University of Virginia Library

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四十四

 夕方になつても雨はいつそう激しくなつた。富岡はそくそくとペンを走らせてゐる。――私のゐたダラット地方の山林事務所管内では、カッチヤ松の出材量は一五、七○○立方米位であつたが、その頃、私達森林官は、軍の命令で、急速開發にかゝり、かなり亂暴な濫伐もやつた。

 その頃の將校の一人々々のおもかげもいまは記憶からうすれて來てゐる。

「ダラットからドユラン、それから、終點の驛は何と云つたかね?」

 突然、富岡がゆき子に聞いた。

 ゆき子は書きものをしてゐるのは、そんな事だつたのかと、急に活々として、ベッドから降りると、

「ツルチャムつて云ふンでせう‥‥」と、云つた。

「あゝ、ツルチャムだ」

 ゆき子は暫く、富岡の机に向つた後姿を眺めてゐた。

「ねえ、マンリンつて部落を覺えてらつしやるかしら‥‥」

「マンリン?」

「もう忘れちやつた?」

「あゝ、安南の陵墓のあつた處だね?」

「えゝ、ダラットから四キロ、林野局の駐在所があつて、欝蒼とした森のなかを初めて歩いたわね」

 ゆき子は、富岡のそばへ行き、机の原稿をのぞきこんだ。

「そんなものを書いて何になさるの?」

「これで金を稼ぐンだ‥‥」

「そんなものがお金になるの?」

 富岡は、ベッドのそばの農業雜誌を取つてきて、ゆき子に渡した。

「これを讀んでごらん‥‥」

 ゆき子は手にとつて、目次を見た。富岡兼吾と云ふ文字が眼にとまつた。すぐ、ぱらぱらと頁をめくり讀んで行つた。

「それで金を貰つたンで氣をよくしたンだ。君に送つた金は、此の原稿料なンだぞ‥‥」

「まア! 貴方が書いたの?」

 バナナや、マンゴスチーンや、ドウリアンの思ひ出話や生態が、くだけた筆で綴られてゐた。

 夜まで、雨風は激しく、窓外はまるでつなみのやうな音をたてゝ樹木が鳴つてゐた。ゆき子が泊ると云ひ出したが、富岡はもう、どうでもいゝ氣持ちだつた。殘りのパンとコオヒイを飮んでゐる時に電氣はぱつと消えてしまつた。

 ローソクの火を机にたてゝ、二人は友人同志のやうな話しぶりで、佛印の思ひ出を語りあつた。時々、二人は喰ひ違ひな事を覺えこんでゐる處もあつたりした。二人とも、その思ひ出によつて、もう一度、激しいあの日の愛情を呼び戻さうと努力しあつてゐるところもある。何時までも電氣はつかなかつた。ローソクの灯も絶えた。仕方なく、二人はベッドに這ひあがつて横たはつた。カーテンのない窓は、時々稻光りで明るく、ざあつと板戸や硝子に吹きつける雨が、波のやうな音をたてた。

 富岡は、また同じ事のむしかへしだと思ひながらも、意固地に寢たまゝの姿でゐた。ゆき子はせつかちに、何かを待ち望んで、マンリンの森の中の話を幾度もくり返してゐる。思ひ出の中から、激しい接吻の味が、むつとゆき子の胸のなかにしびれて來た。だが、富岡は横になつたまゝマンリンの思ひ出の景色なぞにはふみとゞまつてはゐなかつた。耳もとに、幾度も、ゆき子が、マンリン、マンリンとさゝやいてくれても、富岡は、自分の横に、大柄な躯を横たへてゐたおせいの思ひ出しか浮かばないのである。脚を自分の躯の上にどたりと乘つけて、鼻唄をうたつてゐたおせいの最後の顔が、ありありと眼底に浮んだ。

 眼を半眼に開き、舌を出してゐた、と、宿のものに聞いたが、富岡はかいぼうにまはされたおせいの死體は見る事なく終つた。手ごたへのある大柄な躯つきが、ふつとなつかしくなる。もう、あの女は死んで此の世にはゐないのだ‥‥。暗闇の中で、富岡は、咽喉もとに熱いものがこみあげて來た。

「ねえ、ダラットのあのテニスコートの下の、中國人の別莊の庭を覺えてゐる?」

「あゝ」

 富岡は、ダラットだとか、中国人の別莊だとかは、いまではどうでもよくなつてゐた。覺えてゐるならば、その後は貴方が語つてくれと云はぬばかりのゆき子の甘さが、富岡には不快でもあつた。そんな昔の夢はどうでもいゝのだ。そんな夢にすがつてなんかゐられるものか‥‥。それよりも、おせいのがつちりとした、大きな肉躯への思慕で、富岡はふうつと溜息をついた。

 おせいによつて、初めて、本當の女を知つたやうな氣がして、富岡は眼尻の涙のつたふのをおぼえた。

 そつと、胸の上にゆき子の手が這つて來たのを、富岡は掴んでもとへ戻した。

「あら、どうしたの? いけない?」

「うん、今夜は疲れたンだ。ぐつすり眠りたい‥‥」

 ゆき子は手を引つこめて、暫く息をのんで默つてゐた。富岡の氣持ちの變化を察したやうだつたが、まさか、おせいの事を深く考へ耽つてゐるとは思はなかつた。

「ねえ、南の話をしませう‥‥。こんな晩は、何だか、私すぐ眠れないのよ」

「俺は眠いンだよ」

「久しぶりに逢つて、どうして、そんなに冷たいのかしら‥‥。もつと、優しいひとぢやなかつたの‥‥」

 ゆき子は、もう一度、富岡の胸にとりすがつてかきくどいてみた。富岡は、何かで讀んだ、ワイルドの葡萄酒の醸造量と質とを知るには、なにも、一樽あけてみる必要はないのだと云ふ言葉を思ひ出してゐる。むし返しは澤山である。いまのところ、おせい以外の躯を求める氣はしなかつた。咽喉は乾いてはゐないのだ。富岡は何時の間にかぐつすりと眠りこんでゐた。

 暗い水中をくぐり拔けてゐるやうな、不氣味な夢のなかで、富岡はおせいに逢つた。眼を半眼に開いて、舌を長くたらした不氣味な顔だつたが、なんともなまめかしいのである。水中のなかで、すぐ抱きとつてやると、長い脚を自分の胴に卷きつけて、手を首にまはして來た。おせいの冷い舌が頬に觸れた。思はずわあつと聲をたてた。

 富岡は、自分の聲で眼を覺した。

 ゆき子の躯が重くのしかゝつて、濡れた頬を富岡の頬にぴつたりくつゝけてゐる所だつた。