University of Virginia Library

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十三
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十三

 雨は土砂降りになつた樣子だ。

 樋をつたふ雨聲が瀧のやうに激しくなり、ゆき子はふつとまた現實に呼び戻される。くさくさして、仲々寢つかれない。佛印での華やかな思ひ出が、走馬燈のやうに頭のなかに浮きつ沈みつしてゐる。夜更けてずんと冷えて來たせゐか、一枚の蒲團だけでは寒くて寢つかれなかつた。泥のやうに疲れてゐながら、露營をしてゐるやうな落ちつきのなさである。誰も力になつてくれるものゝない抵抗しやうのない淋しさで、暗がりに眼を開いたまゝ、ゆき子はじつと激しい雨の音に耳をかたむけてゐた。伊庭がこの家にゐなかつた事は倖であつた。もう一度、昔のむしかへしはないけれども、伊庭との間に四ケ年の月日の空間を置い事は、ゆき子にとつて有難いのであつた。誰も顔見知りのないところで、ごろりと寢轉んでゐる。ゆき子には佛印でそんな習慣には馴れきつてゐた。海防の收容所では、篠原春子とも逢はなかつたし、春子の樣子を知つてゐる女達とは誰にも逢ふ機會がなかつた。加野は終戰前にサイゴンの憲兵隊へ連れて行かれたまゝだつたし、最後までゐた富岡は、幸運にも、五月の船でゆき子より一足さきに内地へ引揚げて行つた。五月から今日まで、富岡の心が、どんな風に變つてゐるかは判らなかつたが、逢ひさへすれば、二人の間は解決するのだと、ゆき子は自信を持つてゐた。自信を持つ事が氣が樂だつたせゐもある。

 その翌日、雨は霽れてゐた。からりとした初冬の空が、雨あがりの濕氣を吹きはらつてゐた。荒れた狹い庭の柿の木には霜を置いたやうな小粒な澁柿がいくつか實つてゐた。柿の木が大きくそだつてゐる事に、四年の歳月があつたのだとゆき子はうなづいた。同居人の細君は、眞黒い麥飯だけれど召し上つて下さいと云つて、朝の卓にゆき子を呼んでくれた。主人公は夜明けに早く出て行つた樣子だつたが、細君の話では、信州へリンゴを買ひに行つたのだと云つた。郷里が信州なので、このごろリンゴのブロォカーを始めたのだが、早晩、果實の統制がはづれる樣子だから、靜岡へ鹽を買ひに行つて、鹽を信州へ持つてゆき、信州から味噌を持つて來てみようかと思ふとも云つた。

「伊庭さんとの間がうまくいつてましたら、伊庭さんにお世話願つて、鹽を手に入れたいのですけれど、何しろ、うちのひとゝきたら伊庭さんにいゝ氣持ち持つてませんのでね。何處か、鹽を賣つてくれる處、御ぞんじぢやありません?」

 ゆき子は一向にそんなところは知らなかつた。食卓には八ツの男の子を頭に、七ツの女の子と三ツの男の子と赤ん坊がゐる。主人の末弟が同居してゐるのだが、今日は二人でリンゴを取りに行つたのださうだ。

