浮雲 (Ukigumo) | ||
十七
四日ばかりして、不意に伊庭が上京して來た。
ゆき子は出掛けようとして、路地の出逢頭に、向うからほつほつやつて來る伊庭に會つた時は、初め、伊庭ではなく、伊庭の兄かと思つた。伊庭も吃驚したやうだつた。
「おう、ゆきちやんぢやないか?」
ゆき子は突然だつたので顔を赧めた。
「何時、戻つたンだい? 靜岡へ何故、先に戻つて來ないンだ。やつぱりゆきちやんだつたンだね‥‥」
伊庭は四年も見ないうちに、すつかり老けこんで人相も變つてゐた。
「私がこゝへ來てるの、どうして知つてゝ?」
伊庭は黒い外套の襟を立てゝくるりと、後がへりの姿で、
「家ぢやこみいつた話も出來ないから、何處かで休みながら茶でも飮むか‥‥」
さう云つて、ぴゆうぴゆう寒い風の吹く、からからに乾いた廣い道の方へ出て行つた。ゆき子も、伊庭の疲れたやうな後姿を珍しいものでも見るやうに眺めながら、默つてついて行つた。踏切を渡つて、伊庭は驛へは這入らないで、かまはずに道をまつすぐ行つて、丁度驛からは、はすかひに見える蕎麥屋ののれんをくゞつた。薄暗い家のなかには火の氣もなく、たゝきに竝んでゐる卓子の上は白い埃が浮いてゐた。隅の方に二人は腰をかけてむきあつたが、二人ともあまり寒いので、足をたゝきから浮かせるやうにしてゐた。それに硝子戸の外はこまかい格子だつたので、その一隅は特別薄暗く寒かつた。
「こゝは、蕎麥は出來ませんか?」
伊庭が尋ねた。ガーゼのマスクをした、桃割に結ひたての娘が、蕎麥はまだやかましくて出來ないのだと云つた。こゝで出來るものはと尋ねると、紅茶と、汁粉と、ソーダ水だけだと云つた。この寒いのにソーダ水なンか飮めるものかと、伊庭は、汁粉を二つ、とりあへず注文した。昔ながらの蕎麥屋で、如何にも宿場の食べもの屋の感じである。伊庭はポケットから煙草を出して、一服つけた。一服つけて光の箱をまたポケットへしまひかけると、ゆき子が寒さうに肩をふるはせながら、
「私にも一本吸はせて」と云つた。
「お前、喫むのかい?」
「あんまり寒いから、一寸吸つてみたいのよ。煙を吸ひこんだら、あつたまりさうだから‥‥」
ゆき子は一本唇に咥へて、伊庭にマッチをつけて貰つた。伊庭はうるさい程、いろいろな事を尋ねた。軈て、ズルチン入りのどろりとした汁粉が運ばれた。椀の蓋を取ると、蓋に汗をかいてはゐるが、汁子の色が飴色をしてゐた。團子の小さい塊りが二つ浮いてゐる。
「お前、勝手にうちの荷をほどいたンだつてね?」
伊庭が、うつむいて、汁粉の團子を箸でつまみあげながら云つた。ゆき子は默つてゐた。伊庭と同じやうに團子を箸でつまんで口に入れながら、家の者が密告したのに違ひないと思つた。
「家へ行つて、荷物を調べれば判るンだが、どうして、そんな勝手な眞似をするンだね。金がいるのなら、そのやうに云つてくれゝば何とかするンだよ。それよりも、東京へ戻つて、靜岡へ知らさないと云うのはをかしいね‥‥。或る人から手紙で知らせて來たンだが、大分賣り飛ばしてるつて本當かね?」
伊庭は、消えかけた煙草に火をつけて、すぱすぱと力いつぱい煙草を吸ひながら云つた。ゆき子はいまは、伊庭に對して何の感情もなかつた。
「あんまり、寒かつたンで、お義兄さんとこの荷をほどいて、二三枚拜借したのよ」
「ふうん。賣つたのかい?」
「えゝ、まアね、惡いと思つたけど、燒けた人もあるんだから、その位はいゝと思つて、義兄さん許してくれると思つて、この外套を、そのお金で買つたの」
「どうして、まつさきに靜岡へ戻らないンだ?」
「歸りたくなかつたのよ。それに、一緒に戻つて來た友達もあつたし、これから働く場所も早く探したかつたから、落ちついてから歸るつもりだつたの‥‥」
さう云つて、ゆき子は、手提げから、故郷へ書いた手紙を二通出してみせた。もう、四五日前に書いたまゝ、出し忘れてゐた手紙だつた。
「何と何を賣つたンだ?」
