多い。どうぞそこへ移って来て、 我家 わがいえ に住む如くに住んでもらいたい。自分は まずし いが、 日々 にちにち の生計には余裕がある。決して衣食の あたい は申し受けない。そうすれば渋江 一家 いっけ は寡婦孤児として受くべき あなどり を防ぎ、無用の ついえ を節し、安んじて子女の成長するのを待つことが出来ようといったのである。

その五十四

 比良野貞固は抽斎の遺族を自邸に迎えようとして、五百に説いた。しかしそれは五百を らぬのであった。五百は人の 廡下 ることを甘んずる女ではなかった。渋江一家の生計は縮小しなくてはならぬこと 勿論 もちろん である。夫の存命していた時のように、多くの 奴婢 ぬひ を使い、 食客 しょっかく くことは出来ない。しかし譜代の若党や老婦にして放ち遣るに忍びざるものもある。寄食者の うち には去らしめようにも いて投ずべき家のないものもある。長尾氏の遺族の如きも、もし独立せしめようとしたら、定めて心細く思うことであろう。五百は おのれ が人に らんよりは、人をして己に倚らしめなくてはならなかった。そして内に たの む所があって、 あえ て自らこの しょう に当ろうとした。貞固の勧誘の功を奏せなかった 所以 ゆえん である。
 森 枳園 きえん はこの年十二月五日に徳川 家茂 いえもち に謁した。寿蔵碑には「安政五年 戊午 ぼご 十二月五日、初謁見将軍徳川家定公」と書してあるが、この 年月日 ねんげつじつ は家定が こう じてから 四月 しげつ のち である。その枳園自撰の文なるを思えば、 すこぶ あやし むべきである。枳園が謁したはずの家茂は十三歳の少年でなくてはならない。家定はこれに反して、薨ずる時三十五歳であった。
 この年の 虎列拉 コレラ は江戸市中において二万八千人の犠牲を求めたのだそうである。当時の 聞人 ぶんじん でこれに死したものには、 岩瀬京山 いわせけいざん 安藤広重 あんどうひろしげ 抱一 ほういつ 門の 鈴木必庵 すずきひつあん 等がある。 市河米庵 いちかわべいあん も八十歳の高齢ではあったが、同じ病であったかも知れない。渋江氏とその 姻戚 いんせき とは抽斎、宗右衛門の 二人 ににん うしな って、五百、安の姉妹が同時に未亡人となったのである。
 抽斎の あらわ す所の書には、先ず『経籍訪古志』と『 留真譜 りゅうしんふ 』とがあって、 相踵 あいつ いで支那人の手に って刊行せられた。これは抽斎とその師、その友との講窮し得たる果実で、森枳園が記述に あずか ったことは既にいえるが如くである。抽斎の考証学の一面はこの二書が代表している。 徐承祖 じょしょうそ が『訪古志』に序して、「 大抵論繕写刊刻之工 たいていはぜんしゃかんこくのこうをろんじ 拙於考証 こうしょうにつたなく 不甚留意 はなはだしくはりゅういせず 」といっているのは、我国において はじめ て手を 校讐 こうしゅう の事に くだ した抽斎らに対して、備わるを求むることの はなは だ過ぎたるものではなかろうか。
 我国における考証学の系統は、海保漁村に従えば、 吉田篁 よしだこうとん が首唱し、 狩谷斎 えきさい がこれに継いで起り、以て抽斎と枳園とに及んだものである。そして篁の傍系には多紀桂山があり、斎の傍系には市野迷庵、 多紀庭 さいてい 、伊沢蘭軒、 小島宝素 こじまほうそ があり、抽斎と枳園との傍系には多紀暁湖、伊沢柏軒、小島 抱沖 ほうちゅう 、堀川舟庵と漁村自己とがあるというのである。宝素は元表医師百五十俵三十人扶持小島春庵で、 和泉橋通 いずみばしどおり に住していた。名は 尚質 しょうしつ 、一 学古 がくこ である。抱沖はその子 春沂 しゅんき で、百俵 寄合 よりあい 医師から出て父の職を ぎ、家は初め 下谷 したや 二長町 にちょうまち 、後 日本橋 にほんばし 榑正町 くれまさちょう にあった。名は 尚真 しょうしん である。春沂の のち 春澳 しゅんいく 、名は 尚絅 しょうけい いだ。春澳の子は現に北海道 室蘭 むろらん にいる 杲一 こういち さんである。 陸実 くがみのる が新聞『日本』に抽斎の略伝を載せた時、誤って宝素を小島成斎とし、抱沖を成斎の子としたが、今に いた るまで たれ もこれを ただ さずにいる。またこの学統について、 長井金風 ながいきんぷう さんは篁の前に 井上蘭台 いのうえらんだい と井上 金峨 きんが とを加えなくてはならぬといっている。要するにこれらの諸家が新に考証学の領域を開拓して、抽斎が枳園と共に、まさに わずか に全著を成就するに至ったのである。
 わたくしは『訪古志』と『留真譜』との二書は、今少し重く評価して可なるものであろうと思う。そして 頃日 けいじつ 国書刊行会が『訪古志』を『解題叢書』中に収めて縮刷し、その伝を弘むるに至ったのを喜ぶのである。

その五十五

 抽斎の医学上の著述には、『 素問識小 そもんしきしょう 』、『素問校異』、『 霊枢 れいすう 講義』がある。 就中 なかんずく 『素問』は抽斎の精を つく して研窮した所である。海保漁村撰の墓誌に、抽斎が『 説文 せつもん 』を引いて『素問』の陰陽結斜は 結糾 けつきゅう なりと説いたことが載せてある。また七損八益を説くに、『 玉房秘訣 ぎょくぼうひけつ 』を引いて説いたことが載せてある。『霊枢』の如きも「 不精則不正当人言亦人人異 せいならざればすなわちせいとうたらずじんげんまたじんじんことなる 」の文中、抽斎が正当を 連文 れんぶん となしたのを賞してある。抽斎の説には発明 きわめ て多く、 かく の如き類はその 一斑 いっぱん に過ぎない。
 抽斎遺す所の 手沢本 しゅたくぼん には、往々欄外書のあるものを見る。此の如き本には『老子』がある。『 難経 なんけい 』がある。
 抽斎の詩はその余事に過ぎぬが、なお『抽斎吟稿』一巻が存している。以上は漢文である。
『護痘要法』は抽斎か池田 京水 けいすい の説を 筆受 ひつじゅ したもので、抽斎の著述中江戸時代に刊行せられた唯一の書である。
 雑著には『 晏子 あんし 春秋筆録』、『劇神仙話』、『 高尾考 たかおこう 』がある。『劇神仙話』は長島五郎作の こと を録したものである。『高尾考』は おし むらくは完書をなしていない。
※語 えいご

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[#「衞/心」、165-14]
』は抽斎が国文を以て学問の法程を して、 及門 きゅうもん の子弟に示す小冊子に命じた名であろう。この文の末尾に「天保 辛卯 しんぼう 季秋 きしゅう 抽斎 酔睡 すいすい 中に ※言 えいげん
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[#「衞/心」、165-15]
す」と書してある。辛卯は天保二年で、抽斎が二十七歳の時である。しかし現存している一巻には、この国文八枚が 紅色 こうしょく の半紙に写してあって、その前に白紙に写した漢文の草稿二十九枚が 合綴 ごうてつ してある。その もく を挙ぐれば、 煩悶異文弁 はんもんいぶんべん 仏説阿弥陀経碑 ぶっせつあみだきょうひ 、春秋外伝国語 ばつ 荘子注疏 そうしちゅうそ 跋、儀礼跋、 八分書孝経 はちふんしょこうきょう 跋、 橘録 きつろく 跋、 沖虚至徳真経釈文 ちゅうきょしとくしんきょうしゃくぶん 跋、 青帰 せいき 書目蔵書目録跋、活字板 左伝 さだん 跋、宋本校正病源候論跋、 元板 げんはん 再校 千金方 せんきんほう 跋、 書医心方後 いしんほうののちにしょす 知久吉正翁墓碣 ちくよしまさおうぼけつ 駱駝考 らくだこう たんたん 、論語義疏跋、 告蘭軒先生之霊 らんけんせんせいのれいにつぐ の十八篇である。この一冊は表紙に「※
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[#「衞/心」、166-6]
語、抽斎述」の五字が 篆文 てんぶん で題してあって、首尾 すべ て抽斎の自筆である。 徳富蘇峰 とくとみそほう さんの蔵本になっているのを、わたくしは借覧した。
 抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今 すで 佚亡 いつぼう したものもある。 就中 なかんずく 日記は文政五年から安政五年に至るまでの三十七年間にわたる記載であって、 ほうぜん たる大冊数十巻をなしていた。これは かみ ただ ちに天明四年から天保八年に至るまでの五十四年間の 允成 ただしげ の日記に接して、その中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は父子の記載が並存していたのである。この一大記録は明治八年二月に至るまで、 たもつ さんが蔵していた。然るに保さんは 東京 とうけい から浜松県に赴任するに臨んで、これを 両掛 りょうがけ に納めて、親戚の家に託した。親戚はその貴重品たるを知らざるがために、これに十分の 保護 ほうご を加うることを怠った。そして ことごと くこれを失ってしまった。両掛の中にはなお前記の抽斎随筆等十余冊があり、また允成の あらわ す所の『 定所 ていしょ 雑録』等約三十冊があった。 おも うにこの諸冊は既に 屏風 びょうぶ ふすま 葛籠 つづら 等の 下貼 したばり の料となったであろうか。それとも 何人 なにひと かの手に帰して、 何処 どこ かに埋没しているであろうか。これを 捜討 そうとう せんと欲するに、由るべき道がない。保さんは今にるまで歎惜して まぬのである。
直舎 ちょくしゃ 伝記抄』八冊は今富士川游君が蔵している。中に題号を いたものが三冊交っているが、主に弘前医官の宿直部屋の日記を抄写したものである。 かみ は宝永元年から しも は天保九年に至る。 所々 しょしょ ぜん いわく 低書 ていしょ した註がある。宝永元年から天明五年に至る最古の一冊は題号がなく、引用書として『津軽一統志』、『津軽軍記』、『 津陽 しんよう 開記』、『 御系図 ごけいず 三通』、『歴年 亀鑑 きかん 』、『 孝公行実 こうこうぎょうじつ 』、『常福寺 由緒書 ゆいしょがき 』、『 津梁 しんりょう 院過去帳抄』、『 伝聞 でんぶん 雑録』、『 東藩 とうはん 名数』、『 高岡霊験記 たかおかれいげんき 』、『諸書 案文 あんもん 』、『 藩翰譜 はんかんぷ 』が挙げてある。これは諸書について、主に弘前医官に関する事を抄出したものであろう。
つの海』は抽斎の作った 謡物 うたいもの 長唄 ながうた である。これは書と称すべきものではないが、前に挙げた『護痘要法』と とも に、江戸時代に刊行せられた二、三葉の 綴文 とじぶみ である。
『仮面の由来』、これもまた 片々 へんぺん たる小冊子である。

その五十六

呂后千夫 りょこうせんふ 』は抽斎の作った小説である。 庚寅 かのえとら の元旦に書いたという自序があったそうであるから、その前年に成ったもので、即ち文政十二年二十五歳の時の作であろう。この小説は 五百 いお が来り嫁した頃には、まだ渋江の家にあって、五百は 数遍 すへん 読過したそうである。或時それを 筑山左衛門 ちくさんさえもん というものが借りて往った。筑山は 下野国 しもつけのくに 足利 あしかが の名主だということであった。そして つい かえ さずにしまった。以上は国文で書いたものである。
 この著述の うち 刊行せられたものは『経籍訪古志』、『留真譜』、『護痘要法』、『四つの海』の四種に過ぎない。その他は皆写本で、徳富蘇峰さんの所蔵の『 ※語 えいご

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[#「衞/心」、168-8]
』、富士川游さんの所蔵の『 直舎 ちょくしゃ 伝記抄』 および すで 散佚 さんいつ した諸書を除く外は、皆 たもつ さんが蔵している。
 抽斎の著述は おおむ かく の如きに過ぎない。致仕した のち に、力を述作に ほしいまま にしようと期していたのに、不幸にして 疫癘 えきれい のために めい おと し、かつて内に蓄うる所のものが、遂に ほか あらわ るるに及ばずして んだのである。
 わたくしは ここ に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って 渾侖 こんろん に承認すべきものではない。 ここ において考証家の 末輩 まつばい には、破壊を以て校勘の目的となし、 ごう もピエテエの あと を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、 もと より 人文 じんぶん 進化の道を 蔽塞 へいそく すべき 陋見 ろうけん であるが、考証学者中に往々修養のない人物を だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。
 しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の まった からんことを欲するには、考証を くことは出来ぬと信じている。 何故 なにゆえ というに、修養には 六経 りくけい を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に つことがあるというのである。
 抽斎はその『 ※語 えいご
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[#「衞/心」、169-9]
』中にこういっている。「 およ そ学問の道は、 六経 りくけい を治め 聖人 せいじん の道を身に行ふを主とする事は 勿論 もちろん なり。 さて その 六経を読み あきら めむとするには必ず其 一言 いちげん 一句をも つまびらか に研究せざるべからず。一言一句を研究するには、 文字 もんじ の音義を つまびらか にすること肝要なり。文字の音義を詳にするには、 づ善本を多く求めて、異同を 比讐 ひしゅう し、 謬誤 びゅうご を校正し、其字句を定めて のち に、小学に熟練して、義理始て明了なることを たと へば高きに登るに、 ひく きよりし、遠きに至るに近きよりするが如く、小学を治め字句を校讐するは、 細砕 さいさい 末業 まつぎょう に似たれども、必ずこれをなさざれば、聖人の大道微意を明むること あた はず。(中略)故に百家の書読まざるべきものなく、さすれば人間一生の内になし得がたき 大業 たいぎょう に似たれども、其内 しゅ とする所の書を もっぱ ら読むを緊務とす。それはいづれにも師とする所の人に したが ひて おしえ を受くべき所なり。さて かく の如く小学に熟練して後に、六経を窮めたらむには、聖人の大道微意に通達すること必ず成就すべし」といっている。
 これは抽斎の本領を道破したもので、考証なしには六経に通ずることが出来ず、六経に通ずることが出来なくては、何に って修養して いか分からぬことになるというのである。さて抽斎の かく の如き見解は、全く師市野迷庵の おしえ に本づいている。

その五十七

 迷庵の考証学が 奈何 いか なるものかということは、『読書指南』について見るべきである。しかしその要旨は自序一篇に尽されている。迷庵はこういった。「 孔子 こうし 堯舜 ぎょうしゅん 三代の道を述べて、 その 流義を立て たま へり。堯舜より以下を取れるは、其事の あきらか に伝はれる所なればなり。されども春秋の ころ にいたりて、世変り時 うつ りて、其道一向に用ゐられず。孔子も つては見給へども、遂に行かず。 つい かえ り、六経を修めて後世に伝へらる。これその堯舜三代の道を認めたまふゆゑなり。儒者は孔子をまもりて其経を修むるものなり。故に儒者の道を学ばむと思はゞ、先づ文字を 精出 せいだ して覚ゆるがよし。次に 九経 きゅうけい をよく読むべし。漢儒の注解はみな いにしえ より伝受あり。自分の 臆説 おくせつ をまじへず。故に伝来を守るが儒者第一の仕事なり。(中略)宋の時 程頤 ていい 朱熹 しゅき おの が学を建てしより、近来 伊藤源佐 いとうげんさ 荻生惣右衛門 おぎゅうそうえもん などと ふやから、みな おのれ の学を学とし、是非を争ひてやまず。世の儒者みな 真闇 まっくら になりてわからず。余も また わか かりしより この 事を学びしが、迷ひてわからざりし。ふと解する所あり。学令の むね にしたがひて、それ/″\の古書をよむがよしと思へり」といった。
 要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に って至るより外ないと信じたのである。 もと よりこれは 捷径 しょうけい ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために 一人 いちにん の生涯を ついや すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は ここ に従事せずにはいられぬのである。
 然らば学者は考証中に没頭して、修養に いとま がなくなりはせぬか。いや。そうではない。考証は考証である。修養は修養である。学者は考証の長途を歩みつつ、不断の修養をなすことが出来る。
 抽斎はそれをこう考えている。百家の書に読まないで いものはない。十三 ぎょう といい、九経といい、六経という。 なら べ方はどうでも好いが、 秦火 しんか かれた 楽経 がくけい は除くとして、これだけは読破しなくてはならない。しかしこれを読破した上は、大いに功を省くことが出来る。「聖人の道と 事々 ことごと しく へども、前に云へる如く、六経を読破したる上にては、論語、老子の二書にて事足るなり。其中にも 過猶不及 すぎたるはなおおよばざるがごとし 身行 しんこう の要とし、 無為不言 ぶいふげん を心術の おきて となす。此二書をさへ く守ればすむ事なり」というのである。
 抽斎は 百尺竿頭 ひゃくせきかんとう 更に一歩を進めてこういっている。「 ただし 論語の内には取捨すべき所あり。 王充 おうじゅう しょ 問孔篇 もんこうへん 及迷庵師の論語数条を論じたる書あり。皆参考すべし」といっている。王充のいわゆる「 夫聖賢下筆造文 それせいけんのふでをくだしぶんをつくるや 用意詳審 いをもちいてくわしくつまびらかにするも 尚未可謂尽得実 なおいまだことごとくはじつをうというべからず 況倉卒吐言 いわんやそうそつのとげん 安能皆是 いずくんぞよくみなぜならんや 」という見識である。
 抽斎が『老子』を以て『論語』と並称するのも、師迷庵の説に本づいている。「天は 蒼々 そうそう として かみ にあり。人は 両間 りょうかん に生れて性皆相近し。 ならい 相遠きなり。世の始より性なきの人なし。習なきの俗なし。世界万国皆其国々の習ありて同じからず。其習は本性の如く人にしみ附きて離れず。老子は自然と説く。 これ 。孔子 いわく 述而不作 のべてつくらず 信而好古 しんじていにしえをこのむ 窃比我於老彭 ひそかにわれをろうほうにひす 。かく 宣給 のたも ふときは、孔子の意も また 自然に相近し」といったのが即ちこれである。

その五十八

 抽斎は『老子』を 尊崇 そんそう せんがために、先ずこれをヂスクレヂイに おとし いれた仙術を、道教の 畛域 しんいき 外に うことを はか った。これは早く しん 方維甸 ほういでん 嘉慶板 かけいばん の『 抱朴子 ほうぼくし 』に序して弁じた所である。さてこの 洗冤 せんえん おこな った のち にこういっている。「老子の道は孔子と異なるに似たれども、その帰する所は一意なり。 不患人不己知 ひとのおのれをしらざるをうれえず 曾子 そうし 有若無 あれどもなきがごとく 実若虚 じつなれどもきょなるがごとし などと へる、皆老子の意に近し。 かつ 自然と云ふこと、万事にわたりて然らざることを得ず。(中略)又 仏家 ぶっか 漠然 まくねん に帰すると云ふことあり。 くう に体する大乗の おしえ なり。自然と云ふより一層あとなき こと なり。その小乗の教は一切の事皆式に依りて行へとなり。孔子の道も 孝悌 こうてい 仁義 じんぎ より初めて諸礼法は仏家の小乗なり。その 一以貫之 いつもってこれをつらぬく は此教を一にして 執中 しっちゅう に至り初て仏家大乗の 一場 いちじょう に至る。執中以上を語れば、孔子釈子同じ事なり」といっている。
 抽斎は つい に儒、道、釈の三教の帰一に到着した。もしこの人が旧新約書を読んだなら、あるいはその うち にも 契合点 けいごうてん を見出だして、 安井息軒 やすいそっけん の『 弁妄 べんもう 』などと全く趣を こと にした書を あらわ したかも知れない。
 以上は抽斎の手記した文について、その心術 身行 しんこう って きた る所を求めたものである。この外、わたくしの手元には一種の語録がある。これは 五百 いお が抽斎に聞き、保さんが五百に聞いた所を、 頃日 このごろ 保さんがわたくしのために筆に のぼ せたのである。わたくしは今 みだり に潤削を施すことなしに、これを ここ に収めようと思う。
 抽斎は日常宋儒のいわゆる 虞廷 ぐてい の十六字を口にしていた。 の「 人心惟危 じんしんこれあやうく 道心惟微 どうしんこれびなり 惟精惟一 これせいこれいつ 允執厥中 まことにそのちゆをとる 」の文である。 かみ の三教帰一の教は即ちこれである。抽斎は古文尚書の伝来を信じた人ではないから、これを以て堯の舜に告げた こと となしたのでないことは勿論である。そのこれを尊重したのは、 古言 こげん 古義として尊重したのであろう。そして 惟精惟一 これせいこれいつ の解釈は 王陽明 おうようめい に従うべきだといっていたそうである。
 抽斎は『 れい 』の「 清明在躬 せいめいみにあれば 志気如神 しきしんのごとし 」の句と、『 素問 そもん 』の 上古天真論 じょうこてんしんろん の「 恬虚無 てんたんとしてきょむならば 真気従之 しんきこれにしたがう 精神内守 せいしんうちにまもれば 病安従来 やまいいずくんぞしたがいきたらん 」の句とを しょう して、修養して心身の 康寧 こうねい を致すことが出来るものと信じていた。抽斎は眼疾を知らない。歯痛を知らない。腹痛は幼い時にあったが、壮年に及んでからは たえ てなかった。しかし 虎列拉 コレラ の如き細菌の伝染をば 奈何 いかん ともすることを得なかった。
 抽斎は自ら戒め人を戒むるに、しばしば 沢山咸 たくざんかん の「 九四爻 きゅうしこう 」を引いていった。学者は 仔細 しさい に「 憧憧往来 しょうしょうとしておうらいすれば 朋従爾思 ともはなんじのおもいにしたがう 」という文を あじわ うべきである。即ち「 君子素其位而行 くんしはそのくらいにそしておこない 不願乎其外 そのほかをねがわず 」の義である。人はその地位に安んじていなくてはならない。父 允成 ただしげ がおる所の しつ 容安室 ようあんしつ と名づけたのは、これがためである。医にして儒を うらや み、商にして士を羨むのは惑えるものである。「 天下何思何慮 てんかなにをかおもいなにをかおもんぱからん 天下同帰而殊塗 てんかきをおなじくしてみちをことにし 一致而百慮 ちをいつにしてりょをひゃくにす 」といい、「 日往則月来 ひゆけばすなわちつききたり 月往則日来 つきゆかばすなわちひきたり 日月相推而明生焉 じつげつあいおしてひかりうまる 寒往則暑来 かんゆけばすなわちしょきたり 暑往則寒来 しょゆけばすなわちかんきたり 寒暑相推而歳成焉 かんしょあいおしてとしなる 」というが如く、人の運命にもまた自然の消長がある。 すべから く自重して時の いた るを待つべきである。
尺蠖之屈 せきかくのくっするは 以求信也 もってのびんことをもとむるなり 龍蛇之蟄 りょうだのかくるるは 以存身也 もってみをながらえるなり 」とはこれの いい であるといった。五百の兄広瀬栄次郎が すで に町人を めて 金座 きんざ の役人となり、その のち 久しく かね 吹替 ふきかえ がないのを見て、また業を あらた めようとした時も、抽斎はこの こう を引いて さと した。

その五十九

 抽斎はしばしば 地雷復 ちらいふく 初九爻 しょきゅうこう を引いて人を諭した。「 不遠復无祗悔 とおからずしてかえるくいにいたることなし 」の爻である。 あやまち を知って く改むる義で、 顔淵 がんえん の亜聖たる 所以 ゆえん ここ に存するというのである。抽斎はいつもその跡で言い足した。しかし顔淵の 好処 こうしょ ただ にこれのみではない。「 回之為人也 かいのひととなりや 択乎中庸 ちゅうようをえらび 得一善 いちぜんをうれば 則拳拳服膺 すなわちけんけんふくようして 而弗失之矣 これをうしなわず 」というのがこれである。孔子が 子貢 しこう にいった語に、顔淵を賞して、「 吾与汝 われとなんじと 弗如也 しかざるなり 」といったのも、これがためであるといった。
 抽斎はかつていった。「 為政以徳 まつりごとをなすにとくをもってすれば 譬如北辰 たとえばほくしんの 居其所 そのところにいて 而衆星共之 しゅうせいのこれにむかうがごとし 」というのは、 ひとり 君道を しか りとなすのみではない。人は皆 奈何 いかに したら衆星が おのれ むか うだろうかと工夫しなくてはならない。 くこれを致すものは即ち「 矩之道 けっくのみち 」である。 韓退之 かんたいし は「 其責己也重以周 そのおのれをせむるやおもくしてもってあまねく 其待人也軽以約 そのひとをまつやかるくしてもってやくす 」といった。人と まじわ るには、その長を取って、その短を とが めぬが い。「 無求備於一人 いちにんにそなわるをもとむるなかれ 」といい、「 及其使人也器之 そのひとをつかうにおよびてやこれをきとす 」というは即ちこれである。これを推し広めて言えば、『老子』の「 治大国 たいこくをおさむるは 若烹小鮮 しょうせんをにるごとし 」という意に 帰著 きちゃく する。「 大道廃有仁義 だいどうすたれてじんぎあり 」といい、「 聖人不死 せいじんはしせざれば 大盗不止 たいとうはやまず 」というのも、その反面を ゆびさ して言ったのである。 おれ も往事を かえりみ れば、 やや もすれば けっく の道において くる所があった。 さい 岡西氏 とく うと んじたなどもこれがためである。 さいわい に父に 匡救 きょうきゅう せられて悔い改むることを得た。 平井東堂 ひらいとうどう は学あり識ある傑物である。然るにその父は用人たることを得て、 おのれ は用人たることを得ない。 おれ はその 何故 なにゆえ なるを知らぬが、修養の足らざるのもまた一因をなしているだろう。比良野助太郎は才に短であるが、人はかえってこれに服する。賦性が おのずか ら矩の道に かな っているのであるといった。
 抽斎はまたいった。『 孟子 もうし 』の好処は 尽心 じんしん の章にある。「 君子有三楽 くんしさんらくあり 而王天下 しかもてんかにおうたるは 不与存焉 あずかりそんぜず 父母倶存 ふぼともにそんし 兄弟無故 けいていことなきは 一楽也 いちらくなり 仰不愧於天 あおぎててんにはじず 俯不於人 ふしてひとにはじざるは 二楽也 にらくなり 得天下英才 てんかのえいさいをえて 而教育之 これをきょういくするは 三楽也 さんらくなり 」というのがこれである。『 韓非子 かんぴし 』は主道、 揚権 ようけん 解老 かいろう 喩老 ゆろう の諸篇が いといった。
 これらの こと を聞いた のち に、抽斎の生涯を回顧すれば、 誰人 たれひと もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は うち 徳義を蓄え、 ほか 誘惑を しりぞ け、 つね おのれ の地位に安んじて、時の到るを待っていた。我らは抽斎の一たび されて ったのを見た。その 躋寿館 せいじゅかん の講師となった時である。我らは抽斎のまさに再び されて辞せんとするのを見た。恐らくはそのまさに奥医師たるべき時であっただろう。進むべくして進み、辞すべくして辞する、その事に処するに、 綽々 しゃくしゃく として余裕があった。抽斎の かん 九四 きゅうし を説いたのは虚言ではない。
 抽斎の森 枳園 きえん における、塩田 良三 りょうさん における、妻岡西氏における、その人を待つこと 寛宏 かんこう なるを見るに足る。抽斎は矩の道において得る所があったのである。
 抽斎の性行とその由って きた る所とは、ほぼ上述の如くである。しかしここにただ一つ あま す所の問題がある。嘉永安政の時代は天下の士人をして ことごと く岐路に立たしめた。勤王に かんか、佐幕に之かんか。時代はその中間において ねずみ いろの生を ぬす むことを ゆる さなかった。抽斎はいかにこれに処したか。
 この間題は抽斎をして思慮を ついや さしむることを要せなかった。 何故 なにゆえ というに、渋江氏の勤王は既に久しく定まっていたからである。

その六十

 渋江氏の勤王はその 源委 げんい つまびらか にしない。しかし抽斎の父允成に至って、師 柴野栗山 しばのりつざん に啓発せられたことは疑を れない。允成が栗山に従学した年月は あきらか でないが、栗山が五十三歳で幕府の めし に応じて江戸に った天明八年には、允成が丁度二十五歳になっていた。家督してから四年の のち である。允成が栗山の門に入ったのは、恐らくはその 久しきを経ざる間の事であっただろう。これは栗山が文化四年十二月 さく に七十二歳で歿したとして推算したものである。
 允成の友にして抽斎の師たりし市野迷庵が勤王家であったことは、その詠史の諸作に徴して知ることが出来る。この詩は維新後森 枳園 きえん が刊行した。抽斎は ただ に家庭において王室を 尊崇 そんそう する心を養成せられたのみでなく、また迷庵の説を聞いて感奮したらしい。
 抽斎の王室における、常に 耿々 こうこう の心を いだ いていた。そしてかつて一たびこれがために身命を あやう くしたことがある。保さんはこれを母五百に聞いたが、 うら むらくはその月日を詳にしない。しかし本所においての出来事で、多分安政三年の頃であったらしいということである。
 或日 手島良助 てじまりょうすけ というものが抽斎に一の秘事を語った。それは江戸にある某 貴人 きにん の窮迫の事であった。貴人は八百両の金がないために、まさに苦境に陥らんとしておられる。手島はこれを調達せんと欲して奔走しているが、これを る道がないというのであった。抽斎はこれを聞いて慨然として献金を思い立った。抽斎は自家の窮乏を口実として、八百両を 先取 さきどり することの出来る 無尽講 むじんこう を催した。そして親戚故旧を会して金を 醵出 きょしゅつ せしめた。
 無尽講の よる 、客が すで に散じた のち 、五百は 沐浴 もくよく していた。 明朝 みょうちょう 金を貴人の もと もたら さんがためである。この金を たてまつ る日は あらかじ め手島をして貴人に もう さしめて置いたのである。
 抽斎は たちま 剥啄 はくたく の声を聞いた。 仲間 ちゅうげん 誰何 すいか すると、某貴人の 使 つかい だといった。抽斎は引見した。来たのは三人の さぶらい である。内密に むね を伝えたいから、 人払 ひとばらい をしてもらいたいという。抽斎は三人を奥の四畳半に いた。三人の言う所によれば、貴人は明朝を待たずして金を獲ようとして、この使を発したということである。
 抽斎は応ぜなかった。この秘事に あずか っている手島は、貴人の もと にあって職を奉じている。金は手島を介して たてまつ ることを約してある。 おもて らざる三人に交付することは出来ぬというのである。三人は手島の来ぬ 事故 じこ を語った。抽斎は信ぜないといった。
 三人は たがい 目語 もくご して身を起し、刀の つか に手を掛けて抽斎を囲んだ。そしていった。我らの こと を信ぜぬというは無礼である。かつ重要の 御使 おんつかい を承わってこれを果さずに かえ っては 面目 めんぼく が立たない。主人はどうしても金をわたさぬか。すぐに返事をせよといった。
 抽斎は坐したままで しばら く口を つぐ んでいた。三人が いつわり の使だということは既に あきらか である。しかしこれと格闘することは、自分の欲せざる所で、また あた わざる所である。家には若党がおり諸生がおる。抽斎はこれを呼ぼうか、呼ぶまいかと思って、三人の 気色 けしき うかが っていた。
 この時廊下に足音がせずに、 障子 しょうじ がすうっと いた。主客は ひとし おどろ た。

