University of Virginia Library

Search this document 
  

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
五十二
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
 57. 
 58. 
 59. 
 60. 
 61. 
 62. 
 63. 
 64. 
 65. 
 66. 
 67. 

五十二

 邦子の葬式を濟まして、富岡は五日ばかりを浦和で過した。葬式が濟んでしまふと、富岡は重荷を降したやうに吻つとした。邦子の蒲團や身のまはりのものは、二束三文に賣り拂つて、死者の思ひ出を、一切合財吹き拂つてしまつた。富岡にとつて妻の邦子は、長い間他人であつた。おせいへの思ひ出は息苦しかつたが邦子への氣持ちは案外さばさばしたもので、葬ると同時に、邦子のすべては、富岡の心からさつと吹き消されていつた。邦子は妻としては、淋しい一生であつたとも云へる。富岡が、佛印から戻つて以來といふもの、全く無意味な妻であつた。友人の妻であつた邦子をさらつて、愉しい月日を暮したのは束の間で、富岡は二年もしないで、佛印へ軍屬として旅立つてしまつたのだ。この戰爭さへなければ、邦子も、富岡も、案外、平凡な官吏生活に安住してゐたかも知れない。五年も内地を留守にして戻つて來た富岡と、妻の邦子には、どうにもならない大きな距離がついてゐたのだ。邦子にも、富岡にも、戰爭といふ、大きな負膽が、重くかぶさつて來てゐたのだ。不毛荒蕪地に立つ夫婦生活は、お互ひに歩み寄つて、開墾する熱情もなかつたのか、はかなくも終りを見てしまつた。富岡は、邦子の野邊のおくりが濟むと、いつそう身輕になつた氣がした。

 老いた兩親は、郷里の信州の松井田へ戻つて、百姓を手傳ひながら餘生をおくりたいと云ふので、小舍同然の浦和の家を、手取り十四萬圓ほどで、國鐵へ勤めてゐる男に賣つて、その金を持たせて、富岡は、老人二人を郷里へ歸してやる事にした。松井田には、父の弟が百姓をしてゐた。以前疎開者に貸してゐた納屋があるといふので、そこへ、老人夫婦は落ちつく事になつたのだ。

 富岡が東京へ戻つて來たのは、晴れた日であつた。部屋へ這入ると、驛のそばの飮み屋の娘が來てゐて、富岡の蒲團にくるまつて雜誌を讀んでゐた。

 まるで、自分の家のやうな樂々とした寢やうである。富岡がはいつて來ると、娘はにやりと笑つた。暮れに遊びに來て以來、ちつとも姿を見せなかつたが、何時の間にか、パアマネントをかけて、化粧をしてゐた。一度、何氣なく、醉つたたはむれに、富岡が、娘にキスをした事があつた。たつたそれだけのつながりで、娘はまたやつて來たのであらう。

「さつきね、綺麗なお姉ちやんが來たわよ。私、追ひかへしてやつたの‥‥」

 富岡は綺麗なお姉ちやんと云はれて、一寸見當がつかなかつたが、あゝゆき子が來たのだなと判つた。

「どんなお姉ちやんだ?」

「とても凄いのよ。ハイカラな縞の外套を着て、ナイロンの靴下をはいてたわ。黒いぴかぴかのハンドバッグをさげてたわね。それから、こゝで煙草を吸つて行つたわ」

「何か、話したのかい?」

「えゝ、あんたは、富岡とどうして知りあひなのかつて聞いたから、私は富岡さんと仲がいゝンだつて云つたわ。そしたら、鼻に皺をよせて笑つたわよ。私、癪だから、さつさと蒲團を敷いて寢ちやつたのよ」

「何か云ひおいて歸らなかつたかい?」

「また、來るとは云つてたけど、私のこと、ずつとこゝにゐるのかつてしつゝこく聞いたから、えゝさうよつて云つたの‥‥。變な顔をしてたわ。でも、あんな女は、私きらひよ。とても、冷たいひとみたいね。家のなかをぐるぐる見まはしてゐたわ。もう、來ないかも知れないわね。いけなかつたかしら?」

