University of Virginia Library

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五十五

 翌朝、二人は晝近くになつて眼を覺ました。富岡は、寢床で新聞を讀んでゐた。二月になるのを期して、國鐵のストライキを報じた記事が大きく出てゐた。富岡は、興味もなく、その新聞を枕もとに放り出して、大きなあくびをした。ゆき子は白いカーテンの、汚れた汚點をじいつと見てゐた。富岡はこのまゝあの部屋へ戻つてゆけるのだが、自分は何處へも戻れないのだと思ふと、心細くなり、朝の黄ろい光りを受けて、ゆき子は、自分の手を蒲團から出して眺めてゐた。

 富岡は枕をかゝへ込むやうにして、うつぶせになると、煙草を取つて吸つた。

「何時頃、こゝを出るの?」

「さうだな、二時頃の電車でいゝね」

「どうしても歸る?」

「君は?」

「私は、何處へ歸るのよ?何處へも行くところはないでせう?」

 富岡は、煙草を吸ひ、じいつと、煙草の煙を見てゐた。ゆき子は、伊庭のところへ戻るのは厭であつた。何時でも戻れる氣持ちで出て來たのならば、何も、こんなに富岡にすがりつく必要もないのだ。浮氣ですまして、さつさと伊庭のところへ戻つて行けばいゝ。死ぬ氣はなかつたが、伊庭のところへ戻る氣持ちがないといふ事が、ゆき子には重大であつた。もう、何一つ喋る氣はしない。せめて、もう一日、こゝにゐて貰ひたかつたが、ゆき子は、富岡には、ひそかにあきらめてゐた。今日の別れを、本當の別れにすべきだと思ふと、自然に涙が溢れた。

 富岡は、ゆき子が泣いてゐる事を知つてゐたが、知らないふりをしてゐた。富岡にも、ゆき子の心の中は反射して來た。富岡は煙草を灰皿にもみ消して、ゆき子のそばへ行つて、ゆき子を掻き抱いた。

 昨夜は、妙な醉ひかただつたので、二人はお互ひに喋り散らして眠つたが、やつぱり、その清潔さだけでは、本當の別れを決行する事が出來ない二人でもあつた。

「いま、かうして、二人は、一緒に抱きあつてゐるのに、もう、二三時間もしたら、また、他人よりも始末の惡い別れ方になるのね」

 ゆき子が、淋しさうに、富岡の胸の中で云つた。船醉ひのやうな、佗しい二人であつた。

「君も元氣を出すンだよ」

「えゝ」

「云はないでゐようと思つたが、僕も、いよいよ、また勤めへ戻るンだよ」

「まア!」

「それでね、一週間位したら、任地へ行くつもりだ」

「任地つて、何處?」

「鹿兒島から、船に乘つて行くンだ。屋久島といふ、國境の島だ」

「屋久島、そんなところあるの?」

「そこの營林署に口があるンでね、五六年、あるひは一生、そこへ行つて、山の中で暮すつもりだ‥‥」

 ゆき子は、富岡の肩を抱き締めて泣いた。

「厭よツ! そんな遠いところへ行くなンて‥‥。ぢやア、私も連れて行つてツ」

「さうはゆかない。淋しい島だよ。第一、君は、そんなところで、五六年も暮せる人ぢやない。一年に一度位は東京へ來られるだらうから、その時は、また逢へるが、當分、出來るかどうか判らないが、山の中へ這入つてみたいンだ」

