University of Virginia Library

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五十

 冬になつた。

 富岡は、窮乏のなかで或る農林技師の思ひ出を五百枚近く書きあげたが、これは失敗であつた。出版界の不況で、いまがいま出版するわけにはゆかないと云はれて、富岡は失望した。急な傾斜面に立つてゐるやうな、いまにも轉落して行く、安定のない生活を、どうにも支へて行く事が出來なくなり、富岡は職業安定所へ行つて見たり、農林省時代の友人を尋ねてみたりした。

 そのどれもが、富岡には向かなかつた。火の氣のない、寒い部屋に寢ながら、富岡は、時々ゆき子の事を考へないわけではなかつたが、それは富岡自身を卑しくするに過ぎない。部屋代は夏以來拂へなかつたので、追ひたてを食つてゐたし、浦和から、老母が邦子の病氣と、窮乏をうつたへて、富岡の部屋へ尋ねて來たりした。

 正月始めの、雪の降る朝であつた。邦子が亡くなつた電報を手にして、富岡は、寢臺を古物商へ賣り飛ばして、浦和へ歸つた。みじめな暮しのなかで、邦子はみるかげもなく衰へ、自殺にもひとしい死にかたであつた。

 長い間の衰弱の上に、瘰癧性腺炎にかゝり、切開手術が必要だつたが、醫者も、この貧しい、痩せ衰へた女の手術をあやぶんでか、いゝ空氣を吸つて、肝油を飮めといふ位の診斷しかしてくれなかつたが、鼠蹊部の上に膿傷が出來て、どうにも手術をして、排膿用のゴム管を挿し込まなければならなくなり、非常の容態になつたが、邦子はじいつと病氣に耐へて手術もしないで、そのまゝのみじめな姿で息を引きとつたのだ。

 家の中は棺を買ふ金も盡きてゐた。富岡は、おせいの亡くなつた時のやうな、名殘り惜しさは少しも感じなかつたが、終戰以來、邦子を妻らしくあつかつてやらなかつた自責で、棺を求める事すら出來なくなつてゐる、自分達の落ちぶれを厭なものに思つた。

 雪は朝から降り續いてゐた。

 僧侶を頼んで、枕經を讀んで貰ふ事はおろか、燒場にさへも運ぶ金もないのだ。富岡は思ひ切つて、急場の金をゆき子から借りる爲に、父の古ぼけた外套を着て、朝早く東京へ出て、ゆき子の手紙の住所を頼りに尋ねてみた。伊庭の表札が出てゐた。小ぢんまりした二階家で、ペンキ塗りの門の中には、青木が赤い實をつけて雪をかぶつてゐた。格子に手をかけると、家のなかで、けたゝましく犬が吠えた。富岡は思ひ切つて、玄關のくもり硝子のはまつた格子を開けた。

 思ひがけなく、白い犬を抱いたゆき子が、突きあたりの二階から降りて來た。黄ろいジャケツを着て、黒い洋袴をはいたゆき子は、みすぼらしい富岡を眺めて、初めは氣をのまれたやうに、暫く、ものも云へないふうで、玄關に立つてゐた。

 夏頃のゆき子とは、すつかり面がはりして、ふつくらと肥り、躯つきも若々しく豐かになり、佛印の頃のゆき子の面影を取り戻してゐた。犬は毛の長い、眞白な犬で、赤い舌を出して、富岡に、神經質に吠えたてゝゐる。ゆき子は犬の頭をきびしく毆り、

「まア! どなたかと思ひましたわ‥‥」と、云つた。

 富岡も、女の姿の激しい變化を見て驚いた樣子だつた。ゆき子は、すぐ、犬を二階へ連れてあがり、襖を手荒く閉した音がしたが、やがて階下へ降りて來て、富岡を茶の間へ案内した。ゆき子は、後向きになりながら、ふつと舌を出した。たうとう富岡が、落ちぶれてやつて來たと思ふと、胸のなかが痛くなるほど、爽快な氣がした。

