University of Virginia Library

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五十三

 ゆき子は、手輕るな身のまはりのものだけで、をばさんにも何も云はないで、家を出た。もう、二度と、この家には戻らぬつもりであつた。自分の生活をもぎとるやうな、強い氣持ちで、ゆき子は、まづ、圓タクで富岡のアパートを尋ねたが、氣の狂つたやうな、をかしな娘にあつて、ゆき子は氣が變つた。富岡のアパートを出て、待たせておいた圓タクに乘つて、ゆき子は品川驛に行き、そこから、靜岡行きの汽車に乘つた。何處といふあてもなかつたので、只、靜岡までの切符を買つたのだ。

 気紛れな旅のやうな、呆んやりした心で、ゆき子は、寒々とした黄昏の車窓を眺めてゐた。靜岡まで歸つて、實家へ行つてみようかとも考へたが、それも退屈だつた。知つた人に逢ふ事が億劫だつた。

 三島へ着いたのは八時頃であつた。そこから電車に乘つて修善寺へ行つてみる氣になつた。驛驛の廣告看板で、宿の名前を讀みながら、長岡といふところで降りる氣になり、ゆき子はそこで網棚の荷物をおろして下車してみた。夜更けのせゐか、東京の郊外を歩いてゐるやうな、平凡な町であつた。年寄りの宿引きの案内で、山吹莊といふ小さい旅館へ案内された。割合新しく、木口も粗末なものであつたが、ゆき子にとつては、何處でもいゝのである。ゆき子は、外套もぬがないで、富岡のところへ、すぐ電報を書いて打たせた。

 泊り客もあまりないと見えて、靜かな宿であつた。鍵をかけたトランクを違ひ棚の上の天袋にしまつて、宿の褞袍に着替へ湯にはいつたが、ゆき子は少しも落ちつかない。六十萬圓の金を持ち逃げして來た後めたさがあつたが、ゆき子は、伊庭も、成宗も、怖ろしいとは思はなかつた。六十萬圓の幸福があるにしても、いまは、もう六十萬圓の金ではあがなへない幸福だつた。何も彼も遲すぎる氣がした。

 湯から上つて、運ばれた食膳の前に坐つてみても、この心の飢ゑは滿たされやうもない。ゆき子は町へ出て、寒い風に吹かれて歩いたが、何處まで行つても暗い道だつたので、町の果物屋で、蜜柑を買つて宿へ戻つた。どうしても、富岡に來て貰ひたくて、ゆき子は、また電報を書いて女中に頼んだ。宿で不思議がつてもかまはない氣持ちで、女中には、わざと戀人を待つてゐる樣子を冗談めかしく話したりした。が、ゆき子にとつては、巨萬の富を得たやうな氣がして、富岡とすぐにでも、手をたづさへて、愉しい生活が出來ると考へてゐたのだが、いまでは、金を持つてゐるその幸福も、ゆき子を一層苦しめるやうな孤獨さに追ひこんでゐた。

 夜更けになつても、ゆき子は何時までも眠れなかつた。糊臭いシーツに寢て、ごうごうと木枯しの音を聞いてゐると、富岡への思慕が火のやうに烈しく燃えたつて來る。夜半に二三度起きては、天袋の襖を開けて、ゆき子は小さいスーツケースの存在をたしかめてみた。

 夜明けまで、苛々した眠りの連續だつた。

 富岡が、長岡の山吹莊へ來たのは、ゆき子が四通目の電報を打つたあとであつた。ゆき子は丁度、夕食を食べてゐた。「お客樣です」と、番頭が前ぶれして來ると同時に、その後から、みすぼらしい外套姿の富岡が、帽子もかぶらずに部屋へ這入つて來た。怒つたやうな顔をしてゐた。坐るなり「來なければ死ぬなんて電報は、非常識だね」と云つた。

 富岡が素直に來てくれた事が、ゆき子には嬉しかつた。この二日間の不安は、富岡にも分けたかつたのだ。ゆき子は、すぐ酒を注文した。現金にはしやぎながら、富岡が、湯から上つて來るのも待ちきれない思ひである。女中に冷やかされながら、ゆき子は、をかしくもないのに笑つてばかりゐた。

