University of Virginia Library

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六十六
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六十六

 山の上は、珍しく土砂降りの雨だつた。富岡は、町へ降りるのを、一日のばして、事務所のストーブにあたり、山の人達五六人と、薯燒酎を飮んでゐた。里へ降りて、官舍へ戻る勇氣はなかつた。ゆき子の病状は氣にした事もあるまいと、酒の醉ひが強くなるにつれて、薄情になつてくる。

 富岡は、この八重岳の山容は、佛印のアンコールトムのバイヨンに似てゐると思ひ、その頃の話をぽつりぽつり話してゐた。

「山の石肌には、巨大な、人面を現はした石積の塔が聳えてゐてね、部屋々々の石柱は、傾き、石粱は落ちかけて、この山石の、廢墟の前庭には、巨きな樹が、倒れかけた擁壁を支へてゐるし、こゝの、杉のミイラと少しも變りはない。この王宮には、男女の生殖器の接合した、シバの象徴がまつつてあつたが、リンガとか云つたかな‥‥。いろいろと、文明は發達してゆくンだが、このシバの大自在天は、人間最大の文明だね。この自在天のシバの秘密のなかから、アトミックボオンも生れたンだらうからね‥‥」

 山の人達は、話好きである。遠く外地の山林を視察した事のある、富岡の思ひ出話に耳をかたむけ、ストーブの上に煮えたつてゐるやかんのなかから、燒酎の徳利を何本も引きあげてゐる。

 富岡は、薯燒酎の臭いのにもいまは馴れてゐた。東京で飮む燒酎と違つて、頭にもこなかつたし、舌ざはりも案外いい。話はいつか女の話になつていつた。賄ひの婆さんや、娘達が、げらげら笑ひながら、するめを裂いたり、鯖干しに醤油をかけてくれたりしてゐる。富岡はかなり醉つた。耳もとに腕時計を押しつけてみても、その秒針の音が聞えない程、醉つてゐた。醉はなければ、心が耐へられない。心が耐へられないのではなく、あるひは、躯が耐へられなかつたのかもしれない。脊のひくい娘の丸々とした手首の青黒い肉づきが、ちらちらと眼を掠める。富岡は暫く、女の肌に觸れた事はなかつた。娘の太い首まはりや、腰のふくらみ、足の甲の、紫色になつたのまでが、腹のなかにづきづきして來た。娘は紺飛白のモンペに、緑色のジャケツを着てゐた。山には根雪が積り、小舍の外に出ると、雨はみぞれのやうに、頬に痛い雨粒だつた。さうした寒い山の上の生活で、娘は足袋もはかないで、小舍から小舍へ使ひ走つて行くのだ。

 誰もゐなければ、抱き伏せてしまひたいやうな、彈力のある娘の躯が、富岡には眼ざはりでならなかつた。自分でも、このやうな氣持ちになつた事は久しぶりであつた。娘の顔は、何處か、おせいに似てゐた。だが、過去はもう一切合財を灰にして、こゝまで來たのだと、富岡は、かいこ棚のやうになつた、三階のベッドへ登り、くるりと革のジャンバアをぬぎ、毛布の上に横になつた。娘の笑ひ聲は何時までも、富岡の耳にじやれつくやうに響いた。

 ほんの少し、富岡はなやましい眠りをむさぼり、五時頃、眼を覺ました。ランプがついてゐた。階下で、富岡を呼んでゐるものがある。てすりから覗くと、町から電話だと云つて、奥さんがキトクだと知らせてくれた。富岡は、革のジャンバアを被り、梯子を降りて、ストーブのそばで山靴をはいた。

「トロッコは出ないンでせう?」

「出します。下りは、流せばいゝでせうから、誰かつけてやります」

 庶務の老人が引き受けてくれた。もう、四圍はとつぷり暮れかけてゐる。どこの山小舍にも、ちらちらと、ランプの燈が明滅してゐた。雨は何時の間にか、雪になつてゐた。富岡は、レインハットの上から、娘にかりた肩掛けをぐるつと頬や首に卷きつけて、疊一疊ほどのトロッコへ乘つた。丁度明日入港する船で、鹿兒島へ歸る學生と、カジをとつてくれる樵夫の若い男とでトロッコにうづまつた。カンテラを富岡と學生二人が交互に持ち、樵夫が、その明りでカジを押すのだ。

