University of Virginia Library

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二十九

 宿へ戻つて來ると、ゆき子は炬燵で、爪をハンカチで磨いてゐた。その後姿が、急に哀れになつた。富岡は、さつき、何事もめぐりあひだと、バーの亭主に云はれたのだが、めぐりあひと云ふ言葉が、切實に胸に來て、昨日まで、此の女と死ぬ空想をしてゐた事が馬鹿々々しくなつた。ふつと、仲々死ねるものではないやうな氣もした。時計を手放した事が、運命的でもあるやうに、喪家の狗の如き、しをしをとした昨日までの感情が、少しばかり、酒の醉ひをかりて活々してきた。

「あら、醉つていらつしたの?」

「少し飮んだよ‥‥」

 お酒なンか飮んで大丈夫ですかと云つた表情で、ゆき子はじいつと富岡の眼をみつめた。お互ひに、間がなひまがな假面を被りあつてゐたゞけに、いま戻つて來た、富岡の柔かい眼の色が、ゆき子には、何かいゝ事があつたやうな氣がした。「賣れたの?」と聞いた。

「賣れた。一萬圓に賣れたンだ‥‥」

 さう云つて、ことこまかに、時計の賣れた一件を話すと、ゆき子は眼に涙をためて、「めぐりあひつて、いゝ事云ふひとね」と溜息をついた。萎縮した情慾を、お互ひに贋物でないやうな與へかたでゐたゞけに、二人とも、亭主の云つた言葉には押されるものがあり、富岡が炬燵の上に置いた一萬圓の札束を、ゆき子はしみじみと眺めてゐる。

「活路つてあるものね‥‥」

 日本へ戻つて來て、魂も心もないやうな人間を見て來てゐたゞけにゆき子は、富岡からその話を聞いて、

「その人も、南方がへりで、若い細君を持てたなンて、勇氣があるわ。貴方なンか、駄目なんだわ。そして、死ぬ夢ばかり空想してゝ」

 富岡は、いまでも、死の夢をまんざら捨てたわけではない。昔、佛印で讀んだ、惡靈のなかの、スタヴローギンの用意のいゝ死支度を思ひ出すのである。冷靜な氣持ちで、丈夫な絹紐に前もつて、べつとりと濃く石鹸を塗りつけておいて、死ぬにも、なるべく痛くないやうな心づかひをしたと云ふ一文は、スタヴローギンの憎々しいばかりの冷たさが感じられて、富岡は、その當時、一種の反感を持つてゐたものだ。だが、現在は違つて來た、絹紐に石鹸を塗りたくつて痛くないやうにして、死につく事は、最も痛さからのがれる便利さがあると、富岡は、自分も亦、輕々とした死の方法を案出したがつてゐた。スタヴローギンはあらゆる地を巡禮してまはり、心の糧は何處にも得られないまゝで只憑かれた人として故郷へ戻つて來たのだが、富岡は遠い佛印から戻つて、人生に醒めた人間として、自分みづからの命を絶たうとしてゐる。富岡にとつては、此の世は、面白くもおかしくもなかつたのだ。

「宿屋なンかに泊らないで、早く引きあげて、よかつたら二三日泊つて行けと云ふンだが、君の意見はどうなンだい?」

 と、富岡は、バーの主人に貰つた外國煙草を出して吸ひつけながら云つた。ゆき子も一本、珍らしさうに火をつけて吸つた。

「さうね、面白いわ。そんな男つて逢つてみたいわ」

「人なつゝこいンだね。いはゆる善人だ。君が馬鹿にしさうな、加野的善人だ‥‥」

「あら、厭な事云ふわね‥‥」

 夕方、二人は、勘定を濟ませて、東京へ歸るつもりで、バーへ寄つてみた。客は運轉手らしいのが二人ばかりで、酒を飮んでゐた。亭主は、二人を狹い二階へ上げて、くつろいでくれと云つた。晝間とは違ふ女が二階へ茶を運んで來た。小さい掘り炬燵がしてあつた。女の外套や、着物が壁にぶらさがつてゐた。軈て、晝間の頬紅の赤い女が二階へ上つて來た。まだ十八か九位で、躯はゆき子より大柄だつたが、眠つたやうな靜かな女だつた。時々、眼をみはる癖があつたがその時の眼は馬鹿に大きくて、光つてゐた。美人ではなかつたが、若く水々しい躯の線が、何かのはづみで、ぱあつと派手々々しく周圍に擴がつてみえる。