その六十一

 刀の つか に手を掛けて立ち上った三人の客を前に控えて、四畳半の はし 近く坐していた抽斎は、客から目を放さずに、障子の開いた口を ななめ 見遣 みや った。そして妻五百の異様な姿に驚いた。
 五百は わずか 腰巻 こしまき 一つ身に けたばかりの裸体であった。口には懐剣を くわ えていた。そして 閾際 しきいぎわ に身を かが めて、縁側に置いた 小桶 こおけ 二つを両手に取り上げるところであった。小桶からは 湯気 ゆげ が立ち のぼ っている。 縁側 えんがわ を戸口まで忍び寄って障子を開く時、持って来た小桶を下に置いたのであろう。
 五百は小桶を持ったまま、つと 一間 ひとま に進み入って、夫を背にして立った。そして沸き返るあがり湯を盛った小桶を、右左の二人の客に投げ附け、銜えていた懐剣を って さや を払った。そして とこ を背にして立った一人の客を にら んで、「どろぼう」と一声叫んだ。
 熱湯を浴びた 二人 ふたり が先に、 つか に手を掛けた刀をも抜かずに、座敷から縁側へ、縁側から庭へ逃げた。跡の一人も続いて逃げた。
 五百は仲間や諸生の名を呼んで、「どろぼう/\」という声をその間に挟んだ。しかし家に居合せた男らの せ集るまでには、三人の客は皆逃げてしまった。この時の事は 後々 のちのち まで渋江の家の一つ話になっていたが、五百は人のその功を称するごとに、 じて席を のが れたそうである。五百は幼くて武家奉公をしはじめた時から、 匕首 ひしゅ 一口 いっこう だけは身を放さずに持っていたので、 湯殿 ゆどの に脱ぎ棄てた衣類の そば から、それを取り上げることは出来たが、衣類を身に まと いとま はなかったのである。
  翌朝 よくちょう 五百は金を貴人の もと に持って往った。手島の こと によれば、これは献金としては受けられぬ、唯 借上 かりあげ になるのであるから、十カ年賦で返済するということであった。しかし手島が渋江氏を うて、お 手元 てもと 不如意 ふにょい のために、 今年 こんねん は返金せられぬということが数度あって、維新の年に至るまでに、還された金は すこし ばかりであった。保さんが金を受け取りに往ったこともあるそうである。
 この一条は保さんもこれを語ることを 躊躇 ちゅうちょ し、わたくしもこれを書くことを躊躇した。しかし抽斎の 誠心 まごころ をも、五百の勇気をも、かくまで あきらか に見ることの出来る事実を 湮滅 いんめつ せしむるには忍びない。ましてや貴人は今は世に亡き 御方 おんかた である。あからさまにその人を さずに、ほぼその事を しる すのは、あるいは さまたげ がなかろうか。わたくしはこう 思惟 しゆい して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
 抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋 ぎらい で、攘夷に耳を かたぶ けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、 安積艮斎 あさかごんさい の書を読んで悟る所があった。そして ひそか に漢訳の博物窮理の書を けみ し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
 抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『 一夕 いっせき 医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は あえ げん をその間に さしはさ まなかったが、心中これがために憂え もだ えたことは、想像するに難からぬのである。

その六十二

 わたくしは幕府が蘭法医を公認すると同時に抽斎が歿したといった。この公認は安政五年七月 はじめ の事で、抽斎は翌八月の すえ に歿した。
 これより先幕府は安政三年二月に、 蕃書調所 ばんしょしらべしょ 九段 くだん 坂下 さかした 元小姓組 番頭格 ばんがしらかく 竹本 主水正 もんどのしょう 正懋 せいぼう の屋敷跡に創設したが、これは今の外務省の一部に外国語学校を かね たようなもので、医術の事には関せなかった。越えて安政五年に至って、七月三日に松平 薩摩守 さつまのかみ 斉彬 なりあきら 家来 戸塚静海 とつかせいかい 、松平肥前守 斉正 なりまさ 家来 伊東玄朴 いとうげんぼく 、松平三河守 慶倫 よしとも 家来 遠田澄庵 とおだちょうあん 、松平駿河守 勝道 かつつね 家来青木 春岱 しゅんたい に奥医師を命じ、二百俵三人扶持を給した。これが幕府が蘭法医を任用した 権輿 けんよ で、抽斎の歿した八月二十八日に さきだ つこと、僅に五十四日である。次いで同じ月の六日に、幕府は おん 医師即ち官医中有志のものは「 阿蘭 オランダ 医術兼学 いたし 候とも 不苦 くるしからず 候」と令した。翌日また有馬 左兵衛佐 さひょうえのすけ 道純 みちずみ 家来 竹内玄同 たけうちげんどう 、徳川 賢吉 けんきち 家来伊東 貫斎 かんさい が奥医師を命ぜられた。この 二人 ににん もまた蘭法医である。
 抽斎がもし生きながらえていて、幕府の へい を受けることを がえん じたら、これらの蘭法医と肩を くら べて仕えなくてはならなかったであろう。そうなったら旧思想を代表すべき抽斎は、新思想を もたら きた った蘭法医との間に、 いと うべき 葛藤 かっとう を生ずることを免れなかったかも知れぬが、あるいはまた の多紀 さいてい の手に でたという無名氏の『漢蘭酒話』、 平野革谿 ひらのかくけい の『一夕医話』等と趣を こと にした、 真面目 しんめんぼく な漢蘭医法比較研究の端緒が ここ に開かれたかも知れない。
 抽斎の日常生活に人に殊なる所のあったことは、前にも折に触れて言ったが、今 のこ れるを拾って二、三の事を挙げようと思う。抽斎は病を以て防ぎ得べきものとした人で、常に摂生に心を用いた。飯は 朝午 あさひる おのおの 三椀 さんわん 、夕二椀半と めていた。しかもその椀の大きさとこれに飯を盛る量とが厳重に定めてあった。殊に晩年になっては、嘉永二年に津軽 信順 のぶゆき が抽斎のこの習慣を聞き知って、長尾宗右衛門に命じて造らせて賜わった椀のみを用いた。その形は常の椀よりやや大きかった。そしてこれに飯を盛るに、 をして盛らしむるときは、 過不及 かふきゅう を免れぬといって、飯を小さい ひつ に取り分けさせ、櫃から椀に盛ることを、五百の役目にしていた。朝の 未醤汁 みそしる も必ず二椀に限っていた。
  菜蔬 さいそ は最も だいこん を好んだ。生で食うときは 大根 だいこ おろしにし、 て食うときはふろふきにした。大根おろしは汁を棄てず、 醤油 しょうゆ などを掛けなかった。
  浜名納豆 はまななっとう は絶やさずに蓄えて置いて食べた。
  魚類 ぎょるい では 方頭魚 あまだい 未醤漬 みそづけ たしな んだ。 畳鰯 たたみいわし も喜んで食べた。 うなぎ は時々食べた。 
 間食は ほとん ど全く禁じていた。しかし まれ あめ と上等の 煎餅 せんべい とを食べることがあった。
 抽斎が少壮時代に ごう も酒を飲まなかったのに、天保八年に三十三歳で弘前に往ってから、防寒のために飲みはじめたことは、前にいったとおりである。さて一時は晩酌の量がやや多かった。その のち 安政元年に五十歳になってから、 猪口 ちょく に三つを えぬことにした。猪口は山内忠兵衛の贈った品で、宴に赴くにはそれを ふところ にして家を出た。
 抽斎は決して 冷酒 れいしゅ を飲まなかった。 しか るに安政二年に地震に って、ふと冷酒を飲んだ。その たまたま 飲むことがあったが、これも三杯の量を過さなかった。

その六十三

 鰻を たし んだ抽斎は、酒を飲むようになってから、しばしば鰻酒ということをした。茶碗に鰻の 蒲焼 かばやき を入れ、 すこ しのたれを注ぎ、 熱酒 ねつしゅ たた えて ふた おお って置き、 少選 しばらく してから飲むのである。抽斎は 五百 いお めと ってから、五百が少しの酒に堪えるので、勧めてこれを飲ませた。五百はこれを うま がって、兄栄次郎と妹壻長尾宗右衛門とに すす め、また比良野 貞固 さだかた に飲ませた。これらの人々は後に皆鰻酒を飲むことになった。
 飲食を除いて、抽斎の好む所は何かと問えば、読書といわなくてはならない。古刊本、古抄本を講窮することは抽斎終生の事業であるから、ここに算せない。医書中で『 素問 そもん 』を愛して、身辺を離さなかったこともまた同じである。次は『 説文 せつもん 』である。晩年には 毎月 まいげつ 説文会を催して、小島成斎、森 枳園 きえん 、平井東堂、海保 竹逕 ちくけい 喜多村栲窓 きたむらこうそう 、栗本 鋤雲 じょうん 等を つど えた。竹逕は名を 元起 げんき 、通称を 弁之助 べんのすけ といった。 もと 稲村 いなむら 氏で漁村の門人となり、後に養われて子となったのである。文政七年の うまれ で、抽斎の歿した時、三十五歳になっていた。栲窓は名を 直寛 ちょくかん あざな 士栗 しりつ という。通称は 安斎 あんさい のち 父の称 安政 あんせい いだ。 香城 こうじょう はその晩年の号である。 けい 安積艮斎 あさかごんさい に受け、医を 躋寿館 せいじゅかん に学び、父 槐園 かいえん のち けて幕府の医官となり、天保十二年には三十八歳で躋寿館の教諭になっていた。栗本鋤雲は栲窓の弟である。通称は 哲三 てつぞう 、栗本氏に養わるるに及んで、 瀬兵衛 せへえ と改め、また 瑞見 ずいけん といった。嘉永三年に二十九歳で奥医師になっていた。
 説文会には島田 篁村 こうそん も時々列席した。篁村は武蔵国 大崎 おおさき 名主 なぬし 島田 重規 ちょうき の子である。名は 重礼 ちょうれい 、字は 敬甫 けいほ 、通称は 源六郎 げんろくろう といった。艮斎、漁村の二家に従学していた。天保九年生であるから、嘉永、安政の こう にはなお十代の青年であった。抽斎の歿した時、豊村は丁度二十一になっていたのである。
 抽斎の好んで読んだ小説は、 赤本 あかほん 菎蒻本 こんにゃくぼん 黄表紙 きびょうし るい であった。 おも うにその自ら作った『 呂后千夫 りょこうせんふ 』は黄表紙の たい なら ったものであっただろう。
 抽斎がいかに劇を好んだかは、劇神仙の号を いだというを以て、想見することが出来る。父 允成 ただしげ がしばしば 戯場 ぎじょう 出入 しゅつにゅう したそうであるから、殆ど遺伝といっても かろう。然るに嘉永二年に将軍に謁見した時、要路の人が抽斎に忠告した。それは 目見 めみえ 以上の身分になったからは、今より のち 市中の湯屋に くことと、芝居小屋に立ち入ることとは遠慮するが よろ しいというのであった。渋江の家には浴室の もうけ があったから、湯屋に往くことは禁ぜられても 差支 さしつかえ がなかった。しかし観劇を とど められるのは、抽斎の苦痛とする所であった。抽斎は隠忍して しばら く忠告に従っていた。安政二年の地震の日に観劇したのは、足掛七年ぶりであったということである。
 抽斎は森枳園と同じく、七代目市川団十郎を 贔屓 ひいき にしていた。家に伝わった俳名 三升 さんしょう 白猿 はくえん の外に、 夜雨庵 やうあん 、二九亭、寿海老人と号した人で、 葺屋町 ふきやちょう の芝居茶屋 丸屋 まるや 三右衛門 さんえもん の子、五世団十郎の孫である。抽斎より長ずること十四年であったが、抽斎に一年遅れて、安政六年三月二十三日に六十九歳で歿した。
 次に贔屓にしたのは五代目 沢村宗十郎 さわむらそうじゅうろう である。 源平 げんべえ 、源之助、 訥升 とつしょう 、宗十郎、長十郎、 高助 たかすけ 高賀 こうが と改称した人で、享和二年に生れ、嘉永六年十一月十五日に五十二歳で歿した。抽斎より長ずること三年であった。四世宗十郎の子、 脱疽 だっそ のために脚を った三世 田之助 たのすけ の父である。

その六十四

 劇を好む抽斎はまた 照葉狂言 てりはきょうげん をも好んだそうである。わたくしは照葉狂言というものを知らぬので、 青々園 せいせいえん 伊原 いはら さんに問いに遣った。伊原さんは 喜多川季荘 きたがわきそう の『近世風俗志』に、この演戯の起原沿革の載せてあることを報じてくれた。
 照葉狂言は嘉永の頃大阪の 蕩子 とうし 四、五人が創意したものである。大抵能楽の あい の狂言を模し、 衣裳 いしょう 素襖 すおう 上下 かみしも 熨斗目 のしめ を用い、 科白 かはく には 歌舞伎 かぶき 狂言、 にわか 、踊等の さま をも交え取った。安政中江戸に行われて、 寄場 よせば はこれがために 雑沓 ざっとう した。照葉とは 天爾波 てには にわか 訛略 かりゃく だというのである。
 伊原さんはこの照葉の語原は 覚束 おぼつか ないといっているが、いかにも すなわ ち信じがたいようである。
 能楽は抽斎の たのし る所で、 わか い頃謡曲を学んだこともある。 たまたま 弘前の人村井 宗興 そうこう と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
 俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
 抽斎は鑑賞家として古画を もてあそ んだが、多く買い集むることをばしなかった。 谷文晁 たにぶんちょう おしえ を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも えが いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の 聚珍家 しゅうちんか として 蒐集 しゅうしゅう した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を ったことは、前にいったとおりである。
 抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが まれ であった。これは自ら いまし めて ふけ らざらんことを欲したのである。
 抽斎は大名の行列を ることを喜んだ。そして家々の 鹵簿 ろぼ を記憶して忘れなかった。「新武鑑」を買って、その図に着色して自ら たのし んだのも、これがためである。この 嗜好 しこう は喜多 静廬 せいろ の祭礼を看ることを喜んだのと すこぶ 相類 あいるい している。
  角兵衛獅子 かくべえじし が門に至れば、抽斎が必ず出て看たことは、既に言った。
 庭園は抽斎の愛する所で、自ら 剪刀 はさみ って植木の 苅込 かりこみ をした。木の中では 御柳 ぎょりゅう を好んだ。即ち『 爾雅 じが 』に載せてある てい である。 雨師 うし 三春柳 さんしゅんりゅう などともいう。これは早く父允成の愛していた木で、抽斎は居を移すにも、遺愛の御柳だけは常におる しつ に近い地に え替えさせた。おる所を 観柳書屋 かんりゅうしょおく と名づけた柳字も、 楊柳 ようりゅう ではない、柳である。これに反して 柳原 りゅうげん 書屋の名は、お玉が池の家が 柳原 やなぎはら に近かったから命じたのであろう。
 抽斎は晩年に最も かみなり を嫌った。これは二度まで落雷に ったからであろう。一度は あらた めと った五百と道を行く時の事であった。 くも った日の空が 二人 ふたり の頭上において裂け、そこから 一道 いちどう の火が地上に くだ ったと思うと、 たちま ち耳を貫く音がして、二人は地に たお れた。一度は 躋寿館 せいじゅかん の講師の 詰所 つめしょ に休んでいる時の事であった。詰所に近い かわや の前の庭へ落雷した。この時厠に立って小便をしていた伊沢柏軒は、前へ倒れて、門歯二枚を 朝顔 あさがお に打ち附けて折った。 かく の如くに反覆して雷火に おびや されたので、抽斎は雷声を にく むに至ったのであろう。雷が鳴り出すと、 かや うち に坐して酒を呼ぶことにしていたそうである。
 抽斎のこの弱点は たまたま 森枳園がこれを同じうしていた。枳園の寿蔵碑の のち に門人 青山 あおやま 道醇 どうじゅん らの書した文に、「 夏月畏雷震 かげつらいしんをおそれ 発声之前必先知之 はっせいのまえかならずさきにこれをしる 」といってある。枳園には今一つ いや なものがあった。それは 蛞蝓 なめくじ であった。 よる 行くのに、道に蛞蝓がいると、 闇中 あんちゅう においてこれを知った。門人の したが い行くものが、 燈火 ともしび を以て照し見て驚くことがあったそうである。これも同じ文に見えている。

その六十五

 抽斎は 平姓 へいせい で、 小字 おさなな 恒吉 つねきち といった。人と成った のち の名は 全善 かねよし あざな 道純 どうじゅん 、また 子良 しりょう である。そして道純を以て通称とした。その号抽斎の抽字は、 もと ちゅう

[_]
[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192-1]
に作った。 ちゅう
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[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192-1]
、※
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[#「てへん+(澑−さんずい)」、192-1]
、抽の三字は皆相通ずるのである。抽斎の 手沢本 しゅたくぼん には※
[_]
[#「竹かんむり/(てへん+(澑−さんずい))」、192-2]
斎校正の 篆印 てんいん ほとん ど必ず してある。
 別号には観柳書屋、 柳原 りゅうげん 書屋、 三亦堂 さんえきどう 目耕肘 もくこうちゅう 書斎、 今未是翁 こんみぜおう 不求甚解 ふきゅうじんかい 翁等がある。その三世 劇神仙 げきしんせん と称したことは、既にいったとおりである。
 抽斎はかつて自ら 法諡 ほうし を撰んだ。 容安院 ようあんいん 不求甚解居士 ふきゅうじんかいこじ というのである。この 字面 じめん は妙ならずとはいいがたいが、余りに抽象的である。これに反して抽斎が妻 五百 いお のために撰んだ法諡は妙 きわ まっている。 半千院 はんせんいん 出藍終葛大姉 しゅつらんしゅうかつだいし というのである。半千は五百、出藍は 紺屋町 こんやちょう に生れたこと、終葛は 葛飾郡 かつしかごおり で死ぬることである。しかし 世事 せいじ の転変は 逆覩 げきと すべからざるもので、五百は 本所 ほんじょ で死ぬることを得なかった。
 この二つの法諡はいずれも石に られなかった。抽斎の墓には海保漁村の文を刻した碑が立てられ、また五百の遺骸は抽斎の 墓穴 ぼけつ に合葬せられたからである。
 大抵伝記はその人の死を以て終るを例とする。しかし古人を 景仰 けいこう するものは、その 苗裔 びょうえい がどうなったかということを問わずにはいられない。そこでわたくしは既に抽斎の生涯を しる おわ ったが、なお筆を投ずるに忍びない。わたくしは抽斎の子孫、親戚、師友等のなりゆきを、これより しも に書き附けて置こうと思う。
 わたくしはこの記事を作るに 許多 あまた 障礙 しょうがい のあることを自覚する。それは現存の人に言い及ぼすことが ようや く多くなるに従って、 忌諱 きき すべき事に 撞着 とうちゃく することもまた漸く しきり なることを免れぬからである。この障礙は かみ に抽斎の経歴を叙して、その安政中の末路に近づいた時、早く既に こうべ もたげ げて来た。これから のち は、これが いよいよ 筆端に 纏繞 てんじょう して、 いと うべき拘束を加えようとするであろう。しかしわたくしはよしや多少の困難があるにしても、書かんと欲する事だけは書いて、この稿を まっと うするつもりである。
 渋江の家には抽斎の歿後に、既にいうように、未亡人五百、 くが 水木 みき 、専六、 翠暫 すいざん 、嗣子 成善 しげよし と矢島氏を冒した 優善 やすよし とが遺っていた。十月 さく わずか に二歳で家督相続をした成善と、他の五人の子との世話をして、 一家 いっか の生計を立てて行かなくてはならぬのは、四十三歳の五百であった。
 遺子六人の中で差当り問題になっていたのは、矢島優善の身の上である。優善は 不行跡 ふぎょうせき のために、二年 ぜん に表医者から小普請医者に へん せられ、一年 ぜん に表医者 すけ に復し、父を喪う年の二月に わずか もと の表医者に復することが出来たのである。
 しかし当時の優善の態度には、まだ真に 改悛 かいしゅん したものとは 看做 みな しにくい所があった。そこで 五百 いお 旦暮 たんぼ 周密にその挙動を監視しなくてはならなかった。
 残る五人の子の うち で、十二歳の陸、六歳の水木、五歳の専六はもう読書、習字を始めていた。陸や水木には、五百が自ら 句読 くとう を授け、 手跡 しゅせき は手を って書かせた。専六は近隣の 杉四郎 すぎしろう という学究の もと へ通っていたが、これも五百が復習させることに骨を折った。また専六の手本は平井東堂が書いたが、これも五百が臨書だけは手を把って書かせた。 午餐後 ごさんご 日の暮れかかるまでは、五百は子供の 背後 うしろ に立って 手習 てならい の世話をしたのである。

その六十六

 邸内に すま わせてある長尾の 一家 いっけ にも、折々多少の 風波 ふうは が起る。そうすると必ず 五百 いお が調停に かなくてはならなかった。その あらそい は五百が商業を再興させようとして勧めるのに、 やす 躊躇 ちゅうちょ して決せないために起るのである。 宗右衛門 そうえもん の長女 けい はもう二十一歳になっていて、 生得 しょうとく やや勝気なので、母をして五百の こと に従わしめようとする。母はこれを拒みはせぬが、さればとて実行の方へは、一歩も踏み出そうとはしない。ここに争は生ずるのであった。
 さてこれが 鎮撫 ちんぶ に当るものが五百でなくてはならぬのは、長尾の家でまだ宗右衛門が生きていた時からの習慣である。五百の こと には宗右衛門が服していたので、その妻や子もこれに抗することをば あえ てせぬのである。
 宗右衛門が さい の妹の五百を、 ただ 抽斎の配偶として尊敬するのみでなく、かくまでに信任したには、別に来歴がある。それは或時宗右衛門が家庭のチランとして大いに安を虐待して、五百の きびし い忠告を受け、涙を流して罪を謝したことがあって、それから のち は五百の前に うなじ を屈したのである。
 宗右衛門は性質 亮直 りょうちょく に過ぐるともいうべき人であったが、 癇癪持 かんしゃくもち であった。今から十二年 ぜん の事である。宗右衛門はまだ七歳の せん に読書を授け、この子が大きくなったなら さむらい 女房 にょうぼう にするといっていた。銓は 記性 きせい があって、書を善く読んだ。こういう時に、宗右衛門が酒気を帯びていると、銓を側に引き附けて置いて、忍耐を教えるといって、 たわむれ のように 煙管 キセル で頭を打つことがある。銓は初め忍んで黙っているが、 のち には「お っさん、 いや だ」といって、手を挙げて打つ 真似 まね をする。宗右衛門は いか って「親に 手向 てむかい をするか」といいつつ、銓を こぶし で乱打する。或日こういう場合に、安が めようとすると、宗右衛門はこれをも髪を つか んで き倒して乱打し、「出て け」と叫んだ。
 安は もと 宗右衛門の恋女房である。天保五年三月に、当時阿部家に仕えて 金吾 きんご と呼ばれていた、まだ二十歳の安が、宿に さが って 堺町 さかいちょう の中村座へ芝居を に往った。この時宗右衛門は安を 見初 みそ めて、芝居がはねてから 追尾 ついび して行って、紺屋町の日野屋に入るのを見極めた。同窓の山内栄次郎の家である。さては栄次郎の妹であったかというので、直ちに人を って縁談を申し込んだのである。
 こうしたわけで もら われた安も、拳の もと に崩れた 丸髷 まるまげ を整える いとま もなく、山内へ逃げ帰る。栄次郎の忠兵衛は広瀬を 名告 なの る前の頃で、 会津屋 あいづや へ調停に往くことを面倒がる。妻はおいらん 浜照 はまてる がなれの果で何の用にも立たない。そこで たまたま 渋江の家から来合せていた五百に、「どうかして遣ってくれ」という。五百は姉を なだ すか して、横山町へ連れて往った。
 会津屋に往って見れば、敬はうろうろ立ち廻っている。銓はまだ泣いている。 さい の出た跡で、更に酒を呼んだ宗右衛門は、気味の悪い 笑顔 えがお をして五百を迎える。五百は しずか 詫言 わびごと を言う。主人はなかなか かない。 しばら く語を交えている間に、主人は次第に 饒舌 じょうぜつ になって、 光万丈 こうえんばんじょう 当るべからざるに至った。宗右衛門は好んで故事を引く。 偽書 ぎしょ 孔叢子 こうそうし 』の孔氏三世妻を いだ したという説が出る。 祭仲 さいちゅう むすめ 雍姫 ようき が出る。 斎藤太郎左衛門 さいとうたろうざえもん むすめ が出る。五百はこれを聞きつつ思案した。これは負けていては際限がない。 ためし を引いて論ずることなら、こっちにも 言分 いいぶん がないことはない。そこで五百も論陣を張って、 旗鼓 きこ 相当 あいあた った。 公父 こうふ 文伯 ぶんはく の母 季敬姜 きけいきょう を引く。 顔之推 がんしすい の母を引く。 つい に「 大雅思斉 たいがしせい 」の章の「 刑干寡妻 かさいをただし 至干兄弟 けいていにいたり 以御干家邦 もってかほうをぎょす 」を引いて、宗右衛門が ようよう の和を破るのを責め、 声色 せいしょく 共に はげ しかった。宗右衛門は屈服して、「なぜあなたは男に生れなかったのです」といった。
 長尾の家に争が起るごとに、五百が来なくてはならぬということになるには、こういう来歴があったのである。

その六十七

 抽斎の歿した翌年安政六年には、十一月二十八日に矢島 優善 やすよし が浜町中屋敷詰の 奥通 おくどおり にせられた。表医者の名を以て 信順 のぶゆき かたわら に侍することになったのである。今なお信頼しがたい優善が、責任ある職に いたのは、五百のために心労を増す種であった。
 抽斎の姉 須磨 すま の生んだ長女 のぶ の亡くなったのは、多分この年の事であっただろう。 允成 ただしげ の実父稲垣清蔵の養子が 大矢清兵衛 おおやせいべえ で、清兵衛の子が 飯田良清 いいだよしきよ で、良清の むすめ がこの延である。 容貌 ようぼう の美しい女で、 小舟町 こぶねちょう 鰹節問屋 かつおぶしどいや 新井屋半七 あらいやはんしち というものに嫁していた。良清の長男 直之助 なおのすけ は早世して、跡には養子 孫三郎 まござぶろう と、延の妹 みち とが残った。孫三郎の事は後に見えている。
 抽斎歿後の第二年は 万延 まんえん 元年である。 成善 しげよし はまだ四歳であったが、 はや くも浜町中屋敷の津軽 信順 のぶゆき に近習として仕えることになった。 勿論 もちろん 時々機嫌を伺いに出るに とど まっていたであろう。この時新に中小姓になって中屋敷に勤める 矢川文一郎 やがわぶんいちろう というものがあって、 おさな い成善の世話をしてくれた。
 矢川には 本末 ほんばつ 両家がある。本家は 長足流 ちょうそくりゅう の馬術を伝えていて、 世文内 よよぶんない と称した。先代文内の嫡男 与四郎 よしろう は、当時 順承 ゆきつぐ の側用人になって、父の称を いでいた。妻 児玉 こだま 氏は越前国 敦賀 つるが の城主 酒井 さかい 右京亮 うきょうのすけ ただやす の家来某の むすめ であった。二百石八人扶持の家である。与四郎の文内に弟があり、妹があって、彼を 宗兵衛 そうべえ といい、 これ 岡野 おかの といった。宗兵衛は分家して、近習小姓倉田 小十郎 こじゅうろう むすめ みつを めと った。岡野は順承附の 中臈 ちゅうろう になった。実は しょう である。
 文一郎はこの宗兵衛の長子である。その母の姉妹には 林有的 はやしゆうてき の妻、 佐竹永海 さたけえいかい の妻などがある。佐竹は初め山内氏五百を娶らんとして成らず、遂に矢川氏を れた。 それ の年の元日に佐竹は山内へ廻礼に来て、庭に立っていた五百の手を

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[#「てへん+參」、198-15]
ろうとすると、五百はその手を強く引いて放した。佐竹は庭の池に ちた。山内では佐竹に栄次郎の衣服を せて帰した。五百は後に抽斎に嫁してから、両国中村楼の書画会に往って、佐竹と 邂逅 かいこう した。そして佐竹の数人の 芸妓 げいぎ に囲まれているのを見て、「佐竹さん、相変らず英雄 いろ を好むとやらですね」といった。佐竹は頭を いて苦笑したそうである。
 文一郎の父は早く世を去って、母みつは再嫁した。そこで文一郎は津軽家に縁故のある浅草 常福寺 じょうふくじ にあずけられた。これは嘉永四年の事で、天保十二年 うまれ の文一郎は十一歳になっていた。
 文一郎は寺で人と成って、渋江家で抽斎の亡くなった頃、本家の文内の もと に引き取られた。そして成善が近習小姓を仰付けられる少し前に、二十歳で信順の中小姓になったのである。
 文一郎は すこぶ 姿貌 しぼう があって、心 みずか らこれを たの んでいた。当時 吉原 よしわら 狎妓 こうぎ の許に 足繁 あししげ く通って、遂に夫婦の ちかい をした。或夜文一郎はふと めて、 かたわら している女を見ると、 一眼 いちがん を大きく みひら いて眠っている。常に美しいとばかり思っていた面貌の異様に変じたのに驚いて、 はだ あわ を生じたが、 たちまち また 魘夢 えんむ おびやか されているのではないかと疑って、急に身を起した。女が醒めてどうしたのかと問うた。文一郎が答はいまだ なかば ならざるに、女は 満臉 まんけん こう ちょう して、 偏盲 へんもう のために義眼を装っていることを告げた。そして涙を流しつつ、旧盟を破らずにいてくれと頼んだ。文一郎は陽にこれを諾して帰って、それきりこの女と絶ったそうである。

その六十八

 わたくしは少時の文一郎を伝うるに、 ことば を費すことやや多きに至った。これは単に文一郎が おさな 成善 しげよし 扶掖 ふえき したからではない。文一郎と渋江氏との関係は、後に ようや く緊密になったからである。文一郎は成善の姉壻になったからである。文一郎さんは 赤坂台町 あかさかだいまち に現存している人ではあるが、 おそら くは自ら往事を談ずることを喜ばぬであろう。その少時の事蹟には二つの きた典拠がある。一つは矢川文内の二女お つる さんの話で、一つは保さんの話である。文内には三子二女があった。長男 俊平 しゅんぺい は宗家を いで、その子 蕃平 しげへい さんが今浅草 向柳原町 むこうやなぎはらちょう に住しているそうである。俊平の弟は 鈕平 ちゅうへい 録平 ろくへい である。女子は長を えつ といい、 つぎ かん という。鑑は後に名を鶴と あらた めた。中村勇左衛門即ち今弘前 桶屋町 おけやまち にいる 範一 はんいち さんの妻で、その子の すすむ さんとわたくしとは書信の交通をしているのである。
 成善はこの年十月 ついたち に海保漁村と小島成斎との門に った。海保の塾は 下谷 したや 練塀小路 したやねりべいこうじ にあった。いわゆる 伝経廬 でんけいろ である。下谷は 卑※ ひしつ

