浮雲 (Ukigumo) | ||
二十三
澁谷へ出て、ガード下の中華料理へ二人は這入つた。煉炭ストーブのそばの椅子に、差し向ひに腰をかけた。青い炎が、蓮の穴からぽつぽつと息を噴きあげてゐる。客もない、がらんとした部屋の隅に、よれよれの白い上着を着た給仕女が、三人ばかり立つてゐた。
ゆき子は、煉炭火鉢の上に手をかざしながら、雨に濡れたマフラを金網の上に干した。
給仕女に注文を聞かれて、富岡は燒きそばを頼んだ。
「それから、酒を一本つけてくれないかね」
ゆき子は、にやにや笑ひながら、プラスチックの緑色のハンドバッグから、外國煙草を出して、富岡に一本取らせた。
「私達つて、行く處がないみたいね‥‥」
「うん‥‥」
美味さうに煙草を吸ひながら、富岡は、雨のなかをさまよひ歩いて、ひどく疲れが出てゐた。速達を出したものゝ、別に話し合はなければならない理由も、いまはない。
「何時、引越しですか?」
「家族のものは引越しちやつたよ。今度の正月は、がらんとした空家でおくるンだ‥‥」
「あら、一人で?」
「細君は殘るだらう‥‥」
「なあンだ、おのろけね‥‥」
ゆき子は、子供のやうに、がつかりして見せた。軈て酒が運ばれてきた。
「加野の住所が判つたンだよ。逢つてみるかい?」
「あら、住所が判つたの? 何處にいらつしやるの?」
富岡は小さいメモを出して、ぱらぱらとめくりながら、自分の名刺の裏に、加野の住所を鉛筆で書いて、ゆき子に渡した。
「あら、小田原にいらつしやるの?」
「おふくろと一緒ださうだ。まだ、獨りでゐるらしいね」
ゆき子はらんらんと光つた眼で、富岡の意地の惡さに反撥してみせた。そのくせ胸の奥では、佛印で別れたまゝの加野へ對して、逢ひたさ、なつかしさが燃え上つて來た。
酒は腹のなかに浸り渡り、冷えきつた躯をあたゝめてくれた。ゆき子も二三杯の酒をつきあつた。
「もう、あと、三日だね?」
「何が?」
「正月が來ると云ふ事さ‥‥」
「あら、お正月の事なンか、考へてみた事もなかつたわ」
「どうだね、今日、このまゝ、伊香保か、日光の方へでも行つてみる氣はないかね?」
「まア、伊香保つて、私、行つた事ないけど、いゝわねえ‥‥。ざぶざぶ、熱いお湯にはいりたいわ。本當に行けるの?」
「一泊か二泊位なら行ける。行つてみるかい?」
永遠の海のなかに浮いてゐる以上、ちつぽけな人間の心のおもむくまゝに、好き勝手もいゝぢやないかと、富岡は、いざとなれば、ゆき子とともに、枯木の山の中で、果てゝしまひたい氣持ちだつた。
(お前は、俺にていよく殺される事も知らないで、にこにこ笑つてゐるンだよ‥‥)富岡は、猛烈な食慾で、燒きそばを食べてゐるゆき子を見てゐた。金メッキの耳輪が、小さい耳朶にゆれてゐる。黒い髮の毛は、襟もとで短く刈り込んでゐた。
「伊香保つて、寒くない?」
「寒くてもいゝさ」
「それはさうね」
まるで、新婚夫婦が、旅のプランを相談してゐるやうな、浮々した表情で、ゆき子、は加野の名刺をハンドバッグに入れて、それとなくコンパクトを出して、鼻の先に鏡を開いた。
富岡は女を殺す場面を空想してゐる。音のない芝居のやうに、血みどろなゆき子の姿が、ゆるく空想の景色の中で動いてゐる。危險な感情だつたが、その危險な思ひに這入り込んでゆける勇氣が、爽快でさへあつた。殺してやる。そして、自分も折り重なつて死ぬ。それだけのものだ。誰も自分達に對して、文句を云ふものはないのだと、富岡は二本目の酒を注文して、化粧をしてゐるゆき子の平べつたい顔を呆んやりみつめてゐた。この顔が、外國人に好かれるのかなと、妙な氣がした、卑しい顔だつた。平べつたくて、顎が張り、何のとりえもない平凡さだ。だが、よく見てゐると、原始人に近いのだ。額や、眉や、眼のあたりが、佛像のやうでもあつた。
「家は、留守をしても大丈夫なのかい?」
「えゝ、鍵をかけて來てるから、人が來ても、ゐないと思ふでせう?」
「伊庭が蒲團を取りに來たンだつて?」
