浮雲 (Ukigumo) | ||
五十六
富岡が歸るとなれば、ゆき子も、べんべんと旅館へ居殘つてゐる氣もしない。二人は宿を引きあげて、一緒の電車に乘り、三島へ出て、それから、東京行きの汽車に乘つた。
行き所のないゆき子を、このまゝふり捨てるわけにもゆかなくなり、富岡は、結局、自分の部屋に、ゆき子を連れて戻るより仕方もないと考へてゐた。二人は品川で降りた。
山の手線の電車のホームで、お互ひに笑ひ出したが、そのまゝゆき子は富岡の部屋へついて行つた。
伊豆と違つて、東京の寒さは、骨身にこたへる程の冷たさだつた。ごうごうと生活の嵐が吹きすさみ、二人とも、また暗い氣持ちに落ちこんでしまつた。
部屋へ戻ると、農業雜誌からハガキが來てゐた、農業技師の思ひ出の原稿を、少しづゝ分割して載せたい意向が書いてあつた。富岡は明るい氣持ちになつた。
電氣コンロが自由につかへなくなつてゐたので、ゆき子は、荷物を置いて、近所の炭の配給所に、高い炭を分けて貰ひに行つた。富岡は、原稿を出して、ぱらぱらとめくつて讀み始めた。隣室の細君が、さつき、伊庭さんといふ方がみえましたと、名刺を持つて來てくれた。
富岡は、その名刺をポケットにしまつた。ゆき子には見せたくなかつたのだ。軈て、ゆき子が、炭のほかにも、色々な買物をして、顔をまつかにして戻つて來た。一升壜もさげてゐた。富岡は、ゆき子を不憫だと思つた。
子供染みた幻影を抱きつゞける女の心根が、富岡には、鼻白む思ひだつた。いろんな、矛盾にゆきつく。富岡は、自然に、女を裏切つて來た道筋を、自分でも判らなくなつてゐた。女の習慣に恐怖を持つてゐた。これは己れのなかにある己れへの恐怖なのだと、富岡は、犯罪者の感じるやうな後めたさでもあつた。
女は、どんな事があつても、後をふりかへつてみようとはしないものだ。ひたすらに、子供染みた無邪氣さで、男を誘惑する。
伊庭が、こゝへ來たとすれば、この部屋も安全ではない。早く、屋久島行きを決行しなければならない。それに就いては、ゆき子をどんな風に始末して行くかゞ富岡には問題だつた。
「君は、また、昔の役所に勤める氣はないのかい? 頼んでみてもいゝんだがね。一人で部屋でも借りて、のんびり暮せないかい? 勉強も出來るし、また結婚の相手もみつかるかも判らないぜ‥‥」
ゆき子は、じろりと富岡を見た。
もう、その話には觸れないで下さいといつた表情だつた。ゆき子の行き暮れた氣持ちは昨日も明日も必要ではないのだ。只、現在だけが彼女であつた。それに、六十萬圓の金といふのが、かなりゆき子を大膽にしてゐた。如何にか切り拔けられる金でもあるからだ。まかり間違へばゆき子は自分だけでも屋久島へ行くつもりだつた。この男の體臭からいまは離れられなくなつてゐる。
伊庭にも、加野にもない、男らしい體臭に、ゆき子は狂人のやうにしがみついて行きたかつた。いま、こゝで富岡と別れる位なら、品川の驛から、伊庭のところへまつしぐらに戻つて行つてゐる筈だ。
ゆき子は、この部屋に、昔から住んでゐるやうな馴々しさで、食事の支度をした。富岡は、仕方なくポケットの名刺を出してゆき子に見せた。
「まア、伊庭が來たの? 何時、來たンでせう? どうして、こゝを知つてゐるンでせう?」と、吃驚してゐた。
「不思議ね‥‥」
「神樣だから、こゝが判つたンだらう‥‥」
「冗談はおいて、どうして判つたのかしら。貴方のところは、誰にも云つてゐないのよ」
「おせいの騷ぎの時に、知つてゐたンぢやないのか?」
「いゝえ、知らない筈よ。そんな事はあつた事は知つてゝも、こゝを知る筈がないもの」
ゆき子は、全く、伊庭の出現を不思議がつてゐた。富岡は何かに追ひたてられる氣がした。
