その百九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||
その百九
抽斎歿後の第二十八年は明治十九年である。保は静岡
安西
(
あんざい
)
一丁目
南裏町
(
みなみうらまち
)
十五番地に移り住んだ。私立静岡英学校の教頭になったからである。校主は
藤波甚助
(
ふじなみじんすけ
)
という人で、
雇
(
やとい
)
外国人にはカッシデエ夫妻、カッキング夫人等がいた。当時の生徒で、今名を知られているものは
山路愛山
(
やまじあいざん
)
さんである。通称は
弥吉
(
やきち
)
、浅草
堀田原
(
ほったはら
)
、後には
鳥越
(
とりごえ
)
に住んだ幕府の天文
方
(
かた
)
山路氏の
裔
(
えい
)
で、
元治
(
げんじ
)
元年に生れた。この年二十三歳であった。
十月十五日に保は旧幕臣静岡県士族
佐野常三郎
(
さのつねさぶろう
)
の
女
(
じょ
)
松を
娶
(
めと
)
った。戸籍名は
一
(
いち
)
である。保は三十歳、松は明治二年正月十六日
生
(
うまれ
)
であるから十八歳であった。
小野
富穀
(
ふこく
)
の子道悦が、この年八月に
虎列拉
(
コレラ
)
を病んで歿した。道悦は天保七年八月
朔
(
ついたち
)
に生れた。
経書
(
けいしょ
)
を
萩原楽亭
(
はぎわららくてい
)
に、筆札を平井東堂に、医術を多紀
庭
(
さいてい
)
と伊沢柏軒とに学んだ。父と共に仕えて表医者
奥通
(
おくどおり
)
に至り、明治三年に弘前において藩学の小学教授に任ぜられ、同じ年に家督相続をした。小学教授とは
素読
(
そどく
)
の師をいうのである。しかし保が助教授になっていたのは藩学の儒学部で、道悦が小学教授になっていたのはその医学部である。道悦も父祖に似て貨殖に長じていたが、終生
主
(
おも
)
に
守成
(
しゅせい
)
を事としていた。然るに明治十一、二年の
交
(
こう
)
、道悦が松田
道夫
(
どうふ
)
の
下
(
もと
)
にあって、金沢裁判所の書記をしていると、その留守に
妻
(
さい
)
が東京にあって投機のために多く金を失った。その
後
(
のち
)
道悦は保が
重野
(
しげの
)
成斎に紹介して、修史局の雇員にしてもらうことが出来た。子道太郎は時事新報社の文選をしていたが、父に
先
(
さきだ
)
って死んだ。
尺振八
(
せきしんぱち
)
もまたこの年十一月二十八日に歿した。年は四十八であった。
抽斎歿後の第二十九年は明治二十年である。保は一月二十七日に静岡で発行している『東海
暁鐘
(
ぎょうしょう
)
新報』の主筆になった。英学校の職は
故
(
もと
)
の如くである。『暁鐘新報』は自由党の機関で、
前島豊太郎
(
まえじまとよたろう
)
という人を社主としていた。五年
前
(
ぜん
)
に禁獄三年、罰金九百円に処せられて、世の
耳目
(
じもく
)
を
驚
(
おどろか
)
した人で、天保六年の
生
(
うまれ
)
であるから、五十三歳になっていた。次で保は七月一日に静岡高等
英華
(
えいか
)
学校に
聘
(
へい
)
せられ、九月十五日にまた静岡文武館の
嘱託
(
ぞくたく
)
を受けて、英語を生徒に授けた。
抽斎歿後の第三十年は明治二十一年である。一月に『東海暁鐘新報』は改題して東海の二字を除いた。同じ月に
中江兆民
(
なかえちょうみん
)
が静岡を過ぎて保を
訪
(
と
)
うた。兆民は前年の暮に保安条例に
依
(
よ
)
って東京を
逐
(
お
)
われ、大阪
東雲
(
しののめ
)
新聞社の聘に応じて西下する途次、静岡には来たのである。六月三十日に保の長男
三吉
(
さんきち
)
が生れた。八月十日に私立渋江塾を
鷹匠町
(
たかじょうまち
)
二丁目に設くることを認可せられた。
脩
(
おさむ
)
は七月に東京から保の家に来て、静岡警察署内巡査講習所の英語教師を嘱託せられ、次で保と共に渋江塾を創設した。これより
先
(
さき
)
脩は渋江氏に復籍していた。
脩は渋江塾の設けられた時妻さだを娶った。静岡の人福島竹次郎の長女で、県下
駿河国
(
するがのくに
)
安倍郡
(
あべごおり
)
豊田村
(
とよだむら
)
曲金
(
まがりがね
)
の素封家
海野寿作
(
うんのじゅさく
)
の
娘分
(
むすめぶん
)
である。脩は三十五歳、さだは明治二年八月九日生であるから二十歳であった。
この年九月十五日に、保の
許
(
もと
)
に匿名の書が届いた。日を期して決闘を求むる書である。その文体書風が
悪作劇
(
いたずら
)
とも見えぬので、保は多少の
心構
(
こころがまえ
)
をしてその日を待った。静岡の市中ではこの事を聞き伝えて種々の
噂
(
うわさ
)
が立った。さてその日になると、早朝に
前田五門
(
まえだごもん
)
が保の家に来て
助力
(
じょりき
)
をしようと申し込んだ。五門は
本
(
もと
)
五左衛門
(
ござえもん
)
と称して、
世禄
(
せいろく
)
五百七十二石を
食
(
は
)
み、
下谷
(
したや
)
新橋脇
(
あたらしばしわき
)
に住んでいた旧幕臣である。明治十五年に保が三河国
国府
(
こふ
)
を去って入京しようとした時、五門は懇親会において保と相識になった。初め
函右日報
(
かんゆうにっぽう
)
社主で、今『
大務
(
たいむ
)
新聞』顧問になっている。保は五門と
倶
(
とも
)
に終日匿名の敵を待ったが、敵は遂に来なかった。五門は後明治三十八年二月二十三日に歿した。天保六年の生であるから、年を
享
(
う
)
くること七十一であった。
その百九
渋江抽斎 (Shibue Chusai) | ||