「あら、私の手紙着いて? さうなの。いま、だから、私は毛布で寢てるのよ」
ゆき子は別に困つた樣子もなく、徳利を取りあげて、富岡の盃に酒をついだ。富岡は冷えた燒きそばの上に散らかつてゐる、葱や筍を肴に、酒を飮んでゐる。日々の生活が、如何にくだらなく憐むべきかと、富岡は、自分のやつてゐる事が喜劇的に思へて來た。みんな、大眞面目に、悲劇をくりかへしてゐると思ひながら、人類をうるほすところの、人間の悲劇味は、何千年の昔から、何一つありはしなかつたのぢやないかと、うたぐつて來る。みんな、人間のやつてゐる事は、喜劇の連續だつた。心臆して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生きる。正義をふりかざす事も喜劇。人間の善も惡もみな喜劇ならざるはない。涙の出るほどのをかし味のなかに、人間は、自分に合つた、最も至極な理窟をつけて、生活をしてゐる。死のまぎはになつて、初めて、吻つとして、あゝと、本當の溜息が出るのかも知れない。
思ひきつて、富岡は、ゆき子を連れて伊香保へ行つた。伊香保へは夜更けて着いた。宿引きに、金太夫と云ふ旅館へ連れて行かれた。坂の多い温泉町で、その坂は、路地ほどの狹さだつた。湯花の匂ひがむつと鼻に來る。ゆき子は珍しさうに、坂道の兩側の家々を覗いて歩いた。不如歸で有名な伊香保と云ふところが、案外素朴で、如何にもロマンチックだつた。夜更けて着いたせゐか、水の音も、山の風も、凍つたやうに肌を刺す。宿の奥まつた部屋へ這入ると、部屋には大きな炬燵がつくつてあつた。炬燵の上には、一枚板が乘つかつてゐる。ゆき子は冷えた膝を炬燵に入れた。ほかほかと暖かつた。
「とても、いゝところね。貴方、どうして、こんな處を知つてゐるの。昔、來た事あるの?」
ゆき子が甘へて聞いた。
「學生の頃、來たンだ‥‥」
「とてもいゝ處だわ。ダラットみたいね。お金でもあつて、暫く、こんなところで呆んやり暮してみたいわね‥‥」
「うん、それでも、長くゐたつて、飽きちやふだらう。二日位が關の山だね‥‥」
「さうね、その位がいゝところでせうね‥‥」
狹い部屋だつたが、窓の下は溪流になつてゐるのか、そうそうと水音がしてゐた。顔の赧い女中が、干柿と茶を持つて這入つて來た。床の間には、籠型の花筒に、小菊が活けてあり、石版畫の山水の軸がかかつてゐる。ありふれた部屋だつたが、旅室で、しかも温泉町へ來たと云ふ思ひがあるせゐか、今朝感じてゐたほどの淋しさも、案外さらりとして來てゐた。絶望だの、何だのと云つたところで、かうした轉換法さへ心得てゐれば、すぐ、目のさきの氣分は一轉して、人間は愉しくなり、一時しのぎの氣持ちにもなるのだつた。仄々として來た。不思議な心の波だと、富岡は、自分でもをかしくなつてゐた。女と死ぬために、わざわざ芝居がゝりの死の舞臺を求めるなぞと云ふ事も、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事件でしかないのだと、富岡は、外套のまゝ、ごろりと炬燵に寢轉び、手枕をしたまゝ、煤けた天井をみつめてゐた。
「袍褞を、お着替へになりましては、如何ですか?」
女中が袍褞を持つて來た。ゆき子は、次の間ですぐ着替へて、女中に手拭を貸してくれないかと云つてゐる。富岡は湯にはいるのも億くうになつてゐた。躯を動かすのも大儀で仕方がない。このまゝ消えてゆけるものならば、此のまゝぼおつと地の底に消えてしまひたかつた。
「ねえ、お着替へにならない?」
「うん‥‥」
「ねえ、着替へて、早く御飯にして貰ひませうよ。とても、私、おなか、空いちやつたわ」
「うるさいなア。ゆつくりさしてくれよ。君、湯に這入つて來たらいいだらう」
ゆき子は、ぬぎ散らかしたものを、部屋の隅に放つて、炬燵のそばへ來ると、袍褞の袖の匂ひをかぎながら、
「あゝ、人臭い、人臭い‥‥」と疳性に云つた。
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