University of Virginia Library

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 ゆき子は氣が變つて來た。ゆき子は、まつすぐ東京へ出て伊庭を尋ねてみようと思つた。燒けてさへゐなければ、富岡に逢へるまで、まづ伊庭の處へ厄介になつてもいゝのだ。厭な記憶しかないが、仕方がない。靜岡には何のたよりもしなかつたので、自分の歸りを待つてくれる筈もない。――夜更けの汽車で、ゆき子は敦賀を發つた。船で一緒だつた男の顔も二人ばかり、暗いホームで見掛けたけれども、ゆき子は、わざとその男達から離れて後の列車に乘つた。驚くほどの混雜で、ホームの人達はみんな窓から列車に乘り込んでゐる。ゆき子も、やつとの思ひで窓から乘車する事が出來た。何も彼もが、俊寛のやうに氣後れする氣持ちだつた。南方から引揚げらしい、冬支度でないゆき子を見て、四圍の人達がじろじろゆき子を盗見してゐる。如何にも敗戰の形相だと、ゆき子もまた立つて揉まれながら、四圍を眺めてゐた。夜のせゐか、どの顔にも氣力がなく、どの顔にも血色がない。抵抗のない顔が狹い列車のなかに、重なりあつてゐる。奴隷列車のやうな氣もした。ゆき子はまた、少しづゝこの顔から不安な反射を受けた。日本はどんな風になつてしまつたのだろう‥‥。旗の波に送られた、かつての兵士の顔も、いまは何處にもない。暗い車窓の山河にも、疲勞の跡のすさまじい形相だけが、るゐるゐと連らなつてゐた。

 東京へ着いたのは、翌日の夜であつた。雨が降つてゐた。品川で降りると、省線のホームの前に、ダンスホールの裏窓が見えて、暗い燈火の下で、幾組かゞ渦をなして踊つてゐる頭がみえた。光つて降る糠雨のなかに、物哀しいジャズが流れてゐる。ゆき子は寒くて震へながら、崖の上のダンスホールの窓を見上げてゐた。光つた白い帽子をかぶつた、脊の高いMPが二人、ホームのはづれに立つてゐる。ホームは薄汚れた人間でごつた返してゐる。ジャズの音色を聞いてゐると、張りつめた氣もゆるみ、投げやりな心持ちになつて來る。そのくせ、明日から、生きてゆけるものなのかどうかも判らない懼れで、胸のなかゞ白けてゐた。ホームに群れだつてゐるものは、おほかたがリュックを背負つてゐた。時々、思ひもかけない、唇の紅い女が、外國人と手を組んで、階段を降りて來るのを見ると、ゆき子は、珍しいものでも見るやうに、じいつとその派手なつくりの女を見つめた。かつての東京の生活が、根こそぎ變つてしまつてゐる。

 ゆき子が、西武線の鷺の宮で降りた時、その電車が終電車であつた。踏み切りを渡つて、見覺えの發電所の方へ行く、廣い道を歩いてゐると、三人ばかりの若い女が、雨のなかを急ぎ足にゆき子のそばを通り拔けて行つた。三人とも、派手な裂地で頬かぶりをして、長い外套の襟をたててゐた。

「今日、横濱まで送つて行つたのよオ。どうせ、ねえ、向うには奥さんもあるンでせう‥‥。でも、人間つて、瞬間のものだわねえ。それでいゝンだろう‥‥。友達を紹介して行つてくれたンだけどさア、何だか變なものよねえ。自分の女にさア、友達をおつゝけて行くなンて、日本人には判らないわ‥‥」

「あら、だつて、いゝぢやないの。どうせ、別れてしまへば、二度と、その人と逢へるもンでもないしさア、氣を變へちやふのよオ。あたしだつて、もうぢき、あの人かへるでせう‥‥。だからさア、厚木へ通ふのも大變だしね、そろそろ、あとのを探さうかと思つてンのよ‥‥」