 ゆき子は、呆んやりしてゐた。そのくせ、富岡の後を追つて、屋久島とかへ行くであらう、自分の姿を空想した。

「ねえ、貴方のところにゐた、あの娘と、また、一緒になるンぢやありませんの‥‥」

 ゆき子が、ふつと、聞いた。

「娘?」

「えゝ、貴方の部屋に、可愛い娘が、寢床にはいつてゐましたよ」

「あゝ、あれは、近くの飮み屋の娘だ。不良少女だ」

「かまつたンぢやないの? おせいさんみたいに‥‥」

「馬鹿!」

「一人で、そんな遠いところへ行く、貴方とも思へないけど‥‥」

「一人さ。一人で行くンだよ」

「一人でね。でも、いゝわね。男のひとは、何とか、落ちつくさきがみつかるもンだけど、女つてものは、三界に家なしだから」

「伊庭のところへ歸るさ‥‥」

「それが、私には一番いゝつて思つていらつしやるの?」

「他にどんな方法があるンだい?」

「私は、もう、絶對に伊庭のところへは戻りませんよ。それだつたら、私は、今度の事は、たゞの遊びみたいぢやないの? 馬鹿にしないで下さい。――私は、貴方が一人になつたから、今度こそ、貴方と結婚したいと思つて、思ひつめて逃げて來たンぢやありませんか。そりやア、日本へ戻つて來てから、私も貴方も、いろんな迷ひはありましたよ。やぶれかぶれで、いけない事もあつたけど、二人とも同罪だわ。折角、廣き門の前を通りすぎたのなら、やつぱり、私と貴方は、別々にならないで、狹き門を探して、二人で努力すべきよ。――貴方は、昔の夢をなつかしがつちやいけないつて云ふけど、私と別れて、私を夢の中で見て下さるのは、貴方こそ、ロマンチストで、昔の事を忘れないつて人ぢやない? どうして、一人になつてしまつた貴方が、私と別れようとなさるのか、私には判りませんわ。きらひなら、きらひと、はつきり云つて‥‥。その上で、私は、貴方の云ふとほり、伊庭へ戻るかも知れないし、戻らないかも知れない。――結婚出來ないのが、私には不思議だわ」

 富岡は默つてゐた。おせいの問題が、心の中で、まだ、かたづいてはゐないのだと判然りと云へなかつた。屋久島へ行く事になれば、サラリーをさいて、おせいの亭主の辯護人も頼めるのだ。考へてみるとおせいは、ゆき子と自分の問題の犧牲者でもあるのだ。そこまで判然り云へば、ゆき子が怒り出すのは判つてゐる。あいまいに、自分の氣持ちを流してしまふより方法もない。

 二人は軈て、湯にはいり、遲い朝飯の卓子についた。丁度伊香保の時から、一年目になる、富岡は、鏡臺の前に蹲踞んで、髮をときつけながら、鏡の奥に、眼をすゑて自分を見てゐる、ゆき子のけはしい眼に行きあたつた。

「幸福さうね」

「さうかい」

「私と縁が切れて、せい/\なすつたでせう?」

「さうだね」

「冷い人だつたわ、昔から‥‥」

「僕かい?」

「えゝ、貴方よ。私、いまごろになつて、加野さんが、氣の毒で仕方がないわ」

「なつかしいだらう‥‥」

「えゝ、なつかしい、何故、死んぢやつたのかしら、死んだものが損ね」

「だから、無理しても、生きてた方がいゝンだ」

「これから狹き門を探すンぢや遲いわ」

「遲くはないよ」

「ねえ、お金、十萬圓ばかり持つていらつしやる?」

「十萬圓くれるのかい」

「少ない?」

「いや、惡くはないね」

「二十萬圓でもいゝわ」

「人の金だと思つて、大きい事を云ふね」

「もともと、あぶく錢ですもの‥‥。宗教屋つて、面白いほどはいるンだから‥‥」

「狹き門への入場料だからだらう‥‥」

「さうね‥‥」

 ゆき子が、天袋から、ボストンバッグを引きずり出すと、富岡は、鏡臺に櫛を置いて、

「何もいらないよ。勤めを持つとすれば、何もいらない。君こそ、大切な金だからね」

「どうして、大切なの? 私は、お金なンかいらない‥‥」

「そんな事はない。金が、人間にとつては、一番の味方だ」

「ねえ、貴方が、一人で、屋久島へ行くつて氣持ち、私ちやんと判つてるのよ。あたるか、あたらないか判らないけど、きつとさうなのね‥‥。おせいさんの事が、貴方の胸にまだ引つかゝつてるンでせう? それとも、奥さんの事かしら」

 富岡は床の間を背にして坐つた。女中が、熱い茶を運んで來た。富岡は女中に、電車の時間を聞きにやつた。