「ねえ、兎に角、私は何處にゐてもいゝ躯なンですから、屋久島まで、連れて行つて下さいませんか。飽きたら、一人で戻ります。一月でも、二月でも、連れて行つて下さい。さうすれば、私にもなつとくがゆくと思ひます」
富岡は、ゆき子を南の果てまで連れて行く氣はしなかつたが、伊庭の出現によつて、さうした冒險もやつてみる氣になつた。
翌朝、早く友人の家へ行き、屋久島行きを頼み、さつそく手續きをして貰ふ事になり、歸り、丸の内の農業雜誌の編集部へ原稿を持つて行つた。
編集部では、顔見知りの記者の出社を待つて、一時間ほど待つた。出社して來た記者は、妙な事を云つた。昨日の朝、漆の話といふのを書いた君の住所を聞きに來たものがあつたと云つた。あゝ、さうだつたのかと、富岡は思ひ當つた。ゆき子が、自分の漆の話といふ原稿の載つてゐる農業雜誌を買つて讀んだ話をしてゐたので、伊庭が、その雜誌で、自分の住所を尋ねる氣になつたのだなと判つた。
ゆき子は、一日、外へ出てゐる事にしてゐた。荷物を持つて、ゆき子は二つ三つ映畫を觀てまはつた。富岡の留守に伊庭に來られては連れ戻されるのは判つてゐる。
富岡と一緒に、屋久島へ行くとなれば、ゆき子にとつては、何も思ふ事はなかつた、ゆき子はおせいの辯護人を頼む金を出したいまは、何の慾もない。
夜、遲く、富岡の處へ戻つて來る。また、明日になれば、ゆき子は荷物をかゝへて外へ出て行く。
一週間ほど、こんな生活が續いた。一週間目に、伊庭から富岡に、何處かでお目にかゝりたいが、場所を指定してくれるやうにといつた速達が來た、だが、丁度その日に、富岡の就任がきまつた。
速達を、富岡は破り捨てた。ゆき子も、一方、その事を氣にしたやうだつたが、富岡の屋久島行きがきまつた以上は伊庭の凄んだ速達なぞは、氣にする事もないと思つた。
富岡は色んなところへ挨拶まはりに行つたり、原稿に手を入れたりして、伊豆から戻つて、二週間目に、やつと、部屋もあけて、荷をまとめて任地へ送つた。
富岡は、東京を去る日まで、まだ、ゆき子を何とか殘して行きたいと考へてゐたが、おせいの亭主の辯護人への金も出させて、いまさら、自分一人で發つわけにもゆかなかつたのだ。なりゆきに任せるより仕方がないのだ。南でキャンプ生活をした時に、この、なりゆきに任せる精神は癖になつてしまつた。馬來人の材木運びが、何か不運な事に出逢ふと、アパ・ボレ・ボアットと云つてゐたが、この仕方がないと云ふ言葉ほど、富岡の現在には容易なものはないのだ。
全く、仕方がない。自分は、ゆき子の金に手も觸れないでおきながら、何から何まで、ゆき子に吐き出させてゐる卑しさが、富岡には、息苦しかつた。新聞に騷がれてゐた、二月のストライキは禁じられたが、世の中は、盆々騷然としてきてゐた。一種の觀念だけでは、富岡は東京で生活するのはむづかしいと思つた。自分の生活のなかに、いろんな誤解が生じて來るのも、この現代の東京生活であつた。
いろんな齟齬のうちに、富岡は、自分の躯をもてあましてしまつてゐる。別の人間として、再出發するには、もう一度、何處かへ場所を變つてみなければならないのだ。いつも、受動的な惱みのなかに、自分と社會とのずれを感じてゐた。西も東も、廻轉するベルトの速さで、富岡の耳のそばを、社會は押し流されてゐた。不安な、第三期の戰爭の氣配すらぷすぷすいぶつてゐる。富岡は、この無精神状態のなかに、ゆき子と古いきづなを續けるのはたまらない氣持ちだつた。そのくせ、その古いきづなは、切れやうとして切れもしないで、富岡の生活の中にかびのやうに養ひ込んでしまつてゐた。
二人が、東京を發つたのは、二月の中旬であつた。夜汽車に乘つた。
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