University of Virginia Library

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六十四

 トロッコの機關車へ乘り、運轉手と並んだ富岡は、ごうごうと、ものすごい音をたてゝ狹いレールの上を押し登つて行く、自分の躯が、まるで、宙吊りにあつてゐるやうだつた。眼の下に、晴れて青い安房河が、密林の奥深くへくねくねと光つてゐる。今日出來て來た、胸のポケットの名刺にある、農林技官といふ肩書が、富岡には、なにかおもはゆい。

「君、一服しない?」

 運轉手は、驚いたやうに、富岡を眺めた。眼の下は斷崖絶壁だつた。羊齒に似た、ヘゴといふ植物が富岡には珍しい。ダラットの奥地にもこの羊齒は到るところに繁つてゐた。内地の鬼羊齒に似てゐる。富岡は煙草に火をつけて、ハンドルを握つてゐる運轉手の手に握らせてやつた。

 右手の河底にある、安房の部落が、少しづゝ樹林のなかへ消えて行く。トロッコは空中を走つてゐるやうなものであつた。機關車の後には、四輛ばかりの無蓋トロッコが連結して、その四臺のトロッコには、米俵や、野菜や、郵便や、鹽叺が積み込まれて、山へ行く營林署の樵夫が五六人、寒さうに俵に腰をかけてゐた。登戸もそこに乘つて、大きい聲で話しあつてゐる。

 屋久島の、營林署の管轄になつてゐる土地は、二萬ヘクタール位であつたが、すべて官有林であつた。佛印の個人の私有地にも足りない、狹さだつたが、小さい島であつてみれば、土地なきところに、土地を求めるやうなもので、この狹い二萬ヘクタールも、現在の日本にとつては、得難い寳庫であらう。朝鮮や臺灣や、琉球列島、樺太、滿洲、此の敗戰で、すべてを失つて、胴體だけになつた日本は、いまでは、臺所の隅々までも掘りおこして、大家族を養はなければならないのだ。

「山は寒いだらうね」

「今年は全國的に雪が多かつたさうですが、山も、たいそうな雪で、みんな、珍しいと云つてをります」

「冬支度をして來るンだつたな」

「山へ行かれましたら、着るものはあります」

「君、この島は東西どの位あるのかい?」

「さうです、東西六里、南北三里二十七町、と云つてをりますかな‥‥。鹿兒島から、九十七哩離れてをるさうです。安房の町はぬくいところですが、山の上は、相當寒いです」

 軍隊訛りで、運轉手が説明した。左手の山脈は、眼に沁みるやうな、赤い土肌をしてゐるところがある。相當、トロッコは、山の上に登りつめて來た。吐く息が白い。

 山の上に、暗い廂のやうな雨雲が卷き始めたが、大粒な雨が降つて來た。後をふりむくと、トロッコの連中は、レインコートを被つたり、番傘を擴げたりしてゐる。

 大忠岳へ着いた時は、相當の吹き降りになつた。トロッコの上に天幕を被せる爲に、停車する事になつたが、寒さは相當きびしかつた。――小杉谷へ着いたのは夕方であつたが、山は暗くなり、みぞれのやうなものが降つてゐた。亭々とした杉の大樹が、うつさうと繁り、群落のやうに、斫伐所の小舍があつた。

 富岡は、營林署の事務室に飛び込んで、ストーブにあたつた。登戸に事務室の人達を紹介して貰つた。今日はあひにくと發電所の故障だとかで、天井に、大きいランプが吊してあつた。

 事務官の堺といふ、もう白髮をいたゞいた老人が、「昔は、こゝも、ほとんど朝鮮人勞働者ばかりでしたが、今は全部日本人で、滿洲朝鮮からの引揚げ者に變り、アカハタ新聞が、五部ばかり、此の島へ送つて來るやうになつてをります。こんな島でも、一寸、民主主義になつて、複雜になつて來ました。――世の中は隨分變つたものですな‥‥。聲の高いものほど勢ひがよいのです。我々、老人は、もうこの山の上では、必要ではなくなりました。富岡技師も、まづ、木を伐るよりも、辯論家にならなければ駄目ですな」

 堺老人は、笑ひながら、さう云つて、富岡から煙草を一本貰つて、爐の火をつけた。硝子戸は、暗くなつて來た。ひくい廂には氷柱のさがつてゐるところもある。