University of Virginia Library

Search this document 
  

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
二十三
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
 57. 
 58. 
 59. 
 60. 
 61. 
 62. 
 63. 
 64. 
 65. 
 66. 
 67. 

二十三

 澁谷へ出て、ガード下の中華料理へ二人は這入つた。煉炭ストーブのそばの椅子に、差し向ひに腰をかけた。青い炎が、蓮の穴からぽつぽつと息を噴きあげてゐる。客もない、がらんとした部屋の隅に、よれよれの白い上着を着た給仕女が、三人ばかり立つてゐた。

 ゆき子は、煉炭火鉢の上に手をかざしながら、雨に濡れたマフラを金網の上に干した。

 給仕女に注文を聞かれて、富岡は燒きそばを頼んだ。

「それから、酒を一本つけてくれないかね」

 ゆき子は、にやにや笑ひながら、プラスチックの緑色のハンドバッグから、外國煙草を出して、富岡に一本取らせた。

「私達つて、行く處がないみたいね‥‥」

「うん‥‥」

 美味さうに煙草を吸ひながら、富岡は、雨のなかをさまよひ歩いて、ひどく疲れが出てゐた。速達を出したものゝ、別に話し合はなければならない理由も、いまはない。

「何時、引越しですか?」

「家族のものは引越しちやつたよ。今度の正月は、がらんとした空家でおくるンだ‥‥」

「あら、一人で?」

「細君は殘るだらう‥‥」

「なあンだ、おのろけね‥‥」

 ゆき子は、子供のやうに、がつかりして見せた。軈て酒が運ばれてきた。

「加野の住所が判つたンだよ。逢つてみるかい?」

「あら、住所が判つたの? 何處にいらつしやるの?」

 富岡は小さいメモを出して、ぱらぱらとめくりながら、自分の名刺の裏に、加野の住所を鉛筆で書いて、ゆき子に渡した。

「あら、小田原にいらつしやるの?」

「おふくろと一緒ださうだ。まだ、獨りでゐるらしいね」

 ゆき子はらんらんと光つた眼で、富岡の意地の惡さに反撥してみせた。そのくせ胸の奥では、佛印で別れたまゝの加野へ對して、逢ひたさ、なつかしさが燃え上つて來た。

 酒は腹のなかに浸り渡り、冷えきつた躯をあたゝめてくれた。ゆき子も二三杯の酒をつきあつた。

「もう、あと、三日だね?」

「何が?」

「正月が來ると云ふ事さ‥‥」

「あら、お正月の事なンか、考へてみた事もなかつたわ」

「どうだね、今日、このまゝ、伊香保か、日光の方へでも行つてみる氣はないかね?」

「まア、伊香保つて、私、行つた事ないけど、いゝわねえ‥‥。ざぶざぶ、熱いお湯にはいりたいわ。本當に行けるの?」

「一泊か二泊位なら行ける。行つてみるかい?」

 永遠の海のなかに浮いてゐる以上、ちつぽけな人間の心のおもむくまゝに、好き勝手もいゝぢやないかと、富岡は、いざとなれば、ゆき子とともに、枯木の山の中で、果てゝしまひたい氣持ちだつた。

(お前は、俺にていよく殺される事も知らないで、にこにこ笑つてゐるンだよ‥‥)富岡は、猛烈な食慾で、燒きそばを食べてゐるゆき子を見てゐた。金メッキの耳輪が、小さい耳朶にゆれてゐる。黒い髮の毛は、襟もとで短く刈り込んでゐた。

「伊香保つて、寒くない?」

「寒くてもいゝさ」

「それはさうね」

 まるで、新婚夫婦が、旅のプランを相談してゐるやうな、浮々した表情で、ゆき子、は加野の名刺をハンドバッグに入れて、それとなくコンパクトを出して、鼻の先に鏡を開いた。

 富岡は女を殺す場面を空想してゐる。音のない芝居のやうに、血みどろなゆき子の姿が、ゆるく空想の景色の中で動いてゐる。危險な感情だつたが、その危險な思ひに這入り込んでゆける勇氣が、爽快でさへあつた。殺してやる。そして、自分も折り重なつて死ぬ。それだけのものだ。誰も自分達に對して、文句を云ふものはないのだと、富岡は二本目の酒を注文して、化粧をしてゐるゆき子の平べつたい顔を呆んやりみつめてゐた。この顔が、外國人に好かれるのかなと、妙な氣がした、卑しい顔だつた。平べつたくて、顎が張り、何のとりえもない平凡さだ。だが、よく見てゐると、原始人に近いのだ。額や、眉や、眼のあたりが、佛像のやうでもあつた。

