University of Virginia Library

Search this document 
  

 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
二十一
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
 57. 
 58. 
 59. 
 60. 
 61. 
 62. 
 63. 
 64. 
 65. 
 66. 
 67. 

二十一

 富岡は遲く家へ戻つて來たが、ゆき子と厭な別れをして來た事が胸から離れなかつた。邦子は遲くまで荷造りをしてゐる樣子だつた。長く住んだ此の家を賣るとなると、いつそ燒けてしまつてゐた方がさばさばしてよかつたのではないかとも思へる。

 自分の周圍をとりまくものが、何一つなくなつてしまひつゝあるのだ。假定のなかに生きて行くものにとつて、これだけの家族は富岡にとつては、堅固な石の中に詰められて息も出ない苦しさだつた。ゆき子の生き方が羨しくもあつた。そのくせ、無性に、ゆき子の大膽な生活が哀れにさへ思へる。あの女をかばつて立つだけの力のなさが、自分でもはがゆい位だつた。近いうちに、もう一度逢つて、あの荒くけば立つた心をたしかめてから本當の別れをしなければ、このまゝでは、自分の方が敗北だと考へられた。このまゝで、ずるずるに逢つてゐるだけでは、自分と女の間に、何の結論も得られないのだ。だが、いつたい結論とは何を指して云ふのだらうかと、富岡は對立してしまつた、ゆき子と自分の感情を、これは何故なのかともじいつと考へてみる。日本へ戻つてみて、始めて微妙な女心を見たやうな氣がしたが、また、自分の變化した心の轉移にも、富岡はひそかに幻滅を感じないではゐられなかつた。人間の精神とは果敢ないものであり、その時々の、環境の培養菌によつて、どんなにでも、精神は變化してしまふのだと、富岡は自分にうなだれてしまふ。千萬の誓ひの言葉や、鋲のやうにしつかりとめた筈の純粹さなぞは、泥土にまみれて平氣なのであらう‥‥。このまゝ別れてもいゝのだと思ふ氣もあつたが、いや、今一度逢つて、たしかめてからにしても遲くはないと云つた、自分勝手な我儘な感情が、富岡の胸のなかには色模樣をなして明滅した。

 ゆき子は夜明けになつて、ダラットの官舍の夢を見てゐた。加野と二人でベランダに腰をかけて、抱きあつてゐるやうな、妙になまぐさい切ない夢であつた。

 夢がさめてからも、ゆき子は、オントレーの茶園の一日が瞼に浮んで來た。加野と富岡と三人で、アルプル・プロイの茶園を見に行つた日の事だ。正月で、安南人の上流の者たちは、黒い上着の下から、白絹のズボンをのぞかせて、小高いオントレーの中央にある教會にお參りしてゐた。大森林に圍まれたオントレーの部落が、油繪のやうに美しかつた。

 海拔高一、六○○米、氣温は最高二五度、最低六度のところで、玄武岩質の赤土地帶で、茶の生育には、氣侯條件の不利を償つてあまりある由なのだと、富岡が説明してくれた。高原で低温地のせゐか、樹形が横擴りになるのださうで、碁盤の目のやうに廣々と植ゑられた茶園の間道を、ゆき子はレースのふちどりした白いワンピースで、富岡の腕に凭れて歩いてゐた。加野は時々、不愉快な顔をして立ちどまつた。そして云つた。

「僕は、さつきから、苦しくて、鼻血が出さうだ‥‥」

 妙な事を云ひ出したので、富岡も、ゆき子も立ち止つて加野を見た。

「どうなすつて? 氣持ちが惡いンですの?」

「ゆき子さん、貴女は全く、ひどいひとだ。僕をなぶりものにしたい爲に、こんなところへ、僕を連れ出したンですか?」

「あら、何故なの? 私、別に‥‥」

 ゆき子が赤くなつて、何か云ひかけようとすると、加野は妙な笑ひかたをして、「富岡と腕を組まないでほしいンですよ」と云つた。

 富岡は、加野が氣でも狂つたのではないかと思つた。ゆき子はあわてゝ富岡から腕を放した。

 富岡は急にあつはつはと笑つた。案内の安南人は、富岡の笑ひ聲に吃驚して、自分に何か落度でもあるのかと不安な顔をしてゐた。

 三人は離れて歩き始めた。

「十八ケ月位たちました丈夫な苗を植付けます。草を取つたり、中耕は年に五六回位で、施肥は、一ヘクタールあたり、窒素が三十キロ、憐酸四十キロ、加里が五十キロ位を標準としまして、隔年に施肥するわけでございます。植付けの後、二年位から摘葉しまして、六年七年頃から、茶の收量は經營費を償ひ得るやうになり、十年たちますと、成年期になりますやうなわけで‥‥」

 ゆき子は案内人から、茶園の説明を聞いてゐるうちに、さうした長い歳月をかけて、根氣よく茶の植付けに情熱をかたむけてゐる、佛蘭西人の大陸魂と云ふものに怖れを感じ始めた。説明や理窟ではくはしく判らなかつたが、それでも、眼の前の茶園の歴史が、そんなに長い月日をかけて植ゑられてゐるものとは、考へてみなかつたゞけに、短日月で、この廣い茶園までも自由にしようとしてゐる日本人の腰掛け的なものゝ考へ方が、ひどく恥づかしくもあつた。

 營々と續けられてゐる、他人の汗のあふれた土地の上を、狹い意地の惡さで歩いてゐる、野良猫のやうな自分のあさましさが反省された。加野に、腕をはなして歩いてくれと云はれた事が、ゆき子は妙に胸に引つかゝつて來た。案内人は、まだ、長々と説明をやめなかつたが、ゆき子は、そんなに長く日本人が何十年も、この佛印の土地に住みつけるとは思へなかつた。いまに、何かの形で、ひどい報ひが來るやうな氣もして來る。

