浮雲 (Ukigumo) | ||
五十九
宿の近くで、小さい時計店をみつけて、富岡は陳列に寄つて行き、暫く時計を眺めてゐた。どれも、スイス時計のイミテイションであつたが、三千六百圓と正札のついたのが氣に入り、屋久島の記念に、一つ求めたいと、富岡は店へ這入つて行き、陳列のなかの時計を見せて貰つた。佛印で買つた時計は、伊香保で、おせいの亭主に賣つてしまつた。それから、ずつと時計なしの不自由な暮しだつたので、富岡は、時計を欲しかつたのだ。一つ取つて耳に當てると、セコンドの刻みが、カチカチと澄んでゐる。型も圓く薄手だつたので、富岡は思ひ切つてその時計を買つた。
宿へ歸ると、ゆき子は待ち疲れた樣子で、泣きさうな顔をしてゐたが、富岡の持つてゐる林檎の籠を見ると、ほつとしたやうに、蒲團から手を出した。さつそく、富岡は、ゆき子の枕もとに坐り込んで、ナイフで林檎をむいてやつた。
「序でに、船を見て來たが、仲々いゝ船だ。屋久島通ひでは一番いゝ船だらうね。船へ乘る奴が、みんな、金魚鉢を持つてるンだ。屋久島には金魚がないのかね‥‥」
林檎をむきながら、富岡が、見て來た船の話をした。
「白い船だよ。君が病氣だから、ぜいたくのやうだけど、一等に變へて貰つたンだ。食事は出さないさうだから、二食分位は用意した方がいゝさうだ。たゞね、途中の種子ケ島には醫者も多いンださうだが、屋久島は醫者がゐないンだつてね‥‥」
「そんなところですか?」
「あゝ。一寸、心配なンだ‥‥」
「船で、氣分が惡くなつたら、その、種子ケ島でもいゝから、私を置いて行つて下さい」
「種子ケ島で降りる位だつたら、鹿兒島の方が便利だよ。此の次の船で、どうしても都合が惡いやうだつたら、こゝで入院するなり、小さい旅館でもみつけるなりして、ゆつくりあとから來てもいゝンだ。何をするにしても、鹿兒島は都會だし、便利なところだ」
ゆき子は、林檎をむいてゐる、富岡の手を見てゐたが、腕に卷いた、新しい革帶の時計に眼がとまつた。
「時計、お買ひになつたの?」
「あゝ、いま、宿の近くで買つた」
「見せて‥‥」
富岡が左腕を出すと、ゆき子はじいつと時計の文字盤を眺めた。伊香保で賣つた時計に何處となく似てゐる。ゆき子は、「いゝ時計ですね」と云つた。別に値段を聞かなかつたので、富岡も云はなかつた。雜誌社で貰つた金の殘りで買つただけに、富岡は少しも卑屈ではなかつたが、ゆき子は、その時計をよほど高價なものと思ひ込んだのか、何となく釋然としない表情であつた。
「乘つてたら、いまごろは、もう海の上ですね‥‥。波は荒れてゐましたか」
「風は強いが、おだやかな海だつたよ。まるで、外國船の船出のやうに、テープを投げたりするンだね」
「まア! 綺麗でせうね」
「いや、泥臭い感じだね。あれも、外國へ行けない、一つのノスタルヂアだな‥‥」
人間のいはゆる、淋しさや甘さを飾る裝飾のテープが富岡の瞼のなかに、ちらちらしてゐた。ゆき子は、妙に時計にこだはつてゐる。高價な時計を買つたりしてゐる富岡の心沙汰が、情の薄いものに思はれてきた。林檎をむいて富岡が半分くれた。
ゆき子は齒莖を酸つぱくして噛つたが、林檎は案外柔らかくて、味もまづかつた。富岡も林檎をさくさくと噛つてゐる。
「ぼけた林檎だな‥‥」さう云つて、富岡は、林檎の芯をかつと吐き出した。宿で飼つてゐるのか、鷄がけたゝましく鳴きたてた。また雨がぱらつき始めてゐる。
晝前に、醫者が、注射に來てくれたが、ゆき子の胸や背中を診ながら若い醫者は、
「一度、レントゲンを撮つてみると、一番いゝンですがねえ‥‥」