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[#「さんずい+(一/(幺+幺)/土)」、201-2]
の地なるにもかかわらず、庭には 梧桐 ごとう えてあった。これは漁村がその師 大田錦城 おおたきんじょう ふう を慕って栽えさせたのである。当時漁村は六十二歳で、 躋寿館 せいじゅかん の講師となっていた。また 陸奥国 むつのくに 八戸 はちのへ の城主 南部 なんぶ 遠江守 とうとうみのかみ 信順 のぶゆき と越前国 鯖江 さばえ の城主 間部 まなべ 下総守 詮勝 あきかつ とから五人扶持ずつの俸を受けていた。しかし躋寿館においても、家塾においても、大抵養子 竹逕 ちくけい が代講をしていたのである。
 小島成斎は藩主阿部 正寧 まさやす の世には、 たつ くち の老中屋敷にいて、安政四年に家督相続をした 賢之助 けんのすけ 正教 まさのり の世になってから、昌平橋 うち の上屋敷にいた。今の神田 淡路町 あわじちょう である。手習に来る児童の数は すこぶ る多く、二階の三室に机を並べて習うのであった。成善が相識の兄弟子には、嘉永二年 うまれ で十二歳になる 伊沢鉄三郎 いさわてつさぶろう がいた。柏軒の子で、後に 徳安 とくあん と称し、維新後に いわお あらた めた人である。成斎は手に むち を執って、正面に坐していて、筆法を誤ると、鞭の さき ゆびさ し示した。そして児童を ましめざらんがためであろうか、 諧謔 かいぎゃく を交えた話をした。その相手は多く鉄三郎であった。成善はまだ幼いので、海保へ往くにも、小島へ往くにも若党に連れられて行った。鉄三郎にも若党が附いて来たが、これは父が 奥詰 おくづめ 医師になっているので、従者らしく附いて来たのである。
 抽斎の墓碑が立てられたのもこの年である。海保漁村の墓誌はその文が頗る長かったのを、 豊碑 ほうひ を築き起して世に おご るが如き じょう をなすは、主家に対して はばかり があるといって、 文字 もんじ る四、五人の故旧が来て、 胥議 あいぎ して 斧鉞 ふえつ を加えた。その文の事を伝えて まった からず、また まま 実に もと るものさえあるのは、この筆削のためである。
 建碑の事が おわ ってから、渋江氏は台所町の邸を引き払って 亀沢町 かめさわちょう に移った。これは 淀川過書船支配 よどがわかしょぶねしはい 角倉与一 すみのくらよいち の別邸を買ったのである。角倉の本邸は 飯田町 いいだまち 黐木坂下 もちのきざかした にあって、主人は京都で勤めていた。亀沢町の邸には庭があり池があって、そこに 稲荷 いなり 和合神 わごうじん との ほこら があった。稲荷は亀沢稲荷といって、 初午 はつうま の日には 参詣人 さんけいにん が多く、縁日 商人 あきうど が二十 あまり 浮舗 やたいみせ を門前に出すことになっていた。そこで角倉は邸を売るに、初午の祭をさせるという条件を附けて売った。今 相生 あいおい 小学校になっている地所である。
 これまで渋江の家に同居していた矢島優善が、新に本所緑町に一戸を構えて分立したのは、亀沢町の家に渋江氏の移るのと同時であった。

その六十九

 矢島優善をして別に 一家 いっか をなして自立せしめようということは、前年即ち安政六年の すえ から、 中丸昌庵 なかまるしょうあん が主として勧説した所である。昌庵は抽斎の門人で、多才能弁を以て 儕輩 せいはい に推されていた。文政元年 うまれ であるから、当時四十三歳になって、食禄二百石八人扶持、近習医者の首位におった。昌庵はこういった。「優善さんは一時の心得 ちがえ から 貶黜 へんちつ を受けた。しかし さいわい あやまち を改めたので、一昨年 もと の地位に かえ り、昨年は 奥通 おくどおり をさえ許された。今は抽斎先生が亡くなられてから、もう二年立って、優善さんは二十六歳になっている。わたくしは去年からそう思っているが、優善さんの奮って自ら あらた にすべき時は今である。それには一家を構えて、 せめ を負って事に当らなくてはならない」といった。既にして二、三のこれに同意を表するものも出来たので、 五百 いお あやぶ みつつこの議を れたのである。比良野 貞固 さだかた は初め昌庵に反対していたが、五百が意を決したので、 また 争わなくなった。
 優善の移った緑町の家は、 渾名 あだな はと 医者と呼ばれた町医 佐久間 さくま 某の故宅である。優善は妻 てつ を家に迎え取り、 下女 げじょ 一人 いちにん を雇って三人暮しになった。
 鉄は優善の養父矢島 玄碩 げんせき の二女である。玄碩、名を やすしげ といった。 もと 抽斎の優善に命じた名は 允善 ただよし であったのを、矢島氏を冒すに及んで、養父の優字を襲用したのである。玄碩の はじめ さい 某氏には子がなかった。 後妻 こうさい 寿美 すみ 亀高村喜左衛門 かめたかむらきざえもん というものの妹で、 仮親 かりおや 上総国 かずさのくに 一宮 いちのみや の城主 加納 かのう 遠江守 久徴 ひさあきら の医官 原芸庵 はらうんあん である。寿美が二女を生んだ。長を かん といい、次を鉄という。嘉永四年正月二十三日に寿美が死し、五月二十四日に九歳の環が死し、六月十六日に玄碩が死し、跡には わずか に六歳の鉄が のこ った。
 優善はこの時矢島氏に って 末期養子 まつごようし となったのである。そしてその媒介者は中丸昌庵であった。
 中丸は当時その師抽斎に説くに、頗る多言を ついや し、矢島氏の まつり を絶つに忍びぬというを以て、抽斎の 情誼 じょうぎ うった えた。なぜというに、抽斎が次男優善をして矢島氏の女壻たらしむるのは大いなる犠牲であったからである。玄碩の遺した むすめ 鉄は重い 痘瘡 とうそう うれ えて、 瘢痕 はんこん 満面、人の見るを いと う醜貌であった。
 抽斎は中丸の こと うごか されて、美貌の子優善を鉄に与えた。 五百 いお は情として忍びがたくはあったが、事が夫の義気に でているので、強いて争うことも出来なかった。
 この事のあった年、五百は二月四日に七歳の とう を失い、十五日に三歳の 癸巳 きし を失っていた。当時五歳の くが は、 小柳町 こやなぎちょう の大工の 棟梁 とうりょう 新八が もと に里に遣られていたので、それを び帰そうと思っていると、そこへ鉄が来て抱かれて寝ることになり、陸は翌年まで里親の許に置かれた。
 棠は美しい子で、抽斎の むすめ うち では いと と棠との容姿が最も人に められていた。五百の兄栄次郎は棠の踊を る度に、「食い附きたいような子だ」といった。五百も余り棠の美しさを 云々 うんぬん するので、陸は「お あ様の えさんを褒めるのを聞いていると、わたしなんぞはお ばけ のような顔をしているとしか思われない」といい、また棠の死んだ時、「大方お母あ様はわたしを かわり に死なせたかったのだろう」とさえいった。

その七十

  むすめ とう が死んでから 半年 はんねん の間、 五百 いお は少しく精神の均衡を失して、夕暮になると、窓を開けて庭の やみ を凝視していることがしばしばあった。これは 何故 なにゆえ ともなしに、闇の うち に棠の姿が見えはせぬかと待たれたのだそうである。抽斎は 気遣 きづか って、「五百、お前にも似ないじゃないか、少ししっかりしないか」と いまし めた。
 そこへ矢島玄碩の二女、 優善 やすよし の未来の妻たる鉄が来て、五百に抱かれて寝ることになった、 から の母は情を めて、 なじみ のない人の子を すか しはぐくまなくてはならなかったのである。さて眠っているうちに、五百はいつか ふところ にいる子が棠だと思って、 夢現 ゆめうつつ の境にその体を でていた。 たちま ち一種の恐怖に襲われて目を くと、 痘痕 とうこん のまだ新しい、赤く引き った鉄の顔が、触れ合うほど近い所にある。五百は覚えず むせ び泣いた。そして意識の あきらか になると共に、「ほんに優善は 可哀 かわい そうだ」とつぶやくのであった。
 緑町の家へ、優善がこの鉄を連れてはいった時は、鉄はもう十五歳になっていた。しかし 世馴 よな れた優善は鉄を子供 あつかい にして、 ことば をやさしくして なだ めていたので、二人の間には何の衝突も起らずにいた。
 これに反して五百の監視の もと を離れた優善は、門を でては昔の 放恣 ほうし なる生活に立ち帰った。長崎から帰った塩田 良三 りょうさん との間にも、定めて 聯絡 れんらく が附いていたことであろう。この人たちは ただ に酒家 妓楼 ぎろう 出入 いでいり するのみではなく、常に 無頼 ぶらい の徒と会して 袁耽 えんたん の技を闘わした。良三の如きは頭を一つ べっつい にしてどてらを 街上 かいじょう 闊歩 かっぽ したことがあるそうである。優善の背後には、もうネメシスの神が せま り近づいていた。
 渋江氏が亀沢町に来る時、五百はまた長尾一族のために、 もと 小家 こいえ を新しい邸に うつ して、そこへ一族を すま わせた。 年月 ねんげつ つまびらか にせぬが、長尾氏の二女の人に嫁したのは、亀沢町に来てからの事である。初め長女敬が母と共に坐食するに忍びぬといって、 なかだち するもののあるに任せて、 猿若町 さるわかちょう 三丁目 守田座附 もりたざつき の茶屋 三河屋力蔵 みかわやりきぞう に嫁し、次で次女 せん も浅草 須賀町 すがちょう の呉服商 桝屋儀兵衛 ますやぎへえ に嫁した。未亡人は筆算が出来るので、敬の夫力蔵に 重宝 ちょうほう がられて、茶屋の帳場にすわることになった。
 抽斎の蔵書は兼て三万五千部あるといわれていたが、この年亀沢町に うつ って検すると、既に一万部に満たなかった。矢島優善が台所町の土蔵から書籍を搬出するのを、当時まだ生きていた兄 恒善 つねよし が見附けて、奪い かえ したことがある。しかし人目に触れずに、どれだけ出して売ったかわからない。或時は二階から本を なわ つな いで卸すと、街上に友人が待ち受けていて持ち去ったそうである。安政三年以後、抽斎の 時々 じじ 病臥 びょうが することがあって、その間には書籍の 散佚 さんいつ することが こと に多かった。また人に貸して失った書も少くない。 就中 なかんずく 枳園 きえん とその子養真とに貸した書は多く還らなかった。 成善 しげよし が海保の塾に った後には、海保 竹逕が数 しばしば 渋江氏に警告して、「大分 蔵書印のある本が市中に見えるようでございますから、御注意なさいまし」といった。
 抽斎の心に懸けて死んだ躋寿館校刻の『医心方』は、この年完成して、森枳園らは白銀若干を賞賜せられた。
 抽斎に洋学の必要を悟らせた 安積艮斎 あさかごんさい は、この年十一月二十二日に七十一歳で歿した。艮斎の歿した時の よわい は諸書に異同があって、中に七十一としたものと七十六としたものとが多い。鈴木 春浦 しゅんぽ さんに頼んで、妙源寺の墓石と過去帖とを検してもらったが、 ならび に皆これを記していない。しかし文集を けみ するに、故郷の 安達太郎山 あだたらやま に登った記に、干支と年齢のおおよそとが書してあって、万延元年に七十六に満たぬことは明白である。子 文九郎重允 ぶんくろうちょういん が家を嗣いだ。 わか い時 疥癬 かいせん のために衰弱したのを、父が温泉に連れて往って したことが、文集に見えている。抽斎は艮斎のワシントンの論讃を読んで、喜んで反復したそうである。 おそら くは『洋外紀略』の「 嗚呼 ああ 話聖東 ワシントンは 雖生於戎羯 じゅうけつにうまるといえども 其為人 そのひととなりや 有足多者 たりておおきものあり 」云々の一節であっただろう。

その七十一

 抽斎歿後第三年は文久元年である。年の はじめ 五百 いお は大きい本箱三つを 成善 しげよし の部屋に運ばせて、戸棚の中に入れた。そしてこういった。
「これは日本に わずか 三部しかない い版の『十三 経註疏 ぎょうちゅうそ 』だが、お う様がお前のだと おっしゃ った。今年はもう三回忌の来る年だから、今からお前の そば に置くよ」といった。
 数日の後に矢島 優善 やすよし が、 活花 いけばな の友達を集めて会をしたいが、緑町の家には丁度 い座敷がないから、成善の部屋を借りたいといった。成善は部屋を明け渡した。
 さて友達という数人が来て、 汁粉 しるこ などを食って帰った跡で、戸棚の本箱を見ると、その中は空虚であった。
 三月六日に優善は「 身持 みもち 不行跡 不埒 ふらち 」の かど を以て隠居を命ぜられ、同時に「 御憐憫 ごれんびん を以て 名跡 みょうせき 御立被下置 おんたてくだされおく 」ということになって、養子を入れることを許された。
 優善のまさに養うべき子を選ぶことをば、中丸昌庵が引き受けた。然るに中丸の歓心を得ている近習詰百五十石六人扶持の医者に、 上原元永 うえはらげんえい というものがあって、この上原が町医 伊達周禎 だてしゅうてい を推薦した。
 周禎は同じ年の八月四日を以て家督相続をして、矢島氏の禄二百石八人扶持を受けることになった。養父優善は二十七歳、養子周禎は文化十四年 うまれ で四十五歳になっていた。
 周禎の妻を たか といって、 すで に四子を生んでいた。長男 周碩 しゅうせき 、次男周策、三男三蔵、四男玄四郎が即ちこれである。周禎が矢島氏を冒した時、長男周碩は 生得 しょうとく 不調法 ぶちょうほう にして 仕宦 しかん に適せぬと称して廃嫡を請い、 小田原 おだわら に往って町医となった。そこで弘化二年生の次男周策が嗣子に定まった。当時十七歳である。
 これより さき 優善が隠居の 沙汰 さた こうむ った時、これがために最も憂えたものは五百で、最も いきどお ったものは比良野 貞固 さだかた である。貞固は優善を 面責 めんせき して、いかにしてこの はずかしめ すす ぐかと問うた。優善は山田昌栄の塾に って勉学したいと答えた。
 貞固は先ず優善が 改悛 かいしゅん の状を見届けて、 しか のち に入塾せしめるといって、優善と妻 てつ とを自邸に引き取り、二階に すま わせた。
 さて十月になってから、貞固は 五百 いお を招いて、 とも に優善を山田の塾に連れて往った。塾は本郷弓町にあった。
 この塾の月俸は三分二朱であった。貞固のいうには、これは いささか の金ではあるが、矢島氏の禄を受くる周禎が当然支出すべきもので、また優善の修行中その妻鉄をも周禎があずかるが いといった。そしてこの二件を周禎に交渉した。周禎はひどく迷惑らしい答をしたが、後に渋りながらも承諾した。想うに上原は周禎を矢島氏の嗣となすに当って、株の 売渡 うりわたし のような形式を用いたのであろう。上原は渋江氏に対して余り同情を有せぬ人で、優善には かす という 渾名 あだな をさえ附けていたそうである。
 山田の塾には当時門人十九人が寄宿していたが、いまだ いくばく もあらぬに 梅林松弥 うめばやしまつや というものと優善とが塾頭にせられた。梅林は初め抽斎に学び、 のち ここ に来たもので、維新後名を けつ と改め、明治二十一年一月十四日に陸軍一等軍医を以て終った。
 比良野氏ではこの年同藩の 物頭 ものがしら 二百石 稲葉丹下 いなばたんげ の次男 房之助 ふさのすけ を迎えて養子とした。これは貞固が既に五十歳になったのに、妻かなが子を生まぬからであった。房之助は嘉永四年八月二日 うまれ で、当時十一歳になっていて、学問よりは武芸が すき であった。

   その七十二

 矢川氏ではこの年文一郎が二十一歳で、本所二つ目の 鉄物問屋 かなものどいや 平野屋の むすめ りゅう めと った。
 石塚重兵衛の 豊芥子 ほうかいし は、この年十二月十五日に六十三歳で歿した。豊芥子が渋江氏の扶助を仰ぐことは、 ほとん ど恒例の如くになっていた。 五百 いお は石塚氏にわたす金を しる す帳簿を持っていたそうである。しかし抽斎はこの人の 文字 もんじ って、広く市井の事に通じ、また劇の沿革を つまびらか にしているのを愛して、 きた うごとに歓び迎えた。今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
 人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、 後言 しりうごと めく きらい はあるが、抽斎の蔵書をして 散佚 さんいつ せしめた 顛末 てんまつ を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の せめ を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞 音曲 おんぎょく の書、随筆小説の類である。その他書画 骨董 こっとう にも、この人の手から 商估 しょうこ の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に 円山応挙 まるやまおうきょ 百枚があった。題材は の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを はばか る。 そうこう 頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と 木彫 もくちょう の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と 若衆 わかしゅ とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「 三坊 さんぼう には ひな 人形を遣らぬ かわり にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは 成善 しげよし 小字 おさなな 三吉 さんきち である。五百は度々 清助 せいすけ という若党を、浅草 諏訪町 すわちょう の鎌倉屋へ遣って、催促して かえ させようとしたが、豊芥子は こと を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は もと 京都の 両替店 りょうがえてん 銭屋 ぜにや 息子 むすこ で、 遊蕩 ゆうとう のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。手跡がなかなか いので、豊芥子の筆耕に やと われることになっていた。それゆえ鎌倉屋への使に立ったのである。
 森 枳園 きえん 小野富穀 おのふこく と口論をしたという話があって、その年月を つまびらか にせぬが、わたくしは多分この年の頃であろうと思う。場所は 山城河岸 やましろがし 津藤 つとう の家であった。例の如く文人、 画師 えし 、力士、俳優、 幇間 ほうかん 芸妓 げいぎ 等の大一座で、酒 たけなわ なる ころ になった。その中に枳園、富穀、矢島 優善 やすよし 、伊沢 徳安 とくあん などが居合せた。初め枳園と富穀とは何事をか論じていたが、万事を茶にして世を渡る枳園が、どうしたわけか大いに いか って、七代目 もどき のたんかを切り、 胖大漢 はんだいかん の富穀をして色を失って席を のが れしめたそうである。富穀もまた 滑稽 こっけい 趣味においては枳園に劣らぬ人物で、 へそ 烟草 タバコ むという 隠芸 かくしげい を有していた。枳園とこの人とがかくまで激烈に衝突しようとは、 たれ も思い けぬので、優善、徳安の二人は永くこの 喧嘩 けんか を忘れずにいた。想うに 貨殖 かしょく に長じた富穀と、人の物と我物との別に重きを置かぬ、 無頓着 むとんじゃく な枳園とは、その性格に 相容 あいい れざる所があったであろう。 津藤 つとう 即ち 摂津国屋 つのくにや 藤次郎 とうじろう は、名は りん 、字は 冷和 れいわ 香以 こうい 鯉角 りかく 梅阿弥 ばいあみ 等と号した。その豪遊を ほしいまま にして家産を 蕩尽 とうじん したのは、世の知る所である。文政五年 うまれ で、当時四十歳である。
 この年の抽斎が 忌日 きにち の頃であった。小島成斎は五百に勧めて、なお存している蔵書の大半を、 中橋埋地 なかばしうめち の柏軒が家にあずけた。柏軒は翌年お玉が池に 第宅 ていたく を移す時も、家財と共にこれを新居に はこ び入れて、一年間位 鄭重 ていちょう 保護 ほうご していた。

その七十三

 抽斎歿後の第四年は文久二年である。抽斎は世にある日、藩主に活版 薄葉刷 うすようずり の『 医方類聚 いほうるいじゅ 』を献ずることにしていた。書は 喜多村栲窓 きたむらこうそう の校刻する所で、月ごとに発行せられるのを、抽斎は生を終るまで次を って たてまつ った。 成善 しげよし は父の歿後相継いで納本していたが、この年に至って全部を献じ おわ った。八月十五日 順承 ゆきつぐ は重臣を以て成善に「御召御紋御羽織並御酒御吸物」を賞賜した。
 成善は二年 ぜん から海保 竹逕 ちくけい に学んで、この年十二月二十八日に、六歳にして藩主 順承 ゆきつぐ から奨学金二百匹を受けた。 おも なる 経史 けいし 素読 そどく おわ ったためである。母 五百 いお は子女に読書習字を授けて半日を ついや すを常としていたが、 ごう も成善の学業に干渉しなかった。そして「あれは書物が御飯より すき だから、構わなくても い」といった。成善はまた善く母に つか うるというを以て、賞を受くること両度に及んだ。
 この年十月十八日に成善が 筆札 ひっさつ の師小島成斎が六十七歳で歿した。成斎は朝生徒に習字を教えて、 つい で阿部家の やかた に出仕し、 午時 ごじ 公退して酒を飲み劇を談ずることを例としていた。阿部家では抽斎の歿するに先だつこと一年、安政四年六月十七日に 老中 ろうじゅう の職におった伊勢守正弘が世を去って、越えて八月に伊予守 正教 まさのり が家督相続をした。成善が従学してからは、成斎は始終正教に侍していたのである。後に至って成善は朝の課業の 喧擾 けんじょう を避け、午後に うて単独に おしえ を受けた。そこで成斎の観劇談を聴くことしばしばであった。成斎は 卒中 そっちゅう で死んだ。正弘の老中たりし時、成斎は 用人格 ようにんかく ぬきん でられ、公用人 服部 はっとり 九十郎と名を ひとし うしていたが、 二人 ににん 皆同病によって命を おと した。成斎には二子三女があって、長男 生輒 せいしょう は早世し、次男 信之 のぶゆき が家を継いだ。通称は 俊治 しゅんじ である。俊治の子は 鎰之助 いつのすけ 、鎰之助の養嗣子は、今本郷区 駒込 こまごめ 動坂町 どうざかちょう にいる 昌吉 しょうきち さんである。 高足 こうそく の一人 小此木辰太郎 おこのぎたつたろう は、明治九年に工務省 やとい になり、十人年内閣属に転じ、十九年十二月一日から二十七年三月二十九日まで職を学習院に奉じて、生徒に筆札を授けていたが、明治二十八年一月に歿した。
 成善がこの頃母五百と とも に浅草 永住町 ながすみちょう 覚音寺 かくおんじ もう でたことがある。覚音寺は五百の里方山内氏の 菩提所 ぼだいしょ である。帰途 二人 ふたり 蔵前通 くらまえどおり を歩いて桃太郎団子の店の前に来ると、五百の相識の女に 邂逅 かいこう した。これは五百と同じく藤堂家に仕えて、中老になっていた人である。五百は久しく消息の絶えていたこの女と話がしたいといって、ほど近い 横町 よこちょう にある料理屋 誰袖 たがそで に案内した。成善も跡に附いて往った。誰袖は当時 川長 かわちょう 青柳 あおやぎ 大七 だいしち などと並称せられた家である。
 三人の通った座敷の隣に 大一座 おおいちざ の客があるらしかった。しかし 声高 こえたか く語り合うこともなく、 まし てや 絃歌 げんか の響などは起らなかった。 しばら くあってその座敷が にわか に騒がしく、 多人数 たにんず の足音がして、跡はまたひっそりとした。
  給仕 きゅうじ に来た女中に五百が問うと、女中はいった。「あれは 札差 ふださし 檀那衆 だんなしゅ 悪作劇 いたずら をしてお いで なすったところへ、お たつ さんが飛び込んでお出なすったのでございます。 き散らしてあったお金をそのままにして置いて、檀那衆がお にげ なさると、お辰さんはそれを持ってお かえり なさいました」といった。お辰というのは、 のち ぬすみ をして捕えられた旗本 青木弥太郎 あおきやたろう しょう である。
 女中の語り おわ る時、両刀を帯びた異様の男が五百らの座敷に 闖入 ちんにゅう して「 手前 てまえ たちも 博奕 ばくち の仲間だろう、金を持っているなら、そこへ出してしまえ」といいつつ、 とう を抜いて威嚇した。
「なに、この かた が」と五百は叫んで、懐剣を抜いて った。男は はじめ の勢にも似ず、身を ひるがえ して逃げ去った。この年五百はもう四十七歳になっていた。

その七十四

 矢島 優善 やすよし は山田の塾に って、塾頭に推されてから、やや自重するものの如く、病家にも信頼せられて、 旗下 はたもと の家庭にして、特に矢島の名を して招請するものさえあった。五百も比良野 貞固 さだかた もこれがために すこぶ る心を安んじた。
 既にしてこの年二月の 初午 はつうま の日となった。渋江氏では亀沢稲荷の祭を行うといって、親戚故旧を つど えた。優善も来て宴に列し、 清元 きよもと を語ったり茶番を演じたりした。五百はこれを見て 苦々 にがにが しくは思ったが、酒を飲まぬ優善であるから、よしや少しく興に乗じたからといって、 のち わずらい のこ すような事はあるまいと気に掛けずにいた。
 優善が渋江の家に来て、その夕方に帰ってから、二、三日立った頃の事である。師山田 椿庭 ちんてい が本郷弓町から尋ねて来て、「矢島さんはこちらですか、余り久しく御滞留になりますから、どうなされたかと存じて伺いました」といった。
「優善は初午の日にまいりましたきりで、あの日には晩の四つ頃に帰りましたが」と、五百は いぶ かしげに答えた。
「はてな。あれから塾へは帰られませんが。」椿庭はこういって まゆ しか めた。
 五百は即時に人を諸方に せて捜索せしめた。優善の所在はすぐに知れた。初午の に無銭で吉原に き、翌日から 田町 たまち 引手茶屋 ひきてぢゃや に潜伏していたのである。
 五百は金を償って優善を帰らせた。さて比良野貞固、小野 富穀 ふこく 二人 ふたり を呼んで、いかにこれに処すべきかを議した。幼い成善も、戸主だというので、その席に つらな った。
 貞固は暫く黙していたが、 かたち を改めてこういった。「この度の処分はただ一つしかないとわたくしは思う。 玄碩 げんせき さんはわたくしの宅で 詰腹 つめばら を切らせます。小野さんも、お あね えさんも、三坊も御苦労ながらお 立会 たちあい 下さい。」言い おわ って貞固は きび しく口を結んで一座を見廻した。優善は矢島氏を冒してから、養父の称を いで玄碩といっていた。三坊は成善の 小字 おさなな 三吉である。
  富穀 ふこく 面色 めんしょく 土の如くになって、一語を発することも得なかった。
  五百 いお は貞固の ことば を予期していたように、 しずか に答えた。「比良野様の御意見は 御尤 ごもっとも と存じます。度々の不始末で、もうこの上何と申し聞けようもございません。いずれ とく と考えました上で、改めてこちらから申し上げましょう」といった。
 これで相談は果てた。貞固は何事もないような顔をして、席を って帰った。富穀は跡に残って、どうか比良野を勘弁させるように話をしてくれと、繰り返して五百に頼んで置いて、すごすご帰った。五百は 優善 やすよし を呼んで おこそか に会議の始末を言い渡した。成善はどうなる事かと胸を痛めていた。
 翌朝五百は貞固を うて懇談した。大要はこうである。 昨日 さくじつ おおせ は尤至極である。自分は同意せずにはいられない。これまでの 行掛 ゆきがか りを思えば、優善にこの上どうして罪を あがな わせようという道はない。自分も一死がその分であるとは信じている。しかし晴がましく死なせることは、家門のためにも、君侯のためにも望ましくない。それゆえ切腹に代えて、 金毘羅 こんぴら 起請文 きしょうもん を納めさせたい。悔い改める のぞみ のない男であるから、必ず 冥々 めいめい うち に神罰を こうむ るであろうというのである。
 貞固はつくづく聞いて答えた。それは いお 思附 おもいつき である。この度の事については、 命乞 いのちごい の仲裁なら決して聴くまいと決心していたが、晴がましい 死様 しにざま をさせるには及ばぬというお考は道理至極である。然らばその起請文を書いて金毘羅に納めることは、姉上にお任せするといった。

その七十五

  五百 いお は矢島 優善 やすよし に起請文を書かせた。そしてそれを持って とら もん の金毘羅へ納めに往った。しかし起請文は納めずに、優善が 行末 ゆくすえ の事を祈念して帰った。
 小野氏ではこの年十二月十二日に、隠居 令図 れいと が八十歳で歿した。五年 ぜん に致仕して 富穀 ふこく に家を継がせていたのである。小野氏の財産は令図の たくわ えたのが一万両を超えていたそうである。
 伊沢柏軒はこの年三月に二百俵三十人扶持の奥医師にせられて、中橋埋地からお玉が池に居を移した。この時新宅の祝宴に招かれた保さんが種々の事を記憶している。柏軒の四女やすは保さんの姉 水木 みき と長唄の「 老松 おいまつ 」を歌った。 柴田常庵 しばたじょうあん という肥え太った医師は、 越中褌 えっちゅうふんどし 一つを身に着けたばかりで、「棚の 達磨 だるま 」を踊った。そして宴が散じて帰る途中で、保さんは 陣幕久五郎 じんまくひさごろう 小柳平助 こやなぎへいすけ に負けた話を聞いた。
 やすは柏軒の 庶出 しょしゅつ むすめ である。柏軒の正妻 狩谷 かりや たか の生んだ子は、幼くて死した長男 棠助 とうすけ 、十八、九歳になって 麻疹 ましん で亡くなった長女 しゅう 、狩谷 えきさい の養孫、 懐之 かいし の養子 三右衛門 さんえもん に嫁した次女 くに の三人だけで、その他の子は皆 しょう 春の はら である。その順序を言えば、長男棠助、長女洲、次女国、三女 きた 、次男 いわお 、四女やす、五女こと、三男 信平 しんぺい 、四男 孫助 まごすけ である。おやすさんは人と成って後 田舎 いなか に嫁したが、今は 麻布 あざぶ 鳥居坂町 とりいざかちょう の信平さんの もと にいるそうである。
 柴田常庵は幕府医官の 一人 いちにん であったそうである。しかしわたくしの蔵している「武鑑」には載せてない。万延元年の「武鑑」は、わたくしの蔵本に正月、三月、七月の三種がある。柏軒は正月のにはまだ奥詰の部に出ていて、三月以下のには奥医師の部に出ている。柴田は三書共にこれを載せない。維新後にこの人は狂言作者になって 竹柴寿作 たけしばじゅさく と称し、五世 坂東彦三郎 ばんどうひこさぶろう と親しかったということである。なお尋ねて見たいものである。
 陣幕久五郎の まけ は当時人の 意料 いりょう ほか に出た出来事である。抽斎は 角觝 かくてい を好まなかった。然るに保さんは おさな い時からこれを ることを喜んで、この年の春場所をも、初日から五日目まで一日も かさずに見舞った。さてその六日目が伊沢の祝宴であった。 の刻を過ぎてから、保さんは母と姉とに連れられて伊沢の家を出て帰り掛かった。途中で若党清助が迎えて、保さんに「陣幕が負けました」と 耳語 じご した。
虚言 うそ け」と、保さんは しっ した。取組は前から知っていて、 小柳 やなぎ が陣幕の敵でないことを固く信じていたのである。
「いいえ、本当です」と、清助はいった。清助の こと は事実であった。陣幕は小柳に負けた。そして小柳はこの勝の故を以て人に殺された。その殺されたのが九つ半頃であったというから、丁度保さんと清助とがこの応答をしていた時である。
 陣幕の事を言ったから、 ちなみ 小錦 こにしき の事をも言って置こう。伊沢のおかえさんに附けられていた松という少女があった。松は 魚屋与助 うおやよすけ むすめ で、菊、京の 二人 ふたり の妹があった。この京が 岩木川 いわきがわ の種を宿して生んだのが小錦 八十吉 やそきち である。
 保さんは今一つ、柏軒の奥医師になった時の事を記憶している。それは手習の師小島成斎が、この時柏軒の子鉄三郎に対する待遇を一変した事である。福山侯の家来成斎が、いかに幕府の奥医師の子を尊敬しなくてはならなかったかという、当年の階級制度の 画図 がと が、 あきらか おさな い成善の目前に展開せられたのである。

