その百十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百十四
稲葉の未亡人の
詞
(
ことば
)
を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを
憚
(
はばか
)
ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の
許
(
もと
)
に往って相談した。五百は
思
(
おもい
)
の
外
(
ほか
)
容易
(
たやす
)
く許した。
陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、
公
(
おおやけ
)
に
稟
(
もう
)
して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の
店
(
たな
)
に、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。
この亀沢町の家の隣には、
吉野
(
よしの
)
という
象牙
(
ぞうげ
)
職の老夫婦が住んでいた。
主人
(
あるじ
)
は町内の
若
(
わか
)
い
衆頭
(
しゅがしら
)
で、
世馴
(
よな
)
れた、
侠気
(
きょうき
)
のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお
指図
(
さしず
)
をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の
揚戸
(
あげど
)
を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。
吉野の家には二人の
女
(
むすめ
)
があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋
大坂町
(
おおさかまち
)
十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。
吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる
愛敬
(
あいきょう
)
商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、
忽
(
たちま
)
ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の
詞
(
ことば
)
の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、
八百屋
(
やおや
)
、
肴屋
(
さかなや
)
にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその
辞
(
ことば
)
を
紆曲
(
うきょく
)
にして
直
(
ただち
)
に相手を
斥
(
さ
)
して呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも
檀那
(
だんな
)
といい、お
上
(
かみ
)
さんといわなくてはならない。それがどうも口に
出憎
(
でにく
)
いのであった。或時吉野の主人が「好く気を附けて、人に高ぶるなんぞといわれないようになさいよ」と忠告すると、勝久は急所を刺されたように感じたそうである。
しかし勝久の業は予期したよりも繁昌した。いまだ幾ばくもあらぬに、弟子の
数
(
かず
)
は八十人を
踰
(
こ
)
えた。それに上流の家々に招かれることが
漸
(
ようや
)
く多く、後には
殆
(
ほとん
)
ど毎日のように、昼の稽古を終ってから、諸方の邸へ車を
馳
(
は
)
せることになった。
最も
数
(
しばしば
)
往ったのはほど近い藤堂家である。この邸では家族の人々の誕生日、その外種々の
祝日
(
いわいび
)
に、必ず勝久を呼ぶことになっている。
藤堂家に次いでは、細川、津軽、稲葉、前田、伊達、牧野、小笠原、黒田、本多の諸家で、勝久は
贔屓
(
ひいき
)
になっている。
その百十四
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||