浮雲 (Ukigumo) | ||
二十八
石の階段を降りて、射的やカフヱーの竝んでゐる、狹い町へ出て行つた。毛皮の外套を着た女が、土産物屋をひやかしてゐる。富岡は袍褞だけでは寒かつたが、がまんをして時計屋を探した。バスの發着場のそばに、バーのやうなものがあり、頬紅を眞紅につけた女が、富岡に、「お兄さん寄つていらつしやいよ」と云つた。こんな女に聞いてみるのもいゝと、富岡はつかつかと女のそばへ寄つて行き、狹いバーの中へ這入つて行つた。バラックにペンキを塗つたゞけの鳥小舍のやうな家の中であつた。富岡は、寒いので酒を注文した。女は瀬戸の火鉢を奥からかゝへて來て、富岡に股火鉢をすゝめてくれた。
「ねえ、君は、此の土地の人かい?」
「近くなンです‥‥」
「伊香保つて、古い町かと思つたら、案外新しい町だね‥‥」
「大火があつたさうで、こんな町になつたンでせう? 昔はよかつたンですつてね‥‥」
烏が馬鹿に啼きたてゝゐた。熱い酒をコップにあけて、富岡はぐうつと一息に飮み干して、金を拂ひ、女に時計屋はないかと聞いた。女は奥へ行つて聞いて來ませうと奥へ行きかけたので、富岡は腕時計をはづして、これを持つて行つて聞いてみてくれと云つた。軈て、奥から、小柄な頭の禿げた亭主らしい男が出て來た。
「旦那、いくら位なら、手放しなさるンで‥‥」
富岡は亭主らしい男が、わざわざ出て來たので、きまり惡さうに二三日前に伊香保へ女を連れて來て、つい、伊香保が氣に入り、一泊のつもりが、今日まで滯在したのだが、勘定が少々足りなくなつたので、それを賣りたいのだと話した。
「本當は、賣りたくないンでね。‥‥誰か、これをかたに、取りに來るまで預つてくれる家があるといゝンだがね‥‥」と云つた。
「いゝ時計ですね」
「あゝ、南方で買つたンだ‥‥」
「ほう‥‥南方、旦那は南方の何處へおいでなすつたンですか?」
「佛印に行つてゐたがね‥‥」
「あゝ、さうですかい。自分もね、海軍で南ボルネオのバンジャルマシンつてところに行つてましてね。去年引揚げて來たンでさア‥‥」
「ほう、南ボルネオ‥‥。大變でしたね。あすこは、海軍地區でしたかね?」
「えゝ、さうです‥‥。淋しい處でしてね。それでも、土地の人氣はいい處でしたね。あの土地で、この時計をいつぺん見た事があるンで、いゝ時計だなと思つたンですよ。――いつたい、どの位なら、放しなさるンですかね?」
「何處か、賣れ口でも、心當りがありますか?」
「いや、自分がほしいンですよ。いつぺんはこんな時計がほしいと考へてゐたンです。シーマアか、エルジンあたりでもいゝなンて思つて、いまだにそんな時計を持つた事がないンでね。先日も、バルカンと云ふのを見ましたが、どうも、古い型なので、氣に入らなかつたンですよ。――こんなスマートぢやないンで、もし値段の折れあひがつけば、ゆづつて下さいよ」
「そんなにほしいのなら、ゆづつてもいゝんだが、貴方の方で云つて下さい。僕はどうも‥‥」
「さア、私も商賣人ぢやないし‥‥一本ではいけませんか?」
「一本? 一萬圓ですか?」
「えゝ、それで、如何ですかね、時計屋へ持つていらつしても、足もとを見られて、五千圓位のものだと思ひますがね‥‥」
富岡は、それもさうだと思つた。このあたりの知らない店に持つて行けば、五千圓もあぶないかも知れないと思つてはゐたのだ。亭主は、女にいひつけて、酒を持つて來させると、富岡の卓子の横へ來て電氣をつけると、自分の腕へ時計をはめて、ためつすがめつ眺めて、時計を耳へあてゝ暫く音を聞いてゐた。
「仲々いゝ音ですな。固い、いゝ音だ」
「それは、帶革をかへるといゝですよ」
「いや、まだ、いゝでせう‥‥。この帶皮も氣に入りましたよ。日本出來ぢやア、こんな柔いいいのはありません」
女が酒を運んで來た。亭主は、奥へ引つこんで、暫く出て來なかつたが、軈て下駄を引きずるやうにして、笑ひながら、「かきあつめるやうにして、全財産ですよ」と、卓子に十枚づゝの百圓札を十字に重ねて行つた。