 ゆき子は、賑やかな女達の後から足早やについて行つた。そして、聲高に話してゐる女達から聞く話に、日本も、そんな風に變つてしまつてゐるのかと、妙な氣がしてきた。

 軈て女達は、ポストの處から右へ這入つて行つてしまつた。ゆき子はすつかり濡れ鼠になつて疲れてゐた。此のあたりは、南へ出發の時と少しも變つてはゐなかつた。細川といふ産婆の看板を左へ曲つて二軒目の、狹い路地を突きあたつたところに、伊庭の家がある。自分の、このみじめな姿を見せたら、みんな驚くに違ひない。ゆき子は石の門の前に立つて、暗い街燈の下で身づくろひをした。ずつぷりと髮も肩も濡れてゐる。落ちぶれ果てたものだと思つた。ベルを押してゐると、佛印へなぞ行つてゐた事が、嘘のやうな氣がして來た。玄關の硝子戸に燈火が射して、すぐ大きい影が、土間に降りたつたやうだ。ゆき子は動悸がした。男の影だけれど、伊庭ではない。

「どなた?」

「ゆき子です‥‥」

「ゆき子? どちらの、ゆき子さんですか?」

「佛印へ行つてました、幸田ゆき子です」

「はア‥‥。どなたをお尋ねですか?」

「伊庭杉夫はおりませんでせうか?」

「伊庭さんですか? あのひとは、まだ疎開地から戻つてはおられませんですよ」

 その影の男は、やつと、億くうさうに鍵を開けてくれた。濡れ鼠になつて、外套も着ないで、リュックを背負つてゐる若い女を見て、寢卷きを着た男は、吃驚したやうな樣子で、ゆき子を眺めた。

「伊庭の親類のもので、今日、戻つて來たものですから‥‥」

「まア、おはいり下さい。伊庭さんは、三年ほど前から、靜岡の方へ疎開してゐらつしやるンですがね」

「ぢやア、こゝはもう、伊庭はすつかり引揚げてゐるンでせうか?」

「いや、伊庭さんの代りにはいつてゐるンですが、伊庭さんの荷物は來てゐますよ」

 ゆき子達の話聲を聞いて、その男の細君らしいのが、赤ん坊をかかへて玄關へ出て來た。ゆき子は佛印から引揚げて來た事情を話した。伊庭と、この男との間は、家の問題でいざこざがある樣子で、あまりいゝ顔はしなかつたが、それでも、こゝは寒いから座敷へ上れと云つてくれた。

 敦賀の宿で、握り飯を一食分だけ特別につくつてくれた以外は、飮まず食はずの汽車旅だつたので、ゆき子は躯が宙に浮いてゐるやうだつた。廊下のミシンにぶつゝかつたりして、座敷へ通ると、伊庭の一家が何度も寢室に使つてゐた六疊間で、荷造りした荷物が疊もへこんでしまふ程積み重ねてあつた。佛印から引揚げて來たと聞いて、細君は同情したのか、茶を淹れたり、芋干しを出したりした。男は四十年配で、躯の大きい、軍人あがりの、武骨なところがあつた。細君は小柄で色の白い、そばかすの浮いた顔をしてゐたが、笑ふと愛嬌のいゝ笑靨が浮いた。

 その夜、蒲團を二枚借りて、伊庭の荷物の積み重ねてある狹いところへ、ゆき子は一夜の宿をとる事が出來た。ゆき子はリュックからレイションを二箱出して細君へ土産代りに出した。

 床にはいつて、寢ながら、こも包みの荷の中へ指を差しこんでみると、厚い木でがんじやうに打ちつけてあるので、なかに何がはいつているのかさつぱり判らない。話によると、暮までには伊庭が上京して來るので、二部屋ばかり空けなければならないと細君は云つてゐた。六人家内なので、いまのところ、どの部屋を空けるかゞ問題だけれど、自分達は空襲時代、一生懸命にこの家を護つたのだから、急にどいてくれと云はれても、どくところはないし、そんな事は、道に外づれてゐると云つた。伊庭も、何時までも田舍暮しも出來ないので、焦々してゐるのだろうと、ゆき子は、早々と荷物を送りつけて來てゐる伊庭一家の氣持ちが察しられた。みんな丈夫でゐるらしい事も判つて、かへつてゆき子は拍子拔けのするやうな氣持ちだつた。