 この男は、金を借りに來たのだといふ事がゆき子にはすぐ判つた。柔い炬燵蒲團をはぐつて、電氣のスイッチを入れると、ゆき子は、富岡の顔を見ないやうにして、「寒いから、炬燵へおはいりになつて」と、甘い聲で云つた。

「すつかり變つたね」

 富岡は素直に、外套のまゝ炬燵にはいつて、じろじろとゆき子を眺めて云つた。

「どんなに變つて?」

「若くなつた」

「さうかしら、呑氣でもないンだけど‥‥」

 差しむかひになつて、ゆき子が坐つた。ゆき子は風呂上りとみえて、血色のいゝ手をしてゐた。大きな瀬戸火鉢には、鐵瓶が湯氣を噴いてゐる。障子ぎはに三面鏡が置いてあり、その横の小さい棚には潮汲みの人形が硝子箱にをさまつてゐた。

「僕が、何の用事で來たかは判るだらう?」

 單刀直入に、富岡は、玄關先で、金を借りたい話をするつもりだつた。炬燵にまで這入りこんでしまふと、何となく話しそびれた氣で、富岡は、ゆき子の暮しぶりをじろじろと眺めてゐる。二階ではさかんに犬が吠えたてゝゐた。「伊庭君は?」富岡が尋ねた。

「教會の方へ行つてるのよ」

「一人?」

「えゝ、いま、よそのをばさんを頼んでるンだけど、買物に行つてますわ」

「いゝ身分だね‥‥」

「あら、さうかしら‥‥」

 ゆき子は表情には出さなかつたが、肚の底で、自分をこれでもいゝ身分かしらと笑つた。

「終戰以來、男は駄目で、女の方が逞ましくなつたね‥‥」

 ゆき子は茶を淹れながら、「さうかしら」と、また、取りすまして云つた。これが、今日まで戀ひこがれてゐた富岡だつたのかと、二ツ三ツ年を取つた、富岡のすつかり變つた樣子を、ゆき子は眼尻を掠めて眺めながら、自分の冷酷さが不思議な氣持ちだつた。

「邦子が、昨日、亡くなつたンだよ」

「まア、奥さま、お亡くなりになつたの?」

 ゆき子は眼を瞠つた。いつか、二度ほど逢つた、富岡の妻のおもかげが、瞼に浮んだ。富岡をつけまはつてゐる時に、五反田の家の近くで、細君に逢つた時の印象が忘れられなかつた。ゆき子はいまごろになつて、かあつと涙が噴いた。富岡は、無頼漢のやうな氣持ちで、昔の女に金の無心に來てゐたのだが、ゆき子のほとばしるやうな涙を見ると、一寸、驚いた樣子だつた。急に、この女との辛酸をなめた昔の思ひ出の數々が、富岡の荒凉としたハートをゆすぶつた。何も云へない氣がして、ゆき子の泣きじやくるのを呆んやり眺めてゐた。

 ゆき子は、富岡との感傷で泣いたのではないのだ。あの時の、野良犬にもひとしかつた、自分のみじめさを思ひ出して泣いたのだつたけれども、自分の涙が、富岡に對して、案外な効果があつた事を知ると、ゆき子は、もう我慢のならないやうなあけつぱなしな泣きかたで、鏡臺の上にあつた濡れタオルを取つて顔に押しあてた。

 呆氣にとられて、富岡は、ゆき子の泣く姿を眺めてゐたが少しづつ動悸が激しくなり、タオルにしみた香料の匂ひが、なまめかしく鼻をついた。富岡は激しく泣いてゐるゆき子のそばに行き、ゆき子の肩を抱いて、タオルを引きむしつた。ゆき子が、そんなに深く自分を愛してゐてくれたのかと嬉しかつた。ゆき子の柔い首を抱き、富岡は激しく接吻をした。新しい女に觸れるやうな、新鮮な香りがして、富岡は氣忙はしく、ゆき子の大きい腰を抱いた。ゆき子は診察を受ける患者のやうに、富岡にされるまゝになつてゐた。軈て二人にだけ共通した秘密な思ひ出が、案外なところで、共通の經過をたどつて、萬事は最上の心の痛みを分けあつた。