浮雲 (Ukigumo) | ||
四十五
翌朝、富岡が眼を覺ました時には、ゆき子はおせいの姫鏡臺の前で化粧をしてゐた。雨はからりとあがつて、秋によくあるやうな、青い澄みきつた空であつた、
富岡は、寢ながら、ゆき子の化粧をしてゐる姿を眺めてゐた。悔悟に似た思ひが、重くかぶさり、泥沼に引きずりこまれてしまつた氣がした。
ゆき子は、おせいの粉白粉やパフを遠慮なく使つてゐる。女と云ふ動物は、無神經そのもので、恥を知らないものなのだなと、ゆき子の無遠慮さが不快だつた。死んだおせいの化粧品を、何の考もなく、無雜作に使へる神經は、女だけのものかも知れないと思つた。だが、それよりも、もつと無神經なのは、自分ぢやないのかと、おせいのベッドで一夜を不純に明かした悔ひが、富岡の胸にしみじみと反省された。ひどい事をしてゐるのは自分の方である。鏡の前のゆき子は、すつかり痩せ細つてゐた。膝のふくらみが、薄く、馬鹿に年を取つたやうだ。胸も薄くなつてゐた。髮は赤茶けて乾いてゐる。額が馬鹿に廣く、眼のふちがただれてゐた。
富岡はむつくり起きて、階下へはゞかるやうな靜かな足どりで顔を洗ひに行つた。ゆき子は化粧をしながら、急に涙が溢れてきた。どうにもならない事を、昨夜ではつきり知らされた氣がした。寢言にまで、おせいを呼んでゐる富岡に、ゆき子はどうにも刃向へないのである。あのひとには、佛印の思ひ出なンか、何も殘つてはゐないと悟つた。
十時頃、ゆき子は後味の惡い思ひで、戸外へ出たが、富岡は疲れてゐるからと云つて、ゆき子を送つては來なかつた、ゆき子も疲れてゐた。くたくたに疲れて、空氣を拔かれたやうな躯を、ぶらぶらと無意識に驛へ運んでゐる。ゆき子は、如何に生きてゆくべきかを考へ、穴の中におちこむやうな孤獨を味つてゐた。このまゝ身動きがならないとなれば、思ひ切つて、伊庭のところへ行き、當分は大日向教の事務でもとらうかとも思つた。
五日ばかり、また、無爲に過ぎた。
伊庭からさいそくの手紙が來た。一日も早く來てほしいと云ふ文面である。ゆき子は、大日向教と云ふものがどんな處なのか行つてみるつもりになつた。富岡からは、何の音信もない。少しでも愛情が殘つてゐるものならば、富岡は、自分から尋ねて行くと云つた約束を守つてくれさうなものである。ゆき子は、富岡との縁があるものかないものか、大日向教に頼つてみようかと、心が少しばかり動いて來た。
燒けつくやうな暑い日であつた。
ゆき子は、池上上町の三の×番地大日向教と云ふのを探して行つた。なるほど銀行家の家邸を買つたと云ふだけあつて、御影石の門柱には、鐵格子の扉がついて、玄關まで砂利が敷きつめてある。庭樹は手入れが行きとゞき、新しいトタン葺きの自動車小舍まで揃つてゐる。耳門から邸内へはいつて行くと信者ででもあらうか、痩せ細つた中年の女が、大麥藁帽子をかぶつて、庭の草むしりをしてゐた。玄關の軒下に大きな檜の一枚板に、緑色の文字で、點晴と書いてあつた。硝子戸は開かれ、澤山の下駄がずらりとタイルの床に竝んでゐる。
龍を描いた新しい大衝立が玄關の正面にある。その蔭で、机に向つてゐるのが産院で見覺えの大津しもであつた。白粉をこつてりとつけて、紺の上着に紺の袴をはいて、何か書きものをしてゐた。奥深い玄關なので、冷い風が吹き拔けてゐる。奥の方では、祈りでも始まつてゐるのか、がやがやと不安な聲で合唱が聞えた。
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