「佛印は、ボルネオと違つていゝ處ださうですね。旦那は兵隊ですか?」
「いや、官吏で行つたンです。農林省に勤めてゐましたからね‥‥」
「ほう、お役人でね」
亭主は、初め、女給がオメガを持つて奥へ來たので、帳場から、富岡の人品を眺めて、盗品ではないかと思つたと笑つて云つた。
「澤山の人を見る商賣ですから、此の眼に狂ひはありません‥‥。自分は貴方を繪描きぢやないかと見たンですが、お役人とは思はなかつたな‥‥」
亭主も少し酒を飮んだ。バスの發着ごとに、小舍のやうな家はゆれた。富岡は札束をふところに入れて、名刺入れから、名刺を出して、亭主に出した。
「ほゝう、材木の方をおやりになつてゐるンですか?」
「役人をやめて、友人の仕事を手傳つてゐるンですが、資金關係と、統制で、いまのところ、手も足も出ないンです」
「統制々々、税金々々で、どうも、我々の仕事はうまく滑り出す事が出來ません。みすみす、いい客がはいつても、ライスカレー一つ出せないンですからね。――何しろ、密告がやかましくて、あぶなくてどうにもならないンです。役人と來ちやア、昔の代官と同じで、全く、子供のガキ大將と同じでさア‥‥。よろこんで働けねえやうにしといて、いじめるンだから、闇がはびこつちまふンですよ‥‥。宿屋ぢやア、米はどうなンです?」
「米がなくちやア泊められないつて云ふンで、家内が、何處かで一升買つて來た樣ですよ‥‥」
「なるほどね。そんなもンですよ。闇米はいくらでも賣つてますからね。わざわざ、伊香保くんだりまで來る客を、追ひ返すみてえな事をして、何の宣傳もありやしません。商人は客に來てほしくても、つまらん統制つて奴が、杓子定規でね。えらい不景氣が來さうですな」
「物より金の時代になりますかね」
「旦那はずつと東京ですか?」
「さうです。幸ひ、家も燒けなかつたンだが、どうにもならなくて、家も賣つちまつた」
「自分は、親の代から、ずつと本所業平にゐたンですが、三月九日の大空襲で、家は燒け、子供は一人死にましたが、日本へ戻つて來てから、その家内とも別れて、いまの女房と、こんなところに家を持つたンです。やつぱり東京へ戻りたくて仕方がねえンでさア。自分は魚屋が本業なンですがね。‥‥いまの家内が、魚屋は厭だつて云ふンで商賣してゐます‥‥」
「おかみさんは、さつきの?」
「えゝ、娘みてえに若いので、どうもお恥しいンですが、自分は、何事も因縁で、これも、一種の前世からのめぐりあひだと思つてゐます。――めぐりあひつてものは、旦那、大切にしなくちやいけねえ、めぐりあひにさからつても仕方のねえ事だと、自分は考へてまさア、運命にさからはねえやうにしております‥‥」
頬紅をこつてりつけた女が、この男の細君なのかと、富岡は妙な氣がした。めぐりあひは大切にしなくちやいけないと云はれた事が、胸にこたへて、ゆき子との關係もめぐりあひには違ひないのだと思へた。
「廣島の大竹港へ着いて、棧橋で、キャメルの袋が落ちてましたが、あの色つてものは綺麗だと思ひましたな。たうとう、敗けたンだと、その煙草の袋で思ひ知りました。戰爭に敗けるのもめぐりあひだ」
「時計を買つて貰ふのも、めぐりあひかな」
富岡は醉つてゐたので、氣持ちが樂になつてゐた。輕い冗談を云ひながら、亭主から煙草を貰つて、一本つけた。烏が馬鹿にさうざうしく啼いてゐる。南京豆を反齒で噛みながら、亭主は、ジャンバアのチャックをまさぐりながら、
「いや、世の中の事は、すべて、氣運つてものがきまつてゐるンですよ。このまゝで日本が戰爭に勝つてゐた日にやア、もつと、ひどいめにあつてゐましたよ。――戰爭つてものは馬鹿々々しいつて知つたゞけでも、大した事でさア‥‥。でも、自分も、これで、ボルネオなんて南の果てまで行つたンだから、これも因縁事だと思はないわけにはゆかないね」
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