「絽縮緬二枚と、反物が少しあつたから賣つちやつた」
「お前、そんな亂暴な事をしていゝのかね? あつちへ行つて、人柄が變つたね」
ゆき子は默つてゐた。
「銀行をやめて、ずつと田舍で百姓をしてゐたンだが、やつぱり都會で暮したものは、田舍には住みつけない。それで、此の暮にはみんなで出て來るつもりで、荷物を送つておいたンだ。めぼしいものは今いゝ價になるから、そいつを賣つて、商賣のたしにでもするつもりでゐたンだよ。お前、外套は田舍にあづけてある筈ぢやないか?」
「えゝ、だから、あつちの方を賣つて下すつてもいゝわ。私のもの、みんな賣つて貰つてもかまはないわ。私ね。結婚するつもりで、今度、それで先へ東京へ來たンです」
「ほう、何時結婚するンだ?」
「うゝん、それがうまくゆかなかつたの。そつちには奥さんも親もあるンで、日本へ歸つたら、みんな駄目になつちやつたのよ」
「何をする男だ?」
「やつぱり農林省の人で、あつちでは一緒に働いていた人なの。こつちへ戻つて、いまは、材木の方をやつてるつて云つたわ」
「いくつだい?」
「義兄さんよりはずつと若いわ」
「欺されたンだな‥‥」
「いゝえ、欺されたわけぢやないけれど、別れるやうになつちやつたのよ‥‥」
伊庭は、無口でおとなしい娘だつたゆき子が、すつかり人柄が變つてしまつてゐる事が珍しかつた。すつかり大人らしくなつて、云ふ事もはきはきしてゐた。寒いので、ゆき子は紫の風呂敷で頬かぶりしてゐたが、地肌が白いので、その紫が顔に影をつくつてよく似合つてゐた。
「義兄さん、ずつとこれからゐるの?」
「うん、三四日泊つて、一寸、あつちこつち東京の友人も尋ねたり視察したりして、歸るつもりだ。一緒に戻つてもいゝよ」
「荷物はないの?」
「いや、角の産婆さんに預けてあるンだ。産婆さんがお前の事を知らせてくれたンだよ」
「さう‥‥」
二人は蕎麥屋を出たが、別に行くところもないので、伊庭もゆき子も驛の前のこはれた自動電話の箱の前で立ち話をした。
「私はこれから、新宿まで出るから、どうぞ、勝手に調べてみてよ」
ゆき子は惡びれた容子もなく云つた。
伊庭は、寒さうに風のあたらない方へ、背を向けて立つてゐたが、「一緒に行つてみよう」と、ゆき子と竝んで驛へはいつて行き、二枚の切符を買つた。
二人は新宿へ出て行つた。伊庭はゆき子が妙にはきはきしてゐるのが不安だつた。何を考へてゐるのかさつぱり見當がつかない。薄陽の射した天氣だつたが、馬鹿に風の強い日だつた。電車の中も、硝子はあらかたこはれてゐたので、氷の室が走つてゐるやうに寒かつた。
「隨分、やられたものだなァ」
驛々の間の、荒凉とした燒跡に眼をとめて、伊庭はそれでも珍しさうに窓外を見てゐる。
「ね、義兄さん、私、ダンサアになりたいンだけど、私にやれるかしら?」
ふつと、何氣なくゆき子が云つた。伊庭はゆき子の突拍子もない話に驚いたらしく、すぐには返事もしなかつたが、
「タイプの仕事をするのは厭なのかい?」
と聞いた。
「もう、あんな仕事は飽きちやつたわ。サラリーも少ないつて云ふンだし、進駐軍專用のホールだと、とてもいろんな面で收入がいゝつて云ふわね」
「うん、それもさうだらうが、長續きするか、どうかね‥‥」
二人は新宿へ出て、何の目的もないので、暫く歩いて、武藏野館でキュウリイ夫人と云ふ映畫を觀にはいつた。何年ぶりかで、西洋映畫を見る氣がした。ぼろぼろになつた椅子に、二人は竝んで腰をかけたが、映畫館の中もとても寒かつた。荒れ果てゝ昔のおもかげもない、むさくるしい小舍の中で、初めて觀る西洋映畫は、現實からはづれたやうな奇妙な感じだつた。
伊庭は何を考へてか、ゆき子の手を暗がりのなかで握つた。熱い手だつた。ゆき子は厭な氣持ちだつたが我まんして、伊庭に手を握られたまゝにしてゐた。銀色に光るスクリーンの反射で、伊庭の横顔が死人のやうに見えた。ゆき子は、富岡とのこの間の別れが胸に來て、こんな淋しい思ひをするのも、みんな富岡の爲なのだと、いまごろになつて涙が溢れて來る。
