浮雲 (Ukigumo) | ||
四十
富岡に別れて十日ばかり過ぎた。
ゆき子は思ひきつて、近所の小さい婦人科醫を尋ね、躯を診て貰つた。子供をおろしてしまふにはどうしても五六千圓の金がかゝる樣子であつた。富岡に別れて以來、ゆき子は、日がふるにしたがつて、富岡へ對して腹立しくなつてゐた。子供を産むには産むやうな助けをして貰はない事には、現在のゆき子はどうにも出來なくなつてゐるのだ。お互ひ逢つてゐる時だけの、だましあふ二人の供述心理は、お互ひにその深い原因にはふれたくない、蕊はえぐりたくない、甘さだけに溺れてゐるとも云へる。
ゆき子は、富岡の心のなかを洞察してゐた。
日がたつにつれ、ゆき子は富岡へ對して憎しみが濃くなり、あのやうな薄情な男の子供を産んでなるものかと云つた、恨みつぽい氣持ちになり、ゆき子は思ひきつて、伊庭に何も彼も打ちあけてみた。身輕るにさへなれば、何としても働いて返濟するつもりだつた。伊庭は、ゆき子の告白を聞いて、いつそ、そのやうな覺悟が出來てゐるのならば、金も出してやるが、身輕るになつたら、教團へ來て仕事を手傳つてくれないかと云つた。自分には、仕事の途中だから、他人よりも、氣心の判つた腹心の秘書が欲しいのだと云つた。
二三日して、伊庭は一萬圓の金を持つて來てくれた。ゆき子は身輕るにさへなれば、何でもいいから、伊庭の始めた教團を手傳ふつもりだつた。そして、子供をおろしてしまふと同時に、富岡の事は忘れ、一切を御破算して、自分らしい生活に立ち戻りたいと願つた。
一週間ばかり、ゆき子はその産院に入院した。自分と同じやうな秘密を持つた女達が、一日に二人三人と醫者をたづねて來る。狹い入院室には、二人ばかり、さうした女達がはいつてゐた。掻爬が濟んだあと、ゆき子は、躯が奈落へおちこんだやうな氣がした。ぐちやぐちやに崩れた血肉の魂を眼に掠めた時の、息苦しさを忘れなかつた。
伊庭が二日目に見舞ひに來てくれたが、ゆき子に尋ねた事は、何時起きて、手傳ひに來てくれるかと云ふ事であつた。ゆき子はひどく躯が衰弱してゐた。伊庭はすつかり大日向教にはまりこんだ人間になりきつて、いまは會計事務から、建築用度課を兼ね、金は雨霰の如く這入つて來ると豪語してゐた。
ゆき子の部屋に蒲團を竝べてゐる女達も、いつの間にか伊庭の話にきゝ耳をたてゝゐた。
壁ぎはに寢てゐた大津しもと云ふ、四十歳近い女が、突然云つた。
「私も、一つ、御信者のなかへはいるわけにはゆかないものでございますか?」
細君のある老人とのなかに出來た子供を始末して、明日は退院すると云ふ女である。自分の身分は一切語らなかつたが、看護婦の牧田さんの話では、千葉あたりの小學校の教師らしいと云ふ事である。
男の世話になれるやうな女とも思へない程、四角張つた、色の黒い骨太な女だつた。
「その大日向教と申しますのは、教祖さまは男の方でございますか?」
伊庭はにやにや笑ひながら、
「勿論、男の方で、立派な方です。若い頃からインドで修行され、充分識見のある人です。いままでに色々な難關を通つて來られて、荒野に光をもたらす爲に、日本に辿りつかれた方ですな。――長い間、馬來やビルマ方面に陸軍の參謀としても勇名をとゞろかした人物でね。世が世ならば、我々はそばへも寄れない方ですよ。一度、お出掛け下さい。あらゆる惱みを解消して下さるでせう」と云つた。
「まあ、ぢやア、その教祖つて人は、もとは軍人だつたの?」
「さうだよ。追放の軍人だから面白いンだ。かうした軍人あがりは、氣合をかける事は板についてゐるからね。すべて、烏合の衆相手には、高飛車な氣合だけなンだ‥‥」
伊庭は小さい聲で云つた。
「いまに、自動車も俺の名儀で買ふ。すべて、一切合財が任されてゐるンで、教祖の首根ッ子は、俺がおさへてゐるやうなものさ‥‥」
「いくつ位の方なの?」
「六十一二かな‥‥。女も百人位關係したと云ふ豪い人物だ。草木が、どんなところに生えてゐても、日に向つてのびて行くと云ふ、その生々の力を大日向教と名づけたンださうだが、いまは信者も十萬以上になつてゐる。これから、いくらでも伸びて行く可能性がある。すべて目立たぬやうにして、目立てと云ふのが、彼の信條らしいな」
ゆき子は、昔の伊庭の性格が、すつかり變つてしまつて、まるで狂人のやうな人物になつてゐるのが薄氣味惡いのである。富岡との事に對しても、何の關心もない如く、只、自分の腹心の秘書にして、昔の關係のある女を起用したいと云ふだけであらう。
大津しもは、暫く考へてゐたやうだつたが、浴衣の上に羽織を引つかけて、蒲團の上に坐り、伊庭に云つた。
「私、實は、千葉のものでございますが、深い事情がございまして、どうしても、このまゝでは田舍へ戻ると云ふわけにはゆかないのでございます。その大日向教の方の信者にさしていたゞいて、修業が出來ましたら、布教師のお免状でも頂戴いたしたいのでございますが、それには、いかほど位お金がかゝるものでございませうか?」
伊庭は鹿爪らしく、外國煙草をふかしながら、
「さうですな。初め、入會金として、只の信者の方からは三百圓いただいておりますが、布教師をお願ひになりますならば、初めは千圓の保證金を入れて貰ふ事になつてゐます。半年すれば、布教師の許しが出ます。日々の分はおこもり料として、おぼしめしを頂戴して、許しの時に、また御相談する事になつておりますがね」
大津しもは、是非、大日向教のおこもり堂に上ると云つて、伊庭から住所を書いて貰つた。伊庭は、當分は名刺をつくらないのだと、妙な事を云ひながら、大津しもに對して、何の興味もないらしく、
「やつぱり、布教師になるには、只の信者と違つて、布教師になる事が、生活の資本となるンですから、實は、これは、相當の金がいるンでしてね‥‥」と云つた。
「はい、それは、私にもちやんとあてがございまので、こゝ一年ばかり、私の身をかくす事が出來ましたら、どのやうにも金を出してくれるものがございますのです。そのひとは身分のある人ですから、私が、救はれて、どうにかなるまでは、不自由なくしてくれると云ふ約束なンでございます」
「ほゝう、身分のある方ですか‥‥」
伊庭は急に丁寧になつた。
「身分? 身分のある方の後だてがあれば、大日向教の大いにかんげいする處です。此の宗教は、絶體にいまどきの邪宗ではありません。病氣がなほると云つて、人の氣を吊るやうな事はしないのです。また、現代のすゝんだ科學の世の中に、宗教で病氣がなほるとは考へられないぢやありませんか。大日向教は、人間の心の病ひをなほさうと云ふ心願のもとに生れたのです。生身の躯を診る醫者はあつても、精神を診て慰さめてくれる醫者はありません。しかも、この宗教は金持ちへ導く、非常に明るい末世の樂觀術もほどこしております。――身分のある方のうしろだてならば、私の方でも、普通の方より大切にお取りなしいたしませう‥‥。教祖は仲々人にあふのをおきらひで、私が、何事も代行してゐるものですから‥‥」
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