その百十六
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百十六
勝久が本所松井町福島某の地所に、今の居宅を構えた時に、師匠勝三郎は喜んで、歌を詠じて自ら書し、表装して
貽
(
おく
)
った。勝久はこの歌に本づいて歌曲「
松
(
まつ
)
の
栄
(
さかえ
)
」を作り、両国
井生村楼
(
いぶむらろう
)
で新曲開きをした。勝三郎を始として、杵屋一派の名流が集まった。曲は
奉書摺
(
ほうしょずり
)
の本に
為立
(
した
)
てて
客
(
かく
)
に
頒
(
わか
)
たれた。
緒余
(
しょよ
)
に『四つの海』を著した抽斎が好尚の一面は、図らずもその
女
(
じょ
)
陸
(
くが
)
に
藉
(
よ
)
って
此
(
かく
)
の如き発展を遂げたのである。これは明治二十七年十二月で、勝久が四十八歳の時であった。
勝三郎は
尋
(
つい
)
で明治二十九年二月五日に歿した。年は七十七であった。
法諡
(
ほうし
)
を
花菱院照誉東成信士
(
かりょういんしょうよとうせいしんし
)
という。東成はその
諱
(
いみな
)
である。墓は浅草
蔵前
(
くらまえ
)
西福寺
(
さいふくじ
)
内
真行院
(
しんぎょういん
)
にある。
原
(
たず
)
ぬるに長唄杵屋の一派は俳優中村勘五郎から出て、その宗家は
世
(
よよ
)
喜三郎また六左衛門と称し現に日本橋
坂本町
(
さかもとちょう
)
十八番地にあって
名跡
(
みょうせき
)
を伝えている。いわゆる
植木店
(
うえきだな
)
の
家元
(
いえもと
)
である。三世喜三郎の三男杵屋六三郎が分派をなし、その門に初代佐吉があり、初代佐吉の門に
和吉
(
わきち
)
があり、和吉の
後
(
のち
)
を初代勝五郎が
襲
(
つ
)
ぎ、初代勝五郎の後を初代勝三郎が襲いだ。この勝三郎は終生名を
更
(
あらた
)
めずにいて、勝五郎の称は門人をして襲がしめた。次が二世勝三郎東成で、
小字
(
おさなな
)
を
小三郎
(
こさぶろう
)
といった。即ち勝久の師匠である。
二世勝三郎には子女
各
(
おのおの
)
一人
(
いちにん
)
があって、姉をふさといい、弟を
金次郎
(
きんじろう
)
といった。金次郎は「
己
(
おれ
)
は芸人なんぞにはならない」といって、学校にばかり通っていた。二世勝三郎は
終
(
おわり
)
に臨んで子らに
遺言
(
ゆいごん
)
し、勝久を
小母
(
おば
)
と呼んで、
後事
(
こうじ
)
を相談するが
好
(
よ
)
いといったそうである。
二世勝三郎の馬喰町の家は、長女ふさに壻を迎えて継がせることになった。壻は
新宿
(
しんじゅく
)
の
岩松
(
いわまつ
)
というもので、養父の
小字
(
おさなな
)
小三郎を襲ぎ、中村楼で
名弘
(
なびろめ
)
の会を催した。いまだ
幾
(
いくば
)
くならぬに、小三郎は養父の小字を
名告
(
なの
)
ることを
屑
(
いさぎよ
)
しとせず、三世勝三郎たらんことを欲した。しかし先代勝三郎の門人は杵勝同窓会を組織していて、技芸の小三郎より優れているものが多い。それゆえ襲名の事は
輒
(
たやす
)
く認容せられなかった。小三郎は遂に
葛藤
(
かっとう
)
を生じて離縁せられた。
是
(
ここ
)
において二世勝三郎の長男金次郎は、父の遺業を継がなくてはならぬことになった。金次郎は
親戚
(
しんせき
)
と父の門人らとに強要せられて退学し、好まぬ三味線を手に取って、杵勝分派諸老輩の
鞭策
(
べんさく
)
の下に、いやいやながら腕を
磨
(
みが
)
いた。
金次郎は遂に三世勝三郎となった。初めこの勝三郎は学校教育が
累
(
るい
)
をなし、目に
丁字
(
ていじ
)
なき
儕輩
(
せいはい
)
の忌む所となって、杵勝同窓会幹事の
一人
(
いちにん
)
たる勝久の如きは、前途のために手に汗を握ること
数
(
しばしば
)
であったが、
固
(
もと
)
より
些
(
ちと
)
の学問が技芸を妨げるはずはないので、次第に家元たる声価も定まり、羽翼も成った。
明治三十六年勝久が五十七歳になった時の事である。三世勝三郎が鎌倉に
病臥
(
びょうが
)
しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。
居
(
しゅうきょ
)
は
海光山
(
かいこうざん
)
長谷寺
(
ちょうこくじ
)
の座敷である。勝三郎は病がとかく
佳候
(
かこう
)
を呈せなかったが、当時なお杖に
扶
(
たす
)
けられて
寺門
(
じもん
)
を
出
(
い
)
で、勝久らに近傍の故蹟を見せることが出来た。勝久は遊覧の記を作って、
病牀
(
びょうしょう
)
の
慰草
(
なぐさみぐさ
)
にもといって
遣
(
おく
)
った。雑誌『道楽世界』に、杵屋勝久は学者だと書いたのは、この頃の事である。三月三日に勝三郎は病のいまだ
(
い
)
えざるに東京に還った。
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