 ゆき子は何でもして働く氣持ちもないではなかつたが、富岡に逢つてから方針をきめたいと思つた。伊庭の荷物のある部屋でよければ當分ゐてもいゝと細君が云つてくれたので、ゆき子は吻つとして、その好意に感謝した。――以前の職場に戻れるものかどうかもいまのところは判然りとはしない。かへつてゆき子は、以前の職場へ戻りたい氣は少しもないのであつた。朝食後、細君に教はつて、近所の酒の配給所に電話を借りに行つた。農林省の富岡のデスクに電話を掛けてみたが、女の聲で、富岡といふ人は省をやめてしまつてゐると教へてくれた。ゆき子は思ひ切つて、上大崎の富岡のアドレスを頼りに尋ねてみる氣になり、出むいて行つた。目黒の驛を降りて、切通しの下を省線の走つてゐる道添ひに、人に聞きながら歩いて行つた。伏見之宮邸の前を通り、燒け殘つた邸町を、番地を頼りに歩いた。電車で見る窓外の景色は大半が燒け野原で、何も彼も以前の姿は崩れ果てゝしまつてゐるやうな氣がした。やつとその番地を探しあてゝ富岡の名刺の張りつけてある玄關を眼の前にして、ゆき子は妙に氣おくれがしてならなかつた。同居してゐるらしく、別の名札が二つばかり出てゐた。荒れ果てた家でどの硝子にも細いテープでつぎたしてあつた。夜來の雨で洗はれた矢竹が、箒のやうに、こはれた板塀に凭れかゝつてゐる。細君に顔をあはせるのが厭であつたが、電報を打つても返事も來ないところをみると、自分で尋ねてゆくより方法がない。ゆき子は思ひ切つて硝子のはまつた格子戸を開け、農林省からの使ひだと案内を乞ふた。五十年配の品のいゝ老婦人が出て來て、すぐ奥へ引つこんだが、思ひがけなく着物姿の脊の高い富岡がのつそり玄關へ出て來た。富岡はさほど驚いた樣子もなく、下駄をつゝかけて外へ出ると、默つてゆつくり歩き出した。ゆき子も後を追つた。知らない小道をいくつか曲つて、燒跡の續いた淋しい通りへ出ると、富岡は初めて、ゆき子を振り返つて、

「元氣だね」と云つた。

「電報、御覽になつて」

「あゝ」

「何故、返事くれないの?」

「どうせ、東京へ出て來ると思つた」

「お勤めは、おやめになつてるのね?」

「七月にやめた」

「いま、何をしてるの?」

「親父の仕事を手傳つてる‥‥」

「さつきの方、お母さま?」

「うん」

「よく似ていらつしたから、さうぢやないかと思つたわ」

「君、何處にゐるの?」

「鷺の宮の親類の家‥‥」

「君、こゝで一寸待つてるかい?」

「えゝ、待つてゐます」

 富岡は支度をして來ると云つて、もと來た道へ引返して行つた。紺飛白の着物を着た後姿に、人が違つてしまつたやうな妙な氣配が感じられた。ゆき子は燒跡の石塀のこはれたのに腰をかけて、暫く寒い風に吹かれてゐた。黒いサージの洋袴に、同居の細君に借りて來たブルウの疲れたジャケツ姿の自分が、ひどく荒凉としたその景色にしつくりしてゐた。危險な訪問だつたと、今頃になつて顔が火照つて來た。

 三十分も待つた頃、富岡が洋服姿でやつて來た。幾分かは昔のおもかげがあつたけれども、疲れた冬服のせゐか、ダラットで見た頃の若々しさが失はれて、何となく、くすぼつて見えた。ひどく痩せてもゐた。石塀の崩れた處へ腰を降ろしてゐるゆき子を、遠くから眺めて、富岡は、何の感動もなかつた。舞臺がすつかり變つてしまつてゐるこの廢墟では、ダラットでの夢をもう一度くりかへしてみたいといふ氣はしなかつた。苛ら立つた心をおさへて、もう終末の來る斷定だけで、富岡はゆき子のそばへ歩み寄つた。鸚鵡のやうにもう一度、