と、富岡に云つた。ゆき子は冷やりとした。旅空で寢つく事は、いまのゆき子には耐へられないのだ。こゝまで來て、富岡と離れる位なら、東京に殘つてゐた方がよかつたのだと、ゆき子は、今度の發病が、何となく、命取りの病氣のやうな胸苦しさである。こんな不安な病氣になる位だつたら、引揚げて來た時にやつた疥癬の方がまだましなのだと、ゆき子は若い醫者が、富岡に、餘計な事を云つてくれなければよいがと思つた。
富岡にとつても、ゆき子にとつても、耐へがたい旅空の四日間が過ぎた。その旅空の四日間に、非常な親密さで、二人のよき知人になつてくれたのは、若い醫者であつた。日華事變の間中を、中支で野戰に働いてゐた軍醫上りで、年は案外にも、富岡と幾つも違はなかつたのだが、まだ、獨身で、父の病院を手傳つてゐると云ふ事だつた。獨身のせゐか非常に若く見えた。福岡醫大を出てゐる事も知つた。音樂が好きで、電蓄も自分で組み立てゝレコードをあつめる事が趣味だと宿の女中が話してゐた。若い醫者は、比嘉といふ名前で、先代は琉球の生れだと云ふ事である。或日、近所のラジオの音樂に耳をかたむけながら、比嘉はじいつと耳をかたむけ、「僕は、この曲が好きなンですよ」と、愉しさうに眼を細めた。富岡は、何處かで、耳を掠めた音色だなと、耳を澄ました。ゆき子は、注射がすんだ後を、寢卷の袖の上から、よく揉み込みながら、ラジオの音に聽きいつてゐた。富岡もゆき子もその曲が何といふのか判らなかつた。「誰の曲ですの」ゆき子が、率直に尋ねた。
「ドヴォルザアークの『新世界』といふのです」
醫者は、さう云つて、ゆつくり注射器をしまひ、洗面器で手を洗つた。
富岡は醫者の音樂好きなのを羨ましく思ひながら、こんな九州の果てゞ、いゝ醫者にめぐりあへた事を嬉しく思つた。ずんぐりした醫者らしくない體つきだつたが、柔和な細い眼と、皓い美しい齒竝びが印象的だつた。富岡は、屋久島の營林署へ勤めを持つて、赴任して行く途中なのだと云ひ、暫く佛印の林野局に軍屬で行つてゐたのだと話した。
醫者は、富岡が、營林署へ勤めを持つと聞いて、急に好意をましたらしく、自分も、昔は、北海道帝大へ行くつもりだつたと、少年の頃の理想を話したりした。――屋久島は醫者のないところで心細いのだが、萬一の時には、電報を打つから屋久島へ診に來て貰へないだらうかと、富岡が話すと、どんな事があつても行きませうと云つてくれた。
「屋久島に醫者がないといふのは、聞いてゐました。あすこには、營林署關係の醫者が、山の中にゐる筈ですがね。私も、以前、屋久島で開業する事を考へた事もあるンですが、電氣もないし、雨が一年ぢゆう降つてゐるところだと聞いて怖れをなしたわけです。レコードを聽けないのが淋しいンで、そのまゝ空想だけで終つたのですがね。このごろは、營林署の方で、何日おきかに、電氣を供給してゐるやうですね‥‥。どうも、人間つてものは、自己本位で、醫は仁術なりと、口では云つてゐても、レコード一つ聽けない島流しの生活は、やつぱり僕には駄目です。――今度は、一度、機會をみて、お尋ねしてみませう‥‥。だが、私は、率直に申し上げますと、どうも、奥さんのお躯は、濕氣の多いところはどうでせうかねえ‥‥。お勤めとあれば、是非もない事なンですが、なるべく、高い山の方に舍宅をお選びになつて規則正しい日課をつくつて暮らされるンですな‥‥。何しろ、時間がないので、どうにも、ゆつくり診られないのですが、島へ行かれたら、日々の御容態を、ハガキでもいゝから知らせて下さい」
