University of Virginia Library

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二十五

 意味もなく、富岡とゆき子は、二日ばかりを伊香保で暮した。二日も雨が續いた。流石に、正月を明日にひかへては客もなく、廣い旅館はひつそりしてゐた。

 富岡は、二日の間に、何ものも把握する事は出來なかつた。眞劍にものを考へようとして、少しも心は中心へ向いてはゆかなかつた。

 自己矛盾にとらはれてゐる。自分をどのやうに始末してよいのか判らない。戰爭が濟んで、遠くから戻つて來たものには、どの人間にもかうした一種の氣後れがあるのではないかと思へた。

 その氣後れを氣づいてゐる者と、氣づいてゐない者とあつたとしたところで、狹い天地で、釘づけにされた人種は、一人々々か、孤獨に、てんでんばらばらになつてゆくより、道はないのではないかと思へた。

 全面的な眞理を追ふには、かうしたやぶれた國の狹い土地では、たうていむつかしい、空虚な理想なのである。

 生活すると云ふ可能性を、凡ゆる瞬間において、思ひがけなく否定される障害もあり得る‥‥。富岡は、さうした天地の狹さのなかに疲れ切つてしまつたし、家族を平和に支へて行く技術にも、へとへとになつてゐた。

 みんな氣むづかしくなつて來る。家族のものは、別々に孤獨の穴へ穴ごもりをするだけの現實になつてしまふきりだ。

「ねえ、煙草、ない?」

「ないよ」

「何をそんなに、貴方は考へ詰めてゐるのさア? 焦々してるのね。――いつそ、正月を、こゝで暮して行きませんか? お金が足りなかつたら、私の外套を置いてもいゝし、この時計を置いてもいゝわ。みつともなかつたら、町へ出て、時計を賣つて來るつもりよ‥‥」

 ゆき子は、さう云つて、灰皿から、吸ひ殻をひろつて、短い吸ひ殻をパイプに突きさして火をつけた。

 富岡は、炬燵に腹這つて、昨日の新聞をもう一度くり返して讀んでゐたが、「おい‥‥」と、思ひ詰めたやうに、くるりと、疊に片肘突いて、ゆき子の顔を、下から見上げた。

「何よ?」

「うん、別に、何て事もないンだが、つくづく、世の中が厭になつちやつたなア‥‥」

「どうして、どんな事なの?」

 どんな事なのだと聞かれて、富岡は頬のしびれるやうな氣がした。乾いた眼を、白々と開いたなりで、ゆき子の化粧のはげた顔を見つめ、冷たくつゝぱなすやうに云つた。

「生きてゐるのも退屈だね‥‥」

 ゆき子は、何を意味する言葉なのか、一寸判らなかつた。富岡は、ゆき子の胸の釦のはづれさうなのを、指で引つぱりながら、

「僕達は、どうにも仕方がないと云ふ事さ」

「仕方がなくないぢやアないの‥‥。貴方の心境つて、妙に底をついて來たのね‥‥」

「ふうん、うまい事を云ふね‥‥。さうなンだよ。――ぢやア、君は、底をついてないンだね。面白いだらうね。世の中が面白いだらうね‥‥」

「何が、面白いのよ?」

「こんな時勢になつた事がさ‥‥」

 ゆき子は、富岡の考へてゐる事が少しづゝ判りかけて來た。甘い涙が、咽喉元まで、溢れさうな氣持ちだつた。

「私、貴方の思つてる事、云つてみませうか?」

「いや、云つて貰はなくてもいゝ‥‥」

「別れる話?」

「違ふツ」

 釦がぽろりとはづれた。はづれた釦を握つたまゝ、富岡はぬるい炬燵に躯を縮めるやうにして、横になつた。

「私、時計を賣つて來ていゝ? ――ねえ、お正月をこゝで過したいわ‥‥」

 窓硝子に、白い雨がにじんで來た。ついツ、ついツと、小鳥が廂をよぎつてゐる。ゆき子は立つて、硝子戸を開けた。眼の前の山も空も乳色に煙つてゐる。佛印の山々の、雨に煙つてゐる景色に似てゐる。富岡は貝釦を手でまさぐりながら、疊の上に置いて、子供のおはじきのやうに、小指や、人差し指ではじいてゐた。

「お正月は雨だわね‥‥」

 硝子を閉めて、また、ゆき子は炬燵に這入つた。富岡は、むつくり起きあがつて、炬燵の上に貝釦を置くと、ゆき子へともつかず、自分へともつかず、つぶやくやうに、

「死にたくなつた‥‥」と云つた。

 何氣なく聞き流して、ゆき子は、釦を取つて、一寸胸にあてゝみたが、釦のとれたあとの糸屑を疳性に引つぱりながら、

「私だつて、死にたいわよ」と、ぽつんと云つた。

「君なンか、安々とは死ねやしないさ。これから、大いに發展して、もう少し、人生を愉しむンだね‥‥」

「まア! 何を發展するのよ? 妙な事云はないで頂戴」

「それぢやア、死ぬる事を、本氣に考へた事あるかい? 虚心な氣持ちで、本氣で考へもしないで、安つぽく死ぬなンて云ふのはよしたがいゝよ」

「いゝえ、本氣に考へるのよ。私、何時だつて考へたわ。海防でも死ぬつもりだつたし、ダラットで、加野さんの事件があつた時も、その事を考へてたわ。――だから、私は、死ぬ事なンて、怖くもなンともないンですよ」

「ふうん‥‥。それは、まだまだ死ねないね。怖くも何ともないなンて力んでゐるうちは、死に就いて、樂觀してるつて事だよ。死ぬと云ふ事は、本當は怖いものなンだ。――かあつとした、眞空状態になるのを待たなければ、仲々死ねないものだ。君は、もし、萬一、死を選ぶとして、どんな方法をとるかね?」

「青酸カリが一番樂なンでせう?」

「そんなものを持たない時に、眞空状態になつたら?」

「そりやア、その時になつてみなくちやア判らないぢやありませんか? 眞空状態で、どんなスタイルで死ぬかなンて、考へてはゐられないでせう?」

「ぢやア、愛する者同志が心中をする場合だね、どつちかゞ、眞空になれなかつたら、うまく、氣分があはないわけだね?」

「違ふでせう? それは、かあつとなるよりも、それを通り越してもう一つ心の奥で冷たくなつて、二人が默つて、事を運ぶンぢやなくちや、いけないのぢやないかしら‥‥。死ぬ事が怖いのだつたら、方法を考へる事だつて怖いンだから、二人の死となると、よく計畫しなくちや駄目なのね‥‥」

「僕は君と榛名へでも登つて、死ぬ事を空想してたンだがね‥‥」

「偶然だわ。私も、そんな事を、此の間、考へた事あつたのよ」

 お互ひの心の交流のなかに、少しづつ、死の意識が薄昏い影になつて、眼底を掠めた。富岡は馬鹿々々しいと思ひながらも、亦、東京へ戻つてからの現實を考へると、落漠とした感情が鼻について來る。苦しさや、惱みに押しひしがれてゐる時は、まだ生きられる力を貯へてゐたが、いまは、惱みも苦しみも、煙のやうに糸をひいて消えてしまつた。