University of Virginia Library

Search this document 

collapse section
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
その三十六
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 

その三十六

 森 枳園 きえん は大磯で医業が流行するようになって、生活に余裕も出来たので、時々江戸へ出た。そしてその度ごとに一週間位は渋江の家に やど ることになっていた。枳園の 形装 ぎょうそう は決してかつて 夜逃 よにげ をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかった。 たもつ さんの記憶している 五百 いお の話によるに、枳園はお 召縮緬 めしちりめん きもの を着て、 海老鞘 えびざや 脇指 わきざし を差し、歩くに つま を取って、 剥身絞 むきみしぼり ふんどし を見せていた。もし人がその七代目 団十郎 だんじゅうろう 贔屓 ひいき にするのを知っていて、 成田屋 なりたや と声を掛けると、枳園は立ち止まって見えをしたそうである。そして当時の枳園はもう四十男であった。 もっと もお召縮緬を着たのは、 あなが 奢侈 しゃし と見るべきではあるまい。一 たん 一朱か二分二朱であったというから、着ようと思えば着られたのであろうと、保さんがいう。
 枳園の来て やど る頃に、抽斎の もと にろくという女中がいた。ろくは五百が藤堂家にいた時から使ったもので、抽斎に嫁するに及んで、それを連れて来たのである。枳園は来り舎るごとに、この女を追い廻していたが、とうとう或日逃げる女を捉えようとして 大行燈 おおあんどう を覆し、畳を油だらけにした。五百は たわむれ に絶交の詩を作って枳園に贈った。当時ろくを 揶揄 からか うものは枳園のみでなく、 豊芥子 ほうかいし も訪ねて来るごとにこれに戯れた。しかしろくは間もなく渋江氏の世話で人に嫁した。
 枳園はまた当時 わずか に二十歳を えた抽斎の長男 恒善 つねよし の、いわゆるおとなし過ぎるのを見て、 度々 たびたび 吉原へ連れて こうとした。しかし恒善は かなかった。枳園は意を五百に明かし、母の黙許というを以て恒善を うごか そうとした。しかし五百は夫が吉原に往くことを罪悪としているのを知っていて、恒善を放ち ることが出来ない。そこで五百は幾たびか枳園と論争したそうである。
 枳園が かく の如くにしてしばしば江戸に出たのは、遊びに出たのではなかった。 故主 こしゅう もと に帰参しようとも思い、また才学を負うた人であるから、首尾 くは幕府の 直参 じきさん にでもなろうと思って、機会を うかが っていたのである。そして渋江の家はその策源地であった。
  にわか に見れば、枳園が阿部家の古巣に帰るのは やす く、新に幕府に登庸せられるのは難いようである。しかし実況にはこれに反するものがあった。枳園は既に学術を以て名を世間に せていた。 就中 なかんずく 本草 ほんぞう くわ しいということは人が皆認めていた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才学のある枳園の 軽佻 けいちょう を忌む心が すこぶ かた かった。 多紀一家 たきいっけ 殊に さいてい はややこれと趣を殊にしていて、ほぼこの人の短を して、その長を用いようとする抽斎の意に賛同していた。
 枳園を帰参させようとして、最も尽力したのは伊沢 榛軒 しんけん 、柏軒の兄弟であるが、抽斎もまた福山の公用人 服部九十郎 はっとりくじゅうろう 、勘定奉行 小此木伴七 おこのぎはんしち 大田 おおた 宇川 うがわ 等に内談し、また小島成斎等をして説かしむること数度であった。しかしいつも藩主の反感に さまた げられて事が行われなかった。そこで伊沢兄弟と抽斎とは先ず庭の同情に うった えて幕府の用を勤めさせ、それを規模にして阿部家を説き うごか そうと決心した。そして つい にこの手段を以て成功した。
 この期間の すえ の一年、嘉永元年に至って枳園は 躋寿館 せいじゅかん の一事業たる『 千金方 せんきんほう 校刻 こうこく を手伝うべき内命を ち得た。そして五月には阿部正弘が枳園の帰藩を許した。