「大軍の日本兵が押し寄せて來たところで、この廣大な茶園やキナ事業は、一朝一夕には日本でやつてゆけるものぢやない。盜んで、汚なく、そこいらへ吐き捨てるのが關の山だね‥‥」

 富岡がつゝぱなすやうに云つた。加野は返事もしないで、安南人の胸の、象牙の大官章をむしり取つて、自分の胸に吊してゐる。ゆき子は厭な氣持ちだつた。その夜、酒に醉つた加野にゆき子は腕を傷つけられたのだ。

 みんな過ぎた思ひ出になつてしまつた。そして、あの美しい土地にごみごみと散らばつてゐた日本人は、みんな日本に追ひ返へされてしまつたのだ。

 あたり前なのだわと、ゆき子は、ぱつちりと眼を開いて、夜の明けた天窓の雨もよひの空を、じいつとみつめた。

 ふはふはとした大きい枕だけが、ひどくゆき子を慰めてくれる、昨夜、この小舍に富岡が尋ねて來た事も、それも夢のやうに思へた。

 ゆき子が、ラジオを手に取つて、スイッチをひねると、突然、扉がこつこつと鳴つた。朝早く來る人がないだけに、ホテイ・ホテルの誰かなのかもしれないと、そのまゝ立つて扉を開けると、思ひがけなく伊庭が怖しい顔をして立つてゐた。後に、ホテイ・ホテルの女中がついて來てゐたが、何も云はずに、女中は路地の中を出て行つた。

「こんな事だらうと思つたよ」

 靴をぬいで、づかづかと伊庭は上つて來た。ゆき子は震へてものも云へなかつた。

「まさか、こゝまで探して來るとは考へなかつたゞらう? お前も、随分、人柄が變つたものだね‥‥」

「あんまり大きい聲しないでよ」

「生意氣な事云ふなツ」

「何を、そんなに怒るのよ?」

「怒るのがあたり前ぢやないかツ。運送屋を探したンだよ。盜人をして、おまけに、蒲團を宿屋へ賣つたりしてるのは、怒る事にならないかね。パンパンをしてゐるンださうだね‥‥」

 ゆき子は怒りで唇もきけなかつた。伊庭の猛々しい態度に吐き氣が來た。なる事ならば、このまゝ消えてしまひたい氣持ちだつた。

「生きてゆく爲には、仕方がないわ。蒲團位何なのよツ」

「蒲團がなければ稼げないのかい?」

「いつたい、どうすればいゝのよツ。そんな大きな聲をだして、私があんたの蒲團位貰つたつて、どうして、それが惡いの? 三年も私を玩具にしてゝその位の事が何だつて云ふのよ。欲しかつたら持つて行くといゝンだわ」

「汚ないが、貰つて行くよ。洗濯をすればまた使へる。貴重なものなンだからね」

 伊庭は毒舌を吐きながら、煙草を出して咥へると、マッチを探す樣子で、そこいらにある、ラジオや大きな枕に皮肉な笑ひを浮べた。ゆき子は伊庭の表情を見て胸にかつと燃え立つものを感じた。何でも思ひたい事を思ふがいゝ。一刻も、伊庭に、そこにゐて貰ひたくなかつた。伊庭は何か思ひついたやうに、

「仲々、景氣がよさゝうだな。うまい事がありさうだが、どうだね。‥‥うまい仕事に乘るやうな事はないかね‥‥。一口乘せてくれゝば、蒲團なンか當分貸してやつてもいゝね」

 ゆき子は、默つてゐた。娘時代を、こんな男の自由になつてゐた事が哀しくさへあつた。自分の周りの男は、どうして、こんなに落ちぶれて卑しくなつてしまつてゐるのかと、不思議な氣持ちだつた。

「何か、いゝ手蔓はないかね。煙草とか、衣類とか、出ないのかい?」

「何を云つてるのよツ。早く蒲團を持つて行つて頂戴ツ。何もいらないわ‥‥」

 ゆき子は見榮もなく涙が溢れた。辛くて、そこに伊庭の顔を見るのも不愉快であつた。伊庭は手をのばして、ラジオの小箱を引き寄せてスイッチをひねつた。三味線の音色が、爽かに流れ出した。

「ほう、こりやア電池で鳴るンだね。便利なものだなア‥‥」

 小箱の裏側の蓋を開けると、小さい玩具のやうな眞空管がいくつも竝んでゐた。ゆき子は立つたなりそれを見降してゐたが、思ひついたやうに、蒲團から、炬燵櫓を引つぱり出して、さつさと風を切るやうな音をたてゝ蒲團をたゝみ出した。

「まア、そんな、急に片づける事はないやね‥‥」

 昨日から、この小さいラジオが馬鹿にたゝつてゐるやうで、ゆき子は、その三味線の音色に佗しくなつてゐる。

「ところで、芋干しを七八貫持つて來たンだが、何處か賣り口を知らないかね?」

 ラジオの蓋を閉めながら云つた。芋干しの賣れ口なぞ、ゆき子は知るものかと、返事もしなかつた。

「このラジオは、高價なものだらうなア」

「私のぢやないのよツ」

「日本でも、こいつの眞似をして、新案登録出來ないものかな‥‥。流石に、うまいものが出來てるもンだね‥‥」

 伊庭は感心して、ラジオを手に吊りさげ、耳をかたむけて、三味線の音を聽いてゐる。