その七十六

 小島成斎が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を 教場 きょうじょう にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の児童が机を並べている前に、手に むち を執って坐し、筆法を ただ すに鞭の さき を以て ゆびさ し示し、その間には 諧謔 かいぎゃく を交えた話をしたことは、前に書いた。成斎は話をするに、多く伊沢柏軒の子鉄三郎を相手にして、鉄坊々々と呼んだが、それが意あってか、どうか知らぬが、鉄砲々々と聞えた。弟子らもまた鉄三郎を鉄砲さんと呼んだ。
 成斎が鉄砲さんを 揶揄 からか えば、鉄砲さんも必ずしも師を敬ってばかりはいない。往々 戯言 けげん を吐いて尊厳を冒すことがある。成斎は「おのれ鉄砲 」と叫びつつ、鞭を ふる って打とうとする。鉄砲は笑って にげ る。成斎は追い附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいじゃありませんか」と、鉄砲はつぶやく。弟子らは面白がって笑った。こういう事は ほとん ど毎日あった。
 然るにこの年の三月になって、鉄砲さんの父柏軒が奥医師になった。翌日から成斎ははっきりと伊沢の子に対する待遇を改めた。 例之 たとえ ば筆法を正すにも「 徳安 とくあん さん、その点はこうお うち なさいまし」という。鉄三郎はよほど前に 小字 おさなな てて徳安と称していたのである。この あらた な待遇は、不思議にも、これを受ける伊沢の嫡男をして たちま ち態度を改めしめた。鉄三郎の徳安は甚だしく 大人 おとな しくなって、殆どはにかむように見えた。
 この年の九月に柏軒はあずかっていた抽斎の蔵書を かえ した。それは九月の九日に将軍 家茂 いえもち が明年二月を以て 上洛 じょうらく するという令を発して、柏軒はこれに随行する準備をしたからである。渋江氏は比良野 貞固 さだかた はか って、伊沢氏から還された書籍の主なものを津軽家の倉庫にあずけた。そして毎年二度ずつ 虫干 むしぼし をすることに定めた。当時作った目録によれば、その部数は三千五百余に過ぎなかった。
 書籍が伊沢氏から還されて、まだ津軽家にあずけられぬほどの事であった。森 枳園 きえん が来て『論語』と『史記』とを借りて帰った。『論語』は 乎古止点 おことてん を施した古写本で、 松永久秀 まつながひさひで の印記があった。『史記』は朝鮮 ばん であった。 のち 明治二十三年に保さんは 島田篁村 しまだこうそん うて、再びこの『論語』を見た。篁村はこれを 細川十洲 ほそかわじっしゅう さんに借りて けみ していたのである。
 津軽家ではこの年十月十四日に、 信順 のぶゆき が浜町中屋敷において、六十三歳で卒した。保さんの 成善 しげよし 枕辺 まくらべ に侍していた。
 この年十二月二十一日の 塙次郎 はなわじろう 三番町 さんばんちょう 刺客 せきかく やいば に命を おと した。抽斎は常にこの人と岡本 况斎 きょうさい とに、国典の事を うことにしていたそうである。次郎は 温古堂 おんこどう と号した。 保己一 ほきいち だん 四谷 よつや 寺町 てらまち に住む 忠雄 ただお さんの祖父である。当時の流言に、次郎が安藤対馬守 信睦 のぶゆき のために廃立の先例を取り調べたという事が伝えられたのが、この 横禍 おうか の因をなしたのである。遺骸の かたわら に、 大逆 たいぎゃく のために天罰を加うという 捨札 すてふだ があった。次郎は文化十一年 うまれ で、殺された時が四十九歳、抽斎より わか きこと九年であった。
 この年六月中旬から八月下旬まで 麻疹 ましん が流行して、渋江氏の亀沢町の家へ、 御柳 ぎょりゅう の葉と 貝多羅葉 ばいたらよう とを もら いに来る人が くびす を接した。 二樹 にじゅ の葉が当時民間薬として用いられていたからである。五百は終日応接して、 諸人 しょにん の望に そむ かざらんことを努めた。

その七十七

 抽斎歿後の第五年は文久三年である。 成善 しげよし は七歳で、 はじめ て矢の倉の 多紀安琢 たきあんたく もと に通って、『 素問 そもん 』の講義を聞いた。
 伊沢柏軒はこの年五十四歳で歿した。徳川 家茂 いえもち したが って京都に上り、病を得て 客死 かくし したのである。嗣子鉄三郎の 徳安 とくあん がお玉が池の伊沢氏の主人となった。
 この年七月二十日に 山崎美成 やまざきよししげ が歿した。抽斎は美成と甚だ親しかったのではあるまい。しかし 二家 にか 書庫の蔵する所は、 たがい だし借すことを おし まなかったらしい。 頃日 このごろ 珍書刊行会が『 後昔物語 のちはむかしものがたり 』を刊したのを見るに、抽斎の 奥書 おくがき がある。「右 喜三二 きさじ 随筆後昔物語一巻。 借好間堂蔵本 こうもんどうぞうほんをかり 。友人 平伯民為予謄写 へいはくみんよがためにとうしゃす 庚子孟冬 こうしもうとう 一校。抽斎。」 庚子 こうし は天保十一年で、抽斎が弘前から江戸に帰った翌年である。 平伯民 へいはくみん は平井東堂だそうである。
 美成、字は 久卿 きゅうけい 北峰 ほくほう 好問堂 こうもんどう 等の号がある。通称は 新兵衛 しんべえ のち 久作と改めた。 下谷 したや 二長町 にちょうまち に薬店を開いていて、屋号を長崎屋といった。晩年には 飯田町 いいだまち 鍋島 なべしま というものの邸内にいたそうである。 黐木坂下 もちのきざかした に鍋島 穎之助 えいのすけ という五千石の 寄合 よりあい が住んでいたから、定めてその邸であろう。
 美成の歿した時の よわい を六十七歳とすると、抽斎より長ずること八歳であっただろう。しかし諸書の記載が 区々 まちまち になっていて、 たしか には定めがたい。
 抽斎歿後の第六年は 元治 げんじ 元年である。森枳園が 躋寿館 せいじゅかん の講師たるを以て、幕府の月俸を受けることになった。
 第七年は慶応元年である。渋江氏では六月二十日に 翠暫 すいざん が十一歳で 夭札 ようさつ した。
 比良野 貞固 さだかた はこの年四月二十七日に妻かなの喪に った。かなは文化十四年の うまれ で四十九歳になっていた。内に倹素を忍んで、 ほか に声望を張ろうとする貞固が留守居の生活は、かなの内助を待って はじめ て保続せられたのである。かなの死後に、親戚僚属は しきり に再び めと らんことを勧めたが、貞固は「五十を えた花壻になりたくない」といって、久しくこれに応ぜずにいた。
 第八年は慶応二年である。海保漁村が九年 ぜん に病に かか り、この年八月その再発に い、九月十八日に六十九歳で歿したので、十歳の成善は改めてその子 竹逕 ちくけい の門人になった。しかしこれは殆ど名義のみの変更に過ぎなかった。 何故 なにゆえ というに、晩年の漁村が 弟子 ていし のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が ことごと くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は 咳嗄 しわが れているのに、竹逕は 音吐 おんと 晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の 口吻 こうふん 態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、 ただ 伝経廬 でんけいろ におけるのみではなかった。竹逕は 弊衣 へいい て塾を で、漁村に代って躋寿館に き、 間部家 まなべけ に往き、南部家に往いた。 いきおい かく の如くであったので、漁村歿後に至っても、 練塀小路 ねりべいこうじ の伝経廬は旧に って繁栄した。
 多年渋江氏に寄食していた 山内豊覚 やまのうちほうかく しょう まき は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。

その七十八

 抽斎の姉 須磨 すま 飯田良清 いいだよしきよ に嫁して生んだ むすめ 二人 ふたり の中で、長女 のぶ 小舟町 こぶねちょう 新井屋半七 あらいやはんしち が妻となって死に、次女 みち が残っていた。路は 痘瘡 とうそう のために かたち やぶ られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に すこぶ る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男 直之助 なおのすけ が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。飯田孫三郎は十年 ぜん の安政三年から、「武鑑」の 徒目附 かちめつけ の部に載せられている。住所は初め 湯島 ゆしま 天沢寺前 てんたくじまえ としてあって、後には湯島天神裏門前としてある。保さんの記憶している家は 麟祥院前 りんしょういんまえ 猿飴 さるあめ の横町であったそうである。孫三郎は維新後静岡県の官吏になって、 良政 よしまさ と称し、後また東京に って、 下谷 したや 車坂町 くるまざかちょう で終ったそうである。
 比良野 貞固 さだかた は妻かなが歿した のち 、稲葉氏から来た養子 房之助 ふさのすけ と二人で、 鰥暮 やもめぐら しをしていたが、無妻で留守居を勤めることは出来ぬと説くものが多いので、貞固の心がやや動いた。この年の頃になって、 媒人 なこうど 表坊主 おもてぼうず 大須 おおす というものの むすめ てる めと れと勧めた。「武鑑」を検するに、慶応二年に勤めていたこの氏の表坊主父子がある。父は 玄喜 げんき 、子は 玄悦 げんえつ で、 麹町 こうじまち 三軒家 さんげんや の同じ家に住んでいた。照は玄喜の むすめ で、玄悦の妹ではあるまいか。
 貞固は津軽家の留守居役所で使っている 下役 したやく 杉浦喜左衛門 すぎうらきざえもん って、照を見させた。杉浦は老実な人物で、貞固が信任していたからである。照に逢って来た杉浦は、盛んに照の美を賞して、その 言語 げんぎょ その挙止さえいかにもしとやかだといった。
  結納 ゆいのう 取換 とりかわ された。婚礼の当日に、 五百 いお は比良野の家に往って新婦を待ち受けることになった。貞固と五百とが窓の もと に対坐していると、新婦の かご は門内に き入れられた。五百は轎を出る女を見て驚いた。身の たけ きわめ て小さく、色は黒く鼻は低い。その上口が とが って歯が出ている。五百は貞固を顧みた。貞固は 苦笑 にがわら をして、「お あね えさん、あれが花よめ ですぜ」といった。
 新婦が来てから さかずき をするまでには時が立った。五百は杉浦のおらぬのを あやし んで問うと、よめの来たのを迎えてすぐに、比良野の馬を借りて、どこかへ乗って往ったということであった。
 暫らくして杉浦は五百と貞固との前へ出て、 ひたい の汗を ぬぐ いつついった。「実に 分疏 もうしわけ がございません。わたくしはお照殿にお近づきになりたいと、先方へ申し込んで、先方からも委細承知したという返事があって参ったのでございます。その席へ立派にお化粧をして茶を運んで出て、暫時わたくしの前にすわっていて、時候の 挨拶 あいさつ をいたしたのは、 かね て申し上げたとおりの美しい女でございました。 今日 こんにち 参ったよめ は、その日に菓子鉢か何か持って出て、 しきい の内までちょっとはいったきりで、すぐに引き取りました。わたくしはよもやあれがお照殿であろうとは存じませなんだ。余りの間違でございますので、お馬を借用して、大須家へ駆け付けて尋ねましたところが、御挨拶をさせた女は照のお引合せをいたさせた せがれ のよめでございますという返答でございます。全くわたくしの 粗忽 そこつ で」といって、杉浦はまたの汗を拭った。

その七十九

  五百 いお は杉浦喜左衛門の話を聞いて色を変じた。そして貞固に「どうなさいますか」と問うた。
 杉浦は かたわら からいった。「御破談になさるより外ございますまい。わたくしがあの日に、あなたがお照様でございますねと、 一言 いちごん 念を押して置けば よろ しかったのでございます。全くわたくしの粗忽で」という、目には涙を浮べていた。
 貞固は こまぬ いていた手をほどいていった。「お あね えさん御心配をなさいますな。杉浦も悔まぬが い。わたしはこの婚礼をすることに決心しました。お坊主を恐れるのではないが、 喧嘩 けんか を始めるのは面白くない。それにわたしはもう五十を越している。器量好みをする年でもない」といった。
 貞固は つい に照と さかずき をした。照は天保六年 うまれ で、嫁した時三十二歳になっていた。醜いので縁遠かったのであろう。貞固は さい の里方と まじわ るに、多く形式の外に でなかったが、照と結婚した のち 間もなくその弟 玄琢 げんたく を愛するようになった。 大須 おおす 玄琢は学才があるのに、父兄はこれに助力せぬので、貞固は書籍を買って与えた。中には 八尾板 やおばん の『史記』などのような大部のものがあった。
 この年弘前藩では江戸 定府 じょうふ を引き上げて、郷国に帰らしむることに決した。抽斎らの 国勝手 くにがって の議が、この時に及んで わずか に行われたのである。しかし渋江氏とその親戚とは先ず江戸を発する むれ には らなかった。
 抽斎歿後の第九年は慶応三年である。矢島 優善 やすよし は本所緑町の家を引き払って、武蔵国 北足立郡 きたあだちごおり 川口 かわぐち に移り住んだ。 知人 しるひと があって、この土地で医業を営むのが有望だと勧めたからである。しかし優善が川口にいて医を業としたのは、 わずか あいだ である。「どうも独身で田舎にいて見ると、土臭い女がたかって来て、うるさくてならない」といって、亀沢町の渋江の家に帰って同居した。当時優善は三十三歳であった。
 比良野貞固の家では、この年 後妻 こうさい 照が りゅう という むすめ を生んだ。
 第十年は明治元年である。 伏見 ふしみ 鳥羽 とば たたかい を以て始まり、東北地方に押し詰められた佐幕の 余力 よりょく が、春より秋に至る間に ようや く衰滅に帰した年である。最後の将軍徳川 慶喜 よしのぶ が上野寛永寺に った のち に、江戸を引き上げた弘前藩の 定府 じょうふ の幾組かがあった。そしてその中に渋江氏がいた。
 渋江氏では三千坪の亀沢町の地所と邸宅とを四十五両に売った。畳一枚の あたい は二十四文であった。庭に 定所 ていしょ 、抽斎父子の遺愛の木たる ていりゅう がある。神田の火に逢って、幹の 二大枝 にだいし わか れているその一つが枯れている。神田から台所町へ、台所町から亀沢町へ うつ されて、 さいわい しお れなかった木である。また山内豊覚が 遺言 いげん して五百に贈った 石燈籠 いしどうろう がある。五百も 成善 しげよし も、これらの物を棄てて去るに忍びなかったが、さればとて木石を百八十二里の遠きに致さんことは、王侯富豪も かた んずる所である。ましてや一身の安きをだに期しがたい乱世の旅である。母子はこれを 奈何 いかん ともすることが出来なかった。
 食客は江戸 もし くはその 界隈 かいわい に寄るべき親族を求めて去った。 奴婢 ぬひ は、弘前に したが くべき若党二人を除く外、 ことごと いとま を取った。こういう時に、年老いたる男女の いて投ずべき家のないものは、 あわれ むべきである。山内氏から来た牧は二年 ぜん に死んだが、跡にまだ 妙了尼 みょうりょうに がいた。
 妙了尼の親戚は江戸に多かったが、この時になって たれ 一人引き取ろうというものがなかった。 五百 いお は一時当惑した。

その八十

 渋江氏が本所亀沢町の家を立ち 退 こうとして、最も処置に くるし んだのは妙了尼の身の上であった。この老尼は天明元年に生れて、 すで に八十八歳になっている。津軽家に奉公したことはあっても、生れてから江戸の土地を離れたことのない女である。それを弘前へ伴うことは、五百がためにも望ましくない。また老いさらぼいたる本人のためにも、長途の旅をして 知人 しるひと のない 遠国 えんごく に往くのはつらいのである。
  もと 妙了は特に渋江氏に縁故のある女ではない。神田 豊島町 としまちょう の古着屋の むすめ に生れて、 真寿院 しんじゅいん 女小姓 おんなごしょう を勤めた。さて いとま を取ってから人に嫁し、夫を うしな って 剃髪 ていはつ した。夫の弟が家を ぐに及んで、初め恋愛していたために今憎悪する戸主に虐遇せられ、それを耐え忍んで年を経た。亡夫の弟の子の代になって、虐遇は前に倍し、あまつさえ眼病を憂えた。これが弘化二年で、妙了が六十五歳になった時である。
 妙了は眼病の治療を請いに抽斎の もと へ来た。前年に きた り嫁した 五百 いお が、老尼の物語を聞いて気の毒がって、遂に食客にした。それからは渋江の家にいて子供の世話をし、中にも とう 成善 しげよし とを愛した。
 妙了の最も近い親戚は、本所 相生町 あいおいちょう 石灰屋 しっくいや をしている弟である。しかし弟は渋江氏の江戸を去るに当って、姉を引き取ることを拒んだ。その外 今川橋 いまがわばし 飴屋 あめや 石原 いしはら 釘屋 くぎや 箱崎 はこざき の呉服屋、豊島町の 足袋屋 たびや なども、皆縁類でありながら、一人として老尼の世話をしようというものはなかった。
 幸に妙了の 女姪 めい が一人 富田十兵衛 とみたじゅうべえ というものの さい になっていて、夫に 小母 おば の事を話すと、十兵衛は快く妙了を引き取ることを諾した。十兵衛は 伊豆国 いずのくに 韮山 にらやま の某寺に 寺男 てらおとこ をしているので、妙了は韮山へ往った。
 四月 さく に渋江氏は亀沢町の邸宅を立ち 退 いて、本所 横川 よこかわ の津軽家の中屋敷に うつ った。次で十一日に江戸を発した。この日は官軍が江戸城を収めた日である。
  一行 いっこう は戸主成善十二歳、母 五百 いお 五十三歳、 くが 二十二歳、 水木 みき 十六歳、 専六 せんろく 十五歳、矢島 優善 やすよし 三十四歳の六人と若党 二人 ににん とである。若党の 一人 ひとり は岩崎 駒五郎 こまごろう という弘前のもので、今一人は 中条勝次郎 ちゅうじょうかつじろう という 常陸国 ひたちのくに 土浦 つちうら のものである。
 同行者は 矢川文一郎 やかわぶんいちろう 浅越一家 あさごえいっけ とである。文一郎は七年 ぜん の文久元年に二十一歳で、本所二つ目の 鉄物問屋 かなものどいや 平野屋の むすめ 柳を めと って、 男子 なんし を一人もうけていたが、弘前 ゆき の事が まると、柳は江戸を離れることを欲せぬので、子を連れて里方へ帰った。文一郎は江戸を立った時二十八歳である。
 浅越一家は主人夫婦と むすめ とで、若党一人を連れていた。主人は通称を 玄隆 げんりゅう といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は わか い時 不行迹 ふぎょうせき のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで 末期 まつご 養子として のち け、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と したし んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、 むすめ ふくは当歳である。
 ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを するに当って、当時の社会が今と こと なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは 勿論 もちろん であるが、 出入 でいり の職人 商人 あきうど もまた 情誼 じょうぎ すこぶ る厚かった。渋江の家に 出入 いでいり する中で、職人には 飾屋長八 かざりやちょうはち というものがあり、商人には 鮓屋久次郎 すしやきゅうじろう というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時 墓木 ぼぼく きょう していたが、久次郎は六十六歳の おきな になって 生存 ながら えていたのである。

その八十一

 飾屋長八は単に渋江氏の 出入 でいり だというのみではなかった。天保十年に抽斎が弘前から帰った時、長八は病んで治療を請うた。その時抽斎は長八が病のために業を めて、妻と三人の子とを養うことの出来ぬのを見て、長屋に すま わせて衣食を給した。それゆえ長八は病が えて業に いた のち 、長く渋江氏の恩を忘れなかった。安政五年に抽斎の歿した時、長八は葬式の世話をして家に帰り、例に って晩酌の一合を傾けた。そして「あの 檀那 だんな 様がお亡くなりなすって見れば、 おれ もお供をしても いな」といった。それから二階に上がって寝たが、翌朝起きて来ぬので女房が往って見ると、長八は死んでいたそうである。
 鮓屋久次郎は もと ぼて ふり 肴屋 さかなや であったのを、 五百 いお の兄栄次郎が 贔屓 ひいき にして資本を与えて料理店を出させた。幸に 鮓久 すしきゅう 庖丁 ほうちょう は評判が かったので、十ばかり年の わか い妻を迎えて、天保六年に せがれ 豊吉 とよきち をもうけた。享和三年 うまれ の久次郎は当時三十三歳であった。 のち 九年にして五百が抽斎に嫁したので、久次郎は渋江氏にも 出入 でいり することになって、次第に親しくなっていた。
 渋江氏が弘前に うつ る時、久次郎は切に供をして くことを願った。三十四歳になった豊吉に、母の世話をさせることにして置いて、自分は単身渋江氏の供に立とうとしたのである。この望を起すには、弘前で料理店を出そうという企業心も少し手伝っていたらしいが、六十六歳の おきな が二百里足らずの遠路を供に立って行こうとしたのは、 おも に五百を 尊崇 そんそう する念から出たのである。渋江氏では ゆえ なく久次郎の ねがい しりぞ けることが出来ぬので、藩の当事者に伺ったが、当事者はこれを許すことを好まなかった。五百は用人 河野六郎 こうのろくろう の内意を けて、久次郎の随行を謝絶した。久次郎はひどく落胆したが、翌年病に かか って死んだ。
 渋江氏の一行は本所二つ目橋の ほとり から 高瀬舟 たかせぶね に乗って、 竪川 たてかわ がせ、 中川 なかがわ より 利根川 とねがわ で、 流山 ながれやま 柴又 しばまた 等を経て 小山 おやま いた。江戸を ること わずか に二十一里の路に五日を ついや した。 近衛家 このえけ に縁故のある津軽家は、 西館孤清 にしだてこせい 斡旋 あっせん に依って、既に官軍に加わっていたので、路の 行手 ゆくて の東北地方は、秋田の一藩を除く外、 ことごと く敵地である。一行の渋江、 矢川 やがわ 浅越 あさごえ の三氏の中では、渋江氏は 人数 にんず も多く、老人があり少年少女がある。そこで最も身軽な矢川文一郎と、 乳飲子 ちのみご を抱いた妻という わずらい を有するに過ぎぬ浅越玄隆とをば先に立たせて、渋江一家が跡に残った。
 五百らの乗った五 ちょう 駕籠 かご を矢島 優善 やすよし が宰領して、若党二人を連れて、 石橋 いしばし 駅に掛かると、仙台藩の 哨兵線 しょうへいせん に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ かご さしはさ んで、一つ一つ戸を開けさせて 誰何 すいか する。女の轎は 仔細 しさい なく通過させたが、成善の轎に至って、審問に時を費した。この晩に宿に著いて、五百は成善に女装させた。
  出羽 でわ の山形は江戸から九十里で、弘前に至る行程の なかば である。常の旅には ここ に来ると祝う ならい であったが、五百らはわざと旅店を避けて 鰻屋 うなぎや に宿を求めた。

その八十二

 山形から弘前に往く順路は、 小坂峠 こざかとうげ えて仙台に るのである。五百らの一行は仙台を避けて、 板谷峠 いたやとうげ を踰えて 米沢 よねざわ ることになった。しかしこの道筋も安全ではなかった。 上山 かみのやま まで往くと、形勢が甚だ不穏なので、数日間 淹留 えんりゅう した。
 五百らは路用の金が きた。江戸を発する時、多く金を携えて行くのは危険だといって、金銭を 長持 ながもち 五十 余りの底に かせて 舟廻 ふなまわ しにしたからである。五百らは上山で、ようよう陸を運んで来た ちと の荷物の過半を売った。これは金を得ようとしたばかりではない。 間道 かんどう を進むことに決したので、 嵩高 かさだか になる荷は持っていられぬからである。荷を売った銭は もと より路用の不足を補う額には のぼ らなかった。幸に弘前藩の会計方に落ち合って、五百らは少しの金を借ることが出来た。
 上山を発してからは 人烟 じんえん まれ なる 山谷 さんこく の間を過ぎた。 縄梯子 なわばしご すが って 断崖 だんがい 上下 しょうか したこともある。 よる の宿は 旅人 りょじん もち を売って茶を供する休息所の たぐい が多かった。宿で物を盗まれることも数度に及んだ。
  院内峠 いんないとうげ を踰えて秋田領に った時、五百らは少しく心を安んずることを得た。領主 佐竹右京大夫義堯 さたけうきょうのたゆうよしたか は、弘前の津軽 承昭 つぐてる と共に官軍 がた になっていたからである。秋田領は無事に過ぎた。
 さて 矢立峠 やたてとうげ を踰え、四十八川を渡って、弘前へは往くのである。矢立峠の分水線が佐竹、津軽両家の領地 ざかい である。そこを少し くだ ると、 碇関 いかりがせき という関があって番人が置いてある。番人は鑑札を検してから、 はじめ 慇懃 いんぎん ことば を使うのである。人が 雲表 うんぴょう そび ゆる 岩木山 いわきやま ゆびさ して、あれが津軽富士で、あの ふもと が弘前の城下だと教えた時、五百らは覚えず涙を こぼ して喜んだそうである。
 弘前に ってから、五百らは 土手町 どてまち の古着商伊勢屋の家に、藩から 一人 いちにん 一日 いちじつ 一分 いちぶ 為向 しむけ を受けて、下宿することになり、そこに半年余りいた。船廻しにした荷物は、ほど経て のち に着いた。下宿屋から ちまた づれば、土地の人が 江戸子 えどこ 々々々と呼びつつ跡に附いて来る。当時 もとどり を麻糸で い、 地織木綿 じおりもめん の衣服を た弘前の人々の中へ、江戸 そだち の五百らが まじ ったのだから、物珍らしく思われたのも あやし むに足りない。 こと 成善 しげよし が江戸でもまだ少かった 蝙蝠傘 かわほりがさ を差して出ると、 るものが の如くであった。成善は蝙蝠傘と、懐中時計とを持っていた。時計は らぬ人さえ紹介を求めて見に来るので、数日のうちに いじ こわ されてしまった。
 成善は近習小姓の職があるので、毎日 登城 とじょう することになった。宿直は二カ月に三度位であった。
 成善は 経史 けいし 兼松石居 かねまつせききょ に学んだ。江戸で 海保竹逕 かいほちくけい の塾を辞して、弘前で石居の門を たた いたのである。石居は当時既に 蟄居 ちっきょ ゆる されていた。医学は江戸で 多紀安琢 たきあんたく おしえ を受けた のち 、弘前では別に人に師事せずにいた。
 戦争は既に 所々 しょしょ に起って、飛脚が日ごとに情報を もたら した。共に弘前へ来た矢川文一郎は、二十八歳で従軍して北海道に向うことになった。また浅越玄隆は南部方面に派遣せられた。この時浅越の下に附属せられたのが、 あらた に町医者から五人扶持の小普請医者に抱えられた蘭法医 小山内元洋 おさないげんよう である。弘前ではこれより先藩学 稽古館 けいこかん に蘭学堂を設けて、官医と町医との子弟を教育していた。これを主宰していたのは江戸の杉田 成卿 せいけい の門人佐々木 元俊 げんしゅん である。元洋もまた杉田門から出た人で、後 けん と称して、明治十八年二月十四日に 中佐 ちゅうさ 相当陸軍一等軍医 せい を以て広島に終った。今の文学士 小山内薫 おさないかおる さんと画家 岡田三郎助 おかださぶろうすけ さんの妻 八千代 やちよ さんとは建の遺子である。矢島 優善 やすよし は弘前に とど まっていて、戦地から 後送 こうそう せられて来る負傷者を治療した。

その八十三

 渋江氏の若党の一人中条勝次郎は、弘前に来てから思いも掛けぬ事に遭遇した。
 一行が土手町に下宿した後 三月 さんげつ にして暴風雨があった。弘前の人は暴風雨を岩木山の神が たたり すのだと信じている。神は他郷の人が来て土着するのを にく んで、暴風雨を起すというのである。この故に弘前の人は他郷の人を排斥する。 就中 なかんずく 丹後 たんご の人と南部の人とを嫌う。なぜ丹後の人を嫌うかというに、岩木山の神は古伝説の 安寿姫 あんじゅひめ で、 おのれ を虐使した 山椒大夫 さんしょうたゆう の郷人を嫌うのだそうである。また南部の人を嫌うのは、神も津軽人のパルチキュラリスムに感化せられているのかも知れない。
 暴風雨の のち 数日にして、新に江戸から うつ った家々に 沙汰 さた があった。もし丹後、南部等の うまれ のものが まぎ っているなら、厳重に取り ただ して国境の外に えというのである。渋江氏の一行では中条が他郷のものとして 目指 めざ された。中条は 常陸 ひたち 生だといって申し いたが、役人は 生国 しょうこく 不明と認めて、それに 立退 たちのき さと した。五百はやむことをえず、中条に路用の金を与えて江戸へ還らせた。
 冬になってから渋江氏は 富田新町 とみたしんまち の家に うつ ることになった。そして 知行 ちぎょう は当分の内六分 びけ を以て給するという達しがあって、実は宿料食料の ほか 何の給与もなかった。これが のち 二年にして 秩禄 ちつろく に大削減を加えられる 発端 ほったん であった。二年 ぜん から逐次に江戸を引き上げて来た 定府 じょうふ の人たちは、富田新町、 新寺町 しんてらまち 新割町 しんわりちょう 上白銀町 かみしろかねちょう しも 白銀町、 塩分町 しおわけちょう 茶畑町 ちゃばたちょう の六カ所に分れ住んだ。富田新町には 江戸子町 えどこまち 、新寺町新割町には 大矢場 おおやば 、上白銀町には新屋敷の異名がある。富田新町には渋江氏の外、矢川文一郎、浅越玄隆らがおり、新寺町新割町には比良野 貞固 さだかた 、中村勇左衛門らがおり、下白銀町には矢川文内らがおり、塩分町には平井東堂らがおった。
 この頃五百は専六が 就学 じゅがく 問題のために おもい を労した。専六の性質は成善とは違う。成善は書を読むに人の催促を たない。そしてその読む所の書は自ら択ぶに任せることが出来る。それゆえ五百は彼が兼松石居に従って経史を おさ めるのを見て、 ごう 容喙 ようかい せずにいた。成善が儒となるもまた可、医となるもまた不可なるなしとおもったのである。これに反して専六は多く書を読むことを好まない。書に対すれば、先ず有用無用の 詮議 せんぎ をする。五百はこの子には儒となるべき素質がないと信じた。そこで意を決して剃髪せしめた。
 五百は弘前の城下について、専六が師となすべき医家を物色した。そして 親方町 おやかたちょう に住んでいる近習医者 小野元秀 おのげんしゅう た。

その八十四

 小野元秀は弘前藩士 対馬幾次郎 つしまいくじろう の次男で、 小字 おさなな 常吉 つねきち といった。十六、七歳の時、父幾次郎が急に病を発した。常吉は半夜 せて医師某の もと に往った。某は家にいたのに、 きた り診することを がえん ぜなかった。常吉はこの時父のために憂え、某のために おし んで、心にこれを 牢記 ろうき していた。後に医となってから、人の病あるを聞くごとに、家の貧富を問わず、地の遠近を論ぜず、 くら うときには はし を投じ、 したるときには ち、 ただ ちに いて診したのは、少時の にが き経験を忘れなかったためだそうである。元秀は二十六歳にして同藩の小野 秀徳 しゅうとく の養子となり、その長女そのに配せられた。
 元秀は忠誠にして廉潔であった。近習医に任ぜられてからは、 詰所 つめしょ 出入 いでいり するに、 あした には人に先んじて き、 ゆうべ には人に後れて かえ った。そして公退後には士庶の病人に接して、 たえ む色がなかった。
 稽古館教授にして、 五十石町 ごじっこくまち に私塾を開いていた 工藤他山 くどうたざん は、元秀と親善であった。これは他山がいまだ仕途に かなかった時、元秀がその貧を知って、 しょ を受けずして ねんごろ に治療した時からの まじわり である。他山の子 外崎 とのさき さんも元秀を っていたが、これを評して温潤良玉の如き人であったといっている。五百が専六をして元秀に従学せしめたのは、実にその人を獲たものというべきである。
 元秀の養子 完造 かんぞう もと 山崎氏で、蘭法医伊東玄朴の門人である。完造の養子 芳甫 ほうほ さんは もと 鳴海 なるみ 氏で、今弘前の 北川端町 きたかわばたちょう に住んでいる。元秀の実家の すえ は弘前の 徒町 かちまち 川端町の対馬 ※蔵 しょうぞう

