浮雲 (Ukigumo) | ||
三十八
二階は三疊と四疊半で、三疊の方は、錻力屋の三人の子供の寢場所であつた。四疊半にはひらきになつた半間の押入れがあるだけで、壁はをが屑を押しつぶしたやうなものが張つてあつた。出窓に七輪や配給の炭を置いて、そこで炊事をするやうになつてゐる。出窓の下は空地で、いま唐もろこしが繁つてゐる。ゆき子はいよいよ生活に困つて來た。靴みがきでもしてみようかと思つたが、地びたに坐つてゐる仕事には、躯が耐へられないやうな氣がした。二度ほど富岡に電報を打つてみたが、富岡からは何の音沙汰もない。ゆき子は思ひ切つて、五反田の以前の富岡の家へ尋ねて行つてみたが、今では表札も變り、出て來た人は、五月に此の家を買つて引越して來たのだが、富岡さんのハガキがあるので、それを差上げようと云つて、富岡のハガキをゆき子へくれた。引越し先きは世田ケ谷の三宿と云ふところになつてゐた。間借りでもしてゐるらしく、高瀬方となつてゐた。
ゆき子は思ひ切つて、かつたるい躯を押して、富岡の新住所へ尋ねて行つてみた。思ひのほかの大きな石門のある家で、昔は自動車でも持つてゐたのか、石門のそばにカレーヂがあつた。門をはいつてベルを押すと思ひがけなくあつぱつぱ姿のおせいが扉を開けて出て來た。ゆき子は、一瞬ぎよつとして息をのんだ。おせいも驚いたと見えて、赧くなつて「まア!」と聲を擧げた。
「あら、あなた、東京に出て來てゐたの?」
「えゝ‥‥」
「どうして、こんなところに?」
「私の知りあひの家だものですから?」
「富岡ゐます?」
「いま、留守なンですけど‥‥」
「嘘おつしやいよ。妙なひとね‥‥。全く、妙な事だわ。ぢやア、私富岡が戻つて來るまで、富岡の部屋で待ちませう‥‥」
おせいは默つてゐた。ゆき子は全身ががくがく震へる氣がした。何を云つてゐるのか、自分でもよく判らなつた。
「奥さまの方へお歸りになつてるんですよ。昨日いらつしたばかりだから、當分いらつしやらないンですけど‥‥。奥さまおぐあひが惡いものですから‥‥」
「あら、さうなの、さうなら、なほいゝわ。私もぐあひが惡いのよ。富岡の部屋であのひとが戻つて來るまで、ゆつくり休息させて貰ひますわ」
おせいは困つた樣子だつた。おせいの後の玄關を見ると、幾世帶も住んでゐるらしく、子供のスクータアや、乳母車が入れてあつた。おせいはがんこにそこに突つ立つて動かない。ゆき子もがんこに立つてゐた。
「玄關でもいゝわ。このお家の方に事情を話して、私、待たして貰ふわよ」
おせいは抵抗する力もなくなつた樣子で、默つてゆき子を二階へ案内して行つた。廣い廊下の突き當りの部屋で、板の間敷にうすべりを敷いた八疊間で、壁ぎはに粗末なベッドがあり、小さい枕が二つ竝んでゐる。壁にはおせいの紫めいせんの單衣や、シュミーズや、富岡の浴衣の寢卷きがぶらさがつてゐた。觀音開きのダイヤガラスのはいつた窓には赤い塗りの小さい姫鏡臺が置いてあつた。食卓や、小さい茶箪笥も新しいのが竝んでゐる。ゆき子は一切が判つたものゝ胸のなかは煮えるやうな腹立しさであつた。やつぱりこんな事だつたのだと思つた。富岡は本當にゐなかつた。富岡のものらしいと云へば、男物の浴衣だけである。
「何時から、一緒に暮してるの?」
「何時からつて、こゝは私の部屋なンですよ。富岡さんは、田舍の方にいらつして、東京に足溜りがないから、こゝでお泊りになるンだけど、私、その時は、階下でやすませて貰つてゐるンです‥‥」
「足溜り? へえ、足溜りねえ‥‥。伊香保の旦那さまどうなすつて?」
「別れちやつたわ‥‥」
「さう、それで、都合よくいつたわけね」
もう夕方だつたので、子供達が二階の廊下で騒々しく遊んでゐた。おせいは默りこくつてベッドに腰をかけてゐた。ゆき子も默りこんで出窓のそばに坐つてゐた。ふと思ひついたやうに、おせいは廊下へ出て行つた。ゆき子はあたりを眺めた。おせいは、いつたいどんな機會を掴んで、富岡と一緒になつたのかゞ不思議だつた。卓上に出てゐる二つの湯呑茶碗、部屋の隅にある男ものゝ雨傘、見てゐるうちに、富岡の身のまはりのものが、少しづゝにじみ出て來た。おせいは仲仲戻つて來なかつた。ゆき子は廊下へ出て、遊んでゐる七ッ位の子供を呼びとめて聞いた。
「こゝのをじさん、お勤め?」
「うん」
「夜は戻つて來るンでせう?」
「うん」
「いつも、何時頃、戻つて來る?」
「もう、戻つて來るよ‥‥」
「何處へお勤めしてるのかしら?」
「知らない」
「こゝ、澤山で住んでるのね?」
「うん」