 トロッコは、雷のやうな音をたてゝ、急な山道を流れて行つた。時々、トロッコは浮きあがる。そのスピードをセーヴしながら、若い樵夫は、「おつと、まつさかさまになるとこだ‥‥」と、二人をおどかしたりした。一寸先も見えないやうな、暗い谷添ひのレールを、カンテラの灯が、すいすいと流れて行く。安房の町は、篠つくやうな雨が降つてゐた。

 富岡が、やつとの思ひで、官舍へ戻つた時は、もう十時頃であつた。ゆき子は、亡くなつてゐた。富岡にもゆき子にも、初めて見る顔ばかりが、七八人も詰めかけてゐてくれて、ゆき子の臨終をみてくれたのである。富岡は四圍の人達に挨拶して、ゆき子の枕もとに坐り、ランプの光の中にむくんだやうなゆき子の死顔を、暫くみつめてゐた。誰かゞ、富岡のずぶ濡れのジャンバアをぬがしてくれた。

 まだ、ゆき子の手は、胸で組みあはされてはゐなかつた。富岡は、妻の邦子にしてやつたやうに、固くなりかけてゐるゆき子の手を、そつと胸に組みあはせてやつたが、冷い手は、乾いた血で、汚れてゐた。顔だけを手傳婦が拭いてくれたのであらう。富岡は、ゆき子の手についてゐる血を見て、急に瞼につきあげる熱い涙にむせた。おせいの死、邦子の死、いままたゆき子の死だ。富岡は、ゆき子の躯を激しくゆすぶつてみた。ゆき子の肉體には何の反應もなかつた。寄つて來てくれてゐた人達は、一人去り、二人去りで、番傘を擴げて戻つて行く傘の音が、窓ぎはの道を通つた。

「何時頃から、をかしくなつたンだ?」

 都和井のぶは、ゆき子が、何時頃をかしくなつたのか、判然りとは知らない。あの時、家庭醫學の本を讀んでゐると、自分が、どんなところを讀んでゐるのか、病人は、何も彼も見透すやうな、無氣味な眼色で、都和井の方をじろじろみつめてゐた。都和井のぶは、妊娠してゐたのだ。子供を生みたくはなかつたので、偶然、病人の枕許にある、家庭醫學の本を取りあげてゐたのだ。その中に、合法的な、いろいろな方法が書かれてゐた。のぶは、これから、鹿兒島に出て、かうした醫者にかゝるには、どの位の金がいるのだらうかと胸算用をしながら、ぼおつと、考へ深くなり、何氣なく、病人の顔を見下すと、薄眼を開けた、病人のむくんだ顔が、都和井には、ぞつとするやうな、怖ろしい顔に見えた。縁もゆりもない、かうした病人のそばに、自分一人でついてゐる事にゐたゝまれなくて、都和井のぶは、さつと、裸足で、雨の中を、自分の家に戻つて行つたのだ。

 都和井のぶは、いゝかげんな事を云つた。だが、聞く方も、いゝかげんな事とは、判つてゐても、こんなになつてしまつた以上、どうにも方法はない、とあきらめてしまふ。ゆき子は、この島へ死にに來たやうなものであつた。富岡は、みとりに來てくれた人々に、引きとつて貰つた。のぶにだけ、ゐて貰ふつもりだつたが、のぶも、氣持ち惡がつてゐる樣子だつたので、富岡は引きとつてゆかせた。

 ゆき子は、相當苦しんだとみえる。四圍の血の汚れが、富岡の眼をとらへた。

 富岡は、何をする氣力もない。次の部屋の火鉢に、しゆんしゆんと煮えたつてゐる湯を金盥にうつして、それにタオルを浸し、富岡は、ゆき子の顔を拭いてやつた。いつも枕もとに置いてゐるハンドバッグから、紅棒を出して唇へ塗つてやつたが、少しものびなかつた。タオルで眉のあたりを拭つてゐる時、富岡は、何氣なく、ゆき子の瞼を吊るやうにして、開いてみた。ゆき子の唇がふつと動いた氣がした。「もう、そつとさせておいて‥‥」と云つてゐるやうだ。雨は息苦しいまでに、板屋根に叩きつけてゐる。いつたい、どうしろと云ふンだらうと、富岡は、天井裏に突き拔けて來さうな騷々しい音に、追ひたてられるやうな氣がした。ゆき子の眼は、生きものゝやうに光つてゐる。氣にかゝつて、もう一度、富岡は、ゆき子の眼を覗きこんた。ランプをそばによせて、じいつと、ゆき子の眼を見てゐた。哀願してゐる眼だ。富岡は、その死者の眼から、無量な抗議を聞いてゐるやうな氣がした。ハンドバッグから櫛を出して、かなり房々した死者の髮を、くしけづつて、束ねてやつた。死者は、いまこそ、生きたものから、何一つ、心づかひを求めてはゐない。されるまゝに、されてゐるだけである。