「お前は、ひどい奴だな‥‥」

「あら、富岡さんの好きな、お姉ちやん?」

「富岡さんの嫁さんだよ」

「あらア‥‥嘘ばつかり。富岡さんのお嫁さんは、殺されたンだつて評判よ。私、みんな知つてるわ」

 娘は意地の惡い笑ひかたをして起きあがつた。ジャケツは着たまゝだつたが、スカートはぬいでゐた。汚れた短いシュミーズ、太い膝小僧がにゆつと出てゐる。富岡は眼をそむけて、電氣コンロのスイッチをひねつた。寢臺もないので寒々として、何處にも落ちつき場がない。机の前に坐ると、机の上には、娘のコンパクトが粉を散らかして置いてあつた。安ものゝ固くなつた口紅や、齒のかけた赤い櫛が竝んでゐる。ゆき子はこの樣子を見て、相變らず浮氣な男だと思つたであらうと、苦笑した。

「おい、をじさんは、これから仕事をするンだから、歸れよ」

「あら、私、いまのところ、歸る家がないのよ。昨日まで鷺の宮の養靜園に行つてたンだけど、私、逃げて來ちやつたのよ。ちつとも面白くないわね。飛行郵便の封筒貼りばかりしてゐて、手がこんなに霜燒けになつちやつたわ。――私、をぢさんの事を思ひ出して逃げ出しちやつたのよ。お家へ歸れば、私は、また追ひ出されちやふもの‥‥。こゝよりほかに、行くところはないわ」

「養靜園つて、何だ?」

「私みたいな、不良の行くところね。青だの赤だのゝだんだら縞のふちのついた封筒を貼つてるのよ。初めは、綺麗で、面白かつたンだけど、飽きちやつたのよ。床屋さんの飴ん棒みたいな模樣が、眼の中にゴミみたいにたまつちやつて、みんな色盲になるつて心配してたわ」

 富岡は頭が疲れてゐた。生活のすべてに疲れきつてゐると云つてもいゝ。また昔のやうな、靜かな官吏生活がなつかしかつた。平凡な生活だとあなどつてゐたその當時の生活が、富岡には、いま一番自分でも美しい時代だつたと思はないではゐられない。その平凡な官吏生活の時代にも、色々惱んでゐた事はあつたが、その當時の惱みは、いまのやうに汚れたものではなかつた。時とすると喚きたて、烈しく苦しんだ時もあつた。――あれから、十年ばかりの月日が過ぎて行つた。だが、現在では、富岡は喚く力もないほどに力が盡きてゐる自分を、心のひだに感じるのだ。自分の生活が、かびのやうに、つまらなくなつたと同時に、そのかびにくつゝいてくる、かびのやうな人間の生きかたを、富岡は冷い、他人の眼で、只、眺めてゐるきりであつた。生毛のはえた、まだ白粉のよくのらない、小娘の不逞な寢姿を見て、富岡は、敗戰後の、社會の一隅の色彩を見る氣がした。この娘は疲れてもゐるのだ。

 だが、富岡には、いまはこの娘も、うるさい存在であつた。

「おい、俺が送つて行つてやるから、家へ戻つたらどうだい?」

「いやな事。私は、こゝにゐたいのよ」

「どうして、出て行かないンだ?」

「そんなに邪魔にしないでよ。とつても、今日は外は寒いのよ。驛へ寢るよりも、こゝの方がましだわ。私、何もしないから、こゝにゐていゝでせう?」

「いけないなア。をぢさんが送つて行くから、今日は戻つた方がいゝ」

 富岡は素つけなく云つた。娘は寢たまゝ暫く默つてゐたが、むつくり起きあがると、默つて、枕もとに散らかしたスカートをはき、小さい風呂敷包みを持つて廊下へ出て行つた。荒々しい戸の閉めかただつたので、富岡は振り返つた。陰氣なものを殘して行つたやうな氣がして、娘が去つたあと、富岡は暫くそこにつゝ立つてゐたが、やりきれない氣持ちだつた。娘の若さが、あの娘にとつて、何の役にも立つてゐない氣がして來る。孤獨で、無智で、神經質で、ヒステリックで、何を考へて、街を放浪したいのか、富岡には、さつぱり判らない小さな惡魔だつた。いづれは、あの小娘も、監獄へ這入るか自殺するかだ‥‥。嘔吐が出るやうに、むかついてきて、富岡は、そこに敷きはなされた蒲團を蹴つた。

 棺へおさめた時の、煎餅のように薄つぺたくなつてゐた邦子の死骸を、富岡はふつと思ひ出した。蒲團を蹴りながら、邦子への追憶で、眼の奥が痛かつた。あの女も死んでしまつた。何一つ倖せはなかつたが、ぼろきれのやうになつて死んでしまつた。寢棺へおさめて、釘を打つ時の、あの別れぎはがいまになつて、深い感傷を呼んだ。