ゆき子は、一種のアパートのやうなものだと思つた。もう一度部屋へ戻り、執達吏のやうな冷い眼で、一つ一つのものを見てまはつた。ベッドの下にトランクや行李が押し込んである。部屋の隅のシックイ塗りの天井に、針金を渡して、手拭が二本かゝつてゐた。ベッドの裏側には、林業に關する本が二十冊ばかり積んであつた。その本の上に、ランビァン農林總監部の、原始林地帶の事を佛蘭西語で書いた、見覺えのあるパンフレットがのつてゐた。これはたしか、森林官のダビヤウ氏が書いたものである。ゆき子は急に切ないほどのなつかしさで、そのパンフレットを手にとり、美しい佛印の森林の寫眞を眺めてゐた。自然に涙が頬につたはつた。どの寫眞も思ひ出ならざるはない。いかだかづらや、モミザの花に圍まれた、ランビァン高原の別莊のある寫眞は、ことのほか、ゆき子の眼をとめた。ランビァンの山に圍まれ、湖を前にした雄大な景色は、いまのゆき子にとつて、何とも云へない心の慰めであつた。こゝで息をしてゐる時には、現在のみじめさを一度も考へた事はなかつた‥‥。四圍が昏くなつてきた。おせいは戻つては來なかつた。富岡に電話をかけに行つたのかも知れない。ゆき子は開いた窓から、赤つぽく暮れてゆく、むし暑い空に眼をやつて、流れる涙を拭いた。ダビヤウ氏のパンフレットを記念に貰つて行くつもりでハンドバッグにしまつて、ゆき子は廊下へ出た。もう富岡やおせいに逢ふ氣もしなかつた。
心が決つたやうな氣がした。
伊香保で、二人は死んでしまつてゐる筈である。さう考へてしまへば、何も人を恨む事はない。ゆき子が靴をはいて玄關の前庭へ出て行くと、門のところで、こつちへ來る男に出逢つた。
富岡だつた。富岡は、一瞬、吃驚した樣子だつたが、何も云はないで、眼を赤く泣き腫して、自分の前に立つたゆき子を見ると、すべてを觀念した樣子で、「何時來たの?」と、靜かに聞いた。
「おせいさんに逢ひましたわ‥‥」
さう云つて、ゆき子は呆んやりと、富岡の前を離れ、門の外へ出て行つた。富岡もゆき子の後からついて行つた。
「おい!」
ゆき子はふり返らなかつた。
「おい、話があるンだ」
ゆき子は、どうでもよかつた。いまさら、富岡の口から、おせいとの事情を聽いたところで始まらないのである。加野の罰があたつたやうな氣がした。加野も、男ではあつたけれども、あの時、こんな氣持ちをなめたのに違ひないと思つた。加野から激しい愛情を打ちあけられてふらふらと接吻をゆるしておきながら、富岡と逢引してゐた、自分のずるさを、加野が、かつとして刃物をふりあげたのも、今日の自分のやうな理由があつたからだと、今になつて判つた。
「君の事は、毎日、忘れた事はないンだ。何とかしてやりたいと考へてゐたンだよ。おせいの奴に、強引に誘はれてしまつたかたちなンだ‥‥」
「そんな話、いゝことよ‥‥」
「よくはない。僕が惡いンだ。責任は持つ覺悟だ」
「さうですか‥‥」
ゆき子は、目黒の驛には反對の方向へ歩いた。燒跡の昏い雜草の原にこまかい雨虫が、群れて飛んでゐた。夜明けのやうな夕燒けた黄昏だつた。燒跡のまんなかに、廣い道が續いて、ところどころに新しい家が立つてゐる。
「十月だね?」
「えゝ、なにが?」
「子供の生れるのさ‥‥」
「さうね、ちやんと産めばね。私、明日にでも婦人科へ行つておろして貰ふつもりよ」
富岡は何も云はなかつた。ゆき子は生きてゐるかぎり、煩腦は人の心に嵐を呼ぶものだと悟つた。大日向教がどんな金もうけに利用した神と云つても、それはそれとして、さうした神を祭つた道場にこもつて、じいつと屈伏して祈つてみたい氣もして來る。富岡は、おせいが、どんな風な事をゆき子に云つたのかは判らなかつたが、おせいの強情な性格は、ゆき子に、のしかゝつて、ひどく反抗したに違ひないと思へた。
「君は、俺を厭な奴と思つたゞらう?」
「えゝ」
はつきり、ゆき子は「えゝ」と云つた。
「子供だけは産んでくれよ。その日からでも僕が引き取る‥‥。おせいとの問題も、正直に君に告白するつもりだ」
「おせいさん、御主人と別れたつて云つてたわ」
「本當を云へば、あの部屋は、おせいの部屋なンだよ。ずるずるべつたりに、僕が一時の宿に入り込んだみたいになつたが、本當はおせいの借りた部屋なンだ。此の五月、新宿の驛でぱつたり逢つて、無理矢理連れて行かれて、自然に、僕が入り込んだかたちになつたンだ。――君が靜岡からたよりをよこした時も、歸つて新しい部屋を見つけたのも、みんな手紙で承知してゐたンだが、逢ふとまた、二人とも、どうにもならなくなると思つて、金だけを送つたンだがね。家を賣つて、家族を田舍へやつたり、女房を入院させたり、勤め口もどうやらきまつて、ひどく氣持ちが荒さんでゐる時だつたので、おせいの誘惑に打ち勝てなかつたのだ‥‥」
いまさら、そんな理由を聞いたところで、どうにかなるものでもないのである。二人が逢つたところで、どうにかなる理由は何處にもない筈だつた。
バラックの喫茶店をみつけたので、富岡はゆき子をその店へ連れて這入つたが、店先には大きい青ペンキを塗つたアイスキャンデーの箱があり、子供連れの女が、二人をじろじろ見てゐた。ぎくしやくした椅子に腰をおろしたが、ゆき子はすつかり疲れてゐた。くたくたに、身心とも參つてしまつて、足が棒のやうにしびれてゐた。
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