映畫館を出た時は薄暗くなつてゐた。
すつかり、露店もなくなり、四圍はいやに淋しくなつてゐた。廢墟の角々に外燈がついてゐるのが、いつそう敗戰のみじめさを思はせた。凍つたやうな冷たい風が吹いた。二人は電車通りへ出た。まるで小舍のやうなバラックの商店が竝んでゐたが、それも早々に店を閉してゐた。このごろは強盜おひはぎのたぐひが街に横行してゐたので、日の暮れには、どの商店も早い店じまひをしてゐる。
ゆき子は二度ばかり來た事のある、角筈の電車通りに出來た、中華蕎麥の小さいバラックの店へ、伊庭を連れて行つた。夜になると、ゆき子は強い酒が飮みたかつた。荒れ果てた心のなかに、強い酒でもそそぎこまなければやりきれない氣持ちだつた。竹の子蕎麥を注文して、二人は珍しく小さいストーヴの燃えるそばへ腰を降した。ストーヴが勢よく燃えてゐるのを見るのは、何年ぶりだらうと、ゆき子は青く光つた錻力の煙突に、ちよいちよいと指先で觸れてみた。
「ダンサアなンてのは賛成しないね」
伊庭が煙草を吸ひながら云つた。ゆき子は、さつき手を握つてゐた伊庭の厚かましさがいやらしくて返事もしなかつた。伊庭はゆき子の派手な化粧をしてゐる顔を珍しさうに眺めながら、
「ずつと、お前の事は心配しづめだつた。うまく歸れるものなのかどうかも心配だつた。日本もいまは大變だ。みんな偉い人達はつかまつたし、世の中がひつくり返つたやうなものだ。昔、偉くかまへてゐた人間が、いまはみんな落ちぶれてね、小氣味がいゝ位に世の中が變つた」
しんみりと、伊庭はそんな事を云つた。
「あんまりのぼせかへつたのよ。もう、これから戰爭がないだけでも清々していゝわ。でも、よく義兄さんは兵隊にとられなかつたわね?」
「うん、そればかり心配してゐたンだ。濱松の軍の工場に勤めたのも兵隊のがれだつたが、いまから思へば、夢のやうなものさ‥‥。濱松もやられて、それからずつと百姓をしてゐたが、よく兵隊にとられなかつたと、不思議な位だ。終戰になつて、一番、心配したのは、お前の事だつたが、かうして樂々と戻つて來ようなぞとは思はなかつたな‥‥」
熱い蕎麥が來たので、二人は丼を抱へこんで食べた。珍しく赤く染めた竹の子がはいつてゐた。
「美味い‥‥」
「こゝ、とても美味いのよ。第三國人がやつてるのね。とても量が澤山あつて安いのよ」
ゆき子は、ふつと、池袋のホテイ・ホテルの事を思ひ出して、このまゝ伊庭と鷺の宮へ戻つて、あの狹い部屋で、二人で寄り添つて寢るのは厭だと思つた。自分が求めてゐるものは何も與へられないで、求めてゐないものは、運命的に、自分の周圍にまつはりつかれる氣がして、心のなかでからからに乾いてゆく感じだつた。
「今夜、家で泊るの?」
「うん」
「部屋がないでせう?」
「お前は、どの部屋で寢てるンだ?」
「茶の間。荷物がいつぱいね」
「一緒に寢ればいゝよ」
「食べるものなくてよ」
「米は三升ばかり持つて來てゐる。なあに自分の家だもの、自由に臺所を使つて、煮焚きすればいゝさ。何も遠慮する事はない。蒲團もいゝ方の奴が一組送つてある。歸つて荷ほどきをするよ」
「ぢやア、私は、池袋に泊るところがあるから、そこへ行くわ」
「馬鹿に警戒するンだね」
「さうぢやないけど、私、今夜は、仕事の事で、どうしてもお友達と打ち合せしなくちやならないもの、また、明日、わざわざ出掛けるの億くうだから‥‥」
「今夜は、久しぶりに逢つたンだよ。まだ色々話もある。一緒に歸ンなさい。お前が、着物をどれだけ賣つてるのか知らンが、叱りはしないよ」
「えゝ、その事は、どんなに叱られてもかまはないのよ。‥‥仕事の話で、友達の處へ行きたいンだわ」
伊庭と添寢する事は、思つてもぞつとした。
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