浮雲 (Ukigumo) | ||
十五
富岡と別れて、ゆき子が鷺の宮の伊庭の家へ戻つて來たのは、翌日の晝過ぎであつた。
判然りした約束を取り交はしたわけではなかつたが、二人が、一緒になるにしても、一應、時をかけなければ、うまくはゆかないと云ひきかされて、ゆき子は仕方がないと思つた。
近いうちに、兎に角、ゆき子の落ちつき場所をみつけてくれると云ふ事と、さつそく、まとまつた金も作らうと富岡が云つた。男の一時のがれのやうな氣がしないでもなかつたが、かうした出逢ひのなかでは、富岡の言葉を信用しないわけにはゆかない。
池袋の驛で富岡に別れたが、富岡はすぐ雜沓の中へまぎれ込んで行つた。ゆき子は心細い氣がして、暫くホームの柱に凭れて、電車から吐き出される人や、乘り込む人の波を見つめてゐた。長い間の戰爭に扱使はれてゐた、營養のない顔が、犇きあつて、ゆき子の周圍を流れてゐる。
ゆき子は目的もなかつた。
鷺の宮へ戻つたところで、別に、誰もゆき子を待つてくれる人もない。靜岡へこのまゝ戻つてみようかとも考へたが、東京を去るには、やはり富岡に強く心が殘つてゐる。その執着は、初めて富岡に逢つてみて、形の違ふものになつて來てゐたが、ゆき子は、一應、富岡に逢へた事は嬉しかつた。それにしても、ゆき子も亦、このまゝでは、富岡の重荷になるだけだと、心の中にひそかに承知してゐるところもあるのだ。まづ、この群衆の生活のなかに、自分も這入つて行つて、働く道を求めなければならないのだと思ひ、ふつと、品川の驛で見たダンスホールを思ひ出してゐた。何と云ふ事もなく、ダンサアになつてみようかと思つた。
華やかな音樂の流れのなかに、化粧をした變つた自分の姿を置いてみるのだけれども、現在の自分の姿からは、さうした職業は實感としては不可能のやうな氣がした。
富岡から、ほんのわづかな小遣ひを貰つてゐたので、ゆき子は新宿へ出てみた。何年ぶりかで見る新宿は、相變らずの雜沓だつた。知つた顔は一人もいないのが、ゆき子には他郷を歩いてゐるやうな氣がした。新型の自動車が走り、しはしはした寒い歩道を、群衆は着ぶくれして歩いてゐる。硝子のない巨きな建物の前へ來ると、あゝこゝが三越だつたのだと、ゆき子は高いビルを見上げた。ビルにそつて右へ曲ると、いくつもの小路のなかに、地べたに店を擴げてゐる露店市が、ぎつしりと竝んでゐた。鰯を石油鑵から掴み出して賣つてゐる。小さい硝子箱には飴もある。ピラミッドのやうに積み上げた蜜柑を賣る店、ゴム靴屋、一ぱい五圓の冷凍烏賊を竝べてゐる店、どんな路地の中にもさうした露店市が路上にあふれてゐた。荒凉とした燒跡の瓦礫には、汚ない子供達がかたまつて煙草を吸つてゐた。
ゆき子は、一山二拾圓の蜜柑を買つて、瓦礫の山へ登り、そこへ腰をかけて、蜜柑をむいて食べた。舊弊で煩瑣なものは、みんなぶちこはされて、一種の革命のあとのやうな、爽凉な氣がゆき子の孤獨を慰めてくれた。何處よりも居心地のよさを感じて、酸つぱい蜜柑の袋をそこいらへ吐き散らした。
かうした形の革命は、容赦なく人の心を改革するものなのか、流れのやうに歩いてゐる群衆の顔が、ゆき子にはみんな肉親のやうになつかしかつた。
いまごろは、富岡はあの家へ戻つて、細君に、一夜の外泊をどんな風に云いわけしてゐるのかとをかしかつた。富岡の事だから、何氣なくふるまつてゐるに違ひない。家族のものは、富岡に對して、不安を持たないだらう。ゆき子はさうした事が妬ましく考へられた。内地へ戻つて來たら、その日にも、富岡が迎へに出てゐて、二人で新居にうつれるものと空想してゐた甘さが、ゆき子には口惜しかつた。
晝過ぎになつて、ゆき子は鷺の宮へ戻つた。二つばかり殘つた蜜柑を、子供達へくれて、伊庭の荷物のある部屋へ這入つたが、人氣のない部屋は寒くて淋しかつた。
ふつと思ひついたやうに、ゆき子は伊庭の荷物を眺め、何かめぼしいものを探して賣つてしまひたい氣がした。さうした事が、伊庭へ對するふくしゆうのやうな氣がした。めぼしいものを賣つて、當分の生活費にして暮しても惡くはないやうな氣がした。荷物をほどくにしても、自分の預けてあるものを探すのだと云へば、此の家の人達は怪しまないだらう。また、たとへ、伊庭が來て、荷物がなくなつてゐるのを知つても、ゆき子のやつた事ならば、とがめるわけにもゆくまいと思へた。
夕方になつて、ゆき子は此の家の人からさつま芋を分けて貰つて、一緒にふかして貰つた。
芋を食べながら、猫間障子の硝子越しに狹い庭を見てゐると、汚れた躑躅の植込みに、小さい痩せた三毛猫がじいつと何かをうかがつてゐた。春さき、牡丹色の花が咲いた躑躅を思ひ出して、昔のことが、まるで昨日のやうに思へた。猫は暫くしてから、のそのそとものうげに垣根のそばの、枇杷の木の下をくゞつて外へ出て行つた。
ゆき子は障子を開けて、廊下へ出て行き、猫を呼んでみたが、仔猫は戻つては來なかつた。
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