[_]
[#「金+公」、243-12]
さんである。
 専六は元秀の如き良師を得たが、 うら むらくは心、医となることを欲せなかった。弘前の人は つね に、 円頂 えんちょう の専六が 筒袖 つつそで 短袴 たんこ 穿 き、 赤毛布 あかもうふ まと って銃を負い、山野を 跋渉 ばっしょう するのを見た。これは当時の兵士の服装である。
 専六は兵士の間に まじわり を求めた。兵士らは呼ぶに医者銃隊の名を以てして、 すこぶ るこれを愛好した。
 時に弘前に うつ った 定府 じょうふ 中に、 山澄吉蔵 やまずみきちぞう というものがあった。名を 直清 なおきよ といって、津軽藩が文久三年に江戸に った海軍修行生徒七人の うち で、中小姓を勤めていた。 築地 つきじ 海軍操練所で算数の学を修め、次で塾の教員の列に加わった。弘前に徙って間もなく、山澄は 熕隊 こうたい 司令官にせられた。兵士中 を立てんと欲するものは、多くこの山澄を師として 洋算 ようざん を学んだ。専六もまた藤田 ひそむ 柏原櫟蔵 かしわばられきぞう らと共に山澄の門に って、洋算簿記を学ぶこととなり、いつとなく元秀の 講筵 こうえん には臨まなくなった。 のち 山澄は海軍大尉を以て終り、柏原は海軍少将を以て終った。藤田さんは今 攻玉 こうぎょく 社長 しゃちょう をしている。攻玉社は後に 近藤真琴 こんどうまこと の塾に命ぜられた名である。初め 麹町 こうじまち 八丁目の 鳥羽 とば 藩主稲垣対馬守 長和 ながかず の邸内にあったのが、中ごろ築地海軍操練所内に移るに及んで、始めて攻玉塾と称し、次で しば 神明町 しんめいちょう 商船黌 しょうせんこう と、 しば 新銭座 しんせんざ の陸地測量習練所とに分離し、二者の総称が攻玉社となり、明治十九年に至るまで、近藤自らこれを経営していたのである。

その八十五

 小野 富穀 ふこく とその子 道悦 どうえつ とが江戸を引き上げたのは、この年二月二十三日で、道中に二十五日を ついや し、三月十八日に弘前に いた。渋江氏の弘前に るに さきだ つこと二カ月足らずである。
 矢島 優善 やすゆき が隠居させられた時、跡を いだ 周禎 しゅうてい 一家 いっけ も、この年に弘前へ うつ ったが、その江戸を発する時、三男 三蔵 さんぞう は江戸に とど まった。前に 小田原 おだわら へ往った長男 周碩 しゅうせき と、この三蔵とは、後にカトリック教の宣教師になったそうである。弘前へ往った周禎は表医者 奥通 おくどおり に進み、その次男で嗣子にせられた 周策 しゅうさく もまた 目見 めみえ のち 表医者を命ぜられた。
 袖斎の姉須磨の夫 飯田良清 いいだよしきよ の養子孫三郎は、この年江戸が東京と改称した のち 、静岡藩に赴いて官吏になった。
 森 枳園 きえん はこの年七月に東京から福山に うつ った。当時の藩主は文久元年に伊予守 正教 まさのり のち けた 阿部 あべ 主計頭 かぞえのかみ 正方 まさかた であった。
 優善の友塩田 良三 りょうさん はこの年 浦和 うらわ 県の官吏になった。これより先良三は、優善が山田 椿庭 ちんてい の塾に ったのと ほとん ど同時に、伊沢柏軒の塾に って、柏軒にその才の 雋鋭 しゅんえい なるを認められ、 せつ を折って書を読んだ。文久三年に柏軒が歿してからは家に帰っていて、今 仕宦 しかん したのである。
 この年 箱館 はこだて っている 榎本武揚 えのもとたけあき を攻めんがために、官軍が発向する中に、福山藩の兵が参加していた。伊沢榛軒の嗣子 棠軒 とうけん はこれに従って北に赴いた。そして渋江氏を富田新町に うた。棠軒は福山藩から 一粒金丹 いちりゅうきんたん を買うことを託せられていたので、この任を果たす かたわら 、故旧の安否を問うたのである。棠軒、名は 信淳 しんじゅん 、通称は 春安 しゅんあん 、池田 全安 ぜんあん が離別せられた のち に、榛軒の じょ かえの壻となったのである。かえは後に名をそのと あらた めた。おそのさんは現存者で、 市谷 いちがや 富久町 とみひさちょう の伊沢 めぐむ さんの もと にいる。徳さんは棠軒の嫡子である。
 抽斎歿後の第十一年は明治二年である。抽斎の四女 くが が矢川文一郎に嫁したのは、この年九月十五日である。
 陸が生れた弘化四年には、三女 とう がまだ三歳で、母の ふところ を離れなかったので、陸は生れ ちるとすぐに、 小柳町 こやなぎちょう の大工の 棟梁 とうりょう 新八というものの家へ 里子 さとこ られた。さて嘉永四年に棠が七歳で亡くなったので、母五百が五歳の陸を呼び返そうとすると、 たまたま 矢島氏鉄が来たのを抱いて寝なくてはならなくなって、陸を還すことを見あわせた。翌五年にようよう還った陸は、色の白い、愛らしい六歳の少女であった。しかし五百の胸をば棠を おし む情が全く占めていたので、陸は十分に母の愛に浴することが出来ずに、母に対しては すこぶ る自ら 抑遜 よくそん していなくてはならなかった。
 これに反して抽斎は陸を 愛撫 あいぶ して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「 おれ はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を 為込 しこ んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
 陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する 一人 いちにん で、陸が手習をする時、手を って書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が うま く出来たな」といって 揶揄 からか ったことがある。
 陸は小さい時から 長歌 ながうた すき で、寒夜に裏庭の 築山 つきやま の上に登って、独り 寒声 かんごえ の修行をした。

その八十六

 抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、 ごう も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田 寅之丞 とらのじょう に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が 調 ととの わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった。天保十三年 壬寅 じんいん に生れたからの名である。即ち今の飯田 たつみ さんで、巽の字は明治二年 己巳 きし に二十八になったという意味で選んだのだそうである。陸との縁談は なこうど が先方に告げずに渋江氏に勧めたのではなかろうが、余り古い事なので巽さんは すで に忘れているらしい。然るにこの度は陸が遂に文一郎の へい しりぞ くることが出来なくなった。
 文一郎は最初の妻 りゅう が江戸を去ることを欲せぬので、一人の子を附けて里方へ還して置いて弘前へ立った。弘前に来た直後に、文一郎は二度目の妻を めと ったが、いまだ いくばく ならぬにこれを去った。この女は西村与三郎の むすめ 作であった。次で箱館から帰った頃からであろう、陸を娶ろうと思い立って、人を つかわ して請うこと数度に及んだ。しかし渋江氏では すなわ ち動かなかった。陸には旧に って婚嫁を急ぐ念がない。五百は文一郎の好人物なることを熟知していたが、これを壻にすることをば望まなかった。こういう事情の もと に、両家の間にはやや久しく緊張した関係が続いていた。
 文一郎は壮年の時パッションの強い性質を有していた。その陸に対する要望はこれがために頗る熱烈であった。渋江氏では、もしその こい れなかったら、あるいは両家の間に 事端 じたん を生じはすまいかと おもんばか った。陸が遂に文一郎に嫁したのは、この 疑懼 ぎく の犠牲になったようなものである。
 この結婚は、名義からいえば、陸が矢川氏に嫁したのであるが、 形迹 けいせき から見れば、文一郎が壻入をしたようであった。式を おこな った翌日から、夫婦は終日渋江の家にいて、 夜更 よふ けて矢川の家へ寝に帰った。この時文一郎は あらた 馬廻 うままわり になった年で二十九歳、陸は二十三歳であった。
 矢島 優善 やすよし は、陸が文一郎の さい になった翌月、即ち十月に、土手町に家を持って、周禎の もと にいた鉄を迎え入れた。これは 行懸 ゆきがか りの上から当然の事で、五百は はた から世話を焼いたのである。しかし二十三歳になった鉄は、もう昔日の如く夫の甘言に すか されてはおらぬので、この土手町の住いは優善が 身上 しんじょう のクリジスを起す場所となった。
 優善と鉄との間に、夫婦の愛情の生ぜぬことは、 もと より予期すべきであった。しかし ただ に愛情が生ぜざるのみではなく、二人は たちま 讐敵 しゅうてき となった。そしてその争うには、鉄がいつも攻勢を取り、物質上の利害問題を ひっさ げて夫に当るのであった。「あなたがいくじがないばかりに、あの周禎のような男に矢島の家を取られたのです。」この句が 幾度 いくたび となく反復せられる鉄が論難の主眼であった。優善がこれに答えると、鉄は冷笑する、舌打をする。
 この あらそい は週を かさ ね月を累ねて まなかった。五百らは百方調停を試みたが何の功をも奏せなかった。
 五百はやむことをえぬので、周禎に交渉して再び鉄を引き取ってもらおうとした。しかし周禎は容易に応ぜなかった。渋江氏と周禎が かた との間に、幾度となく交換せられた要求と拒絶とは、 押問答 おしもんどう の姿になった。
 この 往反 おうへん の最中に忽ち優善が 失踪 しっそう した。十二月二十八日に土手町の家を出て、それきり帰って来ぬのである。渋江氏では、優善が もん を排せんがために酒色の境に のが れたのだろうと思って、 手分 てわけ をして料理屋と 妓楼 ぎろう とを捜索させた。しかし優善のありかはどうしても知れなかった。

その八十七

 比良野 貞固 さだかた は江戸を引き上げる 定府 じょぅふ の最後の一組三十戸ばかりの家族と共に、前年五、六月の こう 安済丸 あんさいまる という新造 帆船 ほぶね に乗った。 しか るに安済丸は海に うか んで間もなく、 柁機 だき を損じて進退の自由を失った。乗組員は某地より上陸して、 許多 あまた の辛苦を め、この年五月にようよう東京に帰った。
 さて更に米艦スルタン号に乗って、この度は無事に青森に ちゃく した。 佐藤弥六 さとうやろく さんは当時の同乗者の 一人 いちにん だそうである。
 弘前にある渋江氏は、貞固が東京を発したことを聞いていたのに、いつまでも 到著 とうちゃく せぬので、どうした事かと案じていた。殊に比良野助太郎と書した荷札が青森の港に流れ寄ったという流言などがあって、いよいよ心を悩まする なかだち となった。そのうちこの年十二月十日頃に青森から発した貞固の 手書 しゅしょ が来た。その うち には安済丸の故障のために一たび去った東京に引き返し、再び米艦に乗って来たことを言って、さて金を持って迎えに来てくれといってあった。一年余の間無益な往反をして、貞固の 盤纏 はんてん わずか 一分銀 いちぶぎん 一つを あま していたのである。
 弘前に来てから現金の給与を受けたことのない渋江氏では、この書を得て途方に暮れたが、 船廻 ふなまわ しにした荷の うち に、刀剣のあったのを三十五 ふり 質に入れて、金二十五両を借り、それを持って往って貞固を弘前へ案内した。
 貞固の養子房之助はこの年に 手廻 てまわり を命ぜられたが、藩制が改まったので、久しくこの職におることが出来なかった。
 抽斎歿後の第十二年は明治三年である。六月十八日に弘前藩士の 秩禄 ちつろく は大削減を加えられ、更に医者の 降等 こうとう が令せられた。 禄高 ろくだか は十五俵より十九俵までを十五俵に、二十俵より二十九俵までを二十俵に、三十俵より四十九俵までを三十俵に、五十俵より六十九俵までを四十俵に、七十俵より九十九俵までを六十俵に、百俵より二百四十九俵までを八十俵に、二百五十俵より四百九十九俵までを百俵に、五百俵より七百九十九俵までを百五十俵に、八百俵以上を二百俵に減ぜられたのである。そして従来 石高 こくだか を以て給せられていたものは、そのまま俵と 看做 みな して同一の削減を行われた。そして士分を 上士 じょうし 、中士、下士に わか って、各班に大少を置いた。二十俵を 少下士 しょうかし 、三十俵を大下士、四十俵を少中土、八十俵を大中士、百五十俵を少上土、二百俵を大上土とするというのである。
 渋江氏は原禄三百石であるから、中の上に位するはずで、小禄の家に比ぶれば、受くる所の損失が頗る大きい。それでも渋江氏はこれを得て満足するつもりでいた。
 然るに医者の降等の令が出て、それが渋江氏に適用せられることになった。 もと 成善 しげよし は医者の子として近習小姓に任ぜられているには ちがい ない。しかしいまだかつて医として仕えたことはない。しかのみならず令の づるに先だって、十四歳を以て藩学の助教にせられ、生徒に 経書 けいしょ を授けている。これは師たる兼松石居が すで 屏居 へいきょ ゆる されて藩の督学を拝したので、その門人もまた挙用せられたのである。かつ先例を あん ずるに、歯科医佐藤 春益 しゅんえき の子は、単に幼くして家督したために、 平士 へいし にせられている。いわんや成善は 分明 ぶんめい に儒職にさえ就いているのである。成善がこの令を おのれ に適用せられようと思わなかったのも無理はない。
 しかし成善は念のために大参事 西館孤清 にしだてこせい 、少参事兼大隊長加藤 武彦 たけひこ 二人 ににん を見て意見を たた いた。二人皆成善は医として るべきものでないといった。武彦は さき 側用人 そばようにん 兼用人 清兵衛 せいべえ の子である。何ぞ はか らん、成善は医者と 看做 みな されて降等に逢い、三十俵の禄を受くることとなり、あまつさえ士籍の ほか にありなどとさえいわれたのである。成善は抗告を試みたが、何の功をも奏せなかった。

その八十八

  何故 なにゆえ に儒を以て仕えている成善に、医者降等の令を適用したかというに、それは想像するに難くはない。渋江氏は よよ 儒を兼ねて、命を受けて けい を講じてはいたが、家は もと 医道の家である。成善に至っても、幼い時から多紀安琢の門に っていた。また すで に弘前に来た のち も、医官 北岡太淳 きたおかたいじゅん 手塚元瑞 てづかげんずい 今春碩 いまはるせき らは成善に兼て医を以て仕えんことを勧め、こういう事を言った。「弘前には少壮者中に中村 春台 しゅんたい 三上道春 みかみどうしゅん 、北岡 有格 ゆうかく 小野圭庵 おのけいあん の如きものがある。その他 小山内元洋 おさないげんよう のように あらた に召し抱えられたものもある。しかし江戸 定府 じょうふ 出身の わか い医者がない。ちと医業の方をも 出精 しゅっせい してはどうだ」といった。かつ令の発せられる少し前の出来事で、成善が津軽 承昭 つぐてる に医として遇せられていた証拠がある。六月十三日に、藩知事承昭は たたかい 大星場 おおほしば に習わせた。承昭は五月二十六日に知事になっていたのである。銃声の盛んに起った時、第五大隊の医官小野道秀が病を発した。承昭は かたわら に侍した成善をして小野に代らしめた。 かく の如く渋江氏の子が医を善くすることは、 上下 じょうか 皆信じていたと見える。しかしこれがために、現に儒を以て仕えているものを不幸に陥いれたのは、同情が けていたといっても かろう。
 矢島 優善 やすよし は前年の暮に 失踪 しっそう して、渋江氏では 疑懼 ぎく の間に年を送った。この年 一月 いちげつ 二日の午後に、石川駅の人が二通の手紙を持って来た。優善が家を出た日に書いたもので、一は 五百 いお て、一は成善に宛ててある。 ならび 訣別 けつべつ の書で、 所々 しょしょ 涙痕 るいこん いん している。石川は弘前を ること一里半を過ぎぬ駅であるが、使のものは命ぜられたとおりに、優善が駅を去った のち に手紙を届けたのである。
 五百と成善とは、優善が雪中に行き悩みはせぬか、病み しはせぬかと 気遣 きづか って、再び人を やと って捜索させた。成善は自ら雪を冒して、石川、 大鰐 おおわに 倉立 くらだて 碇関 いかりぜき 等を くま なく尋ねた。しかし 蹤跡 しょうせき たえ て知れなかった。
 優善は東京をさして石川駅を発し、この年一月二十一日に吉原の引手茶屋 湊屋 みなとや いた。湊屋の かみ さんは大分年を取った女で、常に優善を「 ちょう さん」と呼んで したし んでいた。優善はこの女をたよって往ったのである。
 湊屋に みな という娘がいた。このみいちゃんは美しいので、茶屋の 呼物 よびもの になっていた。みいちゃんは 津藤 つとう に縁故があるとかいう 河野 こうの 某を 檀那 だんな に取っていたが、河野は遂にみいちゃんを めと って、優善が東京に著いた時には、 今戸橋 いまどばし ほとり に芸者屋を出していた。屋号は同じ湊屋である。
 優善は吉原の湊屋の世話で、 山谷堀 さんやぼり の箱屋になり、 おも に今戸橋の湊屋で抱えている芸者らの供をした。
 四カ月半ばかりの後、或人の世話で、優善は本所緑町の安田という 骨董店 こっとうてん 入贅 にゅうぜい した。安田の家では主人 礼助 れいすけ が死んで、 未亡人 びぼうじん まさ が寡居していたのである。しかし優善の骨董商時代は箱屋時代より短かった。それは政が優善の妻になって間もなくみまかったからである。
 この頃 さき に浦和県の官吏となった塩田 良三 りょうさん が、 権大属 ごんだいさかん のぼ って 聴訟係 ていしょうがかり をしていたが、優善を県令に すす めた。優善は八月十八日を以て浦和県出仕を命ぜられ、典獄になった。時に年三十六であった。

その八十九

 専六は兵士との まじわり ようや く深くなって、この年五月にはとうとう「 於軍務局楽手稽古被仰付 ぐんむきょくにおいてがくしゅけいこおおせつけらる 」という 沙汰書 さたしょ を受けた。さて楽手の修行をしているうちに、十二月二十九日に 山田源吾 やまだげんご の養子になった。源吾は天保中津軽 信順 のぶゆき がいまだ致仕せざる時、側用人を勤めていたが、 むね さか って なが いとま になった。しかし他家に仕えようという念もなく、 商估 しょうこ わざ をも好まぬので、家の 菩提所 ぼだいしょ なる本所 なか ごう 普賢寺 ふけんじ の一房に しゅうきょ し、日ごとに ちまた でて謡を歌って銭を うた。
 この純然たる浪人生活が三十年ばかり続いたのに、源吾は刀剣、 紋附 もんつき の衣類、 上下 かみしも 等を 葛籠 つづら 一つに収めて持っていた。
  承昭 つぐてる はこの年源吾を召し かえ して、二十俵を給し、 目見 めみえ 以下の士に列せしめ、本所横川邸の番人を命じた。然るに源吾は年老い身病んで久しく職におりがたいのを おもんばか って、養子を求めた。
 この時源吾の 親戚 しんせき 戸沢惟清 とざわいせい というものがあって、専六をその養子に世話をした。戸沢は 五百 いお に説くに、山田の 家世 かせい もと いやし くなかったのと、東京 づとめ の身を立つるに便なるとを以てし、またこういった。「それに専六さんが東京にいると、 のち 弟御 おとうとご さんが上京することになっても御都合が よろ しいでしょう」といった。 成善 しげよし は等を くだ され禄を減ぜられた後、東京に往って恥を すす ごうと思っていたからである。
 戸沢がこういって勧めた時、五百は容易にこれに耳を かたぶ けた。五百は戸沢の ひと りを喜んでいたからである。戸沢惟清、通称は 八十吉 やそきち 信順 のぶゆき 在世の日の 側役 そばやく であった。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、 ちと の学問さえあった。然るに酒を こうぶ るときは 剛愎 ごうふく にして人を しの いだ。信順は平素命じて酒を絶たしめ、 用帑 ようど とぼ しきに至るごとに、これに酒を飲ましめ、命を当局に伝えさせた。戸沢は当局の一諾を得ないでは帰らなかったそうである。
 或時戸沢は公事を以て旅行した。 物書 ものかき 松本甲子蔵 まつもときねぞう がこれに したが っていた。 駕籠 かご うち に坐した戸沢が、ふと かたわら を歩く松本を見ると、 草鞋 わらじ の緒が 足背 そくはい を破って、鮮血が流れていた。戸沢は急に一行を とど まらせて、大声に「甲子蔵」と呼んだ。「はっ」といって松本は 轎扉 きょうひ に近づいた。戸沢は「ちと 内用 ないよう があるから遠慮いたせ」といって、供のものを とおざ け、松本に 草鞋 わらじ を脱がせて、強いて轎中に坐せしめ、自ら松本の草鞋を け、さて轎丁を呼んで いて行かせたそうである。これは松本が保さんに話した事で、保さんはまた戸沢とその弟星野伝六郎とをも っていた。戸沢の子 米太郎 よねたろう 、星野の子 金蔵 きんぞう の二人はかつて保さんの おしえ を受けたことがある。
 戸沢の勧誘には、この年弘前に ちゃく した比良野 貞固 さだかた も同意したので、五百は遂にこれに従って、専六が山田氏に養わるることを諾した。その事の決したのが十二月二十九日で、専六が船の青森を発したのが翌三十日である。この年専六は十七歳になっていた。然るに東京にある養父源吾は、専六がなお 舟中 しゅうちゅう にある間に病歿した。
 矢川文一郎に嫁した くが は、この年長男 万吉 まんきち を生んだが、万吉は夭折して弘前 新寺町 しんてらまち の報恩寺なる 文内 ぶんない が母の墓の かたわら に葬られた。
 抽斎の六女 水木 みき はこの年馬役 村田小吉 むらたこきち の子 広太郎 ひろたろう に嫁した。時に年十八であった。既にして矢島周禎が 琴瑟 きんしつ 調わざることを五百に告げた。五百はやむをえずして水木を取り戻した。
 小野氏ではこの年 富穀 ふこく が六十四歳で致仕し、子道悦が家督相続をした。道悦は天保七年 うまれ で、三十五歳になっていた。
 中丸昌庵はこの年六月二十八日に歿した。文政元年生の人だから、五十三歳を以て終ったのである。
 弘前の城はこの年五月二十六日に藩庁となったので、知事津軽 承昭 つぐてる 三之内 さんのうち うつ った。

その九十

 抽斎歿後の第十三年は明治四年である。 成善 しげよし は母を弘前に のこ して、単身東京に くことに決心した。その東京に往こうとするのは、一には降等に って不平に堪えなかったからである。二には減禄の のち は旧に って生計を立てて行くことが出来ぬからである。その母を弘前に遺すのは、脱藩の うたがい を避けんがためである。
 弘前藩は必ずしも官費を以て少壮者を東京に遣ることを嫌わなかった。これに反して私費を以て東京に往こうとするものがあると、藩は すで にその人の脱藩を疑った。いわんや家族をさえ伴おうとすると、この疑は ますます 深くなるのであった。
 成善が東京に往こうと思っているのは久しい事で、しばしばこれを師 兼松石居 かねまつせききょ はか った。石居は機を見て成善を官費生たらしめようと誓った。しかし成善は今は しずか にこれを待つことが出来なくなったのである。
 さて成善は私費を以て往くことを あえ てするのであるが、なお母だけは遺して置くことにした。これはやむことをえぬからである。 何故 なにゆえ というに、もし成善が母と とも に往こうといったなら、藩は放ち遣ることを ゆる さなかったであろう。
 成善は母に約するに、他日東京に迎え取るべきことを以てした。しかし藩の必ずこれを 阻格 そかく すべきことは、母子皆これを知っていた。 つづ めて言えば、弘前を去る成善には母を とするに似た うらみ があった。
 藩が脱籍者の輩出せんことを恐るるに至ったのは、二、三の忌むべき実例があったからである。その しゅ におるものは、 の勘定奉行を めて米穀商となった平川半治である。当時 かく の如く財利のために士籍を のが れようとする気風があったことは、渋江氏もまた親しくこれを験することを得た。或人は 五百 いお に説いて、東京両国の中村楼を買わせようとした。今千両の金を投じて買って置いたなら、他日 鉅万 きょまん とみ を致すことが出来ようといったのである。或人は東京神田 須田町 すだちょう の某売薬株を買わせようとした。この株は今廉価を以て あがな うことが出来て、即日から月収三百両 乃至 ないし 五百両の利があるといったのである。五百のこれに耳を さなかったことは もと よりである。
 当時藩職におって、津軽家をして士を失わざらしめんと欲し、極力脱籍を防いだのは、大参事 西館孤清 にしだてこせい である。成善は西館を うて、東京に往くことを告げた。西館はおおよそこういった。東京に往くは い。学業成就して弘前に帰るなら、我らはこれを任用することを おし まぬであろう。しかし半途にして母を迎え取らんとするが如きことがあったなら、それは郷土のために謀って忠ならざることを証するものである。我藩はこれを許さぬであろうといった。成善は悲痛の情を抑えて西館の もと を辞した。
 成善は家禄を いて、その五人扶持を東京に送致してもらうことを、当路の人に請うて ゆる された。それから長持 一棹 ひとさお の錦絵を書画兼骨董商 近竹 きんたけ に売った。これは浅草 蔵前 くらまえ 兎桂 とけい 等で、二十枚百文位で買った絵であるが、当時三枚二百文 乃至 ないし 一枚百文で売ることが出来た。成善はこの金を得て、 なかば とど めて母に おく り、半はこれを旅費と学資とに てた。
 成善が弘前で 暇乞 いとまごい に廻った家々の中で、最も わかれ おし んだのは兼松石居と平井東堂とであった。東堂は 左下 さがくか こぶ を生じたので、自ら 瘤翁 りゅうおう と号していたが、別に臨んで、もう再会は 覚束 おぼつか ないといって落涙した。成善の去った翌年、明治五年九月十六日に東堂は 塩分町 しおわけちょう の家に歿した。年五十九である。四女とめが家を継いだ。今東京神田裏 神保町 じんぼうちょう に住んで、琴の師匠をしている平井 松野 まつの さんがこのとめである。

その九十一

  成善 しげよし は藩学の職を辞して、この年三月二十一日に、母 五百 いお 水杯 みずさかずき み交して別れ、 駕籠 かご に乗って家を出た。水杯を酌んだのは、当時の状況より推して、再会の期しがたきを思ったからである。成善は十五歳、五百は五十六歳になっていた。抽斎の歿した時は、成善はまだ少年であったので、この時 はじめ て親子の わかれ の悲しさを知って、 轎中 きょうちゅう で声を発して泣きたくなるのを、ようよう堪え忍んだそうである。
 同行者は松本 甲子蔵 きねぞう であった。甲子蔵は後に 忠章 ちゅうしょう と改称した。父を 庄兵衛 しょうべえ といって、 もと 比良野 貞固 さだかた の父文蔵の若党であった。文蔵はその 樸直 ぼくちょく なのを愛して、津軽家に すす めて 足軽 あしがる にしてもらった。その子甲子蔵は才学があるので、藩の公用局の 史生 しせい に任用せられていたのである。
 弘前から旅立つものは、石川駅まで駕籠で来て、ここで親戚故旧と酒を んで別れる ならい であった。成善を送るものは、 句読 くとう を授けられた少年らの外、矢川文一郎、比良野房之助、 服部善吉 はっとりぜんきち 菱川太郎 ひしかわたろう などであった。後に服部は東京で時計職工になり、菱川は辻新次さんの家の学僕になったが、 二人 ににん 共に すで に世を去った。
 成善は四月七日に東京に着いた。 行李 こうり を卸したのは本所二つ目の藩邸である。これより先成善の兄専六は、山田源吾の養子になって、東京に来て、まだ父子の対面をせぬ に死んだ源吾の家に住んでいた。源吾は津軽 承昭 つぐてる の本所横川に設けた邸をあずかっていて、住宅は本所 割下水 わりげすい にあったのである。その外東京には五百の姉安が両国 薬研堀 やげんぼり に住んでいた。安の むすめ 二人 ふたり のうち、 けい は猿若町三丁目の芝居茶屋三河屋に、 せん は蔵前須賀町の呉服屋 桝屋 ますや 儀兵衛の もと にいた。また専六と成善との兄 優善 やすよし は、ほど遠からぬ浦和にいた。
 成善の旧師には多紀 安琢 あんたく が矢の倉におり、海保 竹逕 ちくけい がお玉が池にいた。維新の はじめ に官吏になって、この邸を伊沢鉄三郎の徳安が手から買い受けて、 練塀小路 ねりべいこうじ の湿地にあった、 ゆか の低い、畳の腐った家から移り住んだ。 ひとり 家宅が改まったのみではない。常に弊衣を ていた竹逕が、その頃から 絹布 けんぷ るようになった。しかし いくばく もなく、当時の有力者山内 豊信 とよしげ 等の しりぞ くる所となって官を めた。成善は四月二十二日に再び竹逕の門に ったが、竹逕は前年に 会陰 えいん 膿瘍 のうよう を発したために、やや衰弱していた。成善は久しぶりにその『 えき 』や『 毛詩 もうし 』を講ずるのを いた。多紀安琢は維新後困窮して、竹逕の扶養を こうむ っていた。成善はしばしばその安否を問うたが、再び『素問』を学ぼうとはしなかった。
 成善は英語を学ばんがために、五月十一日に本所 相生町 あいおいちょう の共立学舎に通いはじめた。父抽斎は 遺言 いげん して蘭語を学ばしめようとしたのに、時代の変遷は学ぶべき外国語を うるに至らしめたのである。共立学舎は 尺振八 せきしんぱち の経営する所である。振八、 はじめ の名を 仁寿 じんじゅ という。下総国高岡の城主 井上 いのうえ 筑後守 正滝 まさたき の家来鈴木 伯寿 はくじゅ の子である。天保十年に江戸佐久間町に生れ、安政の 末年 ばつねん に尺氏を冒した。 田辺太一 たなべたいち に啓発せられて英学に志し、中浜万次郎、 西吉十郎 にしきちじゅうろう 等を師とし、次で英米人に 親炙 しんしゃ し、文久中仏米二国に遊んだ。成善が従学した時は三十三歳になっていた。