 今日は正月なので、店の客も早く歸つて行つた。通ひの女も軈て挨拶して戻つて行くと、亭主は女に店を閉めさせて、二階へウイスキーの瓶を持つて上つて來た。

 ずんぐりした、もう五十年配の亭主は、炬燵の上に、ジャンバアのポケットから、いくつも林檎を出して、ゆき子に食べて下さいと云つた。男達はウイスキーをかたむけて、南方の話に花を咲かせてゐる。

 六疊ほどの部屋だつたが、天井は紙の吊天井で、壁には世界地圖が張りつけてあつた。だるま火鉢の蓋に、女は手をかざして、呆んやり何か考へごとをしてゐる樣子だつた。富岡は、自分の横に坐つてゐるその女の横顔を時々眺めてゐた。ゆき子は林檎をむいて、むしやむしや食べながら、男達の話のなかに割り込んで、賑やかに喋つてゐる。

 窓にさらさらと雪の氣配がした。山鳴りのやうなごおつと響くやうな風の音がした。女は火鉢に頬杖をつき、膝を崩して、炬燵に右手をさし込んでゐた。富岡は、何氣なく、女の膝に胡坐を組んだ自分の足の先をきつくあてゝみた。女は知らん顔をしてゐる。富岡は、左の手で、蒲團の中の女の手にふれてみた。そして、靜かに、女の横顔をみつめたまゝ強く手を握り締めた。富岡の胸の中には、急に無數の火の粉が彈ぜた。女は、靜かにうなだれて、眼を閉ざしたが、女の手はねつとりとして、富岡の手に、幾度となく反應を示した。

 頬紅の赤い、田舍々々した女に、このやうな獸のやうな、野生的な力があるのかと、富岡はとりのぼせて、片手でウイスキーのグラスをあほつた。ゆき子は、二つ目の林檎をむいてゐる。

 富岡は、毒々しい紅を塗つた唇を持ちあげるやうにして、林檎を食つてゐるゆき子の顔を時々警戒した。だが、ゆき子は、加野的善人さと云つた、バーの亭主と、とりとめもなく話をしてゐる。亭主は、腕時計をしてゐた。如何にも自慢さうに、短い腕首に、金側の時計はにぶく光つてゐた。

 炬燵の中の、二人の手は仲々離れなかつた。女も大膽になり、膝を富岡の足の先に乘せるやうにしてゐた。富岡は思ひ切つて、女の手を離して、とりのぼせたやうな上づゝた聲で、

「ああ、これもめぐりあひだね。こんな記念すべき正月はない。美しい晩だ。をぢさん、一つ、このウイスキーを空にするまで飮みませんか、僕が今夜の宴會は持ちますよ‥‥」

 と云つて、盛んに、亭主のグラスにウイスキーをつぎ、ゆき子にも飮めと云つて、わざと手をさしのべて、グラスを唇へあてがつてやつた。人間の氣は變り易いものだと、富岡はもう一つの冷たい感情で、ゆき子に、何度もグラスを持たせた。ゆき子は、大分醉つてきた。夕飯をたべなかつたせゐか、早く醉ひがまはつてきた。ゆき子は、自分の前に眠つたやうに、頬杖をついて、さしうつむひてゐる女を、馬鹿な田舍女だと思つてゐた。柄ばかり大きくて、こんな貧弱な男と、青春のない生活をしてゐる田舍暮しを、同情的な眼でも見るのだ。ずつと默つたきりでゐるだけに、女の存在も此の場所でははつきりしない。ゆき子は醉ひがまはるにつれ、富岡との、南方での激しい戀の話を、面白さうに亭主に告白しはじめた。

 富岡は醉はなかつた。ほとんど、壜を空にするまで三人は飮みつゞけた。――富岡は、温泉へ行つて來ると云つて急に立ちあがつた。亭主はもうろうとした眼で、

「おい、おせい、お前、旦那を案内して、米屋の風呂へ案内して上げなよ。奥さん、あなたもおいでになりませんか?」と云つた。

「私、もういゝのよ。今朝から、二度も金太夫の湯にはいつたンですもの‥‥。それに、すつかり醉つて、ふらふらなの‥‥」

 ゆき子は、酒の肴に出てゐるハムを頬ばりながら、また、ウイスキーのコップを唇へ持つて行つた。富岡が手拭を借りたいと云ふと、女は、自分の桃色のタオルを壁からはづして、富岡の後へついて、梯子段を降りて行つた。

 階下は昏く冷々としてゐる。富岡は女の降りて來るのを、階段の下で待つてゐた。卓子に椅子の乘せてある店の床に、鼠がちらちらしてゐた。

 女が降りて來た。二人はお互ひに、激しい眼光で正面から近々と向ひあつた。