その十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その十六
わたくしは抽斎の師となるべき人物を数えて
京水
(
けいすい
)
に及ぶに当って、ここに京水の
身上
(
しんしょう
)
に関する
疑
(
うたがい
)
を
記
(
しる
)
して、世の人の
教
(
おしえ
)
を受けたい。
わたくしは今これを筆に
上
(
のぼ
)
するに至るまでには、文書を捜り寺院を
訪
(
と
)
い、また幾多の先輩知友を
煩
(
わずら
)
わして解決を求めた。しかしそれは
概
(
おおむ
)
ね皆
徒事
(
いたずらごと
)
であった。
就中
(
なかんずく
)
憾
(
うらみ
)
とすべきは京水の墓の
失踪
(
しっそう
)
した事である。
最初にわたくしに京水の墓の事を語ったのは
保
(
たもつ
)
さんである。保さんは幼い時京水の墓に
詣
(
もう
)
でたことがある。しかし寺の名は記憶していない。ただ向島であったというだけである。そのうちわたくしは富士川
游
(
ゆう
)
さんに種々の事を問いに
遣
(
や
)
った。富士川さんがこれに答えた中に、京水の墓は常泉寺の
傍
(
かたわら
)
にあるという事があった。
わたくしは幼い時
向島
(
むこうじま
)
小梅村に住んでいた。
初
(
はじめ
)
の家は今
須崎町
(
すさきちょう
)
になり、
後
(
のち
)
の家は今小梅町になっている。その
後
(
のち
)
の家から土手へ
往
(
ゆ
)
くには、いつも常泉寺の裏から
水戸邸
(
みとやしき
)
の北のはずれに出た。常泉寺はなじみのある寺である。
わたくしは常泉寺に往った。今は新小梅町の内になっている。
枕橋
(
まくらばし
)
を北へ渡って、徳川家の邸の南側を行くと、同じ側に常泉寺の大きい門がある。わたくしは本堂の周囲にある墓をも、境内の
末寺
(
まつじ
)
の庭にある墓をも一つ一つ検した。
日蓮宗
(
にちれんしゅう
)
の事だから、江戸の
市人
(
いちびと
)
の墓が多い。知名の学者では、
朝川善庵
(
あさかわぜんあん
)
の
一家
(
いっけ
)
の墓が、本堂の西にあるだけである。本堂の東南にある末寺に、池田氏の墓が一基あったが、これは例の市人らしく、しかも無縁同様のものと見えた。
そこで寺僧に請うて過去帖を見たが、帖は近頃作ったもので、いろは順に
檀家
(
だんか
)
の
氏
(
うじ
)
が列記してある。いの部には池田氏がない。末寺の墓地にある池田氏の墓は果して無縁であった。
わたくしは
空
(
むな
)
しく
還
(
かえ
)
って、先ず
郷人
(
きょうじん
)
宮崎幸麿
(
みやさきさきまろ
)
さんを介して、
東京
(
とうけい
)
の墓の事に
精
(
くわ
)
しい
武田信賢
(
たけだしんけん
)
さんに問うてもらったが、武田さんは知らなかった。
そのうちわたくしは『事実文編』四十五に
霧渓
(
むけい
)
の撰んだ池田
氏
(
し
)
行状のあるのを見出した。これは養父初代瑞仙の行状で、その墓が向島嶺松寺にあることを
記
(
しる
)
してある。
素
(
もと
)
嶺松寺には
戴曼公
(
たいまんこう
)
の
表石
(
ひょうせき
)
があって、瑞仙はその
側
(
かたわら
)
に葬られたというのである。向島にいたわたくしも嶺松寺という寺は知らなかった。しかし既に初代瑞仙が嶺松寺に葬られたなら、京水もあるいはそこに葬られたのではあるまいかと推量した。
わたくしは再び向島へ往った。そして新小梅町、小梅町、須崎町の間を
徘徊
(
はいかい
)
して捜索したが、嶺松寺という寺はない。わたくしは絶望して
踵
(
くびす
)
を
旋
(
めぐら
)
したが、道のついでなので、須崎町
弘福寺
(
こうふくじ
)
にある先考の墓に詣でた。さて住職
奥田墨汁
(
おくだぼくじゅう
)
師を
訪
(
とぶら
)
って
久闊
(
きゅうかつ
)
を
叙
(
じょ
)
した。対談の間に、わたくしが嶺松寺と池田氏の墓との事を語ると、墨汁師は意外にも
両
(
ふた
)
つながらこれを知っていた。
墨汁師はいった。嶺松寺は常泉寺の近傍にあった。その
畛域
(
しんいき
)
内に池田氏の墓が数基並んで立っていたことを記憶している。墓には多く誌銘が刻してあった。然るに近い頃に嶺松寺は廃寺になったというのである。わたくしはこれを聞いて、先ず池田氏の墓を目撃した人を
二人
(
ふたり
)
まで
獲
(
え
)
たのを喜んだ。即ち保さんと墨汁師とである。
「廃寺になるときは、墓はどうなるものですか」と、わたくしは問うた。
「墓は檀家がそれぞれ引き取って、外の寺へ持って行きます。」
「檀家がなかったらどうなりますか。」
「無縁の墓は共同墓地へ
遷
(
うつ
)
す例になっています。」
「すると池田家の墓は共同墓地へ遣られたかも知れませんな。池田家の
後
(
のち
)
は今どうなっているかわかりませんか。」こういってわたくしは
憮然
(
ぶぜん
)
とした。
その十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||