その百十七
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百十七
三世勝三郎の病は東京に還ってからも癒えなかった。当時勝三郎は東京座
頭取
(
とうどり
)
であったので、
高足弟子
(
こうそくていし
)
たる浅草
森田町
(
もりたちょう
)
の勝四郎をして主としてその事に当らしめた。勝四郎は即ち今の勝五郎である。然るに勝三郎は東京座における勝四郎の
勤
(
つとめ
)
ぶりに
慊
(
あきたら
)
なかった。そして病のために
気短
(
きみじか
)
になっている勝三郎と勝四郎との間に、次第に繕いがたい
釁隙
(
きんげき
)
を生じた。
五月に至って勝三郎は房州へ転地することを思い立ったが、出発に臨んで自分の去った
後
(
のち
)
における杵勝分派の前途を気遣った。そして分派の永続を保証すべき男女名取の盟約書を作らせようとした。勝久の世話をしている女名取の間には、これを作るに何の故障もなかった。しかし勝四郎を
領袖
(
りょうしゅう
)
としている男名取らは、先ず師匠の
怒
(
いかり
)
が解けて、師匠と勝四郎との
交
(
まじわり
)
が昔の如き和熟を見るに至るまでは、盟約書に調印することは出来ぬといった。この時勝久は病める師匠の心を
安
(
やす
)
んずるには、男女名取総員の盟約を完成するに
若
(
し
)
くはないと思って、師家と男名取らとの間に往来して調停に努力した。
しかし勝三郎は遂に釈然たるに至らなかった。六月十六日に勝久が馬喰町の家元を
訪
(
と
)
うて、重ねて勝四郎のために請う所があったとき、勝三郎は涙を流して
怒
(
いか
)
り、「
小母
(
おば
)
さんはどこまでこの病人に
忤
(
さから
)
う気ですか」といった。勝久は
此
(
ここ
)
に至って
復
(
また
)
奈何
(
いかん
)
ともすることが出来なかった。
六月二十五日の朝、勝三郎は
霊岸島
(
れいがんじま
)
から舟に乗って房州へ立った。妻みつが同行した。即ち杵勝分派のものが女師匠と呼んでいる人である。見送の人々は勝三郎の姉ふさ、いそ、てる、勝久、勝ふみ、
藤二郎
(
とうじろう
)
、それに師匠の家にいる
兼
(
かね
)
さんという男、
上総屋
(
かずさや
)
の親方、以上八人であった。勝三郎の姉ふさは後に、日本橋浜町一丁目に二世勝三郎の建てた隠居所に住んで、独身で暮しているので、杵勝分派に浜町の師匠と呼ばれている人である。
この桟橋の
別
(
わかれ
)
には何となく
落寞
(
らくばく
)
の感があった。病み衰えた勝三郎は
終
(
つい
)
に男名取総員の和熟を見るに及ばずして東京を去った。そしてそれが再び帰らぬ旅路であった。
勝久は家元を送って四日の後に病に
臥
(
ふ
)
した。七月八日には女師匠が房州から帰って、勝久の病を問うた。十二日に勝久は馬喰町と浜町とへ留守見舞の使を
遣
(
や
)
って、勝三郎の房州から鎌倉へ
遷
(
うつ
)
ったことを聞いた。
九月十一日は
小雨
(
こさめ
)
の降る日であった。鎌倉から勝三郎の病が
革
(
すみやか
)
だと報じて来た。勝久は腰部の
拘攣
(
こうれん
)
のために、寝がえりだに出来ず、便所に往くにも、人に抱かれて往っていた。そこへこの報が来たので、勝久はしばらく
戦慄
(
せんりつ
)
して
已
(
や
)
まなかった。しかし勝久は自ら励まして常に親しくしている勝ふみを呼びに遣った。介抱かたがた同行することを求めたのであった。二人は新橋から汽車に乗って、鎌倉へ往った。勝三郎はこの
夕
(
ゆうべ
)
に世を去った。年は三十八であった。
法諡
(
ほうし
)
を
蓮生院薫誉智才信士
(
れんしょういんくんよちさいしんし
)
という。
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