その九十二

 成善は四月に海保の 伝経廬 でんけいろ り、五月に せき の共立学舎に入ったが、六月から更に大学 南校 なんこう にも籍を置き、日課を分割して三校に往来し、なお放課後にはフルベックの もと を訪うて教を受けた。フルベックは もと 和蘭 オランダ 人で 亜米利加 アメリカ 合衆国に民籍を有していた。日本の教育界を開拓した 一人 いちにん である。
 学資は弘前藩から送って来る五人扶持の うち 三人扶持を売って弁ずることが出来た。当時の 相場 そうば で一カ月金二両三分二朱と四百六十七文であった。書籍は英文のものは初より あらた に買うことを期していたが、漢書は弘前から抽斎の 手沢本 しゅたくぼん を送ってもらうことにした。然るにこの書籍を積んだ舟が、航海中七月九日に暴風に遭って覆って、抽斎のかつて 蒐集 しゅうしゅう した古刊本等の大部分が 海若 かいじゃく ゆう した。
 八月二十八日に弘前県の幹督が成善に命ずるに神社 調掛 しらべがかり を以てし、金三両二分二朱と二匁二分五厘の手当を給した。この命は成善が共立学舎に ることを届けて置いたので、同時に「欠席 聞届 ききとどけ 委頼 いらい 」という形式を以て学舎に伝えられた。これより先七月十四日の みことのり を以て廃藩置県の制が かれたので、弘前県が成立していたのである。
 矢島優善は浦和県の典獄になっていて、この年一月七日に 唐津 からつ 藩士 大沢正 おおさわせい むすめ ちょう めと った。嘉永二年 うまれ で二十三歳である。これより先前妻鉄は幾多の 葛藤 かっとう を経た のち に離別せられていた。
 優善は七月十七日に庶務局詰に転じ十月十七日に判任史生にせられた。次で十一月十三日に浦和県が廃せられて、その事務は埼玉県に移管せられたので、優善は十二月四日を以て更に埼玉県十四等出仕を命ぜられた。
 成善と とも に東京に来た松本 甲子蔵 きねぞう は、優善に薦められて、同時に十五等出仕を命ぜられたが、 のち 兵事課長に進み、明治三十二年三月二十八日に歿した。弘化二年生であるから、五十五歳になったのである。
 当時県吏の権勢は さかん なものであった。成善が東京に った直後に、まだ浦和県出仕の典獄であった優善を訪うと、優善は等外一等出仕宮本半蔵に 駕龍 かご 一挺を宰領させて成善を県の さかい に迎えた。成善がその駕籠に乗って、戸田の渡しに掛かると、 渡船場 とせんば の役人が土下座をした。
 優善が庶務局詰になった頃の事である。或日優善は宴会を催して、前年に自分が供をした今戸橋の 湊屋 みなとや かかえ 芸者を はじめ とし、山谷堀で顔を った芸者を もれ なく招いた。そして酒 たけなわ なる時「 おれ はお 前方 まえがた の供をして、大ぶ世話になったことがあるが、今日は己もお客だぞ」といった。 大丈夫 だいじょうふ 志を得たという概があったそうである。
 県吏の間には当時飲宴がしばしば行われた。浦和県知事 間島冬道 まじまふゆみち の催した懇親会では、塩田 良三 りょうさん 野呂松 のろま 狂言を演じ、優善が 莫大小 メリヤス 襦袢 じゅばん 袴下 はかました 夜這 よばい 真似 まね をしたことがある。間島は通称万次郎、 尾張 おわり の藩士である。明治二年四月九日に刑法官判事から 大宮 おおみや 県知事に転じた。大宮県が浦和県と改称せられたのは、その年九月二十九日の事である。
 この年の暮、優善が埼玉県出仕になってからの事である。某村の 戸長 こちょう は野菜 一車 ひとくるま を優善に献じたいといって持って来た。優善は「 おれ 賄賂 わいろ は取らぬぞ」といって しりぞ けた。
 戸長は当惑顔をしていった。「どうもこの野菜をこのまま持って帰っては、村の人民どもに対して、わたくしの 面目 めんぼく が立ちませぬ。」
「そんなら買って遣ろう」と、優善がいった。
 戸長はようよう天保銭一枚を受け取って、野菜を車から卸させて帰った。
 優善は やす い野菜を買ったからといって、県令以下の職員に分配した。
 県令は 野村盛秀 のむらもりひで であったが、野菜を もら うと同時にこの 顛末 てんまつ を聞いて、「矢島さんの流義は面白い」といって めたそうである。野村は初め 宗七 そうしち と称した。薩摩の士で、浦和県が埼玉県となった時、 日田 ひた 県知事から転じて埼玉県知事に任ぜられた。間島冬道は去って名古屋県に赴いて、参事の職に就いたが、後明治二十三年九月三十日に 御歌所寄人 おんうたどころよりうど を以て終った。また野村は のち 明治六年五月二十一日にこの職にいて歿したので、 長門 ながと の士参事 白根多助 しらねたすけ が一時県務を 摂行 せっこう した。

その九十三

 山田源吾の養子になった専六は、まだ面会もせぬ養父を うしな って、その遺跡を守っていたが、五月一日に至って藩知事津軽 承昭 つぐてる の命を拝した。「親源吾給禄二十俵 無相違被遣 そういなくつかわさる 」というのである。さて源吾は謁見を許されぬ職を以て終ったが、六月二十日に専六は承昭に謁することを得た。これは 成善 しげよし が内意を けて願書を呈したためである。
 専六は成善に紹介せられて、先ず海保の 伝経廬 でんけいろ り、次で八月九日に共立学舎に入り、十二月三日に 梅浦精一 うめうらせいいち に従学した。
 この年六月七日に成善は名を たもつ と改めた。これは母を おも うが故に改めたので、母は 五百 いお 字面 じめん ならざるがために、常に伊保と署していたのだそうである。矢島 優善 やすよし の名を ゆたか と改めたのもこの年である。山田専六の名を おさむ と改めたのは、別に記載の徴すべきものはないが、やや後の事であったらしい。
 この年十二月三日に保と脩とが同時に 斬髪 ざんぱつ した。優は 何時 いつ 斬髪したか知らぬが、多分同じ頃であっただろう。優は少し早く東京に入り、ほどなく東京を ること遠からぬ浦和に往って官吏をしていたが、必ずしも二弟に先だって斬髪したともいいがたい。紫の ひも を以て もとどり うのが、当時の官吏の 頭飾 とうしょく で、優が何時までその髻を 愛惜 あいじゃく したかわからない。人はあるいは抽斎の子供が何時斬髪したかを問うことを もち いぬというかも知れない。しかし明治の はじめ に男子が髪を斬ったのは、 独逸 ドイツ 十八世紀のツォップフが前に断たれ、 清朝 しんちょう 辮髪 べんぱつ のち に断たれたと同じく、風俗の大変遷である。然るに後の史家はその年月を知るに くるし むかも知れない。わたくしの如きは自己の髪を斬った年を していない。保さんの日記の一条を ここ に採録する 所以 ゆえん である。
 この年十二月二十二日に、本所二つ目の弘前藩邸が廃せられたために、保は兄山田脩が本所 割下水 わりげすい の家に同居した。
 海保 竹逕 ちくけい の妻、漁村の むすめ がこの年十月二十五日に歿した。
 抽斎歿後の第十四年は明治五年である。 一月 いちげつ に保が山田脩の家から本所 横網町 よこあみちょう の鈴木きよ方の二階へ うつ った。鈴木は初め 船宿 ふなやど であったが、主人が死んでから、未亡人きよが 席貸 せきがし をすることになった。きよは天保元年 うまれ で、この年四十三歳になっていた。当時善く保を遇したので、保は後年に至るまで 音信 いんしん を断たなかった。これより さき 保は弘前にある母を呼び迎えようとして、藩の当路者に はか ること数次であった。しかし津軽 承昭 つぐてる の知事たる間は、西館らが前説を固守して許さなかった。前年廃藩の みことのり が出て、承昭は東京におることになり、県政もまた すこぶ あらた まったので、保はまた当路者に はか った。当路者は また 五百の東京に ることを阻止しようとはしなかった。 ただ 保が一諸生を以て母を養わんとするのが あやし むべきだといった。それゆえ保は矢島優に願書を作らせて呈した。県庁はこれを可とした。 五百 いお はようよう弘前から東京に来ることになった。
 保が東京に遊学した のち の五百が寂しい生活には、特に記すべき事はない。ただ前年廃藩 ぜん に、弘前 俎林 まないたばやし の山林地が渋江氏に割与せられたのみである。これは士分のものに授産の目的を以て割与した土地に剰余があったので、当路者が士分として扱われざる医者にも恩恵を施したのだそうである。この地面の授受は 浅越玄隆 あさごえげんりゅう が五百の委託によって処理した。
 五百が弘前を去る時、村田広太郎の もと から帰った 水木 みき を伴わなくてはならぬことは 勿論 もちろん であった。その外 くが もまた夫矢川文一郎と とも に五百に附いて東京へ往くことになった。
 文一郎は弘前を発する前に、津軽家の 用達 ようたし 商人 工藤忠五郎蕃寛 くどうちゅうごろうはんかん の次男 蕃徳 はんとく を養子にして弘前に のこ した。蕃寛には二子二女があった。長男 可次 よしつぐ 森甚平 もりじんぺい の士籍、また次男蕃徳は文一郎の士籍を譲り受けた。長女お れん さんは蕃寛の のち を継いで、現に弘前の 下白銀町 しもしろかねちょう に矢川写真館を開いている。次女おみきさんは 岩川 いわかわ 友弥 ともや さんを壻に取って、本町一丁目角にエム矢川写真所を開いている。蕃徳は郵便技手になって、明治三十七年十月二十八日に歿し、養子 文平 ぶんぺい さんがその のち いだ。

その九十四

  五百 いお は五月二十日に東京に着いた。そして矢川文一郎、 くが の夫妻 ならび に村田氏から帰った 水木 みき の三人と とも に、本所横網町の鈴木方に 行李 こうり を卸した。弘前からの同行者は 武田代次郎 たけだだいじろう というものであった。代次郎は勘定奉行武田 準左衛門 じゅんざえもん の孫である。準左衛門は天保四年十二月二十日に斬罪に処せられた。津軽 信順 のぶゆき しも 笠原近江 かさはらおうみ まつりごと ほしいまま にした時の事である。
 五百と保とは十六カ月を隔てて再会した。母は五十七歳、子は十六歳である。脩は割下水から、 ゆたか は浦和から母に逢いに来た。
 三人の子の中で、最も生計に余裕があったのは優である。優はこの年四月十二日に 権少属 ごんしょうさかん になって、月給 わずか に二十五円である。これに当時の潤沢なる巡回旅費を加えても、なお七十円ばかりに過ぎない。しかしその意気は今の勅任官に匹敵していた。優の家には 二人 ふたり の食客があった。 一人 ひとり さい 蝶の弟 大沢正 おおさわせい である。今一人は生母 とく の兄岡西玄亭の次男養玄である。玄亭の長男玄庵はかつて保の 胞衣 えな を服用したという 癲癇 てんかん 病者で、維新後間もなく世を去った。次男がこの養玄で、当時氏名を あらた めて 岡寛斎 おかかんさい といっていた。優が登庁すると、その使役する 給仕 きゅうじ は故旧 中田 なかだ 某の子 敬三郎 けいざぶろう である。優が推薦した所の県吏には、十五等出仕松本 甲子蔵 きねぞう がある。また敬三郎の父中田某、脩の親戚山田 健三 けんぞう 、かつて渋江氏の若党たりし中条 勝次郎 かつじろう 、川口に開業していた時の相識宮本半蔵がある。中田以下は皆月給十円の等外一等出仕である。その他今の 清浦子 きようらし が県下の小学教員となり、県庁の学務課員となるにも、優の推薦が あずか って力があったとかで、「矢島先生 奎吾 けいご 」と書した 尺牘 せきどく 数通 すつう のこ っている。一時優の救援に って衣食するもの数十人の おお きに至ったそうである。
 保は下宿屋住いの諸生、脩は廃藩と同時に横川邸の番人を められて、これも一戸を構えているというだけでやはり諸生であるのに、独り優が官吏であって、しかも かく の如く応分の権勢をさえ有している。そこで優は母に勧めて、浦和の家に迎えようとした。
「保が卒業して渋江の家を立てるまで、せめて四、五年の間、わたくしの所に来ていて下さい」といったのである。
 しかし五百は応ぜなかった。「わたしも年は寄ったが、幸に無病だから、浦和に往って楽をしなくても い。それよりは学校に通う保の留守居でもしましょう」といったのである。
 優はなお勧めて まなかった。そこへ 一粒金丹 いちりゅうきんたん のやや大きい注文が来た。福山、 久留米 くるめ の二カ所から来たのである。金丹を調製することは、始終五百が自らこれに任じていたので、この度もまた すぐ に調合に着手した。優は 一旦 いったん 浦和へ帰った。
 八月十九日に優は再び浦和から出て来た。そして母に言うには、必ずしも浦和へ移らなくても いから、とにかく見物がてら泊りに来てもらいたいというのであった。そこで二十日に五百は 水木 みき と保とを連れて浦和へ往った。
 これより さき 保は高等師範学校に ることを願って置いたが、その採用試験が二十二日から始まるので、独り先に東京に帰った。

その九十五

 保が師範学校に入ることを願ったのは、大学の業を うるに至るまでの資金を有せぬがためであった。師範学校はこの年始て設けられて、文部省は上等生に十円、下等生に八円を給した。保はこの給費を仰がんと欲したのである。
 然るに ここ に一つの 障礙 しょうがい があった。それは師範学校の生徒は二十歳以上に限られているのに、保はまだ十六歳だからである。そこで保は森 枳園 きえん に相談した。
 枳園はこの年二月に福山を去って諸国を漫遊し、五月に東京に来て 湯島切通 ゆしまきりどお しの 借家 しゃっか に住み、同じ月の二十七日に文部省十等出仕になった。時に年六十六である。
 枳園はよほど保を愛していたものと見え、東京に入った第三日に横網町の下宿を訪うて、切通しの家へ来いといった。保が二、三日往かずにいると、枳園はまた来て、なぜ来ぬかと問うた。保が尋ねて行って見ると、切通しの家は 店造 みせづくり で、店と次の と台所とがあるのみで、枳園はその店先に机を据えて書を読んでいた。保が覚えず、「 売卜者 ばいぼくしゃ のようじゃありませんか」というと、枳園は面白げに笑った。それからは湯島と本所との間に、 往来 ゆきき が絶えなかった。枳園はしばしば保を 山下 やました 雁鍋 がんなべ 駒形 こまがた 川桝 かわます などに連れて往って、酒を こうむ って世を ののし った。
 文部省は当時 すこぶ る多く名流を 羅致 らち していた。岡本況斎、 榊原琴洲 さかきばらきんしゅう 、前田 元温 げんおん 等の諸家が皆九等 乃至 ないし 十等出仕を拝して月に四、五十円を給せられていたのである。
 保が枳園を訪うて、師範生徒の年齢の事を言うと、枳園は笑って、「なに年の足りない位の事は、 おれ がどうにか話を附けて る」といった。保は枳園に託して願書を呈した。
 師範学校の採用試験は八月二十二日に始まって、三十日に終った。保は合格して九月五日に入学することになった。五百は入学の期日に先だって、浦和から帰って来た。
 保の同級には今の 末松子 すえまつし の外、 加治義方 かじよしかた 古渡資秀 ふるわたりすけひで などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の むれ に投じ、『絵入自由新聞』に 続物 つづきもの を出したことがある。作者 みょう 花笠文京 はながさぶんきょう である。古渡は 風采 ふうさい あが らず、挙止 迂拙 うせつ であったので、これと まじわ るものは ほとん ど保 一人 いちにん のみであった。 もと 常陸国 ひたちくに の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す 陋習 ろうしゅう があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て 桑田衡平 くわたこうへい の家の学僕になっていて、それからこの学校に った。 よわい は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は はるか しも にいた。しかし保はその ひと りの 沈著 ちんちゃく なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、 しばら くして め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に おもん ぜられたが、その年八月十二日に 虎列拉 コレラ を病んで歿した。その のち いだのが 尾崎愕堂 おざきがくどう さんだそうである。
 この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り かえ した。土曜日に自身で来られぬときは、 むかえ の車をおこすのであった。
 鈴木の 女主人 おんなあるじ は次第に優に したし んで、立派な、気さくな 檀那 だんな だといって褒めた。当時の優は黒い 鬚髯 しゅぜん を蓄えていた。かつて黒田伯 清隆 きよたか に謁した時、座に少女があって、 やや 久しく優の顔を見ていたが、「あの 小父 おじ さんの顔は さかさ に附いています」といったそうである。 鬢毛 びんもう が薄くて ひげ が濃いので、少女は あご を頭と たのである。優はこの容貌で洋服を け、時計の 金鎖 きんぐさり 胸前 きょうぜん に垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
 或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草 見附 みつけ の所を って来ると、 うま そうな 茶飯餡掛 ちゃめしあんかけ を食べさせる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。 やす いじゃありませんか」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子を して言ったのである。

その九十六

 この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野 貞固 さだかた もその 一人 ひとり で、或日突然 たもつ が横網町の下宿に来て、「今 いた」といった。貞固は妻 てる と六歳になる むすめ りゅう とを連れて来て、百本 ぐい の側に つな がせた舟の中に のこ して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。
 保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお つれ 下さい、 追附 おっつけ 母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しかし保は ひそか に心を くるし めた。なぜというに、保は鈴木の 女主人 おんなあるじ に月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへ にわか に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが の人ならば、 宿料 しゅくりょう を取ることも出来よう。貞固は おのれ が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの 界隈 かいわい ではまだ 糸鬢奴 いとびんやっこ のお 留守居 るすい 見識 みし っている人が多い。それを横網町の下宿に やど らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
 保はこれを忍んで数カ月間三人を かんたい した。そして殆ど 日々 にちにち 貞固を横山町の尾張屋に連れて往って 馳走 ちそう した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
 矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は 質店 しちみせ を開いたが成功しなかった。浅越は名を りゅう あらた めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸 うまれ の長女ふくは 中沢彦吾 なかざわひこきち の弟彦七の妻になり、男子 二人 ににん うち 、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
 五百と一しょに東京に来た くが が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に 砂糖店 さとうみせ を開いたのもこの年の事である。長尾の むすめ 敬の夫三河屋力蔵の開いていた 猿若町 さるわかちょう 引手茶屋 ひきてぢゃや は、この年十月に 新富町 しんとみちょう うつ った。 守田勘弥 もりたかんや の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
 この年六月に海保 竹逕 ちくけい が歿した。文政七年 うまれ であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来 また 弁之助と称せずして、名の 元起 げんき を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の しょう 某氏と竹逕の子女 おのおの 一人 いちにん とである。嗣子 繁松 しげまつ は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田 篁村 こうそん を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
 抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六 大区 だいく 六小区本所 相生町 あいおいちょう 四丁目に しゅうきょ した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に 水木 みき がいたばかりであるが、 のち には山田脩が来て同居した。脩はこの頃 喘息 ぜんそく に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
 五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の たくわえ は殆ど尽きていたので、 奈何 いかん ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は ここ に至って はじめ て借りられたのである。

その九十七

 保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に うつ れということであった。
  しか るに保は入舎を欲せないので、「母病気に つき 当分の うち 通学 許可 相成度 あいなりたく 」云々という願書を呈して、旧に って本所から通っていた。母の病気というのは 虚言 うそ ではなかった。五百は当時眼病に かか って くるし んでいた。しかし保は単に五百の 目疾 もくしつ の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
 保は師範学校の授くる所の学術が、自己の おさ めんと欲する所のものと相反しているのを見て、 ひそか に退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
 学校は米人スコットというものを雇い きた って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。 なま っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは 材能 さいのう がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があっても かろ んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、 おのれ が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」と ののし った。
 保は英語を つか い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に かな う科目は たえ てなかった。また たと い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は 純乎 じゅんこ たる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
 保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても い。また たれ かのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
 保は かく の如くに 思惟 しゆい して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を 遵奉 じゅんぽう することをも怠り、早晩退学処分の我 頭上 とうじょう に落ち きた らんことを期していた。校長 諸葛信澄 もろくずのぶずみ の家に を通ぜない。その家が何 ちょう にあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
 入舎の命令をばこの状況の もと に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が くだ るだろう。そうなったら、再び 頂天立地 ちょうてんりっち の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角 ち得た官費は絶えてしまう。しかし 書肆 しょし 万巻楼 まんがんろう の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は 大伝馬町 おおでんまちょう 袋屋亀次郎 ふくろやかめじろう で、これより さき 保の はじめ て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
 保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島 ゆたか と比良野 貞固 さだかた とが反対した。その おも なる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、 ぬぐ うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
 十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に った。

その九十八

 矢島 ゆたか はこの年八月二十七日に 少属 しょうさかん のぼ ったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱うことになり、 芝琴平町 しばことひらちょう きた り住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎は のち 明治十七年十月十九日に歿した。天保十年 うまれ であるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて 姿貌 しぼう があったが、痘を病んで かたち やぶ られた。医学館に学び、また抽斎、 枳園 きえん の門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑の のち に書して、「 余少時曾在先生之門 よわかいときかつてせんせいのもんにあり 能知其為人 よくそのひととなりと 且学之広博 がくのこうはくをしる 因窃録先生之言行及字学医学之諸説 よりてひそかにせんせいのげんこうおよびじがくいがくのしょせつをろくし 別為小冊子 べつにしょうさっしとなす 」といっている。わたくしはその書の存否を つまびらか にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の むすめ 梅を めと ったが、後これを離別して、 陸奥国 むつのくに 磐城平 いわきだいら の城主安藤家の臣後藤氏の じょ いつを後妻に れた。いつは二子を生んだ。長男 俊太郎 しゅんたろう さんは、今 本郷西片町 ほんごうにしかたまち に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男 篤次郎 とくじろう さんは 風間 かざま 氏を冒して、 小石川宮下町 こいしかわみやしたちょう に住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
  くが はこの年矢川文一郎と分離して、 砂糖店 さとうみせ を閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
 次で陸は 本所 ほんじょ 亀沢町 かめざわちょう に看板を懸けて 杵屋勝久 きねやかつひさ と称し、 長唄 ながうた の師匠をすることになった。
 矢島周禎の一族もまたこの年に東京に うつ った。周禎は 霊岸島 れいがんじま に住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所 相生町 あいおいちょう 二つ目橋 どおり 玩具店 おもちゃみせ を開いた。周禎は もと 眼科なので、五百は目の治療をこの人に頼んだ。
 或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を い、 束脩 そくしゅう を納めて周策を保の門人とせんことを請うた。周策は すで に二十九歳、保は わずか に十七歳である。保はその意を解せなかったが、これを問えば周策をして師範学校に らしむる準備をなさんがためであった。保は喜び諾して、周策をして試験諸科を温習せしめかつこれに漢文を授けた。周策は のち 生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、 いくばく もなく精神病に罹って められた。
 緑町の比良野氏では 房之助 ふさのすけ が、実父 稲葉一夢斎 いなばいちむさい と共に骨董店を開いた。一夢斎は 丹下 たんげ が老後の名である。 貞固 さだかた は月に数度浅草 黒船町 くろふねちょう 正覚寺 しょうかくじ 先塋 せんえい もう でて、帰途には必ず渋江氏を訪い、五百と昔を談じた。
 抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が 荏苒 じんぜん として せぬので、矢島周禎の外に安藤某を いて療せしめ、 数月 すうげつ にして治することを得た。
  水木 みき はこの年深川 佐賀町 さがちょう の洋品商 兵庫屋藤次郎 ひょうごやとうじろう に再嫁した。二十二歳の時である。
 妙了尼はこの年九十四歳を以て 韮山 にらやま に歿した。
 渋江氏ではこの年 感応寺 かんのうじ において抽斎のために法要を営んだ。五百、保、矢島 ゆたか くが 、水木、比良野 貞固 さだかた 、飯田 良政 よしまさ らが来会した。
 渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した 金高 きんだか は、 もと より言うに足らぬ小額であった。
 抽斎歿後の第十七年は明治八年である。 一月 いちげつ 二十九日に保は十九歳で師範学校の業を え、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。
 五百、保の母子が立った のち 、山田脩は亀沢町の陸の もと に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島 ゆたか はこの頃家を畳んで 三池 みいけ に出張していた。

その九十九

 保は母五百を奉じて浜松に いて、初め しばら くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、 下垂町 しもたれちょう 郷宿 ごうやど 山田屋 和三郎 わさぶろう 方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時 やど る家をいうのである。また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に 肉桂 にっけい の大木がある。今もなお 儼存 げんそん しているそうである。
 山田屋の向いに 山喜 やまき という居酒屋がある。保は山田屋に移った はじめ に、山喜の店に 大皿 おおざら 蒲焼 かばやき の盛ってあるのを見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。
贅沢 ぜいたく をお言いでない。 うなぎ はこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。 あたい を問えば、一銭に 五串 いつくし であった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったことは、これに って想見することが出来る。
 保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長 大江孝文 おおえたかぶみ の如きも、 すこぶ る保を冷遇した。しかし やや 久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく おもて やわら げた。大江の母は津軽家の用人 栂野求馬 とがのもとめ の妹であった。 のち 大江は県令 林厚徳 はやしこうとく もう して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
 数月の後、保は 高町 たかまち の坂下、紺屋町西端の雑貨商 江州屋 ごうしゅうや 速見平吉 はやみへいきち 離座敷 はなれざしき を借りて うつ った。この江州屋も今なお存しているそうである。
 矢島優はこの年十月十八日に工部 少属 しょうさかん めて、新聞記者になり、『 さきがけ 新聞』、『 真砂 まさご 新聞』等のために、主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩が とも に入社し、『真砂新聞』には森 枳園 きえん が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつつ、 かたわ ら新聞社に寄稿したのである。
 抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に あわ せられたのである。しかし保の職は もと の如くであった。
 この年四月に保は五百の還暦の 賀延 がえん を催して県令以下の いわい を受けた。
 五百の姉長尾氏 やす はこの年 新富座附 しんとみざつき の茶屋 三河屋 みかわや で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は のち 敬の夫 力蔵 りきぞう が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
 比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年 うまれ であるから、六十五歳を以て終ったのである。その のち いだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
 小野 富穀 ふこく もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子 道悦 どうえつ が家督相続をした。
 多紀 安琢 あんたく もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は げんえん 、号は 雲従 うんじゅう であった。その後を襲いだのが 上総国 かずさのくに 夷隅郡 いすみごおり 総元村 そうもとむら に現存している次男 晴之助 せいのすけ さんである。
 喜多村 栲窓 こうそう もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて 大塚村 おおつかむら に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、 右半身 ゆうはんしん 不随になり、 ここ いた って終った。享年七十三である。
 抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松 表早馬町 おもてはやうまちょう 四十番地に一戸を構え、後また いくばく ならずして 元城内 もとじょうない 五十七番地に移った。浜松城は もと 井上 いのうえ 河内守 かわちのかみ 正直 まさなお の城である。明治元年に徳川家が あらた にこの地に ほう ぜられたので、正直は翌年上総国 市原郡 いちはらごおり 鶴舞 つるまい うつ った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の 第宅 ていたく で、大手の左右に つらな っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
 この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
  兼松石居 かねまつせききょ はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「 今日吾知免 こんにちわれめんをしる 亦将騎鶴遊 またつるにのりてあそばんとす 上帝賚殊命 じょうていしゅめいをたまう 使爾永相休 なんじをしてながくあいやすましめんと 。」「 年浪 としなみ のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟 でむ。」石居は 酒井 さかい 石見守 いわみのかみ 忠方 ただみち の家来 屋代 やしろ 某の じょ めと って、三子二女を生ませた。長子 こん あざな 止所 ししょ が家を嗣いだ。号は 厚朴軒 こうぼくけん である。艮の子 成器 せいき は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国 市川町 いちかわまち に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。

その百

 抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。 一月 いちげつ 二十五日津軽 承昭 つぐてる は藩士の伝記を 編輯 へんしゅう せしめんがために、 下沢保躬 しもさわやすみ をして渋江氏について抽斎の行状を さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が 采択 さいたく せられしや否やを つまびらか にしない。
 保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
 山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の 喘息 ぜんそく 気遣 きづか っていたが、脩が矢島 ゆたか と共に『 さきがけ 新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に 卯飲 ぼういん の語あるを見て、大いにその健康を害せんを おそ れ、急に命じて浜松に きた らしめた。しかし五百は独り脩の 身体 しんたい のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも おもんばか ったのである。
 この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
 抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に 聴許 ていきょ せられた。これは慶応義塾に って英語を学ばんがためである。
 これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして したのである。既にして保は慶応義塾の学風を 仄聞 そくぶん し、 すこぶ 福沢諭吉 ふくざわゆきち に傾倒した。明治九年に国学者 阿波 あわ の人某が、福沢の あらわ す所の『学問のすゝめ』を はく して、書中の「 日本 にっぽん さいじ たる小国である」の句を以て祖国を はずかし むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、 手書 しゅしょ して保に謝した。保はこれより福沢に られて、これに 適従 てきじゅう せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
 保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を もと めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区 松本町 まつもとちょう 十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
 五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の 膝下 しっか に侍することを得たが、独り矢島 ゆたか のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用 がかり を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
  くが は母と保との浜松へ往った のち も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った 水木 みき が同居していた。勝久は水木の夫であった 畑中藤次郎 はたなかとうじろう を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
 保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は 中西常武 なかにしつねたけ である。
 山田は 遠江国 とおとうみのくに 敷智郡 ふちごおり 都築 つづき の人である。父を喜平といって、 畳問屋 たたみどいや である。その三男要蔵は 元治 げんじ 元年 うまれ の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国 度会郡 わたらいごおり 山田 岩淵町 いわぶちちょう の人中西 用亮 ようすけ の弟である。愛知師範学校に学んで卒業し、浜松中学校の教員になっていた。これは職を めて東京に来た時二十七、八歳であった。山田も中西も、保と同じく慶応義塾に らんと欲して、共に入京したのである。

その百一

 保は東京に いた翌日、十一月四日に慶応義塾に往って、本科第三等に編入せられた。
 同行者の山田は、保と同じく本科に、中西は別科に った。 のち 山田は明治十四年に優等を以て卒業して、一時義塾の教員となり、既にして伊東氏を冒し、衆議院議員に選ばれ、今は某銀行、某会社の重役をしている。中西は別科を修めた後に郷に帰った。
 保は慶応義塾の生徒となってから三日目に、 万来舎 ばんらいしゃ において福沢諭吉を見た。万来舎は義塾に附属したクラブ様のもので、福沢は毎日午後に来て文明論を講じていた。保が名を告げた時、福沢は昔年の事を語り でてこれを善遇した。
 当時慶応義塾は年を三期に分ち、一月から四月までを第一期といい、五月から七月までを第二期といい、九月から十二月までを第三期といった。保がこの年第三期に編入せられた第三等はなお第三級といわんがごとくである。月の末には小試験があり、期の終にはまた大試験があった。
 森 枳園 きえん はこの年十二月一日に大蔵省印刷局の編修になった。身分は准判任御用掛で、月給四十円であった。局長 得能良介 とくのうりょうすけ は初め八十円を給せようといったが、枳園は辞していった。多く給せられて早く められんよりは、 すくな く給せられて久しく勤めたい。四十円で十分だといった。局長はこれに従って、特に 耆宿 きしゅく として枳園を優遇し、土蔵の内に畳を敷いて事務を執らせた。この土蔵の かぎ は枳園が自ら保管していて、自由にこれに 出入 しゅつにゅう した。寿蔵碑に「 日々入局 にちにちきょくにいり 不知老之将至 おいのまさにいたらんとするをしらず 殆為金馬門之想云 ほとんどきんばもんのおもいをなすという 」と してある。
 抽斎歿後の第二十二年は明治十三年である。保は四月に第二等に進み、七月に破格を以て第一等に進み、遂に十二月に全科の業を終えた。下等の同学生には渡辺修、 平賀敏 ひらがびん があり、また同じ青森県人に 芹川得一 せりかわとくいち 工藤儀助 くどうぎすけ があった。上等の同学生には 犬養毅 いぬかいき さんの外、 矢田績 やだせき 安場 やすば 男爵があり、また同県人に 坂井次永 さかいじえい 神尾金弥 かみおきんや があった。 のち の二人は旧会津藩士である。
 万来舎では今の 金子 かねこ 子爵、その他 相馬永胤 そうまながたね 目賀田 めがた 男爵、 鳩山和夫 はとやまかずお 等が法律を講ずるので、保も聴いた。
 山田脩はこの年電信学校に って、松本町の家から通った。 くが の勝久が長唄を人に教うる かたわら 、音楽取調所の生徒となったのもまたこの年である。音楽取調所は当時創立せられたもので、後の東京音楽学校の 萌芽 ほうが である。この頃 水木 みき は勝久の もと を去って母の家に来た。
 この年また 藤村義苗 ふじむらよしたね さんが浜松から来て渋江氏に ぐう した。藤村は旧幕臣で、浜松中学校の業を え、遠江国 中泉 なかいずみ で小学校訓導をしていたが、外国語学校で露語生徒の入学を許し、官費を給すると聞いて、その試験を受けに来たのである。藤村は幸に合格したが、後に露語科が廃せられてから、東京高等商業学校に ってその業を卒え、現に某々会社の重役になっている。
 松本町の家には五百、保、水木の三人がいて、諸生には山田要蔵とこの藤村とが置いてあったのである。
 抽斎歿後の第二十三年は明治十四年である。当時慶応義塾の卒業生は世人の争って へい せんと欲する所で、その世話をする人は おも 小幡篤次郎 おばたとくじろう であった。保はなお進んで英語を窮めたい志を有していたが、浜松にあった日に衣食を節して貯えた金がまた きたので、遂に給を俸銭に仰がざることを得なくなった。
 この年もまた卒業生の 決口 はけくち すこぶ る多かった。保の如きも第一に『 三重 みえ 日報』の主筆に擬せられて、これを辞した。これは藤田 茂吉 もきち に三重県庁が金を出していることを聞いたからである。第二に広島某新聞の主筆は、保が初めその任に当ろうとしていたが、次で出来た学校の地位に心を かたぶ けたために、半途にして交渉を絶った。
 学校の地位というのは、愛知中学校長である。招聘の事は 阿部泰蔵 あべたいぞう と会談して定まり、保は八月三日に母と水木とを伴って東京を発した。諸生山田要蔵はこの時慶応義塾に寄宿した。