 富岡が、湯から上つて來て、食膳についた時、富岡は、

「いつ、こゝへ來たの?」と、聞いた。

「昨晩。電報を打つて驚いたでせう!」

「うん。隣りの部屋の奥さんが、吃驚してゐた」

「とても、來てほしかつたのよ。いろいろ話したい事だらけなンだけど、私、伊庭のところを出てしまつたのよ」

 富岡は、別に驚いた樣でもない。

「どうするつもりなンだ?」

「どうつて、耐へられない生活だつたから出て來たのよ。私ね、惡い事をして出て來たのよ‥‥」

 ゆき子は、惡戯をした子供のやうな無邪氣さで、六十萬圓の、教會の金を盜んで家を飛び出してきた話をした。

「伊庭さんは、いまごろ、警察へとゞけてゐないかね?」

「とゞけられやしないわよ。みんな、變な事をしてるンですもの。儲け仕事の宗教なンですもの。私を警察へ突き出せばあの教會のぼろが出ちまふでせう。――薮蛇をつゝくやうな事はしない筈だわ。六十萬圓の金位は、あの人達にとつては自動車を一臺こはしたやうなものですもの‥‥。何の資本もいらなくて儲けた、不浄の金ですもの‥‥」

「いまに、罰があたるな‥‥」

「大日向教の罰なら、神樣御不在だから、かまはないわ。伊庭だつて、あの家を、私にくれると思へば、この位のお金は何でもありませんもの‥‥」

「あるところにはあるものだね。宗教といふものは、當ればぼろいもンだな」

 富岡は二三杯の酒に醉ひ、少しづゝ氣持ちがほぐれてきた。ゆき子は、成宗や伊庭の惡口を云ふ事で、自分のやつた事を幾分でも輕く考へたいところもあつた。富岡は、ゆき子との、かうした長い交渉を宿命のやうにも思ふのだつた。おせいも、邦子も死んだ。たゞ、この女だけが、生き殘つてゐる。それも、逞ましいファイトを持つて生きてゐるのだと思ふと、今度は、自分の方が。此の女に追ひ詰められさうな氣がした。

 世界のひと、いづれの行も足りず、たゞに迷ひ、たゞにさすらふの、祈祷を思ひ出して、ゆき子は、明日の日は、伊庭に捕へられても、今日の迷ひを迷つた方が、はるかに愉しいのだと、捨てばちな氣持ちであつた。食事が濟んで、女中が膳をさげて行つても、酒だけは幾本かおかはりを持つて來て貰つた。

「伊香保の事を考へると、お互ひに、長く生きられたものね‥‥」

「あれからは、蛇足だつたな‥‥」

「さうかしら‥‥。でも、貴方には變化の多い生活だつたぢやないの? おせいさんといふ人物が現はれた事だつて‥‥」

 富岡は返事もしなかつた。

「おせいさんが、あんな死にかたをしなければ、私はもつと幸福だつたと思ふのよ。貴方の顔を見ると、おせいさんの亡靈がとつゝいてゐるやうで口惜しい。酒に醉つたから云ふわけぢやなかつたンですけど、こんなに二人だけで、何でも云へる日はなかつたでせう? 私、おせいさんが憎い。いまでも、とても憎んでゐるのよ。いやあな女だつたと思つて‥‥」

「おせいの話をする爲に、俺をこゝへ呼んだのかい?」

「いゝえ、さうぢやないわ。そんな事なンか考へてもゐなかつたわ‥‥。でも、貴方を見たとたんに、暗い顔をしてる貴方の躯の何處かに、まだ、あの女の亡靈がとりついてるンだと思つたのよ。――伊香保で、何故、私達は氣持ちよく死ねなかつたンでせう?」

「いまは、死ねるかい?」

「さうね、貴方は?」

「死ねないね‥‥」

「さう‥‥。さうね、私も、死ねないやうな氣がして來たわ」

「お互ひに、死ぬ必要はなくなつたね。月日が、そんな風にうまく、取り計らつてくれたンだよ」

「あら、それ、どういふ意味なの?」

「どうつて、別に理窟はない」

「このまゝ、貴方と一緒にゐられるつていふ意味?」

「一緒に? さうだね。そりやア、もう、無理かも知れないね。僕は、明日は歸るつもりで、ここへ來たンだ‥‥」

 ゆき子は酒に醉つたせゐか、眼の前がぼやぼやと水つぽくなり、涙がぱらぱらと胸にこぼれ落ちた。一緒になる事は無理だらうと云はれて、ゆき子は、

「何故なの?」

 と、唇をゆがめながら、せぐりあげて聞いた。

「結局、君には迷惑のかけどほしだつたが、どうして一緒になれないのかと聞かれても、かうだからといふ理由はない。こんな世の中なンだよ。僕は、君が教會の金を盜んで來たと聞いては、何だか、濟まない氣もするが、當分、女房も女もいらない。少し、自分の仕事も本腰でやつてみたい氣がして來てゐるンだ。幸い生活にも馴れたし、あのアパートも、近々引越す事になつてゐるが、このまゝ、二人は氣持ちよく別れてしまへないものかね?」

 ゆき子は、六十萬圓の札束が、急に、重い碇のやうに、どすんと頭の上へ落ちかゝつて來たやうな凄い胸の痛さであつた。