比嘉は、病人に不安を持たせない口調で、これだけの事を注意してくれた。ゆき子は、ドヴォルザアークの「新世界」の曲は、もう忘れてしまつたが、「新世界」といふ言葉だけが、耳に強く殘つてゐた。自分達の新しい出發を占つて貰つたやうな氣がして、ゆき子は比嘉の初々しい態度に、好意と尊敬を持つた。――富岡は、「罪と罰」だつたかのなかの、人間たるものは、誰しも、同情なくしては、到底生き得られるものではないと云つた、ドストエフスキーの言葉を思ひ出して、この醫者に、革命前の、露西亞的人物を感じてゐた。急な場合の藥や、注射の材料までととのへて貰つて、四日目の朝照國丸へ富岡とゆき子が自動車で乘りつけた時には、思ひがけなく比嘉が帽子も外套も忘れて、見送りに走つて來てくれた。旅空で、誰一人、テープを投げてくれるものゝない二人にとつては、意外であつた。若い醫者の見送りを受けやうとは、富岡もゆき子も、豫想だにしてゐなかつたのだ。
一等船室は、上下二段のベッドがあり、毛布も白く新しかつた。長椅子の前には、卓子や椅子があり、壁には鏡や、水差しがはめこんであつた。四疊半ばかりのゆつくりした廣い部屋である。ゆき子が下段のベッドへ横になると、乘り込んで來た比嘉は、鞄から注射針を出して、アルコールで拭き、ゆき子の腕に營養劑を注射してくれた。ゆき子は、その冷たい醫者の手の感觸をいつまでも忘れなかつた。最初の戀のやうな仄々した氣持ちであつた。
ゆき子は甲板へ出て行けなかつたが、富岡は比嘉を送つて部屋を出て行き、船が動き出して、暫くしてからも、部屋へ戻つて來なかつた。
一等甲板の富岡は、比嘉から投げられた緑色のテープを、何時までも握つてゐた。ごみごみした、玩具箱をひつくり返したやうな、棧橋が、遠くなるまで、切れたテープを、富岡は頭の上で振つてゐた。比嘉は棧橋のはづれに立つて、白いハンカチを振つてゐたが、一寸、小腰をかゞめて、大股に棧橋を去つて行つた。鞄を振るやうにして歩いて行く、醫者の後姿が富岡には頼もしく見えた。
船が海上に出たせゐか、薄陽の射した朝の櫻島は、案外小さく紫色に健康に見えた。宿の部屋から見た櫻島は幕を張つたやうに大きく見えたのだが、海上で見る櫻島は、物置のやうに小さく見えた。三等客は、穴藏のやうな船室から這ひ出して、廣いデッキの木椅子に、日向ぼつこをしてゐる。土産とみえて、デッキのところどころに、金魚鉢が置いてあり、どの金魚鉢にも金魚が金色に光つてゐた。
海上は凪ぎであつた。
ひかげの風は、外套を刺すやうに冷めたかつたが、日向へ出ると、陽射しがほかほかと暖かであつた。すぐ眼の上の大きい煙突から、汚れた煙が西へなびいてゐた。陽射しを受けた白い海上の痛みが、廣い海上に出ると、足もとや肩にまつはりついてゐた、運命の鎖を、吹飛ばしてくれるやうな、爽快な氣持ちだつた。沈默した海の水を見てゐると、饒舌には十度の、沈默には、一度の後悔があるといふ、格言を、富岡は、陸上と海上とを比較して考へさせられてゐた。
ゆき子は、背中に響く、船の動搖を、こゝろよく感じてゐた。動いて走つてゐる船まかせの氣分は、佛印から戻つて來る時の氣持ちそつくりである。あの醫者の、ものやはらかな動作や言葉や藥臭い體臭が、ゆき子には、妙に忘れがたいのだつた。加野に似たおもざしでもあつた。こんな、ちぐはぐな感情を持つてゐる自分の心が、ゆき子には、自分でなつとくゆかなかつたが、ゆき子は、屋久島の山の中で迎へる比嘉との、危險な出逢ひの空想を、何時までも、牛の胃袋のむしかへしのやうに、愉しみに描いてゐたのだ。
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