その百二

 保は三河国 宝飯郡 ほいごおり 国府町 こふまち いて、 長泉寺 ちょうせんじ の隠居所を借りて住んだ。そして九月三十日に愛知県中学校長に任ずという辞令を受けた。
 保が学校に往って見ると、二つの急を要する問題が前に よこた わっていた。教則を作ることと罰則を作ることとである。教則は案を具して文部省に呈し、その認可を受けなくてはならない。罰則は学校長が自ら作り自ら施すことを得るのである。教則の案は直ちに作って呈し、罰則は不文律となして、生徒に自力の徳教を おし えた。教則は文部省が たやす く認可せぬので、往復数十回を かさ ね、とうとう保の在職中には制定せられずにしまった。罰則は果して必要でなかった。 一人 いちにん ※違者 かいいしゃ

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[#「言+圭」、295-5]
をも いだ さなかったからである。
 長泉寺の隠居所は次第に にぎわ しくなった。初め保は母と 水木 みき との二人の家族があったのみで、寂しい家庭をなしていたが、 寄寓 きぐう を請う諸生を、 一人 ひとり れ、二人容れて、 いくばく もあらぬに六人の多きに達した。 八田郁太郎 はちたいくたろう 稲垣親康 いながきしんこう 、島田 寿一 じゅいち 、大矢 尋三郎 じんざぶろう 菅沼岩蔵 すがぬまいわぞう 溝部惟幾 みぞべいき の人々である。中にも八田は後に海軍少将に至った。菅沼は諸方の中学校に奉職して、今は浜松にいる。最も奇とすべきは溝部で、或日偶然来て泊り込み、それなりに 淹留 えんりゅう した。 夏日 かじつ あわせ に袷 羽織 ばおり てん として恥じず、また苦熱の たい をも見せない。人皆その 長門 ながと の人なるを知っているが、かつて自ら 年歯 ねんし を語ったことがないので、その幾歳なるかを知るものがない。打ち見る所は保と同年位であった。溝部は のち 農商務省の雇員となり、地方官に転じ、栃木県知事に至った。
 当時保は一人の友を得た。武田氏名は 準平 じゅんぺい で、保が 国府 こふ の学校に聘せられた時、中に立って 斡旋 あっせん した阿部泰蔵の兄である。準平は 国府 こふ に住んで医を業としていたが、医家を以て あらわ れずに、かえって 政客 せいかく を以て聞えていた。
 準平はこれより さき 愛知県会の議長となったことがある。某年に県会が おわ って、県吏と議員とが懇親の宴を開いた。準平は平素県令 国貞廉平 くにさだれんぺい の施設に あきたら なかったが、宴 たけなわ なる時、国貞の前に進んで さかずき を献じ、さて「お さかな は」と呼びつつ、国貞に そむ いて立ち、 かか げて しり あらわ したそうである。
 保は 国府 こふ に来てから、この準平と相識になった。既にして準平が 兄弟 けいてい になろうと勧めた。保は へりくだ って父子になる方が適当であろうといった。遂に父子と称して杯を交した。準平は四十四歳、保は二十五歳の時である。
 この時東京には政党が争い おこ った。改進党が成り、自由党が成り、また帝政党が成って、新聞紙は早晩これらの結党式の挙行せらるべきことを伝えた。準平と保とは 国府 こふ にあってこういった。「東京の政界は華々しい。我ら田舎に住んでいるものは、 ふち に臨んで ぎょ うらや むの情に堪えない。しかし だい なるものは成るに難く、小なるものは成るに やす い。我らも甲らに似せて穴を掘り、一の小政社を結んで、東京の諸先輩に先んじて式を挙げようではないか」といった。この政社の 雛形 ひながた は進取社と名づけられて、保は社長、準平は副社長であった。

その百三

 抽斎歿後の第二十四年は明治十五年である。 一月 いちげつ 二日に保の友武田準平が 刺客 せきかく に殺された。準平の家には母と妻と むすめ 一人 ひとり とがいた。女の壻 秀三 ひでぞう は東京帝国大学医科大学の別科生になっていて、家にいなかった。常は諸生がおり、僕がおったが、皆新年に いとま うて帰った。この日家人が しん いた のち 、浴室から火が起った。 ただ 一人暇を取らずにいた女中が驚き めて、 けぶり くりや むるを見、 引窓 ひきまど を開きつつ人を呼んだ。浴室は 庖厨 ほうちゅう の外に接していたのである。準平は女中の声を聞いて、「なんだ、なんだ」といいつつ、手に 行燈 あんどう げて厨に出て来た。この時一人の 引廻 ひきまわし がっぱを た男が暗中より って、準平に近づいた。準平は行燈を いて奥に った。引廻の男は いて入った。準平は奥の廊下から、雨戸を 蹴脱 けはず して庭に出た。引廻の男はまた尾いて出た。準平は身に十四カ所の きず を負って、庭の ひのき の下に たお れた。檜は老木であったが、前年の暮、十二月二十八日の 、風のないに折れた。準平はそれを見て、新年を過してから たきぎ かせようといっていたのである。家人は檜が しん をなしたなどといった。引廻の男は たれ であったか、また 何故 なにゆえ に準平を殺したか、 つい に知ることが出来なかった。
 保は報を得て、 せて武田の家に往った。警察署長佐藤某がいる。郡長竹本元※

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[#「にんべん+暴」、298-2]
がいる。巡査数人がいる。佐藤はこういうのである。「武田さんは進取社の事のために殺されなすったかと思われます。渋江さんも御用心なさるが好い。当分の うち 巡査を 二人 ふたり だけ附けて上げましょう」というのである。
 保は の小結社の故を以て、刺客が手を うごか したものとは信ぜなかった。しかし しばら くは人の すすめ に従って巡査の護衛を受けていた。五百は例の懐剣を放さずに持っていて、保にも弾を めた拳銃を備えさせた。進取社は準平が死んでから、何の活動をもなさずに分散した。
 保は『横浜毎日新聞』の寄書家になった。『毎日』は島田三郎さんが主筆で、『東京 日々 にちにち 新聞』の 福地桜痴 ふくちおうち と論争していたので、保は島田を助けて戦った。主なる論題は主権論、普通選挙論等であった。
 普通選挙論では 外山正一 とやましょういち が福地に応援して、「毎日記者は 盲目 めくら へび におじざるものだ」といった。これは島田のベンサムを普通選挙論者となしたるは無学のためで、ベンサムは実は制限選挙論者だというのであった。そこで保はベンサムの憲法論について、普通選挙を可とする章句を 鈔出 しょうしゅつ し、「外山先生は盲目蛇におじざるものだ」という 鸚鵡返 おうむがえし の報復をした。
 これらの論戦の のち 、保は島田三郎、 沼間守一 ぬましゅいち 肥塚龍 こえづかりゅう らに られた。後に横浜毎日社員になったのは、この縁故があったからである。
 保は十二月九日学校の休暇を以て東京に った。実は 国府 こふ を去らんとする意があったのである。
 この年矢島 ゆたか は札幌にあって、九月十五日に渋江氏に復籍した。十月二十三日にその妻蝶が歿した。年三十四であった。
 山田 おさむ はこの年 一月 いちげつ 工部技手に任ぜられ、日本橋電信局、東京府庁電信局等に勤務した。

その百四

 抽斎歿後の第二十五年は明治十六年である。保は前年の暮に東京に って、仮に 芝田町 しばたまち 一丁目十二番地に住んだ。そして一面愛知県庁に辞表を呈し、一面府下に職業を求めた。保は先ず職業を得て、次で 免罷 めんひ の報に接した。一月十一日には 攻玉社 こうぎょくしゃ の教師となり、二十五日には慶応義塾の教師となって、午前に慶応義塾に き、午後に攻玉社に往くことにした。攻玉社は社長が 近藤真琴 こんどうまこと 、幹事が藤田 ひそむ で、生徒中には のち に海軍少将に至った 秀島 ひでしま 某、海軍大佐に至った 笠間直 かさまちょく 等があった。慶応義塾は社頭が福沢諭吉、副社頭が 小幡篤次郎 おばたとくじろう 、校長が 浜野定四郎 はまのさだしろう で、教師中に 門野幾之進 かどのいくのしん 鎌田栄吉 かまだえいきち 等があり、生徒中に 池辺吉太郎 いけべきちたろう 門野重九郎 かどのじゅうくろう 和田豊治 わだとよじ 日比翁助 ひびおうすけ 伊吹雷太 いぶきらいた 等があった。愛知県中学校長を免ずる辞令は二月十四日を以て発せられた。保は しば 烏森町 からすもりちょう 一番地に家を借りて、四月五日に 国府 こふ から かえ った母と 水木 みき とを迎えた。
 勝久は 相生町 あいおいちょう の家で長唄を教えていて、山田脩はその家から府庁電信局に通勤していた。そこへ ゆたか が開拓使の職を辞して札幌から帰ったのが八月十日である。優は無妻になっているので、勝久に説いて師匠を めさせ、 もっぱ ら家政を つかさど らせた。
 八月中の事であった。保は かく を避けて『横浜毎日新聞』に寄する文を草せんがために、 一週日 いっしゅうじつ ほどの間柳島の 帆足謙三 ほあしけんぞう というものの家に 起臥 きが していた。烏森町の家には水木を のこ して母に侍せしめ、かつ優、脩、勝久の三人をして交る交るその安否を問わしめた。然るに或夜水木が帆足の家に来て、母が病気と見えて何も食わなくなったと告げた。
 保が家に帰って見ると、五百は床を敷かせて寝ていた。「 只今 ただいま 帰りました」と、保はいった。
「お かえり かえ」といって、五百は微笑した。
「おっ 様、あなたは何も上らないそうですね。わたくしは暑くてたまりませんから、氷を食べます。」
「そんならついでにわたしのも取っておくれ。」五百は氷を食べた。
 翌朝保が「わたくしは 今朝 けさ は生卵にします」といった。
「そうかい、そんならわたしも食べて見よう。」五百は生卵を食べた。
  ひる になって保はいった。「きょうは久しぶりで、洗いに 水貝 みずがい を取って、少し酒を飲んで、それから飯にします。」
「そんならわたしも少し飲もう。」五百は洗いで酒を飲んだ。その時はもう平日の如く起きて坐っていた。
 晩になって保はいった。「どうも夕方になってこんなに風がちっともなくては しの ぎ切れません。これから 汐湯 しおゆ 這入 はい って、 湖月 こげつ に寄って涼んで来ます。」
「そんならわたしも くよ。」五百は遂に汐湯に って、湖月で 飲食 のみくい した。
 五百は保が久しく帰らぬがために物を食わなくなったのである。五百は女子中では とう を愛し、男子中では保を愛した。さきに弘前に留守をしていて、保を東京に ったのは、意を決した上の事である。それゆえ 年余 ねんよ の久しきに堪えた。これに反して帰るべくして帰らざる保を日ごとに待つことは、五百の かた んずる所であった。この時五百は六十八歳、保は二十七歳であった。

その百五

 この年十二月二日に ゆたか が本所相生町の家に歿した。優は職を める時から心臓に故障があって、東京に還って 清川玄道 きよかわげんどう の治療を受けていたが、屋内に静坐していれば別に苦悩もなかった。歿する日には朝から物を書いていて、 午頃 ひるごろ 「ああ 草臥 くたび れた」といって 仰臥 ぎょうが したが、それきり たなかった。岡西氏 とく の生んだ、抽斎の次男は かく の如くにして世を去ったのである。優は四十九歳になっていた。子はない。遺骸は感応寺に葬られた。
 優は 蕩子 とうし であった。しかし のち に身を吏籍に置いてからは、微官におったにもかかわらず、 すこぶ 材能 さいのう あらわ した。優は 情誼 じょうぎ に厚かった。 親戚 しんせき 朋友 ほうゆう のその恩恵を被ったことは甚だ多い。優は 筆札 ひっさつ を善くした。その書には小島成斎の風があった。その他演劇の事はこの人の最も精通する所であった。新聞紙の劇評の如きは、森 枳園 きえん と優とを開拓者の うち に算すべきであろう。大正五年に珍書刊行会で公にした『劇界珍話』は 飛蝶 ひちょう の名が署してあるが、優の未定稿である。
 抽斎歿後の第二十六年は明治十七年である。二月十四日に五百が烏森の家に歿した。年六十九であった。
 五百は 平生 へいぜい 病むことが すくな かった。抽斎歿後に一たび眼病に かか り、 時々 じじ 疝痛 せんつう うれ えた位のものである。特に明治九年還暦の のち は、 ほとん ど無病の人となっていた。然るに前年の八月中、保が家に帰らぬを うれ えて絶食した頃から、やや心身違和の徴があった。保らはこれがために憂慮した。さて新年に って見ると、五百の健康状態は くなった。保は二月九日の 母が 天麩羅蕎麦 てんぷらそば を食べて 炬燵 こたつ に当り、史を談じて こう たけなわ なるに至ったことを記憶している。また翌十日にも 午食 ごしょく に蕎麦を食べたことを記憶している。午後三時頃五百は煙草を買いに出た。二、三年 ぜん からは子らの いさめ れて、単身戸外に出ぬことにしていたが、当時の家から煙草 みせ へ往く道は、烏森神社の境内であって車も通らぬゆえ、煙草を買いにだけは単身で往った。保は自分の部屋で書を読んで、これを知らずにいた。 しばら くして五百は烟草を買って帰って、保の 背後 うしろ に立って話をし出した。保はかつ読みかつ答えた。 はじめ てドイツ語を学ぶ頃で、読んでいる書はシェッフェルの文典であった。保は母の気息の促迫しているのに気が附いて、「おっ 様、大そうせかせかしますね」といった。
「ああ年のせいだろう、少し歩くと息が切れるのだよ。」五百はこういったが、やはり話を めずにいた。
 少し立って五百は突然黙った。
「おっ母様、どうかなすったのですか。」保はこういって 背後 うしろ を顧みた。
 五百は火鉢の前に坐って、やや首を かたぶ けていたが、保はその姿勢の常に異なるのに気が附いて、急に って かたわら に往き顔を のぞ いた。
 五百の目は直視し、 口角 こうかく からは よだれ が流れていた。
 保は「おっ母様、おっ母様」と呼んだ。
 五百は「ああ」と一声答えたが、人事を せい せざるものの如くであった。
 保は床を敷いて母を寝させ、自ら医師の もと へ走った。

その百六

 渋江氏の住んでいた烏森の家からは、 存生堂 ぞんせいどう という松山 棟庵 とうあん の出張所が最も近かった。出張所には 片倉 かたくら 某という医師が住んでいた。保は存生堂に駆け附けて、片倉を連れて家に帰った。存生堂からは松山の出張をも請いに遣った。
 片倉が一応の手当をした所へ、松山が来た。松山は一診していった。「これは脳卒中で 右半身不随 ゆうはんしんふずい になっています。出血の部位が重要部で、その血量も多いから、回復の のぞみ はありません」といった。
 しかし保はその こと を信じたくなかった。一時 くう ていた母が今は人の おもて に注目する。人が去れば目送する。 枕辺 ちんぺん に置いてあるハンカチイフを 左手 さしゅ って畳む。保が そば に寄るごとに、左手で保の胸を でさえした。
 保は更に 印東玄得 いんどうげんとく をも呼んで見せた。しかし所見は松山と同じで、この上手当のしようはないといった。
 五百は遂に十四日の午前七時に絶息した。
 五百の晩年の生活は 日々 にちにち 印刷したように同じであった。 祁寒 きかん の時を除く外は、朝五時に起きて掃除をし、 手水 ちょうず を使い、仏壇を拝し、六時に朝食をする。次で新聞を読み、暫く読書する。それから 午餐 ごさん の支度をして、正午に午餐する。午後には裁縫し、四時に至って女中を連れて家を出る。散歩がてら買物をするのである。魚菜をも大抵この時買う。 夕餉 ゆうげ は七時である。これを終れば、日記を附ける。次でまた読書する。 めば保を呼んで を囲みなどすることもある。 しん に就くのは十時である。
 隔日に入浴し、毎月曜日に髪を洗った。寺には毎月一度 もう で、親と夫との 忌日 きにち には別に詣でた。会計は抽斎の世にあった時から自らこれに当っていて、死に いた るまで廃せなかった。そしてその節倹の用意には驚くべきものがあった。
 五百の晩年に読んだ書には、新刊の歴史地理の類が多かった。『 兵要 へいよう 日本地理小志』はその文が簡潔で いといって、 そば に置いていた。
 奇とすべきは、五百が六十歳を えてから英文を読みはじめた事である。五百は頗る早く西洋の学術に注意した。その時期を考うるに、抽斎が 安積艮斎 あさかごんさい の書を読んで西洋の事を知ったよりも早かった。五百はまだ 里方 さとかた にいた時、或日兄栄次郎が 鮓久 すしきゅう に奇な事を言うのを聞いた。「人間は よる さか さになっている」云々といったのである。五百は あやし んで、鮓久が去った のち に兄に問うて、 はじめ て地動説の講釈を聞いた。その のち 兄の机の上に『 気海観瀾 きかいかんらん 』と『地理全志』とのあるのを見て、取って読んだ。
 抽斎に嫁した後、或日抽斎が「どうも天井に はえ ふん をして困る」といった。五百はこれを聞いていった。「でも人間も夜は蝿が天井に止まったようになっているのだと申しますね」といった。抽斎は さい が地動説を知っているのに驚いたそうである。
 五百は漢訳和訳の洋説を読んで あきたら ぬので、とうとう保にスペルリングを教えてもらい、ほどなくウィルソンの 読本 どくほん に移り、一年ばかり立つうちに、パアレエの『万国史』、カッケンボスの『米国史』、ホオセット夫人の『経済論』等をぽつぽつ読むようになった。
 五百の抽斎に嫁した時、婚を求めたのは抽斎であるが、この間に或秘密が包蔵せられていたそうである。それは抽斎をして婚を求むるに至らしめたのは、阿部家の医師 石川貞白 いしかわていはく が勧めたので、石川貞白をして勧めしめたのは、五百自己であったというのである。

その百七

 石川貞白は はじめ の名を 磯野勝五郎 いそのかつごろう といった。 何時 いつ の事であったか、阿部家の武具係を勤めていた勝五郎の父は、同僚が 主家 しゅうけ の具足を質に入れたために、 なが いとま になった。その時勝五郎は兼て医術を 伊沢榛軒 いさわしんけん に学んでいたので、 すぐ に氏名を改めて 剃髪 ていはつ し、医業を以て身を立てた。
 貞白は渋江氏にも山内氏にも往来して、抽斎を り五百を識っていた。弘化元年には五百の兄栄次郎が吉原の 娼妓 しょうぎ 浜照の もと に通って、遂にこれを めと るに至った。その時貞白は浜照が 身受 みうけ の相談相手となり、その 仮親 かりおや となることをさえ諾したのである。当時兄の 措置 そち を喜ばなかった五百が、平生 青眼 せいがん を以て貞白を見なかったことは、想像するに あまり がある。
 或日五百は使を って貞白を招いた。貞白はおそるおそる日野屋の しきい また いだ。兄の非行を たす けているので、妹に められはせぬかと おそ れたのである。
 然るに貞白を迎えた五百にはいつもの元気がなかった。「貞白さん、きょうはお たのみ 申したい事があって、あなたをお まねき いたしました」という、態度が例になく 慇懃 いんぎん であった。
 何事かと問えば、渋江さんの奥さんの亡くなった跡へ、自分を世話をしてはくれまいかという。貞白は事の意表に でたのに驚いた。
 これより さき 日野屋では五百に壻を取ろうという議があって、貞白はこれを あずか り知っていた。壻に擬せられていたのは、上野広小路の呉服店伊藤 松坂屋 まつざかや 通番頭 かよいばんとう で、年は三十二、三であった。栄次郎は妹が自分たち夫婦に あきたら ぬのを見て、妹に壻を取って日野屋の店を譲り、自分は浜照を連れて隠居しようとしたのである。
 壻に擬せられている番頭某と五百となら、 はた から見ても好配偶である。五百は二十九歳であるが、 打見 うちみ には二十四、五にしか見えなかった。それに抽斎はもう四十歳に満ちている。貞白は五百の意のある所を解するに くるし んだ。
 そこで五百に問い ただ すと、五百はただ学問のある夫が持ちたいと答えた。その ことば には道理がある。しかし貞白はまだ五百の意中を読み尽すことが出来なかった。
 五百は貞白の 気色 けしき を見て、こう言い足した。「わたくしは壻を取ってこの 世帯 せたい を譲ってもらいたくはありません。それよりか渋江さんの所へ往って、あの かた に日野屋の 後見 うしろみ をして いただ きたいと思います。」
 貞白は ひざ った。「なるほど/\。そういうお考えですか。 よろ しい。一切わたくしが引き受けましょう。」
 貞白は実に五百の深慮遠謀に驚いた。五百の兄栄次郎も、姉 やす の夫宗右衛門も、聖堂に学んだ男である。もし五百が尋常の商人を夫としたら、五百の意志は山内氏にも長尾氏にも かろ んぜられるであろう。これに反して五百が抽斎の妻となると栄次郎も宗右衛門も五百の前に うなじ を屈せなくてはならない。五百は里方のために はか って、労少くして功多きことを得るであろう。かつ兄の当然持っておるべき 身代 しんだい を、妹として譲り受けるということは望ましい事ではない。そうして置いては、兄の隠居が何事をしようと、これに くちばし れることが出来ぬであろう。永久に兄を徳として、その すがままに任せていなくてはなるまい。五百は かく の如き地位に身を置くことを欲せぬのである。五百は潔くこの家を去って渋江氏に き、しかもその渋江氏の力を りて、この家の上に監督を加えようとするのである。
 貞白は すぐ に抽斎を うて五百の ねがい を告げ、自分も ことば を添えて抽斎を説き うごか した。五百の婚嫁は かく の如くにして成就したのである。

その百八

 保はこの年六月に『横浜毎日新聞』の 編輯員 へんしゅういん になった。これまではその社とただ寄稿者としての連繋のみを有していたのであった。当時の社長は 沼間守一 ぬましゅいち 、主筆は島田三郎、会計係は 波多野伝三郎 はたのでんざぶろう という 顔触 かおぶれ で、編輯員には 肥塚龍 こえづかりゅう 、青木 ただす 、丸山 名政 めいせい 荒井泰治 あらいたいじ の人々がいた。また矢野次郎、 角田真平 つのだしんぺい 高梨哲四郎 たかなしてつしろう 、大岡 育造 いくぞう の人々は社友であった。次で八月に保は攻玉社の教員を めた。九月一日には家を芝 桜川町 さくらがわちょう 十八番地に移した。
 脩はこの年十二月に工部技手を罷めた。
  水木 みき はこの年山内氏を冒して芝 新銭座町 しんせんざちょう に一戸を構えた。
 抽斎歿後の第二十七年は明治十八年である。保は新聞社の種々の用務を弁ずるために、しばしば旅行した。十月十日に旅から帰って見ると、森 枳園 きえん の五日に寄せた書が机上にあった。面談したい事があるが、 何時 いつ 往ったら われようかというのである。保は十一日の朝枳園を訪うた。枳園は当時京橋区 水谷町 みずたにちょう 九番地に住んでいて、家族は 子婦 よめ 大槻 おおつき 氏よう、孫 むすめ こうの 二人 ふたり であった。嗣子養真は父に さきだ って歿し、こうの妹りゅうは既に人に嫁していたのである。
 枳園は『横浜毎日新聞』の演劇欄を担任しようと思って、保に紹介を求めた。これより先 狩谷斎 かりやえきさい の『 倭名鈔箋註 わみょうしょうせんちゅう 』が印刷局において刻せられ、また『経籍訪古志』が 清国使館 しんこくしかん において刻せられて、これらの事業は枳園がこれに当っていたから、その家は昔の如く貧しくはなかった。しかしこの年一月に大蔵省の職を罷めて、今は月給を受けぬことになっているので、再び記者たらんと欲するのであった。
 保は枳園の もとめ に応じて、新聞社に紹介し、二、三篇の文章を社に交付して置いて、十二日にまた社用を帯びて遠江国浜松に往った。然るに用事は一カ所において果すことが出来なかったので、 犬居 いぬい き、 掛塚 かけづか から汽船 豊川丸 とよかわまる に乗って帰京の途に いた。そして航海中暴風に って、 下田 しもだ 淹留 えんりゅう し、十二月十六日にようよう家に帰った。
 机上にはまた森氏の書信があった。しかしこれは枳園の 手書 しゅしょ ではなくて、その 訃音 ふいん であった。
 枳園は十二月六日に水谷町の家に歿した。年は七十九であった。枳園の 終焉 しゅうえん に当って、伊沢 めぐむ さんは 枕辺 ちんぺん に侍していたそうである。印刷局は前年の功労を忘れず、葬送の途次 ひつぎ 官衙 かんが の前に とど めしめ、局員皆 でて礼拝した。枳園は 音羽 おとわ 洞雲寺 どううんじ 先塋 せんえい に葬られたが、この寺は大正二年八月に 巣鴨村 すがもむら 池袋 いけぶくろ 丸山 まるやま 千六百五番地に うつ された。池袋停車場の西十町ばかりで、府立師範学校の西北、 祥雲寺 しょううんじ の隣である。わたくしは洞雲寺の移転地を尋ねて得ず、これを 大槻文彦 おおつきふみひこ さんに問うて はじめ て知った。この寺には枳園六世の祖からの墓が並んでいる。わたくしの参詣した時には、おこうさんと大槻文彦さんとの名を した新しい 卒堵婆 そとば が立ててあった。
 枳園の のち はその子養真の長女おこうさんが いだ。おこうさんは女流画家で、浅草 永住町 ながすみちょう の上田 政次郎 まさじろう という人の もと に現存している。おこうさんの妹おりゅうさんはかつて 剞氏 きけつし 某に嫁し、 のち 未亡人となって、浅草 聖天 しょうでん 横町の 基督 クリスト 教会堂のコンシェルジェになっていた。基督教徒である。
 保は枳園の を得た のち 、病のために新聞記者の業を罷め、遠江国 周智郡 すちごおり 犬居村 いぬいむら 百四十九番地に転籍した。保は病のために 時々 じじ 卒倒することがあったので、松山 棟庵 とうあん が勧めて都会の地を去らしめたのである。

その百九

 抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡 安西 あんざい 一丁目 南裏町 みなみうらまち 十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は 藤波甚助 ふじなみじんすけ という人で、 やとい 外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは 山路愛山 やまじあいざん さんである。通称は 弥吉 やきち 、浅草 堀田原 ほったはら 、後には 鳥越 とりごえ に住んだ幕府の天文 かた 山路氏の えい で、 元治 げんじ 元年に生れた。この年二十三歳であった。
 十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族 佐野常三郎 さのつねさぶろう じょ 松を めと った。戸籍名は いち である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日 うまれ であるから十八歳であった。
 小野 富穀 ふこく の子道悦が、この年八月に 虎列拉 コレラ を病んで歿した。道悦は天保七年八月 ついたち に生れた。 経書 けいしょ 萩原楽亭 はぎわららくてい に、筆札を平井東堂に、医術を多紀 さいてい と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者 奥通 おくどおり に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは 素読 そどく の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生 おも 守成 しゅせい を事としていた。然るに明治十一、二年の こう 、道悦が松田 道夫 どうふ もと にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に さい が東京にあって投機のために多く金を失った。その のち 道悦は保が 重野 しげの 成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に さきだ って死んだ。
  尺振八 せきしんぱち もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
 抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海 暁鐘 ぎょうしょう 新報』の主筆になった。英学校の職は もと の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、 前島豊太郎 まえじまとよたろう という人を社主としていた。五年 ぜん に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の 耳目 じもく おどろか した人で、天保六年の うまれ であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等 英華 えいか 学校に へい せられ、九月十五日にまた静岡文武館の 嘱託 ぞくたく を受けて、英語を生徒に授けた。
 抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に 中江兆民 なかえちょうみん が静岡を過ぎて保を うた。兆民は前年の暮に保安条例に って東京を われ、大阪 東雲 しののめ 新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男 三吉 さんきち が生れた。八月十日に私立渋江塾を 鷹匠町 たかじょうまち 二丁目に設くることを認可せられた。
  おさむ は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより さき 脩は渋江氏に復籍していた。
 脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下 駿河国 するがのくに 安倍郡 あべごおり 豊田村 とよだむら 曲金 まがりがね の素封家 海野寿作 うんのじゅさく 娘分 むすめぶん である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
 この年九月十五日に、保の もと に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が 悪作劇 いたずら とも見えぬので、保は多少の 心構 こころがまえ をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の うわさ が立った。さてその日になると、早朝に 前田五門 まえだごもん が保の家に来て 助力 じょりき をしようと申し込んだ。五門は もと 五左衛門 ござえもん と称して、 世禄 せいろく 五百七十二石を み、 下谷 したや 新橋脇 あたらしばしわき に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国 国府 こふ を去って入京しようとした時、五門は懇親会において保と相識になった。初め 函右日報 かんゆうにっぽう 社主で、今『 大務 たいむ 新聞』顧問になっている。保は五門と とも に終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年を くること七十一であった。