 腕時計は十二時を指してゐた。

 雨は一刻のゆるみもなく、荒い音をたてゝ、夜をこめて降りしきつてゐる。夜更けてから、富岡は、猛烈な下痢をした。息苦しい厠に蹲踞み、富岡は、兩の掌に、がくりと顔を埋めて、子供のやうに、をえつして哭いた。人間はいつたい何であらうか。何者であらうとしてゐるのだらうか‥‥。色々な過程を經て、人間は、素氣なく、此の世から消えて行く。一列に神の子であり、また一列に惡魔の仲間である。

 金網だけの厠の窓から、雨滴がしぶいてゐた。ローソクの灯が足もとにゆらめき、此の世の地獄を思はせるやうな、下腹の痛みが、厠の臭氣とともに、富岡の皮膚をびりびりと引き裂きさうだ。

 この狹い枠のなかから、一歩も出て行けない、不可能さを、富岡は、自分への報ひだと思つた。その不可能さは、一種のゲッセマネにまで到る。ゆき子の死そのものが、災難のやうな何氣なさであつただけに、ゆき子の死の目的は、富岡にとつては、案外、不憫でいとしくもあるのだつた。これでは、東京で、自動車に跳ねとばされるのと、何も變りはない。長く患つて亡くなつたのなら、まだ、受難的な夢を、死者に考へる事も出來たのだが‥‥。富岡は下腹をおさへて、這ふやうにして、部屋へ戻り、腰に毛布を卷いた。どつちが北枕かも判らなかつたが、いまは、死者は、富岡に、壁ぎはへ枕をうつして貰つて、平べつたくなつてゐる。新しい蒲團の上に、種ケ島製の鋏がのせてあつた。

 此の島のなかでは、二人にとつて、誰も知り人はないのだつたが、島へ着いて知りあつた幾人かの人達は、富岡の留守に、ゆき子の死をみとつてくれたのである。富岡は不思議なものを感じてゐた。人間は、何處で、かうした災難を蒙るかも知れないのだ。だが、また、みとつてくれた人達の災難も亦、人の世のをかしみなのだと、富岡は、臺所から、今夜、都和井のぶに買はせておいた、燒酎を、出して來て、燗をして飮んだ。死んだ女を次の間に置いて、誰一人仲間のない酒盛の情は、宗教的な清々しさで、富岡の胸のなかを賑やかにしてくれる。

 いまに、自分もまた、何時の日かは、あの姿に行きつくのだがと、富岡は、そんな事を考へてゐたが、いま、ゆき子と一緒に、死ぬ氣はしない。醉ふほどに、氣持ちは少しづゝ荒さんで來た。しみじみと、人間的な、氣の荒さみかたが、富岡には救ひだつた。酒の醉ひが全身にみなぎり、富岡は、自分の生命そのものに、有難い、まうけものをした興奮を感じてゐる。時々、空間から、死者のヱーテルが光るやうな氣がして、富岡は、じいつと、平べつたい寢床を眺める。死者は、森閑として動かない。

 三人の女のうちで、この、ゆき子が、一番、自分に寄り添つてゐてくれてゐたやうな氣がした。だが、この冷えたゆき子の躯には、何の反應もないのだ。

 二人の昔の思ひ出が、醉つた腦裡を掠め、富岡は、瞼を熱くしてゐた。少しづゝ醉ひはすさまじくなり、富岡は、腹が燒けつくほど、燒酎をあふつた。何も食べないので、醉ひは相當の勢で、全身をめぐり、富岡は、獨語しては酒を飮んだ。

 風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。

 富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を點じ、枕許へ置きに行つた。面のやうに、表情のない死者の顔は、孤獨に放り出された顔だつたが、見るものが、淋しさうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあてゝみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を拂ひのけた。富岡は、新しい手拭ひも、ガーゼもなかつたので、半紙の束を、屋根のやうに擴げて、ゆき子の顔へ被せた。