浮雲 (Ukigumo) | ||
三
幸田ゆき子が佛印のダラットに着いたのは、昭和十八年の十月も半ば過ぎであつた。農林省の茂木技師一行に連れられて、四人のタイピストがまづ海防に着いた。――茂木技師は、佛印の林業調査に軍から派遣される事になり、同じ農林省で働いてゐる、タイピストを募つて、それぞれの部署に一人づゝのタイピストを置いて來る事になつてゐた。志願者は五人ばかりあつたが、幸田ゆき子も志願して一行に加はつた。――病院船で海防に着き、軍の自動車で河内へ出て、河内で、三人のタイピストが勤め先きを持つた。幸田ゆき子は高原のダラットへきまり、もう一人の篠井春子はサイゴンに職場を得た。一番貧乏くじを引いたのは幸田ゆき子である。地味で、一向に目立ない人柄が、さうしたところに追いやつたのかも知れない。額の廣い割に、眼が細く、色の白い娘だつたが、愛嬌にとぼしく、何處となく淋しみのある顔立ちが人の眼を惹かなかつた。軍の證明書に張つてある彼女の寫眞は、年よりは老けて、二十二歳とは見えなかつた。白い襟つきの服が似合ふ以外に、何を着てゐても、何時も同じやうな服裝をしてゐる女にしかみえない。サイゴンに行く篠井春子は、五人のなかでも一番美人で、一寸李香蘭に似た面差しがあつたので、幸田ゆき子なぞの存在は、誰にも注意されなかつたのだ。――二臺の自動車で、一行は河内を發つたが、タンノア、フウキ、ビンと走つて、最初の夜はビンに泊つた。河内から南部印度支那のビンまでは、自動車で三百五十キロ走つた。ビンのグランド・ホテルに宿を取つた。道々の野山は、野火の跡で黒くくすぶつてゐたり、またあるところでは、むくむくと黄ろい煙をたてゝ燃えてゐる林野もあつた。油桐や松の造林地帶がほとんどで、行けども行けども森林地帶のせゐか、篠井春子は、幾度も太い溜息をついて、わざと心細がつてみせてゐるところもあつた。ゆき子は馴れない長途の旅で、へとへとに疲れてゐた。タンノアといふところを出てから、長く續いてゐる黄昏の道を、自動車はかなりのスピードで走つたが、ビンへ近くなつてからは、昏くなつた四圍に、大きな蛾が飛び立つてゐて、自動車のヘッドライトに明るく照し出された道の方へ、紙片を散らしたやうに、白い蛾が群れだつて寄つて來た。
ホテルの左手には、運河でもあるのか、水に反響する安南人の船頭の聲がしてゐた。食用蛙がやかましく啼きたてゝゐる。ビンロウや、ビルマネムの植込みのなかへ自動車を置いて、一行はホテルの部屋へ案内された。運河の見える、こざつぱりした階下の部屋に、篠井春子と幸田ゆき子は通された。
春子は窓を開けた。運河の水音がしてゐる。橙色の燈のついた卓子には、二人の貧弱なトランクが竝んでゐた。桃色の花模樣の壁紙や、柔い水色毛布のかゝつてゐるダブルベッドは、如何にも佛蘭西人の趣味らしく、清潔で可愛いかつた。戰爭下の日本で、長らく貧しい生活にあつた二人にとつて、これはまるでお伽話の世界である。顔を洗つて、食堂で遲い晩食をとつてゐると、腕に憲兵の白い布を卷いた兵隊が、わざわざ女二人の身分證明書を見に來たりした。若い憲兵は、日本の女が珍しくなつかしかつたのだろう。――その夜、ゆき子も春子も、仲々寢つかれなかつた。日本を發つ時は、うそ寒い陽氣だつたのに、海防から、河内、タンノアと南下して來るにつれて、急に季節はまた夏の方へ逆もどりしてゐた。柔い、彈力のあるベッドに寢てゐると、仲ゝ寢つかれない。太棹の三味線でも聽いてゐるやうに、食用蛙が、ぽろんぽろんと雨滴のやうに何時までも二人の耳についてゐた。