その百十

 抽斎歿後の第三十一年は明治二十二年である。一月八日に保は東京博文館の もとめ に応じて履歴書、写真並に文稿を寄示した。これが保のこの 書肆 しょし のために書を あらわ すに至った 端緒 たんちょ である。交渉は ようや く歩を進めて、保は次第に暁鐘新報社に とおざ かり、博文館に ちかづ いた。そして十二月二十七日に新報社に告ぐるに、年末を待って主筆を辞することを以てした。然るに新報社は保に退社後なお社説を そう せんことを請うた。
 脩の嫡男 終吉 しゅうきち がこの年十二月一日に鷹匠町二丁目の渋江塾に生れた。即ち今の図案家の渋江終吉さんである。
 抽斎歿後の第三十二年は明治二十三年である。保は三月三日に静岡から入京して、麹町 有楽町 ゆうらくちょう 二丁目二番地 たけ 寄寓 きぐう した。静岡を去るに臨んで、渋江塾を閉じ、英学校、 英華 えいか 学校、文武館三校の教職を辞した。ただ『暁鐘新報』の社説は東京において草することを約した。入京後三月二十六日から博文館のためにする著作翻訳の稿を起した。七月十八日に保は 神田 かんだ 仲猿楽町 なかさるがくちょう 五番地 豊田春賀 とよだしゅんが もと に転寓した。
 保の家には長女福が一月三十日に生れ、二月十七日に よう した。また七月十一日に長男三吉が三歳にして歿した。感応寺の墓に刻してある 智運童子 ちうんどうじ はこの三吉である。
 脩はこの年五月二十九日に単身入京して、六月に 飯田町 いいだまち 補習学会 および 神田猿楽町 有終 ゆうしゅう 学校の英語教師となった。妻子は七月に至って入京した。十二月に脩は鉄道庁第二部傭員となって、遠江国 磐田郡 いわたごおり 袋井 ふくろい 駅に勤務することとなり、また家を挙げて京を去った。
 明治二十四年には保は新居を神田仲猿楽町五番地に ぼく して、七月十七日に起工し、十月一日にこれを らく した。脩は駿河国 駿東郡 すんとうごおり 佐野 さの 駅の駅長助役に転じた。抽斎歿後の第三十三年である。
 二十五年には保の次男 繁次 しげじ が二月十八日に生れ、九月二十三日に夭した。感応寺の墓に 示教 しきょう 童子と刻してある。脩は七月に鉄道庁に 解傭 かいよう を請うて入京し、芝 愛宕下町 あたごしたちょう に住んで、京橋 西紺屋町 にしこんやちょう 秀英舎の漢字校正係になった。脩の次男 行晴 ゆきはる が生れた。この年は抽斎歿後の第三十四年である。
 二十六年には保の次女冬が十二月二十一日に生れた。脩がこの年から俳句を作ることを始めた。「 皮足袋 かわたび の四十に足を踏込みぬ」の句がある。二十七年には脩の次男 行晴 ゆきはる が四月十三日に三歳にして歿した。 くが が十二月に本所 松井町 まついちょう 三丁目四番地福島某の地所に新築した。即ち今の 居宅 きょたく である。長唄の師匠としてのこの人の経歴は、一たび ゆたか のために 頓挫 とんざ したが、その は継続して 今日 こんにち に至っている。なお下方に詳記するであろう。二十八年には保の三男純吉が七月十三日に生れた。二十九年には脩が一月に秀英舎 いち 工場の欧文校正係に転じて、 牛込 うしごめ 二十騎町 にじっきちょう に移った。この月十二日に脩の三男忠三さんが生れた。三十年には保が九月に 根本羽嶽 ねもとうがく の門に って易を問うことを始めた。 長井金風 ながいきんぷう さんの こと るに、羽嶽の師は 野上陳令 のがみちんれい 、陳令の師は山本 北山 ほくざん だそうである。栗本 鋤雲 じょうん が三月六日に七十六歳で歿した。海保漁村の しょう が歿した。三十一年には保が八月三十日に羽嶽の義道館の講師になり、十二月十七日にその評議員になった。脩の長女花が十二月に生れた。島田 篁村 こうそん が八月二十七日に六十一歳で歿した。抽斎歿後の第三十五年 乃至 ないし 第四十年である。

その百十一

 わたくしは ここ に前記を いで抽斎歿後第四十一年以下の事を挙げる。明治三十三年には五月二日に保の三女 乙女 おとめ さんが生れた。三十四年には脩が 吟月 ぎんげつ と号した。 俳諧 はいかい の師二世 かつら もと 琴糸女 きんしじょ の授くる所の号である。山内 水木 みき が一月二十六日に歿した。年四十九であった。福沢諭吉が二月三日に六十八歳で歿した。博文館主 大橋佐平 おおはしさへい が十一月三日に六十七歳で歿した。三十五年には脩が十月に秀英舎を退いて京橋 宗十郎町 そうじゅうろうちょう の国文社に り、校正係になった。修の四男 末男 すえお さんが十二月五日に生れた。三十六年には脩が九月に静岡に往って、 安西 あんざい 一丁目 南裏 みなみうら に渋江塾を再興した。県立静岡中学校長 川田正澂 かわだせいちょう すすめ に従って、中学生のために温習の便宜を はか ったのである。脩の長女花が三月十五日に六歳で歿した。三十七年には保が五月十五日に神田 三崎町 みさきちょう 一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に 荏原郡 えばらごおり 品川町 しながわちょう 南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は 存立 ぞんりつ の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子 いわお が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が 徳安 とくあん と改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子 信治 しんじ さんは今 赤坂 あかさか 氷川町 ひかわちょう の姉壻 清水夏雲 しみずかうん さんの もと にいる。三十九年には脩が入京して 小石川 こいしかわ 久堅町 ひさかたちょう 博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女 紅葉 もみじ が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
 抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って 咳嗽 がいそう 甚しく、発熱して 就蓐 じゅじょく し、 つい 加答児 カタル 性肺炎のために命を おと した。嗣子終吉さんは今の 下渋谷 しもしぶや の家に移った。
 わたくしは脩の句稿を左に 鈔出 しょうしゅつ する。類句を避けて精選するが如きは、その道に もっぱら ならざるわたくしの くする所ではない。読者の してき を得ば さいわい であろう。

山畑 やまはた かすみ の上の くわ づかひ
塵塚 ちりづか に菜の花咲ける 弥生 やよい かな
海苔 のり 麦藁 むぎわら 染むる縁の先
切凧 きれだこ のつひに流るゝ 小川 こがわ かな
陽炎 かげろう と共にちらつく 小鮎 こあゆ
いつ見ても初物らしき 白魚 しらお
牡丹 ぼたん きっ て心さびしき ゆうべ かな
大西瓜 おおすいか 真つ二つにぞ きら れける
山寺は星より高き 燈籠 とうろ かな
稲妻の跡に手ぬるき星の飛ぶ
秋は皆物の淡きに 唐芥子 とうがらし
手も出さで机に向ふ寒さ哉
物売 ものうり の皆 頭巾 ずきん 着て出る
こがらし 土器 かわらけ 乾く石燈籠
雪の日や とり の出て来る 炭俵 すみだわら

 明治四十四年には保の三男純吉が十七歳で八月十一日に死んだ。大正二年には保が七月十二日に 麻布 あざぶ 西町 にしまち 十五番地に、八月二十八日に同区 本村町 ほんむらちょう 八番地に移った。三年には九月九日に今の牛込 船河原町 ふながわらちょう の家に移った。四年には保の次女冬が十月十三日に二十三歳で歿した。これが抽斎歿後の第五十二年から第五十六年に至る事略である。

その百十二

 抽斎の 後裔 こうえい にして今に存じているものは、上記の如く、先ず指を牛込の渋江氏に屈せなくてはならない。主人の保さんは抽斎の第七子で、継嗣となったものである。 けい を漁村、 竹逕 ちくけい の海保氏父子、島田 篁村 こうそん 、兼松 石居 せききょ 、根本羽嶽に、漢医方を多紀 雲従 うんじゅう に受け、師範学校において、教育家として養成せられ、共立学舎、慶応義塾において英語を研究し、浜松、静岡にあっては、あるいは校長となり、あるいは教頭となり、 かたわら 新聞記者として、政治を論じた。しかし最も大いに精力を ついや したものは、 書肆 しょし 博文館のためにする著作翻訳で、その刊行する所の書が、通計約百五十部の多きに至っている。その書は随時 世人 せいじん を啓発した功はあるにしても、 おおむね 時尚 じしょう を追う 書估 しょこ 誅求 ちゅうきゅう に応じて筆を走らせたものである。保さんの精力は徒費せられたといわざることを得ない。そして保さんは自らこれを知っている。 畢竟 ひっきょう 文士と書估との関係はミュチュアリスムであるべきのに、実はパラジチスムになっている。保さんは生物学上の亭主役をしたのである。
 保さんの作らんと欲する書は、今なお計画として保さんの意中にある。 いわ く本私刑史、曰く支那刑法史、曰く 経子 けいし 一家言、曰く周易一家言、曰く読書五十年、この五部の書が即ちこれである。 就中 なかんずく 読書五十年の如きは、 ただ に計画として存在するのみではない、その 藁本 こうほん が既に たい を成している。これは一種のビブリオグラフィイで、保さんの博渉の一面を うかが うに足るものである。著者の志す所は 厳君 げんくん の『経籍訪古志』を 廓大 かくだい して、 いにしえ より今に及ぼし、東より西に及ぼすにあるといっても、あるいは不可なることがなかろう。保さんは果して くその志を成すであろうか。世間は果して能く保さんをしてその志を成さしむるであろうか。
 保さんは 今年 こんねん 大正五年に六十歳、妻佐野氏お松さんは四十八歳、 じょ 乙女さんは十七歳である。乙女さんは明治四十一年以降 鏑木清方 かぶらききよかた いて を学び、また大正三年 以還 いかん 跡見 あとみ 女学校の生徒になっている。
 第二には本所の渋江氏がある。 女主人 おんなあるじ は抽斎の四女 くが で、長唄の師匠 杵屋勝久 きねやかつひさ さんがこれである。既に したる如く、大正五年には七十歳になった。
 陸が はじめ て長唄の手ほどきをしてもらった師匠は日本橋 馬喰町 ばくろうちょう の二世杵屋勝三郎で、 馬場 ばば 鬼勝 おにかつ と称せられた名人である。これは嘉永三年陸が わずか に四歳になった時だというから、まだ小柳町の大工の 棟梁 とうりょう 新八の家へ里子に遣られていて、そこから 稽古 けいこ に通ったことであろう。
 母五百も声が かったが、陸はそれに似た美声だといって、勝三郎が めた。節も好く おぼ えた。 三味線 さみせん は「 よい は待ち」を く時、早く既に自ら調子を合せることが出来、めりやす「黒髪」位に至ると、師匠に連れられて、 所々 しょしょ 大浚 おおざらえ に往った。
 勝三郎は陸を教えるに、特別に骨を折った。 月六斎 つきろくさい と日を期して、勝三郎が 喜代蔵 きよぞう 辰蔵 たつぞう 二人の 弟子 でし を伴って、お玉が池の渋江の やしき に出向くと、その日には くが も里親の もと から帰って待ち受けていた。陸の さらえ おわ ると、二番位演奏があって、その上で 酒飯 しゅはん が出た。料理は必ず 青柳 あおやぎ から 為出 しだ した。嘉永四年に渋江氏が本所台所町に移ってからも、この出稽古は継続せられた。

その百十三

 渋江氏が 一旦 いったん 弘前に うつ って、その のち 東京と改まった江戸に再び かえ った時、 くが は本所緑町に 砂糖店 さとうみせ を開いた。これは初め商売を始めようと思って 土著 どちゃく したのではなく、唯 稲葉 いなば という家の門の片隅に 空地 くうち があったので、そこへ 小家 こいえ を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に って砂糖店をば開いたのである。また砂糖店を閉じた のち に、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。
 本所には三百石 どり 以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫について ただ さなくては、どの家かわからぬが、陸を 庇護 ひご した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の もと に、一旦人に嫁して帰った 家附 いえつき むすめ で四十歳位のが一人、松さん、 こま さんの兄弟があった。この松さんは今 千秋 せんしゅう と号して書家になっているそうである。
 陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って れば、娘が手を洗って遣るというようにした。髪をも二人で毎日種々の まげ って遣った。
 さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い 砂糖問屋 さとうどいや があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は 秤目 はかりめ を知っているから丁度好いということであった。砂糖店は開かれた。そして 繁昌 はんじょう した。 しな も好く、 はかり も好いと評判せられて、客は遠方から来た。汁粉屋が買いに来る。 煮締屋 にしめや が買いに来る。 小松川 こまつがわ あたりからわざわざ来るものさえあった。
 或日貴婦人が女中大勢を連れて店に来た。そして氷砂糖、 金米糠 コンペイトー などを買って、陸に言った。「士族の むすめ 健気 けなげ にも商売を始めたものがあるという うわさ を聞いて、わたしはわざわざ買いに来ました。どうぞ中途で めないで、 辛棒 しんぼう をし とお して、人の手本になって下さい」といった。後に聞けば、藤堂家の夫人だそうであった。藤堂家の下屋敷は両国橋詰にあって、当時の主人は 高猷 たかゆき 、夫人は一族 たかたけ じょ であったはずである。
 或日また 五百 いお と保とが 寄席 よせ に往った。 心打 しんうち 円朝 えんちょう であったが、話の本題に る前に、こういう事を言った。「この頃緑町では、 御大家 ごたいけ のお嬢様がお砂糖屋をお はじめ になって、 こと ほか 御繁昌だと申すことでございます。時節柄結構なお思い たち で、 たれ もそうありたい事と存じます」といった。話の うち にいわゆる 心学 しんがく を説いた円朝の 面目 めんぼく うかが われる。五百は いて感慨に堪えなかったそうである。
 この砂糖店は幸か不幸か、繁昌の 最中 もなか に閉じられて、陸は世間の同情に むく いることを得なかった。家族関係の上に除きがたい 障礙 しょうがい が生じたためである。
 商業を廃して 間暇 かんか を得た陸の もと へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は たまたま 長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古したことがある。陸には飯よりも すき な道である。一しょに さら って見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつつこういった。「あなたは 素人 しろうと じゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」

その百十四

 稲葉の未亡人の ことば を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを はばか ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の もと に往って相談した。五百は おもい ほか 容易 たやす く許した。
 陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、 おおやけ もう して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の たな に、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。
 この亀沢町の家の隣には、 吉野 よしの という 象牙 ぞうげ 職の老夫婦が住んでいた。 主人 あるじ は町内の わか 衆頭 しゅがしら で、 世馴 よな れた、 侠気 きょうき のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお 指図 さしず をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の 揚戸 あげど を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
 吉野の家には二人の むすめ があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋 大坂町 おおさかまち 十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。
 吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる 愛敬 あいきょう 商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、 たちま ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の ことば の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、 八百屋 やおや 肴屋 さかなや にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその ことば 紆曲 うきょく にして ただち に相手を して呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも 檀那 だんな といい、お かみ さんといわなくてはならない。それがどうも口に 出憎 でにく いのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである。
 しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の かず は八十人を えた。それに上流の家々に招かれることが ようや く多く、後には ほとん ど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車を せることになった。
 最も しばしば 往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の 祝日 いわいび に、必ず勝久を呼ぶことになっている。
 藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は 贔屓 ひいき になっている。

その百十五

 細川家に勝久の招かれたのは、 相弟子 あいでし 勝秀 かつひで が紹介したのである。勝秀はかつて肥後国熊本までもこの家の人々に伴われて往ったことがあるそうである。勝久の はじめ て招かれたのは 今戸 いまど の別邸で、当日は 立三味線 たてさみせん が勝秀、外に 脇二人 わきににん 立唄 たてうた が勝久、外に脇唄二人、その他 鳴物 なりもの 連中で、 ことごと く女芸人であった。番組は「 勧進帳 かんじんちょう 」、「 吉原雀 よしわらすずめ 」、「 英執着獅子 はなぶさしゅうじゃくじし 」で、 すえ このみ として「 石橋 しゃっきょう 」を演じた。
 細川家の当主は 慶順 よしゆき であっただろう。勝久が部屋へ さが っていると、そこへ津軽侯が来て、「渋江の むすめ くが がいるということだから逢いに来たよ」といった。 つれ の女らは皆驚いた。津軽 承昭 つぐてる は主人慶順の弟であるから、その日の客になって、来ていたのであろう。
 長唄が おわ ってから、主客打交っての能があって、女芸人らは陪観を許された。津軽侯は「 船弁慶 ふなべんけい 」を舞った。勝久を細川家に 介致 かいち した勝秀は、今は 亡人 なきひと である。
 津軽家へは細川別邸で主公に謁見したのが縁となって、渋江陸としてしばしば召されることになった。いつも ひとり 往って弾きもし歌いもすることになっている。老女 歌野 うたの 、お部屋おたつの人々が 馴染 なじみ になって、陸を引き廻してくれるのである。
 稲葉家へは師匠勝三郎が存命中に初て連れて往った。その邸は青山だというから、 豊後国 ぶんごのくに 臼杵 うすき の稲葉家で、当時の主公 久通 ひさみち に麻布 土器町 かわらけちょう の下屋敷へ招かれたのであろう。連中は男女交りであった。立三味線は勝三郎、脇勝秀、 立唄 たてうた 坂田仙八 さかたせんぱち 、脇勝久で、皆稲葉家の 名指 なざし であった。仙人は 亡人 なきひと で、今の勝五郎、前名勝四郎の父である。番組は「 鶴亀 つるかめ 」、「 初時雨 はつしぐれ 」、「 喜撰 きせん 」で、末に このみ として勝三郎と仙八とが「 狸囃 たぬきばやし 」を演じた。
 演奏が おわ ってから、勝三郎らは花園を ることを許された。 その はなは だ広く、珍奇な 花卉 かき が多かった。園を過ぎて 菜圃 さいほ ると、その かたわら 竹藪 たけやぶ があって、 たけのこ むらが り生じていた。主公が芸人らに、「お前たちが自分で抜いただけは、何本でも持って帰って いから勝手に抜け」といった。男女の芸人が争って抜いた。中には筍が けると共に、 尻餅 しりもち くものもあった。主公はこれを見て興に った。筍の周囲の土は、 あらかじ め掘り起して、 ゆる めた のち にまた き寄せてあったそうである。それでも芸人らは 容易 たやす く抜くことを得なかった。 家苞 いえづと には筍を多く賜わった。抜かぬ人もその数には れなかった。
 前田家、伊達家、牧野家、小笠原家、黒田家、本多家へも次第に呼ばれることになった。初て往った頃は、前田家が宰相 慶寧 よしやす 、伊達家が亀三郎、牧野家が 金丸 かなまる 、小笠原家が 豊千代丸 とよちよまる 、黒田家が少将 慶賛 よしすけ 、本多家が 主膳正 しゅぜんのかみ 康穣 やすしげ の時であっただろう。しかしわたくしは維新後における 華冑 かちゅう 家世 かせい の事に くわ しくないから、もし 誤謬 ごびゅう があったら正してもらいたい。
 勝久は看板を懸けてから四年目、明治十年四月三日に、両国中村楼で 名弘 なびろ めの 大浚 おおざらい を催した。 浚場 さらいば 間口 まぐち の天幕は深川の五本松門弟 じゅう 後幕 うしろまく 魚河岸問屋 うおがしどいや 今和 いまわ と緑町門弟中、 水引 みずひき は牧野家であった。その外家元門弟中より紅白 縮緬 ちりめん の天幕、 杵勝名取 きねかつなとり 男女中より 縹色絹 はないろぎぬ の後幕、勝久門下名取女 じゅう より 中形 ちゅうがた 縮緬の 大額 おおがく 親密連 しんみつれん 女名取より 茶緞子 ちゃどんす 丸帯の 掛地 かけじ 木場贔屓 きばひいき 中より白縮緬の水引が贈られた。役者はおもいおもいの意匠を こら したびらを寄せた。縁故のある華族の 諸家 しょけ は皆金品を おく って、中には老女を つかわ したものもあった。勝久が三十一歳の時の事である。

その百十六

 勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して おく った。勝久はこの歌に本づいて歌曲「 まつ さかえ 」を作り、両国 井生村楼 いぶむらろう で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は 奉書摺 ほうしょずり の本に 為立 した てて かく わか たれた。 緒余 しょよ に『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもその じょ くが って かく の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
 勝三郎は つい で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。 法諡 ほうし 花菱院照誉東成信士 かりょういんしょうよとうせいしんし という。東成はその いみな である。墓は浅草 蔵前 くらまえ 西福寺 さいふくじ 真行院 しんぎょういん にある。 たず ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は よよ 喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋 坂本町 さかもとちょう 十八番地にあって 名跡 みょうせき を伝えている。いわゆる 植木店 うえきだな 家元 いえもと である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に 和吉 わきち があり、和吉の のち を初代勝五郎が ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を あらた めずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、 小字 おさなな 小三郎 こさぶろう といった。即ち勝久の師匠である。
 二世勝三郎には子女 おのおの 一人 いちにん があって、姉をふさといい、弟を 金次郎 きんじろう といった。金次郎は「 おれ は芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は おわり に臨んで子らに 遺言 ゆいごん し、勝久を 小母 おば と呼んで、 後事 こうじ を相談するが いといったそうである。
 二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は 新宿 しんじゅく 岩松 いわまつ というもので、養父の 小字 おさなな 小三郎を襲ぎ、中村楼で 名弘 なびろめ の会を催した。いまだ いくば くならぬに、小三郎は養父の小字を 名告 なの ることを いさぎよ しとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事は たやす く認容せられなかった。小三郎は遂に 葛藤 かっとう を生じて離縁せられた。
  ここ において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は 親戚 しんせき と父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の 鞭策 べんさく の下に、いやいやながら腕を みが いた。
 金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が るい をなし、目に 丁字 ていじ なき 儕輩 せいはい の忌む所となって、杵勝同窓会幹事の 一人 いちにん たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること しばしば であったが、 もと より ちと の学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
 明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に 病臥 びょうが しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。 しゅうきょ 海光山 かいこうざん 長谷寺 ちょうこくじ の座敷である。勝三郎は病がとかく 佳候 かこう を呈せなかったが、当時なお杖に たす けられて 寺門 じもん で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、 病牀 びょうしょう 慰草 なぐさみぐさ にもといって おく った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ えざるに東京に還った。

その百十七

 三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座 頭取 とうどり であったので、 高足弟子 こうそくていし たる浅草 森田町 もりたちょう の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の つとめ ぶりに あきたら なかった。そして病のために 気短 きみじか になっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい 釁隙 きんげき を生じた。
 五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った のち における杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を 領袖 りょうしゅう としている男名取らは、先ず師匠の いかり が解けて、師匠と勝四郎との まじわり が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心を やす んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに くはないと思って、師家と男名取らとの間に往来して調停に努力した。
 しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を うて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を流して いか り、「 小母 おば さんはどこまでこの病人に さから う気ですか」といった。勝久は ここ に至って また 奈何 いかん ともすることが出来なかった。
 六月二十五日の朝、勝三郎は 霊岸島 れいがんじま から舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、 藤二郎 とうじろう 、それに師匠の家にいる かね さんという男、 上総屋 かずさや の親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。
 この桟橋の わかれ には何となく 落寞 らくばく の感があった。病み衰えた勝三郎は つい に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
 勝久は家元を送って四日の後に病に した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を って、勝三郎の房州から鎌倉へ うつ ったことを聞いた。
 九月十一日は 小雨 こさめ の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が すみやか だと報じて来た。勝久は腰部の 拘攣 こうれん のために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく 戦慄 せんりつ して まなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの ゆうべ に世を去った。年は三十八であった。 法諡 ほうし 蓮生院薫誉智才信士 れんしょういんくんよちさいしんし という。

その百十八

 九月十二日に勝久は三世勝二郎の ひつぎ 荼所 だびしょ まで見送って、そこから車を停車場へ駆り、夜東京に還った。勝三郎が歿した のち に、杵勝分派の団結を維持して行くには、一刻も早く除かなくてはならぬ 障礙 しょうがい がある。それは勝三郎の 生前 しょうぜん に、勝久らが百方調停したにもかかわらず、 ゆる されずにしまった 高足弟子 こうそくていし 勝四郎の勘気である。勝久は鎌倉にある間も、東京へ帰る途上でも、 須臾 しゅゆ もこれを忘れることが出来なかった。
 十三日の 昧爽 まいそう に、勝久は森田町の勝四郎が家へ手紙を遣った。「定めし 御聞込 おんききこみ の事とは存じ そうら へども、杵屋 おん 家元様は 死去 被遊候 あそばされそろ それ つき 私共は 今日 こんにち 午後四時 同所に 相寄候事 あいよりそろこと に御坐候。 この おん 前様御心底は 奈何 いかが に候 。私存じ候には、同刻御自身の 思召 おぼしめし にて馬喰町へ 御出被成候方宜敷 おんいでなされそろかたよろしく 候様存じ候。 田原町 たわらちょう 一寸 ちょっと 御立寄被成候 おんたちよりなされそうろう 御出被成度 おんいでなされたく 存じ候。さ候はゞ及ばずながら 奈何様 いかよう にも 都合宜敷様 可致候 いたすべくそろ まず は右 申入 もうしいれ 候。」田原町とは勝四郎に ぐ二番弟子勝治郎の家をいったのである。勝治郎は昨今病のために引き こも って、杵勝同窓会をも けている。
 勝四郎の返事には、好意はありがたいが、何分これまでの 行懸 ゆきがかり 上単身では出向かれぬといって来た。そこで十造、勝助の 二人 ふたり が森田町へ迎えに くことになった。
 馬喰町の家では、この日 通夜 つうや のために、 亡人 なきひと の親戚を はじめ として、男女の名取が皆集まっていた。勝久は浜町の師匠と女師匠とに請うに、亡人に代って勝四郎を ゆる すことを以てした。浜町の師匠は亡人の姉ふさ、女師匠は三十六歳で未亡人となった亡人の妻みつである。二人の女は許諾した。そこへ勝四郎は出向いて来て、勝三郎の 木位 もくい を拝し、 綫香 せんこう 手向 たむ けた。勝四郎は木位の前を退いて男女の名取に 挨拶 あいさつ した。葛藤は ここ に全く解けた。これが明治三十六年勝久が五十七歳の時の事で、勝久は始終病を つと めてこの調停の衝に当ったのである。勝久が病の本復したのはこの年の十二月である。
 杵勝同窓会はこれより後 けいかい の根を絶って、男名取中からは名を勝五郎と あらた めた勝四郎が推されて幹事となり、女名取中からは勝久が推されて同じく幹事となっている。勝四郎の名は今飯田町住の五番弟子が いでいる。一番弟子勝四郎 あらため 勝五郎、二番勝治郎、三番 勝松 かつまつ 改勝右衛門、四番 勝吉 かつきち 改勝太郎、五番勝四郎、六番勝之助改和吉である。
 二世勝三郎の 花菱院 かりょういん が三年忌には、男女名取が 梵鐘 ぼんしょう 一箇を西福寺に寄附した。七年忌には金百円、幕 一帳 ひとはり 男女名取中、 葡萄鼠縮緬幕 ぶどうねずみちりめんまく 女名取中、大額 ならびに 黒絽夢想袷羽織 くろろむそうあわせばおり 勝久門弟中、十三年忌が三世の七年忌を繰り上げて あわ せ修せられたときには、 木魚 もくぎょ 一対 いっつい 墓前 花立 はなたて 並綫香立男女名取中、十七年忌には 蓮華形皿 れんげがたさら 十三枚男女名取中の寄附があった。また三世勝三郎の 蓮生院 れんしょういん が三年忌には 経箱 きょうばこ 六個経本 いり 男女名取中、十三年忌には 袈裟 けさ 一領家元、 天蓋 てんがい 一箇男女名取中の寄附があった。これらの文字は、人があるいはわたくしの 何故 なにゆえ にこれを条記して煩を いと わざるかを あやし むであろう。しかしわたくしは勝久の手記を けみ して、いわゆる芸人の師に つか うることの厚きに驚いた。そしてこの善行を埋没するに忍びなかった。もしわたくしが虚礼に 瞞過 まんか せられたという人があったら、わたくしは あえ て問いたい。そういう人は果して一切の善行の動機を看破することを得るだろうかと。

その百十九

 勝久の人に長唄を教うること、今に いた るまで四十四年である。この間に勝久は名取の弟子 わずか に七人を得ている。明治三十二年には 倉田 くらた ふでが杵屋 勝久羅 かつくら となった。三十四年には遠藤さとが杵屋 勝久美 かつくみ となった。四十三年には福原さくが杵屋 勝久女 かつくめ となり、山口はるが杵屋 勝久利 かつくり となった。大正二年には加藤たつが杵屋 勝久満 かつくま となった。三年には細井のりが杵屋 勝久代 かつくよ となった。五年には伊藤あいが杵屋 勝久纓 かつくお となった。この外に大正四年に名取になった山田 政次郎 まさじろう の杵屋 勝丸 かつまる もある。しかしこれは男の事ゆえ、勝久の弟子ではあるが、名は家元から取らせた。今の教育は すべ て官公私立の学校において行うことになっていて、 いきおい 集団教育の法に従わざることを得ない。そしてその弊を すく うには、ただ個人教育の法を参取する一途があるのみである。 ここ において世には往々昔の儒者の家塾を夢みるものがある。然るにいわゆる芸人に名取の制があって、今なお 牢守 ろうしゅ せられていることには想い及ぶものが すくな い。尋常 許取 ゆるしとり らん は、芸人があるいは人の そしり を辞することを得ざる所であろう。しかし の名取に至っては、その あえ 軽々 かろがろ しく仮借せざる所であるらしい。もしそうでないものなら、四十四年の久しい間に、 を勝久に ゆだ ねた幾百人の中で、 く名取の班に列するものが独り七、八人のみではなかったであろう。
 勝久の くが ただ に長唄を 稽古 けいこ したばかりではなく、 いとけな くして琴を 山勢 やませ 氏に学び、踊を 藤間 ふじま ふじに学んだ。陸の踊に使う 衣裳 いしょう 小道具は、渋江の家では十二分に取り そろ えてあったので、陸と共に踊る子が 手廻 てまわ り兼ねる家の子であると、渋江氏の方でその相手の子の支度をもして遣って踊らせた。陸は善く踊ったが、その 嗜好 しこう が長唄に かたぶ いていたので、踊は中途で められた。
 陸は遠州流の 活花 いけばな をも学んだ。 象棋 しょうぎ をも母 五百 いお に学んだ。五百の碁は二段であった。五百はかつて 薙刀 なぎなた をさえ陸に教えたことがある。
 陸の読書筆札の事は既に記したが、やや長ずるに及んでは、五百が 近衛予楽院 このえよらくいん の手本を授けて臨書せしめたそうである。
 陸の裁縫は五百が教えた。陸が人と成ってから のち は、渋江の家では重ねものから 不断著 ふだんぎ まで ほとん ど外へ出して裁縫させたことがない。五百は常に、「 為立 したて は陸に限る、為立屋の 為事 しごと は悪い」といっていた。 張物 はりもの も五百が ものさし を手にして指図し、 布目 ぬのめ ごう ゆが まぬように陸に張らせた。「善く張った きれ は新しい 反物 たんもの を裁ったようでなくてはならない」とは、五百の つね ことば であった。
 髪を り髪を うことにも、陸は早く熟錬した。剃ることには、尼 妙了 みょうりょう が「お陸様が って下さるなら、頭が 罅欠 ひびかけ だらけになっても い」といって、頭を まか せていたので れた。結うことはお まき あやの髪を、前髪に はり のない、小さい 祖母子 おばこ に結ったのが 手始 てはじめ で、後には母の髪、妹の髪、女中たちの髪までも結い、我髪は もと より自ら結った。唯 余所行 よそゆき の我髪だけ母の手を煩わした。弘前に うつ った時、 浅越 あさごえ 玄隆、前田善二郎の妻、松本 甲子蔵 きねぞう の妹などは菓子折を持って来て、陸に髪を結ってもらった。陸は 礼物 れいもつ しりぞ けて結って遣り、 流行 はやり の飾をさえ贈った。
 陸は 生得 しょうとく おとなしい子で、泣かず いか らず、 饒舌 じょうぜつ することもなかった。しかし言動が快活なので、 剽軽者 ひょうきんもの として家人にも他人にも喜ばれたそうである。その人と成った後に、志操が堅固で、義務心に富んでいることは、長唄の師匠としての経歴に徴して知ることが出来る。
  牛込 うしごめ の保さんの家と、その保さんを、父抽斎の継嗣たる故を以て、始終「 いさん」と呼んでいる本所の勝久さんの家との外に、現に東京には第三の渋江氏がある。即ち下渋谷の渋江氏である。
 下渋谷の家は脩の子終吉さんを当主としている。終吉は図案家で、大正三年に 津田青楓 つだせいふう さんの門人になった。大正五年に二十八歳である。終吉には 二人 ににん の弟がある。前年に明治薬学校の業を終えた忠三さんが二十一歳、末男さんが十五歳である。この三人の生母福島氏おさださんは静岡にいる。牛込のお松さんと同齢で、四十八歳である。