「元氣だね」と云つた。

「えゝ、あなたに逢ひたい一念で戻つたのですもの、元氣でなくちや」

 ゆき子は念を押すやうにして、まぶしさうに下から富岡をしみじみと眺めた。富岡は唇に微笑を浮べて、返事もしなかつた。別れるといふ斷定が、二人の間に狹まつてゐるのを、引揚げたばかりのゆき子には見えないに違ひない。電報を見て以來、富岡はあまりいゝ氣持ちはしてゐなかつたが、それでも責任だけは果さなければなるまいと考へてゐた。あんまり惡黨だと思はれないうちにとも考へてゐたが、現實にゆき子に逢つてみると、そんな考へもいまは必要ではなく、あつさり、今夜一晩で別れられるやうな決斷力が出た。「何處へ行くかね?」ゆき子に聞いてみたが、ゆき子は何處も知る筈がない。このごろ、池袋に小さい旅館が出來てゐると誰かに聞いてゐたのを思ひ出して、富岡は池袋へ行つた。煎餅のやうな生木の薄いバラック旅館が、いくつも建ちかけてゐた。気儘放題に家が建ち竝んでゐる。市場あり小料理屋あり。ひしめきあつてゐる急速の混雜状態が、かへつて女を連れてかくれるには、かつかうの市街であつた。看板だけはホテルと名のついてゐる、木造の小さい旅館に、富岡は硝子戸を開けて這入つて行つた。髮ふり亂した蒼い顔の女が、チュウインガムをくちやくちややりながら、靴をはいてゐたが、ろくろく紐も結ばずに、扉に躯をぶつゝけるやうに戸外へ出て行つた。ゆき子は寒々とした氣になつてゐる。――二人が案内された部屋は、市場が眞下に見える二階の四疊半だつた。疊は汚れ、點々と煙草の燒け跡があつた。床の間も何もない。緑色の壁には幾つも引つかいた筋がついてゐた。部屋の隅に汚れた赤い無地の蒲團が、二枚積み重ねてあつた。その蒲團の上に、覆ひのない枕のサラサは油でべとべとに光つてゐた。

 富岡は金を出して、ワンタンと酒を注文した。卓子も火鉢もないがらんとした部屋では、二人とも取りつきばもないのだ。富岡は壁に凭れて、長い膝小僧を抱いた。ゆき子は蒲團に片肘ついて横坐りになると、ジャケツの胸の上から大きなまるい乳房を、叩くやうにして掻いてゐる。

「世の中つて、こんなに變つてるとは思はなかつたわ」

「敗戰だもの、變らないのがどうかしてるさ‥‥」

「さうね‥‥。あゝ、でも、私、とつても、あなたに逢ひたかつたのよ。あなた、いやに冷いのね。引揚げて來たものなンか、もう同情しないンでせう?」

「馬鹿云つちやアいけない。俺だつて引揚げだよ。君ばかりぢやない。澤山俺達のやうなのはゐる」

 何もさう、引揚げだからと、自分だけが偉いもののやうに、氣負つてゐる云ひかたをするゆき子の無作法なのが、富岡にはあまりいゝ氣持ちではなかつた。いきなり泥水のなかへ寢轉んで動かうともしないゆき子の馴々しさが、富岡にはなじめない。ゆき子は、激しい男の感情を待つてゐた。誰も見てゐない、たつた二人きりのこの圍ひのなかで、最初に逢つた時のやうなよそよそしさでゐる富岡の心が判らなかつた。ダラットでの二人きりの理解はこんなに時がたてば儚いものだつたのだらうか‥‥。些細な事にはこだはつてはゐられない、荒波のしぶきに鍛へられて、ゆき子は大膽ににじり寄つて、富岡の膝小僧にあごをすゑた。

「どうして、そんなに知らないふりしてるの?」

「何を?‥‥」

「私が、厭なのでせう?」

「何を云つてるンだい。女つて呑氣だね‥‥」

「呑氣ぢやないわ。私、捨てられるンだつたら、こんなにして戻つて來ない、加野さんと一緒に戻つて來たわ。――私、判つたのよ、富岡さんの氣持ちが‥‥」

「馬鹿な事を云ふもンぢやない。加野は加野だ。君があんな風にしむけた罪があるンだ。女は誰にでも尻尾を振つてゆく氣があるンだ。あんな處では、女は無上の天國だからね‥‥。誰にも愛されるのは、女にとつて、いゝ氣持ちだらう‥‥」

「まア‥‥。今頃、そんな事言つて、厭! 急にそんな事言つて、私をいじめるのでせう。もう、私に愛情もないンぢやありませんか‥‥。いゝわ、私だつて、さつき、こゝの玄關で見た女みたいになつてみせるわ。もう誰にも遠慮しないで、私はどろどろにおつこちて行きます‥‥」

「そんなにヒステリックになるもンぢやない。俺だつて、内地へ戻れば、ダラットの時のやうな、責任のない暮しは出來ないよ。只、ダラットの生活の續きを内地で持たうといふ事は無理だと云ひたかつたンだ。君の生活に就いても大いに力になつてあげようし、俺だつて、その位の責任は持つ氣だよ」

「どんな責任?」