東京を發つ時の、伊庭の家での事や、友人達との壯行會や、陸軍省でのあわたゞしい注射の日が、夢うつゝに浮んで、ゆき子は、佛印にまで來るなぞとは夢にも考へられなかつた運命が、自分でも不思議でならなかつた。――伊庭杉夫は姉のかたづいたさきの伊庭鏡太郎の弟であつたが、杉夫には妻も子供もあつた。東京へ家を持つてゐる唯一の親類さきで、ゆき子は靜岡の女學校を出るとすぐ、伊庭杉夫の家へ寄宿して、神田のタイピスト學校へ行つた。杉夫は保險會社の人事課に勤めてゐて、實直な男だと云ふ評判であつたが、ゆき子が寄宿して、丁度一週間目の或夜、ゆき子は杉夫の爲に犯されてしまつた。女中部屋の三疊にゆき子は寢てゐた。何となく眠れない夜で、杉夫が臺所に水を飮みに行つてゐる物音をゆき子はうとうと聽いてゐたが、軈て、すつと女中部屋の障子が開いた。ゆき子は、それを夢うつゝに聽いてゐた。その障子はまた靜かに閉まつて、みしみしと疊をふむ音がした。重くかぶつてくる男の體重に胸を押されて、ゆき子ははつとして、暗闇に眼を開いた。革臭い匂ひがして、杉夫が何か小さい聲で云つたのが、ゆき子には判らなかつた。蒲團の中に、肌の荒い男の脚が差し寄せられて、初めて、ゆき子は聲をたてようとした。そのくせ、聲をたてるわけにもゆかないものを感じて、ゆき子は身を固くして默つてゐた。
その夜の事があつて以來、ゆき子は、杉夫の妻の眞佐子に、顔むけのならないやうな氣がしてゐたけれども、ゆき子は、夜になると、杉夫の來るのが何となく待ちどほしい氣がしてならなかつた。杉夫は來るたびに、ハンカチをゆき子の口のなかへ押し込むやうにした。美人で、機智のある妻の眞佐子をさしおいて、目立たない自分のやうな女に、どうして杉夫がこんな激しい情愛をみせてくれるのか、ゆき子は不思議だつた。――ゆき子は三年を伊庭のところで暮した。タイピスト學校を出て、農林省へ勤めてゐた。眞佐子は杉夫とゆき子の情事は少しも知らない樣子だつた。たまに、眞佐子が子供づれで横濱の實家へ泊りに行つたりすると、杉夫は早くから寢床へ就いて、ゆき子を呼んだりした。ゆき子は、只、默つて杉夫の意のまゝにしたがふより仕方がない。將來に就いて語りあふといふでもなく、まるで娼婦をあつかうようなしぐさで、杉夫は、ゆき子をあつかつた。――ゆき子が、佛印行きの決心を固めたのも、かうした不倫から自分を拔けきりたい氣持ちで、事がきまるまでは、伊庭夫婦にも、靜岡の母にも、姉弟にも打ちあけなかつたのだ。いよいよ、佛印行きが本當にきまつてから、ゆき子は肉親にも知らせ、伊庭夫婦にも打ちあけた。杉夫は別に顔色も變へなかつた。
ゆき子は、案外冷たい表情でゐる杉夫を盜見て、心のなかに噴きあげるやうな侮辱を感じてゐたが、自分が伊庭の家を出る事によつて、伊庭の心のなかに、太い釘を差し込むやうな、氣味のいゝものも感じた。眞佐子に對しても、ゆき子はかへつて憎しみを持つやうになり、時々、眞佐子の口から、「このごろ、ゆきさんはすぐふくれるやうになつたのね。早くお嫁さんにやらなくちや駄目だわ」と冗談にも、皮肉にもとれるやうな事を云つたりする。杉夫は、ゆき子がいよいよ二三日うちに佛印出發と聞くと、藥や、ハンドバッグや、下着の類を買ひとゝのへて來た。ゆき子は杉夫にそんな事をして貰ふのが口惜しくてたまらなかつた。眞佐子は眞佐子で、ゆき子に對して、杉夫のさうした心づかひが不思議で、反撥するものを持つてゐる樣子だつた。
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