「家は、留守をしても大丈夫なのかい?」

「えゝ、鍵をかけて來てるから、人が來ても、ゐないと思ふでせう?」

「伊庭が蒲團を取りに來たンだつて?」

「あら、私の手紙着いて? さうなの。いま、だから、私は毛布で寢てるのよ」

 ゆき子は別に困つた樣子もなく、徳利を取りあげて、富岡の盃に酒をついだ。富岡は冷えた燒きそばの上に散らかつてゐる、葱や筍を肴に、酒を飮んでゐる。日々の生活が、如何にくだらなく憐むべきかと、富岡は、自分のやつてゐる事が喜劇的に思へて來た。みんな、大眞面目に、悲劇をくりかへしてゐると思ひながら、人類をうるほすところの、人間の悲劇味は、何千年の昔から、何一つありはしなかつたのぢやないかと、うたぐつて來る。みんな、人間のやつてゐる事は、喜劇の連續だつた。心臆して、こそこそと喜劇のなかで、人間は生きる。正義をふりかざす事も喜劇。人間の善も惡もみな喜劇ならざるはない。涙の出るほどのをかし味のなかに、人間は、自分に合つた、最も至極な理窟をつけて、生活をしてゐる。死のまぎはになつて、初めて、吻つとして、あゝと、本當の溜息が出るのかも知れない。

 思ひきつて、富岡は、ゆき子を連れて伊香保へ行つた。伊香保へは夜更けて着いた。宿引きに、金太夫と云ふ旅館へ連れて行かれた。坂の多い温泉町で、その坂は、路地ほどの狹さだつた。湯花の匂ひがむつと鼻に來る。ゆき子は珍しさうに、坂道の兩側の家々を覗いて歩いた。不如歸で有名な伊香保と云ふところが、案外素朴で、如何にもロマンチックだつた。夜更けて着いたせゐか、水の音も、山の風も、凍つたやうに肌を刺す。宿の奥まつた部屋へ這入ると、部屋には大きな炬燵がつくつてあつた。炬燵の上には、一枚板が乘つかつてゐる。ゆき子は冷えた膝を炬燵に入れた。ほかほかと暖かつた。

「とても、いゝところね。貴方、どうして、こんな處を知つてゐるの。昔、來た事あるの?」

 ゆき子が甘へて聞いた。

「學生の頃、來たンだ‥‥」

「とてもいゝ處だわ。ダラットみたいね。お金でもあつて、暫く、こんなところで呆んやり暮してみたいわね‥‥」

「うん、それでも、長くゐたつて、飽きちやふだらう。二日位が關の山だね‥‥」

「さうね、その位がいゝところでせうね‥‥」

 狹い部屋だつたが、窓の下は溪流になつてゐるのか、そうそうと水音がしてゐた。顔の赧い女中が、干柿と茶を持つて這入つて來た。床の間には、籠型の花筒に、小菊が活けてあり、石版畫の山水の軸がかかつてゐる。ありふれた部屋だつたが、旅室で、しかも温泉町へ來たと云ふ思ひがあるせゐか、今朝感じてゐたほどの淋しさも、案外さらりとして來てゐた。絶望だの、何だのと云つたところで、かうした轉換法さへ心得てゐれば、すぐ、目のさきの氣分は一轉して、人間は愉しくなり、一時しのぎの氣持ちにもなるのだつた。仄々として來た。不思議な心の波だと、富岡は、自分でもをかしくなつてゐた。女と死ぬために、わざわざ芝居がゝりの死の舞臺を求めるなぞと云ふ事も、大きな宇宙のなかでは、一粒の泡ほどの事件でしかないのだと、富岡は、外套のまゝ、ごろりと炬燵に寢轉び、手枕をしたまゝ、煤けた天井をみつめてゐた。

「袍褞を、お着替へになりましては、如何ですか?」

 女中が袍褞を持つて來た。ゆき子は、次の間ですぐ着替へて、女中に手拭を貸してくれないかと云つてゐる。富岡は湯にはいるのも億くうになつてゐた。躯を動かすのも大儀で仕方がない。このまゝ消えてゆけるものならば、此のまゝぼおつと地の底に消えてしまひたかつた。

「ねえ、お着替へにならない?」

「うん‥‥」

「ねえ、着替へて、早く御飯にして貰ひませうよ。とても、私、おなか、空いちやつたわ」

「うるさいなア。ゆつくりさしてくれよ。君、湯に這入つて來たらいいだらう」

 ゆき子は、ぬぎ散らかしたものを、部屋の隅に放つて、炬燵のそばへ來ると、袍褞の袖の匂ひをかぎながら、

「あゝ、人臭い、人臭い‥‥」と疳性に云つた。